本論文は、今まで否定的な評価を受けてきた大伴家持の反歌がいかなる意図によるものであり、またそれはどのような文学史的意義を持つかについて考察したものである。以下、各章で考察した内容の大綱を簡略に要約する。 まず第一章では、口誦性、推敲、虚構といった観点から人麻呂反歌と家持反歌を比較し、それぞれ異なる両歌人の反歌の特性を考察した。人麻呂は推敲という文芸的操作を通じて長歌との有機的連関をはかりつつ長歌より進展した反歌を作ろうとしたのであり、その方向は長歌より離れた独自の世界を形象しながら展開していくものであった。一方、家持反歌は推敲を通じて人麻呂反歌の方向とは逆に長歌に回帰することを目指すものである。なお、表現の上で時間軸を設けて虚構の世界を作っていく人麻呂長歌においては反歌が長歌の外に出る自由なものとなる。ところが、家持長反歌はそのような表現による虚構の世界を作らず、自己の内面を見つめて事実としての心情の多様な変相を言葉の総体として示しているのである。つまり、家持において長歌は変転する心情や事柄を放出する言葉の重層・多元化した空間であり、反歌はそれを受けて捉えかえし絞り込む心的空間であったと言えよう。 第二章では、長反歌における憶良の特徴を検証するとともに、憶良の世界に接近しようとした家持が憶良の長歌をどのように受け入れて長反歌の制作に反映させたのか、その様相について考察した。憶良の長歌は一首の途中に視点の転換があり、また中間に切れ目があって一首がいくつかの段の総合からなるなど、立体的な構造をもって一つのテーマに対して多角的な内容を盛り込もうとしたものである。そのような憶良の長歌の特色は反歌の制作方法に反映されており、憶良は多角的に繰り広げられる長歌に対応できるように、ある種の論理によって長歌全体を総括する、いわば結論的な反歌を制作した。このような憶良の反歌は憶良の長歌の主題が主に生・老・病・死などの思想的なものであることとも関連するが、憶良独自の反歌に対する認識によるものとして見ることができる。憶良の長反歌の方法を継承した家持は、長歌を充実に要約する、いわばまとめ的な反歌を制作することによって、自分なりの方法を獲得した。家持は長歌を私的感情の吐露の手段として考え、長歌の中で繰り広げられた心情や事柄を反芻する反歌を作り出したのである。まとめ的な反歌は万葉第四期の一般的な傾向と重なる部分もあるが、家持は憶良と異なって反歌を長歌を要約しまとめるものとして認識し、彼独自の方法として発展させようとしたと考えられる。 第三章では、同時代の長歌歌人福麻呂の反歌を宮廷歌的な性格を中心に考察し、同時代の長反歌の傾向に同調しながらもそれをさらに発展させて独自なものにした家持反歌の方法を明らかにした。万葉第四期を代表する長歌歌人福麻呂と家持は長歌に付される反歌が長歌の内容を要約しまとめるものとして認識していた。ただし、二人の反歌における相違は抒情性の問題と深くかかわっている。福麻呂の長歌は実態的で現実的な現象を理性によって客観的に叙述し、抒情性が稀薄になっているため、反歌は長歌に抒情性を補足する様式として用いられた。福麻呂の反歌は長歌十首のうち八首が反歌二首をともなっているが、長歌において叙事性が強い場合は第一反歌が長歌の内容を叙事的にまとめ、第二反歌が抒情性を補って長反歌全体を締めくくるかたちで歌われる。そして長歌が抒情性を持ち完結される場合は、反歌二首がともに長歌の内容を叙事的にまとめる。このような長歌と反歌との相関関係は叙事性の強い長歌を制作した福麻呂に見られる特徴として考えられる。叙事性の強い宮廷歌を主に制作した宮廷歌人福麻呂に対して、自己の内面を凝視し表現しようとした家持は、叙事性と抒情性の調和を考えた長歌とそれを充実に要約する反歌を試みた。また家持の新しい方法への試みは、主に反歌二首を付す形式に拘った福麻呂とは異なってより自由に反歌を付しているところにもあらわれている。 第四章では、天平十九年二月二十九日に始まる家持・池主贈答詩歌群における反歌について考察することによって、家持反歌の特質の一面を考察した。この贈答詩歌群における家持「更に贈る歌一首并せて短歌」(巻十七・三九六九〜三九七二)の反歌三首は、家持の一般の非贈答長反歌における反歌が長歌の主題や内容をまとめることによって成り立っているのに対して、前の池主の漢文序や短歌に触発されたかたちで作られ、その池主の短歌のイメージが明瞭な映像として形成される。すなわち、前の短歌が次の長歌を作るきっかけとなって長歌に拡大され、さらに反歌によって凝縮しなおされると言えるが、このように前の短歌(=家持の反歌)によって提示されたイメージが長歌においてディフォームされ、それを反歌が凝縮したフォームに簡略化する。短歌の意味が長歌の中に陥没するのではなく、余分のイメージを捨象することによって反歌において再び生起するのであり、その時点で短歌と長歌全体のイメージが喚起されるのである。このような贈答詩歌群における家持反歌の様相は巻十三問答の反歌に似通う趣を持っていることが認められる。つまり、家持は贈答詩歌群における反歌制作において巻十三の反歌の方法に倣って新しい反歌を試みたと考えられる。 第五章では、天平十九年三月五日の家持の漢文序における「乱」を検討して、家持反歌の変化の様相とその意味について考察した。万葉集の中でこの漢文序にだけ見られる「乱」という語の意味について、従来、短歌二首を七言詩に対する「乱」とする説と、七言詩を漢文序に対する「乱」とする説との二説が提示されてきた。漢文学における「乱」の性格に照らしてみると、ここでの「乱」は家持と池主の贈答詩歌群全体に対して短歌二首をさすものと見るべきである。家持と池主の贈答詩歌群を一つのまとまった作品と見なした場合、贈答詩歌群は、互いに関連しながら展開する四つのグループに分かれる構造となっており、それぞれのグループの主題は次のグループにつながりながら展開し最後の短歌二首によって全体が捉えかえされ、まとめられている。ところで、この「乱」は家持の反歌において重要な意味を持つ。すなわち、池主との詩歌文贈答を境目にその前後の反歌に変化が見られ、そこにおける家持の文芸的自覚を「乱」にうかがうことができるからである。越中赴任以後、特に池主との漢詩文贈答を経験してからは長歌に着実に回収される、長歌の世界を越えない反歌を制作するようになる。家持の反歌は、長歌の反復に過ぎぬ空疎で無感興のものあると酷評を受けてきたが、ここに反歌史上におけるひとつの転換を見届けるべく、長歌衰退の万葉後期において家持は、人麻呂や憶良、赤人らのような先人の歌の表現や発想を自分の作品に積極的に取り入れようとしつつも、反歌の制作において彼独自の反歌を試みたのである。また、「辞賦」における「乱」を「一篇の趣旨を捉えかえしまとめる様式」と解した家持は、「乱」の方法を反歌に当てはめ、長歌の詩世界に還元される要約的反歌を制作することによって、長歌に対して反歌だけで詩的完結性をそなえる反歌様式を意図したのである。家持の「乱」というタームの使用と「乱」の反歌への応用は、単なるペダントリーによるものではなく、家持の文芸的自覚に支えられた、新しい方法への積極的な試みであった。 第六章では、万葉和歌史における家持反歌の意義について考察した。一見反復にすぎず新味のないように見える家持の反歌は、初期万葉や人麻呂初期長歌の反歌におけるリフレーン的音楽性(歌謡性)とは異なり、歌語の巧みなヴァリエーションと長歌の抒情の反歌への分解とにより文芸性を追究する、詩的独立性を持つものであった。まとまりがなく焦点がぼけた家持長歌の叙述は、凝縮した短歌としての反歌に分解しなおされることによって詩的緊張感を持ちうるし、そのような絡み合いの中で主題が明確に伝わるのである。この場合反歌は必然的に長歌の世界を追体験できる要約的な反歌であることが要求されるが、長歌から展開する反歌が添えられると、長反歌の構成がますます散漫になって感動の薄いものに転落してしまうからである。つまり、家持反歌は長歌の散文的叙述を取りまとめ、凝縮しなおそうとしたものであり、家持が短歌の詩的凝集力を明確に方法的に意識したところに意義を見るべきである。人麻呂が長歌の「外」に出る反歌を作ることによって反歌の独立性を意図したのに対して、家持は長歌の詩世界の「内」に止まりながら反歌の自立性を追求した。家持は長歌の詩世界に帰結する要約的反歌をあえて制作したのであり、そこに、人麻呂的とも言える自由で独立的な反歌が短歌化=非反歌化していくのを克服し、短歌の凝集力によって詩的完結性をそなえるといった反歌様式への方法的意図が認められるのである。 |