400字詰で本文約1200枚、注約400枚という長大な本論文のテーマは、近年のポスト・モダン論などを含めた、ヨーロッパ近代の見直しという大きな枠組みにかかわる問題であり、仲正君は、一方ですでに公刊されたいくつかのモノグラフィーにおいてこの問題の現代における側面に取り組みつつ、ここでは修士論文の延長線上で、問題の発端に属する部分の詳細な分析を行っている。 「〈隠れたる神〉の痕跡」というタイトルが示すごとく、例えばニーチェのように「神は死んだ」として明確に断定してしまうか、あるいは啓蒙主義の一側面である理神論の場合のように〈神の棚上げ〉といった形で、それまでヨーロッパの社会と文化を支えてきた絶対者としての神をいわば極力排除しようとしてきたというのがヨーロッパ近代の一般的な捉え方であった。しかし仲正君はアプローチの仕方をあえて逆転させ、この神が自ら隠れてしまったこと、しかも実は必要不可欠であるにもかかわらず神の方で隠れてしまったことから生じた、いわば喪失感ないし絶望こそがむしろヨーロッパ近代の発端を支配していた基本的な気分であり、またそれによって陥った〈深淵〉の中であがきながら、この隠れたる神をあえて再び-もちろん元のままの形ではないが-取り戻そうとしたのが、ヨーロッパ近代の実態であるとする。 本論文はこうした基本的な前提に立ち、19世紀初頭の一般的にはいわゆる初期ロマン派という名前でくくられている一連のドイツの思想家、作家、詩人を中心に、当時の状況およびこの状況への彼らの対応を全体として捉え直そうと試みたものである。これまではほとんどの場合、少なくとも日本では文学研究者は文学のみに目を向け、逆に哲学者はドイツ観念論という枠組みの中で哲学のみに目を向けてきたが、仲正君はこの時代のほとんどすべての重要な詩人、作家、思想家の作品と発言を自らの手で詳細に分析しており-そのためにも膨大な論文になったわけだが-、いずれにせよこの作業によって微妙に入り組んだ対立関係や、あるいは一見非常に離れた関係にあるように見られてきた作家や思想家の間に存在する同質性を再発見するなど、当時の状況をきわめて見事に描ききっている。 もちろん、こうしたドイツの初期ロマン派の見直し作業は、ドイツはもとよりフランスでも最近では盛んに行われており、この論文も基本的にはそこでの議論に乗った上で構成されているが、この論文の優れている点の一つは、これらの議論そのものに関しても初期ロマン派の分析と同様の詳細な分析を行なっており、さらにこれに加えて、ハイデガーやアドルノをはじめとするこれまでの歴史的なヘルダーリン解釈に関しても、同じように自らの手で逐一検証し直していることにある。 論述の中心におかれているのは、副題にあるように詩人(哲学者)のヘルダーリンであるが、ここでのヘルダーリン解釈も微細を極めている。論文では膨大な量の難解なヘルダーリンの詩が引用され、そのすべてに日本語訳を付した上で、それに逐一分析を加えている。そもそもヘルダーリンの詩はほとんど翻訳不可能と言えるが、それは何よりも使用されている語句が統語論的にも意味論的にもきわめて不安定なままに放置されているからであり、これは仲正君によれば、ヘルダーリンが意識的に行っていることであって、例えば統語論的に言えば、アドルノが発見した〈パラタクシス〉、つまり並列技法などに典型的に現れているように、詩の中に登場する語句が多くの場合単に並列されているのみで、切関連をつけないままになっている。こうしたほとんど翻訳不可能な詩を多くの工夫をこらしつつ、一応読みうるように日本語化する努力も本論文では十分になされており、この点も多いに評価しうるところであるが、いずれにせよ、こうしたヘルダーリンの手法はまさにその思想そのものを反映したものであって、一切を確定せずありのままの状況(カオス)をありのまま語ることはヘルダーリンにとって不可避的とも言える事態だったとされる。すなわちこのありのままの状況とは、冒頭に触れた神が隠れたことによって近代人が陥った〈深淵〉に他ならないが、例えばこの深淵を脱するために何かを構築しようとすれば、それはたちまち虚構となり、その虚構がさらに自己増殖し始めることになる。神に代わる絶対精神の弁証法を完結させたヘーゲルがその典型的な例であろうが、ヘルダーリンはむしろそうした虚構の構築をあえてせず、むしろカオスをカオスとしてそのまま捉え、かつそれを詩的な形で表現しようとしたのだということになる。より具体的に言えば、それは近代ヨーロッパを現代に至るまで支えてきた〈進歩〉や〈テロス〉といったあらゆる種類の秩序づけの否定、あるいは〈偶像禁止〉、〈知の限界〉の意識化といったキー・ワードによって表現しうるものであり、ヘルダーリンはこうした〈知の限界〉を意識しつつ生きる、あるいは不可知なものを背負いながら生きるといったもう一つの可能性をその作品によって、否むしろ詩作という行為そのものによって強烈に示しているとも言えよう。この点は本論文の核心をなす部分であるが、仲正君はそれを十二分に描ききっている。一方、こうした虚構の構築はこれまでのすべてのヘルダーリン解釈自体にも当てはまり、ヘルダーリンの作品を何らかの特定の立場に立ってその意味を確定しようとしたところに基本的な誤りがあったというのが、仲正君の歴史的なヘルダーリン解釈批判の主眼点である。特に、例えばヘルダーリンの「祖国的なもの」(〈祖国的形式〉)に関するハイデガーの解釈に、全く相反する立場に立つアドルノと対決させつつ分析を加えている部分は圧巻であり、またそれ自体がヘルダーリン研究の方法論的な基盤に関する重要な提言となっている。 一方、こうしたヘルダーリン的なもう一つの近代、さらにドイツの初期ロマン派と称されるその周辺には、もちろんニュアンスの点で近いものから遠いものまで含めたさまざまな考え方があったのであり、そうしたさまざまな顔を持った近代が存在したことを無視して近代の超克やポスト・モダンを論じたところで、そこからはヨーロッパ近代の真の姿は見えてこないというのがこの論文の隠れた趣旨である。たしかにヘルダーリンはこのもう一つの可能性を具体的かつ積極的な形では示していないものの、少なくとも近代の発端においては明らかに重要な役割を演じ、しかし結果的にはまもなく否定されていったこの部分を再認識することは、正統的な近代を支えるものとされてきたあらゆる意味での主体(自我)の暴走を抑止するという点でも大きな意味を持ちうる。近代を単に否定ないし脱構築するのではなく、現に存在していたもう一つの可能性を十分に視野に入れることは、いわゆる近代批判のための不可欠な作業であり、何よりもこの論文はそのための大きな手がかりを与えてくれるものと言えよう。 審査の場では、テーマの追求のプロセス、論述の巧みさなどはもちろん大いに評価できるものの、これほどの長さが果して必要であったのかという疑問が出され、また序章ではより明確に自らの主張を提示すべきであったとの指摘もなされたが、内容に関しては審査委員の質問に明確な根拠に基づいた対応がなされ、本論文が細部にわたるまで十分に練り上げられたものであることが確認された。 いずれにせよこの論文は、上に触れたような対象へのアプローチの方法をも含めた新しい総合的、学際的な近代ヨーロッパ論であると言える。もちろん総合的、学際的とは言っても、主として人文科学的な側面から見た近代ヨーロッパ論であるが、少なくともこれまでのように既成の専門分野、あるいはドイツ、フランスといった地域閉塞的なアブローチを脱している点で、地域文化研究専攻であるからこそ可能となった論文である。この論文において示された仲正君自身の能力に関しても、その多面的な語学力(独、仏、英、羅、希語)と同時に、その背景にある広い視野と深い知見は博士課程の学生としての水準をはるかに超えており、すでに自立した研究者の域に達しているものと言える。文章はきわめて明快で誤字、脱字もほとんどなく、あえて難を言えば長すぎること、そして長すぎるがゆえに細かい点において修正すべき点も多くなっているが、全体的にはきわめて意欲的であると同時によくまとまった、しかもさまざまな側面に目配りを十分きかせた優れた博士論文であると言えよう。 なお、本論文は博士課程の2年目にして提出されたものであるが、以上の諸点からも明らかなように、本論文が博士論文として特に優れたものであることは、他専攻に属する委員および学外委員を含めた6名すべての審査委員の一致するところであった。したがって審査委員一同は、仲正君が在学期間短縮の「特に優れた研究業績を上げた者」という、東京大学大学院総合文化研究科規則第4条にある事由に適合する業績を上げたことを十分認める。 |