学位論文要旨



No 111609
著者(漢字) 仲正,昌樹
著者(英字)
著者(カナ) ナカマサ,マサキ
標題(和) 〈隠れたる神〉の痕跡 : ドイツ近代の成立とヘルダリン
標題(洋)
報告番号 111609
報告番号 甲11609
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第72号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 麻生,建
 東京大学 教授 長尾,龍一
 立教大学 教授 高橋,輝暁
 東京大学 教授 保坂,一夫
 東京大学 助教授 青木,誠之
 東京大学 助教授 増田,一夫
内容要旨

 ヘーゲル以降の近代ドイツの思想史は、(1)理性の主体としての自我を中心に〈世界〉を統一的に把握し、体系的な〈世界像〉を構築しようとする主体中心主義的な傾向、(2)あらゆる個別の歴史を超越した普遍的な〈歴史〉があり、〈歴史〉は最終的ゴールに向かって次第に収斂しつつあると見る歴史哲学的な視点を主要な特徴としてきた。これに対して近年のボスト・モダン的な脱〈近代〉化論者たちはロマン派に代表される美的モデルネの言説を再評価し、ヘーゲル主義的な言説に対置することを通してドイツ近代の自己理解を変革しようとしている。そうした二つのモデルネのせめぎ合いという文脈の中で、合理主義の陣営にもロマン派の陣営にも属さず、ドイツ文学史の中に独特な位置を占めてきた詩人ヘルダリンをどのように捉え直すかという問題が重要性を帯びつつある。この論文はヘルダリンの詩的言語の特殊な構造に注目しながら、二つのモデルネの間を揺れ動く彼の思考の特徴を文化史的に明らかにすることを目標とするものである。

 ヘーゲル、シェリング、Fr.シュレーゲル、ノヴァーリス、ヘルダリンといった18世紀末から19世紀初等にかけての転換期のドイツを代表する思想家たちは一つの原点を共有していな。それは〈近代〉における超越論的シニフィアンの不在、言い換えれば〈神の死〉の体験である。神を中心として全ての存在者が一つの秩序体系(存在記号論的体系)の中に統合されている中世的コスモスが崩壊していくのと並行して、デカルト的な自我があらゆるものの〈存在〉の最終的根拠とされた。近代的自我は超越的な秩序から解放され、自立化することになったが、それは同時に〈根底〉を失った自我が何もない〈虚空〉の中へと投げ込まれたことを意味する。ヘーゲルは《信仰と知》で全ての近代人は〈神の死〉の痛みを体験しつつあり、新しい時代の精神はこの痛みを超えていかねばならないと述べている。ヘルダリンは《パンと葡萄酒》、《ゲルマニア》などの代表的作品で今は地上から神々が逃げ去って夜の時代に入っており、世界は〈根底〉のない〈深淵〉の中に落ち込みつつあると語っている。ドイツの知識人たちは、〈神の不在〉の不安を耐えながら新しい存在記号論体系を構築しようとしたのである。

 彼等はまず新しい中心点として、フィヒテによって理論化された〈知識学〉の体系に注目する。知識学は〈自我〉を全ての第一原理として措定しており、人間によって営まれるあらゆる字間・知識の体系は、知の究極の主体である自我によって説明されるという前提から出発する。自我を原点として全てを一つの知の体系へと統合することをフィヒテは目指した。しかしフィヒテの知識学に含まれている理論的欠陥が明らかになるにつれて、初期ロマン派、シェリング、ヘーゲル、ヘルダリンはそれぞれの仕方でフィヒテの体系を超え別のものを求めるようになった。シュレーゲルとノヴァーリスは、絶対的自我の概念を放棄したばかりではなく、自我を中心とした完結した哲学体系を構築することの不可能を指摘した。彼等にとって、〈私〉とは無限の二重化の連鎖の中で自己差異化し続ける流動的な運動体である。〈私〉を中心にして哲学体系を構築したとしても、その中心自体が揺れ動いているのであるから、中心の変化に伴って体系全体は無限に〈生成〉を続けることになる。絶対者は存在するのではなく、発展的普遍性ポエジーを通じての〈生成〉の途上にあるのである。ヘーゲルもまた反省を通じて進行する〈自己〉発展のプロセスに注目したが、初期ロマン派とは違ってこの運動を方向性のない無限の流動性とは見なさず、現実の歴史の中で特定の方向に収斂していく絶対者精神の自己実現のプロセスとして捉えた。彼の歴史哲学によれば、絶対者は反省的意識によって構成される歴史のテロスにおいて自己の本質を概念的に把握する。〈絶対者〉の自己創出運動が現実の歴史の中で究極のゴールヘと向かって収斂していくのか(ヘーゲル)、あるいは無限に自己差異化し続け、拡散していくのか(初期ロマン派)という問題を一つの対立軸として考えれば、ヘルダリンの詩学の原理は初期ロマン派寄りである。ポエジーの本質を存在記号論的な立場から論じた《詩的精神の振る舞い方について》の中でヘルダリンは、〈描出しているもの〉と〈描出されるもの〉との間の解消しがたい根源的差異によってポエジーの無限の自己再生産運動が引き起こされるとしている。〈詩的精神〉は詩人の美的反省を媒体として自己を詩作品として形象化するが、〈形象化されたもの〉は詩的精神の一側面を〈描出〉しているに過ぎず、詩的精神そのものではない。芸術作品としてのポエジーが〈記号〉によって構成されたものである以上、形象化されたものと形象化されるべきものの間には必然的にズレがある。記号を成り立たしめている〈意味するもの/意味されるもの〉の間の根源的差異によって自己差異化=差延の運動が引き起こされるのである。

 存在記号論的な議論の進め方においてはヘルダリンと初期ロマン派の間に大差はないが、他方で詩的エクリチュールの中に現れる〈絶対者〉に対してどのようなスタンスを取ろうとしているかという点では、両者の間に微妙なニュアンスの相違が認められる。初期ロマン派は、〈絶対者〉が概念的に固定化された形で現れることなく、永遠に〈生成〉し続ける点をむしろポジティブに受け止めている。彼等にとっては〈根底〉が消え失せていくことはもはや怖れるべきことでも痛みを伴うことでもなく、むしろ美的反省の運動が無限に展開していくためのポジティブな契機であると見ている。これに対してヘルダリンは、詩作の中で深淵に対する危機感を一貫して強調し続け、《ライン》、《ムネモシュネー》といった主要な作品では、近代的な自我が孤立化し、神々の住む世界から隔てられている状況をテーマ化する。原初における〈ヘン・カイ・パン〉は失われ、〈主体/客体〉の分裂状況に置かれた反省的意識の主体は自らの根源を求め続けるが、これに到達することはできない。〈世界〉は反省的意識によって構造化されており、分裂状況に置かれている人間は根源と一つになることはできない。ヘルダリンにとってこの分裂は近代の悲劇なのである。ノヴァーリスの夜が復活を予感させる夜であるとすれば、ヘルダリンの夜は果てしなく深淵の底まで落ち込んでいく暗黒の夜である。

 後期の作品《回想》における「留まるものを樹立するのは詩人たちである」という表現に象徴されるように、ヘルダリンは深淵の中へと落ち込んでいく時代の中で、世界の背後に潜んでいる〈隠れたる神の痕跡〉を詩的エクリチュールの中に留め、それを人々の生の中心にしようとした。〈芸術〉とは、常に過ぎ去って行く〈無限なもの〉を目に見える形へと形象化することによって、民にとっての生の原型を示すことである。芸術を通しての〈無限なもの〉の形象化の仕方は時代と地域によって異なる。ヘルダリンは、各時代・地域ごとに特有の芸術形式を〈祖国的形式〉と呼ぶ。〈祖国〉とは〈無限なもの〉の芸術的模倣を中心に構造化された存在記号論体系である。乏しい時代における詩人の使命は、詩作を通して新しい祖国的形式を作り出すことにあり、ヘルダリンは古代ギリシアの祖国的形式の研究を通して、近代ドイツにとっての祖国的形式を見出だそうとした。ただし詩人が祖国的形式によって地上に樹立しているのはあくまでも存在の仮象であって、存在そのものではない。ヘルダリンは、自らの詩的エクリチュールにおける描出が描出されるべきものと一致していないことを十分に承知しながら、記憶の中に〈留まるもの〉を創出するため詩作し続けた。根源の〈痕跡〉が不安定だからこそ、それをあえて地上に留めるべく努力し続ける者としての詩人が必要とされるのである。

 ヘルダリンの詩的言語の特徴は、総合的判断の論理(=総合文構造)から逸脱していくパラタクシス(並列構造)にある。彼の後期の詩の多くは、総合的判断-総合文の法則に従う通常のドイツ語とは異なって、主語と述語、文と文、段落と段落の間の意味の連関が明確ではない。彼の詩の言葉は論理的な意味によるつながりが極めて弱い代わりに、イメージとイメージが並列的に連ねられ、緩やかな"全体像"を生み出す。パラタクシスは、言語自体によって言語による自然支配の限界を暴露する戦略である。

 結論として筆者はヘルダリンを以下のように性格づける。彼の詩的エクリチュールは、生の中心を確立すべく祖国的形式によって〈無限なもの〉を芸術的に形象化しようとすると同時に、無限なものの形象を絶対化しようとする意識の暴力に抵抗するという相反する方向の二つの課題を同時に背負っていた。人間は自らの生の中心として神のイメージを必要とするが、他方で神を直接的に見ることは許されない。〈無限なもの〉は人間の表象能力の限界を超えた所、つまり主体の死の瞬間にのみ現れて来る。詩人は〈生〉の世界(=反省的意識の領域)と〈死〉(=表象のゼロ点)の間の限界ぎりぎりの所で詩作しなければならないのである。彼の歩みは矛盾に満ちており、近代の呪縛から逃れるための明快な解決策を与えてくれるものではないが、ヘーゲル的歴史哲学の言説に抵抗する手段として詩的言語の役割をクローズアップさせたことは注目に値する。彼の詩的エクリチュールの〈中心を外れた軌道〉は、絶対者に対して距離を取りながらもその痕跡を求めていかざるを得ない近代人の行くべき困難な道程を象徴している。

審査要旨

 400字詰で本文約1200枚、注約400枚という長大な本論文のテーマは、近年のポスト・モダン論などを含めた、ヨーロッパ近代の見直しという大きな枠組みにかかわる問題であり、仲正君は、一方ですでに公刊されたいくつかのモノグラフィーにおいてこの問題の現代における側面に取り組みつつ、ここでは修士論文の延長線上で、問題の発端に属する部分の詳細な分析を行っている。

 「〈隠れたる神〉の痕跡」というタイトルが示すごとく、例えばニーチェのように「神は死んだ」として明確に断定してしまうか、あるいは啓蒙主義の一側面である理神論の場合のように〈神の棚上げ〉といった形で、それまでヨーロッパの社会と文化を支えてきた絶対者としての神をいわば極力排除しようとしてきたというのがヨーロッパ近代の一般的な捉え方であった。しかし仲正君はアプローチの仕方をあえて逆転させ、この神が自ら隠れてしまったこと、しかも実は必要不可欠であるにもかかわらず神の方で隠れてしまったことから生じた、いわば喪失感ないし絶望こそがむしろヨーロッパ近代の発端を支配していた基本的な気分であり、またそれによって陥った〈深淵〉の中であがきながら、この隠れたる神をあえて再び-もちろん元のままの形ではないが-取り戻そうとしたのが、ヨーロッパ近代の実態であるとする。

 本論文はこうした基本的な前提に立ち、19世紀初頭の一般的にはいわゆる初期ロマン派という名前でくくられている一連のドイツの思想家、作家、詩人を中心に、当時の状況およびこの状況への彼らの対応を全体として捉え直そうと試みたものである。これまではほとんどの場合、少なくとも日本では文学研究者は文学のみに目を向け、逆に哲学者はドイツ観念論という枠組みの中で哲学のみに目を向けてきたが、仲正君はこの時代のほとんどすべての重要な詩人、作家、思想家の作品と発言を自らの手で詳細に分析しており-そのためにも膨大な論文になったわけだが-、いずれにせよこの作業によって微妙に入り組んだ対立関係や、あるいは一見非常に離れた関係にあるように見られてきた作家や思想家の間に存在する同質性を再発見するなど、当時の状況をきわめて見事に描ききっている。

 もちろん、こうしたドイツの初期ロマン派の見直し作業は、ドイツはもとよりフランスでも最近では盛んに行われており、この論文も基本的にはそこでの議論に乗った上で構成されているが、この論文の優れている点の一つは、これらの議論そのものに関しても初期ロマン派の分析と同様の詳細な分析を行なっており、さらにこれに加えて、ハイデガーやアドルノをはじめとするこれまでの歴史的なヘルダーリン解釈に関しても、同じように自らの手で逐一検証し直していることにある。

 論述の中心におかれているのは、副題にあるように詩人(哲学者)のヘルダーリンであるが、ここでのヘルダーリン解釈も微細を極めている。論文では膨大な量の難解なヘルダーリンの詩が引用され、そのすべてに日本語訳を付した上で、それに逐一分析を加えている。そもそもヘルダーリンの詩はほとんど翻訳不可能と言えるが、それは何よりも使用されている語句が統語論的にも意味論的にもきわめて不安定なままに放置されているからであり、これは仲正君によれば、ヘルダーリンが意識的に行っていることであって、例えば統語論的に言えば、アドルノが発見した〈パラタクシス〉、つまり並列技法などに典型的に現れているように、詩の中に登場する語句が多くの場合単に並列されているのみで、切関連をつけないままになっている。こうしたほとんど翻訳不可能な詩を多くの工夫をこらしつつ、一応読みうるように日本語化する努力も本論文では十分になされており、この点も多いに評価しうるところであるが、いずれにせよ、こうしたヘルダーリンの手法はまさにその思想そのものを反映したものであって、一切を確定せずありのままの状況(カオス)をありのまま語ることはヘルダーリンにとって不可避的とも言える事態だったとされる。すなわちこのありのままの状況とは、冒頭に触れた神が隠れたことによって近代人が陥った〈深淵〉に他ならないが、例えばこの深淵を脱するために何かを構築しようとすれば、それはたちまち虚構となり、その虚構がさらに自己増殖し始めることになる。神に代わる絶対精神の弁証法を完結させたヘーゲルがその典型的な例であろうが、ヘルダーリンはむしろそうした虚構の構築をあえてせず、むしろカオスをカオスとしてそのまま捉え、かつそれを詩的な形で表現しようとしたのだということになる。より具体的に言えば、それは近代ヨーロッパを現代に至るまで支えてきた〈進歩〉や〈テロス〉といったあらゆる種類の秩序づけの否定、あるいは〈偶像禁止〉、〈知の限界〉の意識化といったキー・ワードによって表現しうるものであり、ヘルダーリンはこうした〈知の限界〉を意識しつつ生きる、あるいは不可知なものを背負いながら生きるといったもう一つの可能性をその作品によって、否むしろ詩作という行為そのものによって強烈に示しているとも言えよう。この点は本論文の核心をなす部分であるが、仲正君はそれを十二分に描ききっている。一方、こうした虚構の構築はこれまでのすべてのヘルダーリン解釈自体にも当てはまり、ヘルダーリンの作品を何らかの特定の立場に立ってその意味を確定しようとしたところに基本的な誤りがあったというのが、仲正君の歴史的なヘルダーリン解釈批判の主眼点である。特に、例えばヘルダーリンの「祖国的なもの」(〈祖国的形式〉)に関するハイデガーの解釈に、全く相反する立場に立つアドルノと対決させつつ分析を加えている部分は圧巻であり、またそれ自体がヘルダーリン研究の方法論的な基盤に関する重要な提言となっている。

 一方、こうしたヘルダーリン的なもう一つの近代、さらにドイツの初期ロマン派と称されるその周辺には、もちろんニュアンスの点で近いものから遠いものまで含めたさまざまな考え方があったのであり、そうしたさまざまな顔を持った近代が存在したことを無視して近代の超克やポスト・モダンを論じたところで、そこからはヨーロッパ近代の真の姿は見えてこないというのがこの論文の隠れた趣旨である。たしかにヘルダーリンはこのもう一つの可能性を具体的かつ積極的な形では示していないものの、少なくとも近代の発端においては明らかに重要な役割を演じ、しかし結果的にはまもなく否定されていったこの部分を再認識することは、正統的な近代を支えるものとされてきたあらゆる意味での主体(自我)の暴走を抑止するという点でも大きな意味を持ちうる。近代を単に否定ないし脱構築するのではなく、現に存在していたもう一つの可能性を十分に視野に入れることは、いわゆる近代批判のための不可欠な作業であり、何よりもこの論文はそのための大きな手がかりを与えてくれるものと言えよう。

 審査の場では、テーマの追求のプロセス、論述の巧みさなどはもちろん大いに評価できるものの、これほどの長さが果して必要であったのかという疑問が出され、また序章ではより明確に自らの主張を提示すべきであったとの指摘もなされたが、内容に関しては審査委員の質問に明確な根拠に基づいた対応がなされ、本論文が細部にわたるまで十分に練り上げられたものであることが確認された。

 いずれにせよこの論文は、上に触れたような対象へのアプローチの方法をも含めた新しい総合的、学際的な近代ヨーロッパ論であると言える。もちろん総合的、学際的とは言っても、主として人文科学的な側面から見た近代ヨーロッパ論であるが、少なくともこれまでのように既成の専門分野、あるいはドイツ、フランスといった地域閉塞的なアブローチを脱している点で、地域文化研究専攻であるからこそ可能となった論文である。この論文において示された仲正君自身の能力に関しても、その多面的な語学力(独、仏、英、羅、希語)と同時に、その背景にある広い視野と深い知見は博士課程の学生としての水準をはるかに超えており、すでに自立した研究者の域に達しているものと言える。文章はきわめて明快で誤字、脱字もほとんどなく、あえて難を言えば長すぎること、そして長すぎるがゆえに細かい点において修正すべき点も多くなっているが、全体的にはきわめて意欲的であると同時によくまとまった、しかもさまざまな側面に目配りを十分きかせた優れた博士論文であると言えよう。

 なお、本論文は博士課程の2年目にして提出されたものであるが、以上の諸点からも明らかなように、本論文が博士論文として特に優れたものであることは、他専攻に属する委員および学外委員を含めた6名すべての審査委員の一致するところであった。したがって審査委員一同は、仲正君が在学期間短縮の「特に優れた研究業績を上げた者」という、東京大学大学院総合文化研究科規則第4条にある事由に適合する業績を上げたことを十分認める。

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