本論文は、明治期から第二次世界大戦終結に至るまでの帝国日本が展開した言語政策を、日本内地、植民地朝鮮、「満洲国」、「大東亜共栄圏」に組み込まれた東南アジアという各地域において究明することを通じて、日本の近代「国語」の果たした役割を、アジアという場から再検討した論文である。 本論文は、序論、四部からなる本論、および結論という構成になっており、本文・注・参考文献を含めて、1600字で288頁(400字×1152枚)という大部なものである。 序論においては、本論文の枠組みが提示されている。本論文の基本的な視点は、近代的制度を担う、効率的な国家の言語、および国民創出機能をもつ国民の言葉という性格をあわせもつ「国語」の形成は、日本語を「東亜共通語」たらしめようとする動きと密接不可分の関係にあったということである。これは、自己の国民国家としての形成と、植民地の領有が並行して進んだ日本の特徴である。単一で均質なことを要求される「国語」は、他の言語に対して非寛容であるのに対し、「東亜共通語」は他の言語の存在を前提として成り立つこと、「国語」は国民創出機能の担い手として「伝統」を堅持したものであることが望ましいが、「東亜共通語」たることを展望すれば、コミュニケーション手段としての簡便性や効率性が重視されざるをえないなど、「国語」と「東亜共通語」との間には、矛盾が存在している。しかし、日本語を「東亜共通語」とすることにも、日本語による他民族の指導、教化、日本語を通じての「日本精神」の普及という側面が貫徹しており、だからこそ、日本語を「東亜共通語」たらしめて日本の「国威」を発揚するためには、「国語」としての日本語もその効率化をある程度受け入れざるをえないという、関係も存在している。このような観点に立ちつつ、本論文では、内地・朝鮮・満洲国・東南アジアにおける言語政策を、日本語を基本的に「国語」として扱ったタイプと、「東亜共通語」として扱ったタイプに分類しながら、議論を進めることが提起されている。 第1部「国語」と「共通語」の成立をめぐって ここでは、「国語」と「東亜共通語」という概念が表裏一体のものとして成立してくる過程を、20世紀初頭の文部省の国語政策機関において大きな役割を果たした上田万年の議論を中心として検討している。上田によれば、近代「国語」とは国民全体に均質に流れる「血液」であり、その「血液」によって国民としての一体性を実感させるものであった。このように「国語」には、国民創出の役割とともに均質性と効率性を求める機能が要請される。このような観点から、上田を主事とする国語調査委員会(1902〜13)は、「標準語」の設定、「口語文法」の確立に貢献する。上田は、「一国家、一民族、一言語」が日本の特徴であるとして、それが近代化に有利であると考えた。そして、近代制度を日本語が担い得たという自信が、アジア諸民族への日本語の普及=日本語の「東亜共通語」化を展望させることになる。しかも、日本語を「東亜共通語」たらしめるという展望は、「国語」としての日本語の効率化という、上田の日本語改革案を補強する役割を果たした。 第2部植民地における「国語」の展開―主に朝鮮― ここでは、排他性をもった「国語」としての日本語が、現地民族の固有語を駆逐しようとした過程を、日本の植民地としての朝鮮の事例で検討している。朝鮮において「国語」としての日本語の普及を正当化したのは、日本語の「近代」性の認識と、「一国家一言語」モデルであった。朝鮮に対しては、徐々に「内地」同様の言語規範の強制がなされ、1930年代後半の日本の大陸侵略の拡大にともなって、朝鮮語を、「国語」に対する「方言」の地位におとし、「国語」の常用語化、生活語化がはかられるようになる。このような日本の言語政策に対しては、朝鮮語の標準化を促進し、ハングルを普及して、朝鮮語を近代制度を担いうる言語にしようとする抵抗が存在したが、それは第二次世界大戦中に暴力的に排除されていく。 第3部「満洲国」における言語政策の展開 実体的には日本の傀儡国家でありながら、表向きは「独立国」という体裁をとらざるをえなかった「満洲国」においては、「五族協和」という建国イデオロギーから、日本語には、「満洲語(=中国語)」、モンゴル語と並ぶ公用語の一つという、「国語」というよりは「東亜共通語」としての位置づけが与えられた。しかし、1937年以降は、この「満洲国」においても日本語の積極的な普及がはかられ、制度的に日本語の地位を引き上げる試みが本格化した。これは、「満洲国」の傀儡性を示すとともに、制度的裏付けによって日本語を権威づける他ない、日本語の普及度・認知度の低さを示すものであった。「満洲国」では、日本語で運営するしかない中央の世界と、中国語やモンゴル語でのみ運営される地方の世界とが、乖離して存在していたのである。 第4部占領下東南アジア 「東亜共通語」としての日本語というありかたが、前面に出たのは、「大東亜共栄圏」に組み込まれた東南アジアにおいてであった。ここでは、日本は、旧宗主国言語の排除の要請と現地のナショナリズムへの配慮から、現地の固有語の地位向上をはかるとともに、「大東亜共栄圏」内の交流言語としての日本語の普及をはかった。「東亜共通語」としての日本語の本格的普及を考えると、その簡便化が必要である。日本語の表記に手を加えること自体、「国体」への冒漬であるといった論調がある一方で、日本語簡便化の議論が起こりえた背景には、日本語の広範な普及にその「世界性」を見出すナショナリズムが作用していたためではあった。占領下東南アジアまで視野に入れ、日本の「伝統」に向かうナショナリズムと、同時代的な普遍性に基づくナショナリズムという、二つの言語ナショナリズムが日本の言説の場でせめぎあっていたのである。しかし結局、日本語を通じて「日本精神」を伝えるという課題が最優先とされたため、「不純な」日本語ではその任にたえられないという議論を、簡便化論は克服することができなかった。この「東亜共通語」としての機能性と、「日本精神」の担い手の役割の双方を、同時に追求したところに、日本語普及の内在的な限界が存在したわけである。 最後の結論の部分では、上記のような考察をまとめた上で、「国語」や「東亜共通語」としての日本語が、結局はアジアの多様な言語の話者を踏みつけにしてきた歴史を自覚しないかぎり、現代における「日本語の国際化」という議論も成立しえないという指摘がなされている。 以上のような本論文の意義は、次の二点に要約できよう。第一に、近代「国語」の歩みをアジアという視点から、トータルに論じた、本論文の構想の大きさそのものの独創性である。日本国内での「国語」の成立過程、海外での日本語普及の問題や、植民地その他における日本の言語支配などの個々の問題に関しては、それなりの研究蓄積が存在するが、アジアにおける日本語の問題を、日本「国語」論として一貫して論述したという点において、本論文は高い価値を有するものと考えられる。 第二に、帝国日本における言語政策を、日本国内における政策と言説を、植民地やアジア現地における問題と交錯させ、その相関関係を一望のもとに提示した論文としては、本論文は学界でもはじめての業績であり、近代日本の「国語」史が、アジアという視点をぬきにしては論じられないことを説得的に提示した点において、地域文化研究としての本論文の意義は大きく、国語学、社会言語学という角度からも積極的に評価しうる内容をもっていると思われる。 ただ、本論文は、きわめて大きな問題に鳥瞰を与えるという課題に挑戦し、全体の議論に一貫性をもたせるために、論文の組み立てが過度に図式的になっているという弱点をもっている。図式にこだわるあまり、資料の分析的加工が不十分になっている。また、「国語」「東亜共通語」に対して、「日本語」という概念の歴史性が位置づけられていないことも、問題であろう。このことは、論文の構成を明瞭にした反面、論点の豊かな展開の妨げになっており、論文の内に込められた衝撃的なインパクトを弱めている側面があると考えられる。審査委員会としては、今後、論文提出者が自らの図式を克服し、本論文に盛り込まれている論点のさらに熟した展開をはかり、学界に大きなインパクトを与える業績に発展させることを強く期待している。審査委員会は、博士課程在学2年目にこのような論文をまとめたことに示されている、論文提出者の能力は、充分にこの期待に応えられるものであると判断し、この弱点が、学位論文としての本論文の価値を大きく損なうものではないと判定した。 以上により、本論文提出者は、地域文化研究に対して重要な貢献をなしたと評価される。したがって、審査委員一同は、本論文提出者が、在学期間短縮の「特に優れた研究業績を上げた者」という、東京大学大学院総合文化研究科規則第4条にある事由に適合する業績を達成しており、博士(学術)の学位を授与されるに充分な資格があるものと認める。 |