学位論文要旨



No 111610
著者(漢字) 安田,敏朗
著者(英字)
著者(カナ) ヤスダ,トシアキ
標題(和) 近代「国語」の歩み : 帝国日本の言語政策
標題(洋)
報告番号 111610
報告番号 甲11610
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第73号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 平野,健一郎
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 助教授 黒住,真
 東京大学 助教授 小森,陽一
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
内容要旨

 はじめに 本論文は、近代制度としての「国語」は国民国家形成や帝国日本の対外侵略の過程と関連を持ちつつ形成されたものであり、いかに近代日本語がアジア諸国の国民・国家・民族の共同性を脅かしていたかを論ずるものである。具体的には、近代日本の国民国家形成における日本語の扱い(「国語」としての再編、「東亜共通語」としての対外膨張の伏線)や、異民族支配に際しての異言語・民族に対する日本語の位置づけ方、異言語との対峙・共存の在り方について、日本内地・植民地朝鮮・「満洲国」・占領下東甫アジアという地域ごとの偏差を捉える。日本語と諸言語そしてそれらの対抗関係について、地域・時期・論者ごとに様々な見解がもたれていた。その一方で共通するのは、日本語普及について疑問が挟まれていない点であり、日本語ないし「国語」の脅威のもとに晒される諸言語やその話者への配慮がなかった点である。言語政策の地域による差異、イデオロギーの相違などを軸に、これら諸地域を一つのシステムとしての言語普及の場とする帝国日本の言語政策の論理を設定し、言語支配の在り方を明らかにしようと試みた。

第1部「国語」と「共通語」の成立をめぐって(日本)

 「国語」および「東亜共通語」という概念の検討を行なう。この日本語に対する二つの見方のいづれを重視するかによって、各地域の言語政策の在り様をうかがうことができる。この両概念は表裏一体であり、成立からみても相互補完的であった。具体的には、「国語」の成立を、文部省の国語政策機関に深く関わった上田万年の議論で追う。上田によれば、近代「国語」とは国民全体に均質に流れる血液であり、その「血液」によって国民としての一体性を実感させるものであった。このように「国語」には国民創出の役割とともに均質性・効率性を求める機能が要請された。明治の初期にあっては統一した言語への要請があったが日本国が均質な言語空間としては認識され難かった(森有礼や馬場辰猪の議論)のに対し、上田が活躍しだす1900年前後にあっては均質な言語空間を創出する各種の装置(学校教育・法体系・電信・軍隊制度など)が確立・普及しており、それら近代諸制度を日本語で担おうとしていた。文体としての言文一致体が創出され、「標準語」としての基準が定位してくるのもこの頃であり、「標準語」の設定・「口語文法」の確立に貢献したのが上田を主事とする国語調査委員会[1902-1913]であった。上田は「一国家、一民族、一言語」が日本国の特徴であると捉え、それが近代化に有利であると考えていた。この国家と言語との関係、さらには近代制度を日本語で担い得たという自信(日本「国語」を通じて近代へ、ということ)は、植民地諸民族に日本語の普及を正当化する論理として働いた。「国語」の機能的側面を重視して国民創出機能を全面にかかげないと、「東亜共通語」として日本語を捉える主張になる。異民族間の交際語になるということは帝国の言語たる条件でもあるので、この主張は「国語」確立の方便として出されたものであったが、日本の帝国主義的膨張が続くと、実体化されていった。

第2部植民地における「国語」の展開-主に朝鮮-

 植民地では「国語」への同化の力が働き、固有語の地位は徐々に低下していった。日本語の「近代」性の認識のもとで植民地を「一国家一言語」というモデルに組み込んだことにより、「国語」としての日本語普及が正当化された。また朝鮮・朝鮮人は「未開・非文明・非衛生で遅れて」いて、それを「文明化」するのは帝国たる条件だとも認識されていた。制度的には統監府時代から徐々に日本語の制度の中に朝鮮を取り込んでいったが、総督府時代にこの傾向は押し進められる。「併合」当時は緩やかな「同化」論が叫ばれたが、徐々に「内地」同様の言語規範の強制がなされる。これは日本の大陸侵略の程度と重なる。朝鮮語の地位については「国語」対する「方言」の地位に落とし、更に「国語」に一元化し、「国語」を常用語化・生活語化しようとした。一方で朝鮮では国語意識の高まりからくる近代朝鮮「国語」獲得の試みがあったが、日本の言語支配により潰え去った。言語によって民族同一性を醸し出そうとする意識は植民地化された後も続いた。これは朝鮮語の標準・表記法を定め、辞書を編纂し、ハングルの普及運動を行なった朝鮮語学会の活動に顕著である。異なる民族を想像させる手段として朝鮮語を用いているとして後にこの学会は治安維持法違反として会員が検挙される。朝鮮の言語支配とは制度をどの言語に担わせるかの戦いでもあった。

第3部「満州国」における言語政策の展開

 「満洲国」にあっては「国語」というよりも「共通語」として日本語を捉えていた。しかし、1932年の「満洲国」建国から1937年の治外法権撤廃までは、あまり積極的な日本語の普及は行なわれない。それは日本人教員数の絶対的不足などの要因があった。軍閥時代や中華民国の時代に中国語による制度が確立していたため、その制度を突然日本語だけで運用するには困難が伴っていたからである。しかし大陸進出を本格化していくなかで「満洲国」は日本化され、これと歩調を合わせ日本語の普及も積極性を持ちだす。日本側は建国イデオロギーの一つの「五族協和」を言語政策でも実行し、1937年前後から制度的に日本語の地位を引き上げていった。この点は「満洲国」の傀儡性を示すとともに制度的裏付けによって日本語を権威づける他はない普及度・認知度の低さを示している。一方「五族協和」イデオロギーと諸言語の関連については、1943年の学制改正によって「五族」に含まれる朝鮮民族の言語は次第に教育の場から追放される。一方でロシア語の教育は保証されるという、このイデオロギーの矛盾が露呈する。「満洲国」では日本語で運営するしかない中央の世界と、中国語やモンゴル語でのみ運営される地方の世界とが存在していた。その乖離を受け日本語の広範な徹底普及を一時的に放棄して、「満語カナ」という中国語をカタカナで表記する計画を実行した。この案は、満洲国民生部国語調査委員会の手で研究され、1944年に公布される。表記をカタカナにすることで低い識字率を高くし、カタカナに親しませることで日本語の学習を容易にしようという隠れた日本語普及のシステムでもあった。

第4部占領下東南アジア

 占領下東南アジアにおいては、軍部の意図や戦略・戦況に左右されながら、各地域で一地域一言語という原則がとられ、戦略的重要性による地域差はあるが「固有語」によるナショナリズムへの配慮を多少見せた。これは旧宗主国ヘゲモニーから離脱させるためのある種の懐柔策と考えられる。そして、それら諸地域間の交流言語としての・また日本との連関を保たせるという意味で、日中戦争勃発以降実体化してきた「東亜共通語」としての地位を、日本語に与える政策がとられた。これは普及の便宜を考えると、より簡素化された日本語の方が効率的という認識があったためでもある。ただし、簡素化した日本語は「純正日本語」に至る前段階と捉える場合が多く、非母語話者で完結する日本語形態を認めなかった。つまりそこには日本語を通じて「日本精神」を伝えるという大前提があったためで、「不純な」日本語ではその任に堪えられないという認識があったと思われる。しかし、表記に手を加えることが国体への手入れと等しいといった論調があった一方で、機能化の論議が起こり得たのは、日本語の広範な普及に「世界性」を見出すナショナリズムがはたらいていたためである。日本の「伝統」に向かうナショナリズムと、同時代的な普遍性に基づいたナショナリズムのいわば二つの「国粋」が占領下東南アジアまで視野に入れた日本の言説の場でせめぎあっていた。

 植民地の場合と異なり、日本語によって「近代」を示し得なかった。これは時期的な問題とともにすでに旧宗主国によって「近代」が示されていたためでもある。そこで西欧近代に対抗するために「日本精神」・「天皇の御稜威」を持ち出した。そしてこれは日本語でのみ理解が可能なのであるという論拠で日本語学習を奨励していったのである。従って、植民地には比較的簡単に押しつけられた「近代」を担う言語としての日本語という側面よりも、「日本精神」や「天皇の御稜威」が、日本語のもたらすものとして強調される他なかった。

 このように「東亜共通語」としての機能性を求めると同時に精神性をも要請していった訳であり、この点に普及のおのずからなる限界が潜んでいた。

 まとめ 日本の言語政策の在り方を地域ごとにまとめれば以下の通り。

図表
審査要旨

 本論文は、明治期から第二次世界大戦終結に至るまでの帝国日本が展開した言語政策を、日本内地、植民地朝鮮、「満洲国」、「大東亜共栄圏」に組み込まれた東南アジアという各地域において究明することを通じて、日本の近代「国語」の果たした役割を、アジアという場から再検討した論文である。

 本論文は、序論、四部からなる本論、および結論という構成になっており、本文・注・参考文献を含めて、1600字で288頁(400字×1152枚)という大部なものである。

 序論においては、本論文の枠組みが提示されている。本論文の基本的な視点は、近代的制度を担う、効率的な国家の言語、および国民創出機能をもつ国民の言葉という性格をあわせもつ「国語」の形成は、日本語を「東亜共通語」たらしめようとする動きと密接不可分の関係にあったということである。これは、自己の国民国家としての形成と、植民地の領有が並行して進んだ日本の特徴である。単一で均質なことを要求される「国語」は、他の言語に対して非寛容であるのに対し、「東亜共通語」は他の言語の存在を前提として成り立つこと、「国語」は国民創出機能の担い手として「伝統」を堅持したものであることが望ましいが、「東亜共通語」たることを展望すれば、コミュニケーション手段としての簡便性や効率性が重視されざるをえないなど、「国語」と「東亜共通語」との間には、矛盾が存在している。しかし、日本語を「東亜共通語」とすることにも、日本語による他民族の指導、教化、日本語を通じての「日本精神」の普及という側面が貫徹しており、だからこそ、日本語を「東亜共通語」たらしめて日本の「国威」を発揚するためには、「国語」としての日本語もその効率化をある程度受け入れざるをえないという、関係も存在している。このような観点に立ちつつ、本論文では、内地・朝鮮・満洲国・東南アジアにおける言語政策を、日本語を基本的に「国語」として扱ったタイプと、「東亜共通語」として扱ったタイプに分類しながら、議論を進めることが提起されている。

第1部「国語」と「共通語」の成立をめぐって

 ここでは、「国語」と「東亜共通語」という概念が表裏一体のものとして成立してくる過程を、20世紀初頭の文部省の国語政策機関において大きな役割を果たした上田万年の議論を中心として検討している。上田によれば、近代「国語」とは国民全体に均質に流れる「血液」であり、その「血液」によって国民としての一体性を実感させるものであった。このように「国語」には、国民創出の役割とともに均質性と効率性を求める機能が要請される。このような観点から、上田を主事とする国語調査委員会(1902〜13)は、「標準語」の設定、「口語文法」の確立に貢献する。上田は、「一国家、一民族、一言語」が日本の特徴であるとして、それが近代化に有利であると考えた。そして、近代制度を日本語が担い得たという自信が、アジア諸民族への日本語の普及=日本語の「東亜共通語」化を展望させることになる。しかも、日本語を「東亜共通語」たらしめるという展望は、「国語」としての日本語の効率化という、上田の日本語改革案を補強する役割を果たした。

第2部植民地における「国語」の展開―主に朝鮮―

 ここでは、排他性をもった「国語」としての日本語が、現地民族の固有語を駆逐しようとした過程を、日本の植民地としての朝鮮の事例で検討している。朝鮮において「国語」としての日本語の普及を正当化したのは、日本語の「近代」性の認識と、「一国家一言語」モデルであった。朝鮮に対しては、徐々に「内地」同様の言語規範の強制がなされ、1930年代後半の日本の大陸侵略の拡大にともなって、朝鮮語を、「国語」に対する「方言」の地位におとし、「国語」の常用語化、生活語化がはかられるようになる。このような日本の言語政策に対しては、朝鮮語の標準化を促進し、ハングルを普及して、朝鮮語を近代制度を担いうる言語にしようとする抵抗が存在したが、それは第二次世界大戦中に暴力的に排除されていく。

第3部「満洲国」における言語政策の展開

 実体的には日本の傀儡国家でありながら、表向きは「独立国」という体裁をとらざるをえなかった「満洲国」においては、「五族協和」という建国イデオロギーから、日本語には、「満洲語(=中国語)」、モンゴル語と並ぶ公用語の一つという、「国語」というよりは「東亜共通語」としての位置づけが与えられた。しかし、1937年以降は、この「満洲国」においても日本語の積極的な普及がはかられ、制度的に日本語の地位を引き上げる試みが本格化した。これは、「満洲国」の傀儡性を示すとともに、制度的裏付けによって日本語を権威づける他ない、日本語の普及度・認知度の低さを示すものであった。「満洲国」では、日本語で運営するしかない中央の世界と、中国語やモンゴル語でのみ運営される地方の世界とが、乖離して存在していたのである。

第4部占領下東南アジア

 「東亜共通語」としての日本語というありかたが、前面に出たのは、「大東亜共栄圏」に組み込まれた東南アジアにおいてであった。ここでは、日本は、旧宗主国言語の排除の要請と現地のナショナリズムへの配慮から、現地の固有語の地位向上をはかるとともに、「大東亜共栄圏」内の交流言語としての日本語の普及をはかった。「東亜共通語」としての日本語の本格的普及を考えると、その簡便化が必要である。日本語の表記に手を加えること自体、「国体」への冒漬であるといった論調がある一方で、日本語簡便化の議論が起こりえた背景には、日本語の広範な普及にその「世界性」を見出すナショナリズムが作用していたためではあった。占領下東南アジアまで視野に入れ、日本の「伝統」に向かうナショナリズムと、同時代的な普遍性に基づくナショナリズムという、二つの言語ナショナリズムが日本の言説の場でせめぎあっていたのである。しかし結局、日本語を通じて「日本精神」を伝えるという課題が最優先とされたため、「不純な」日本語ではその任にたえられないという議論を、簡便化論は克服することができなかった。この「東亜共通語」としての機能性と、「日本精神」の担い手の役割の双方を、同時に追求したところに、日本語普及の内在的な限界が存在したわけである。

 最後の結論の部分では、上記のような考察をまとめた上で、「国語」や「東亜共通語」としての日本語が、結局はアジアの多様な言語の話者を踏みつけにしてきた歴史を自覚しないかぎり、現代における「日本語の国際化」という議論も成立しえないという指摘がなされている。

 以上のような本論文の意義は、次の二点に要約できよう。第一に、近代「国語」の歩みをアジアという視点から、トータルに論じた、本論文の構想の大きさそのものの独創性である。日本国内での「国語」の成立過程、海外での日本語普及の問題や、植民地その他における日本の言語支配などの個々の問題に関しては、それなりの研究蓄積が存在するが、アジアにおける日本語の問題を、日本「国語」論として一貫して論述したという点において、本論文は高い価値を有するものと考えられる。

 第二に、帝国日本における言語政策を、日本国内における政策と言説を、植民地やアジア現地における問題と交錯させ、その相関関係を一望のもとに提示した論文としては、本論文は学界でもはじめての業績であり、近代日本の「国語」史が、アジアという視点をぬきにしては論じられないことを説得的に提示した点において、地域文化研究としての本論文の意義は大きく、国語学、社会言語学という角度からも積極的に評価しうる内容をもっていると思われる。

 ただ、本論文は、きわめて大きな問題に鳥瞰を与えるという課題に挑戦し、全体の議論に一貫性をもたせるために、論文の組み立てが過度に図式的になっているという弱点をもっている。図式にこだわるあまり、資料の分析的加工が不十分になっている。また、「国語」「東亜共通語」に対して、「日本語」という概念の歴史性が位置づけられていないことも、問題であろう。このことは、論文の構成を明瞭にした反面、論点の豊かな展開の妨げになっており、論文の内に込められた衝撃的なインパクトを弱めている側面があると考えられる。審査委員会としては、今後、論文提出者が自らの図式を克服し、本論文に盛り込まれている論点のさらに熟した展開をはかり、学界に大きなインパクトを与える業績に発展させることを強く期待している。審査委員会は、博士課程在学2年目にこのような論文をまとめたことに示されている、論文提出者の能力は、充分にこの期待に応えられるものであると判断し、この弱点が、学位論文としての本論文の価値を大きく損なうものではないと判定した。

 以上により、本論文提出者は、地域文化研究に対して重要な貢献をなしたと評価される。したがって、審査委員一同は、本論文提出者が、在学期間短縮の「特に優れた研究業績を上げた者」という、東京大学大学院総合文化研究科規則第4条にある事由に適合する業績を達成しており、博士(学術)の学位を授与されるに充分な資格があるものと認める。

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