学位論文要旨



No 111611
著者(漢字) 汪,婉
著者(英字)
著者(カナ) オウ,エン
標題(和) 清末中国対日教育視察の研究
標題(洋)
報告番号 111611
報告番号 甲11611
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第74号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 平野,健一郎
 東京大学 教授 岸本,美緒
内容要旨

 本研究は、清末中国の教育改革に関する研究の一環として、清末における日本教育視察に焦点をあて、中国第一歴史档案館所蔵「批奏摺文教類」、「学部案巻」及び日本外務省外交史料館所蔵の清国官民日本視察に関する未公刊史料を利用し、さらに同時期の視察者らが残した数多くの視察記録という第一次史料に基づき、中国の近代において行われた日本教育視察について、歴史的な展開過程を見ようとするものである。視察者らが日本の近代教育制度、その状況をどのように認識し、またいかなる視点から評価を下そうとしたのかを論究し、ついで、日本教育視察と中国最初の近代学制、教育宗旨の立案、制定及び実施との関連について、実証的に考察しようとするものである。

 清末中国の教育改革は、日本教育の影響が大きく働いていることはほぼ定説になっている。清末における「日本モデルの教育改革」を考える時、日本教育を受け入れる主な媒介者--留学生・視察者・日本人教習--についての研究は不可欠である。これは明治日本の教育近代化に関する研究を見ても同じであるが、西洋教育移入の方途について、近代日本海外留学生・お雇い外国人教師・幕末維新期の遣外使節団・海外視察者への考察を通じて、極めて精密な、そして科学的な調査研究が行われてきた。

 それと比べて、清末中国における日本教育移入の方途に関する研究をみれば、まず二十世紀初頭の中国人の日本留学に関する研究は戦前からすでに着手され、これまでにかなり豊富な研究蓄積が存在する。次に、同時期に中国に招かれた日本人教習についての研究も八十年代から行われ、中国でも、日本でも多くの研究成果があげられた。

 しかし、日本の近代教育を受け入れる媒介者として重要な役割を果たした対日教育視察者及びその視察記録に関する系統的な研究はいままでほとんど行われておらず、空白状態となっているのが現実である。私は、清末における近代学制の成立及びその実施の過程を究明するには、当時日本に赴いた視察者の考察内容を無視してはならないと思う。清末の教育視察者たちは、伝統的科挙体制の下に、既に自己の思想を形成していた。彼等は日本教育取調べなどの政府からの命令で、日本へ赴き、日本社会に展開される教育実態を直接に観察・調査し、日本での学習体験を経て、東遊する前に持っていた翻訳書などによる初期の教育認識を修正し、具体化し、認識を深めた。その認識は、直接改革の中枢の政策決定に影響を与え、中国近代学制を創出する上で重要な要因をなしている。また、学制制定以後、地方教育行政を担当する末端官僚や郷紳の日本遊歴も学制の実施及び政策の地方浸透に大いに役割を果たした。視察者らの書いた調査報告書は、教育改革への動きが本格化する中、あいついで公刊され、学制の実施過程において全国各地方で参考資料として役立てられたであろうことも十分推測され、大きな歴史的意義をになったと思われる。

 本論文は清末対日教育視察について、一八七一年(同治10、明治4)日清修好条規が締結されてから、一九一一年(宣統3、明治44)辛亥革命が勃発するまでの約四十年間を研究の範囲として限定し、さらに次の時期に分けて考察することにする。

 第一期:一八七一年(同治10、明治4)日清修好条規・通商協定締結から、一八九四年(光緒20、明治27)日清戦争開始までの約二十三年間。

 第二期:一八九五年(光緒21、明治28)日清講和条約(馬関条約)調印から、一九〇〇年(光緒26、明治33)義和団事件、八カ国連合軍の北京侵入までの五年間。

 第三期:一九〇一年(光緒27、明治34)清朝新政開始、辛丑条約締結から、一九一一年(宣統3、明治44)辛亥革命までの新政十年間。

 まず、この約四十年間にわたる中国人の海外視察の推移をみれば、日清戦争以前の時期における海外視察は渡航費用自弁による自発的遊歴が主流を成していた。そして、戊戌変法期、新政初期に至っては、中央や各省の督撫や各学校などがそれぞれ視察者を海外に送ったりして、そこに計画も規律もなく、場あたりの派遣という傾向が強かった。一九〇四年に制定された『奏定学堂章程』は新しい教育体系の統一的なビジョンを描いたもので、その中の海外遊歴に関する規定「奏定奨励官紳遊歴章程」も、海外視察についてはじめて体系的且つ包括的に整えられたものであった。この章程の公布は、中国人の洋行熱をますます高潮させるとともに、海外視察の整理に向かう一つのきかっけともなった。さらに、一九〇六年に学部が「京外官紳出洋遊歴簡章」を制定し、それによって、外洋視察派遣制度の整備が漸く進められ、清末の海外視察史において一時期を画するに至ったのである。

 次に、対日教育視察に関する本論文における考察を通じて、各時期の主な特徴を以下の通り指摘する。

 第一期の遊歴はいまだ公的な立場での大規模な海外視察は実施されていない段階にあり、中国人の日本遊歴は公用・商用・研究・観光などいろいろな形で展開されたが、日本教育に関する情報は、ある時は自費遊歴者の偶然の日本教育との出会いを契機に、またある場合は、時代の危機に対処するために、政府がやむをえず派遣した遊歴大臣が「夷狄の情」を探査することによって、収集され、流入した。もとより、それは清政府にとっては否応なしに組み込まれた国際的環境への弥縫策以上のものではなかったが、彼らもさまざまな外洋見聞をしたのであった。多くの自費遊歴者らの見聞の成果は、当時中国国内での政治風土のために、かならずしも直接的な形として活用されなかった。しかし、間接的には、一八九〇年代後半の戊戌変法運動による教育改革に前史的な基盤を用意したものであったと考えることができる。

 第二期は日清戦争以後の五年間であり、維新派による「変法」と「興学」の提唱によって、諸外国、特に日本を手本に近代学校体系を設立しようとし、海外留学熱と同時に海外視察も高揚させる結果をうんだ。清末中国人の日本遊歴の中で、とくに日本学事視察が現れたのはこの時期のことである。近代的学校観の確立のための模索過程ということのできるこの時期の対日本教育視察に関する本論における考察を通じて指摘できることは、視察者によって収集された情報が、限界をもちながらも、学校制度の確立を期した積極性のある内容をもつ学校観となったということである。

 この時期の視察者の成果は、なお、二十世紀初頭に構想された中国の近代学校体系の確立に際してそれに直接的な素材を提供するものではなかったにしても、近代学校体系を設立しようとする問題意識に、第一期との根本的な様相の相違が現れている。

 第三期の前半は学制制定の時期である。二十世紀になってから清政府は「新政」を実施し、教育改革の展開を促進させる法制上の途を開き始めた。教育改革中樞である開明派官僚らは伝統的科挙制度の代わりに、近代的教育制度を導入しようとした際、教育視察者の派遣を通じて、各国の教育制度を比較考察し、その「最善」のものを指標とする立場を堅持した。「中体西用」という西洋文明を取り入れる際の思想的枠組みがあったため、「中学」と「西学」を新たな教育の中で、いかに位置づけるかが極めて深刻な、実践的な課題として浮上してきた。新政を担う新たな人材の養成が緊急に迫られる中、教育改革を行わざるを得ないこととなったが、一方、改革がもたらすであろう思想的障害には深い懸念をもっていた。このような背景の下で派遣された教育視察者らは、明治教育の思想的基盤の形成の方法に深い関心を示し、日本の政体と教育制度との関連を重視し、清王朝の支配体制を維持・強化できることに合致しうることを優先的視点としていた。

 第三期の後半にあたる清末最後の六年間は新学制の実施及び改正の時期である。科挙制度が廃止されてから、清政府は普通教育の普及に力を入れ、新政発足当初の近代的行政のための人材養成から、国民の形成へと、教育の目的を転換させようとした。しかし清末における国民教育の普及はきわめて特異なもので、支配体制再建のための国民教化の役割を担うとともに、立憲制施行のための前提条件を構築しなければならないものであった。

 清末における義務教育の普及は、地方行政制度の改編による新たな学区設定をもって、義務教育政策を「上から」強制的に地方農村の隅々まで普及しようとするものであった。その際に、「地域権力の所在」であった官紳層の先導力が大きく期待された。分化・再編過程にある地域社会の官紳層の日本視察が学制の実施及び政策の地方浸透に、どんな役割を果たしたかについて、具体的な省・州・県・人物という個々の事例の追跡的な検討を通して、その視察の効果や役割といったいわば質的な側面をある程度明らかにした。

 中国と日本は教育近代化を行う過程において、近代的方法と伝統的意識との関係という問題に非常に敏感であった。それは近代中国や日本にとって、伝統の対極は単なる革新・進歩というだけではなく、革新思想は異文化である西洋文化として現れたからである。中国と日本における教育近代化は、自国の従来の思想や、価値観の再検討を必然的に伴うものであった。そこで直面した至難の課題の一つが、西洋の近代教育の受容と国家統合に必要なナショナルな意識をもった国民の育成という課題である。

 二十世紀初頭、中国の教育改革指導層が西洋の近代教育を導入する際に、模倣のモデルを直接西洋にではなく、日本においたのは、中国より三十年ほど早めに教育近代化を行った日本は、上述した至難の課題にどう対処し、解決したのかに注目したからであると考えられる。清末中国が日本から学ぼうとしたのは、日本がいかにして急速に西洋の近代的教育システムを「伝統文化」に接合したかという方法であったと思う。

 こういう意味から、本論文は、従来の、清末の教育改革は「日本を介して西洋に学ぶ」ものという定説に対して疑問を提起し、是正する試みを行った。清末最後の十年間に「日本型教育体制」が確立されたのは、一時的便宜な手段(日本に学ぶほうが経済的で、文化的に便利など)として、日本を媒介に西洋に学ぼうとするのではなかった。清政府は自国の伝統思想である儒教思想を保持しながらも、西洋の近代的学校制度を導入しようとする場合に、儒教主義修身道徳が保存された日本の教育制度に強く感銘を受け、それが中国の現実に最も適応するという見地から、明治中期以後の国家主義的教育方針、「教育勅語体制」をふさわしいモデルとして取入れたのであった。

審査要旨

 本研究は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、清朝末期の中国から日本に諸制度の視察に訪れた人々についての事蹟と記録を網羅的に博捜し、とくに清末に推進された教育制度の改革に着目して、それらの対日視察がいかなる動機と条件により実現したか、また、視察の成果がどのように活用され、その結果いかなる方向で改革が実施されるに至ったか、などの点を包括的に検討したものである。先行する関連研究では十分に明らかにされてこなかった問題についての、すぐれて開拓的かつ実証的な研究である。先行研究では、清末の日本留学生や、日本から中国に赴いた教師などを取りあげた研究は多数あるが、視察者に着目した研究は今までほとんど存在しなかった。著者は、日本の外務省記録や、都立中央図書館実藤文庫、および北京の中国科学院図書館などで、清末の日本視察に関わる記録・報告書・日記などの史料を多数発掘し、きわめて詳細な視察史を描き出している。

 本論文の構成を、まず、以下に紹介する。本論文は、序章における問題提起と先行研究の検討につづいて、全三部、全十章に分けて本論を展開し、終章において本研究の総括と今後の展望が提示されるという構成となっている。第一部は、清末の日本視察の概要を通史的にまとめ、第二部は、視察の成果と教育制度改革の関係を学制の新設という本研究の鍵となる主要な論点に即して分析し、第三部では、新設された学制が実施される過程について、代表的な事例を取りあげて検討し、全体として、均衡のとれた構成のもとで、よく整理された行論を展開している。

 第一部「清末中国人の日本遊歴の諸段階と特異性」においては、清末の日本視察の事例を時期を追って網羅的に紹介し、それぞれの特徴を分析する。まず、第一章「日清戦争前における中国人遊歴者の日本教育との出会い」では、初代の清国公使館員や清政府派遣遊歴大臣らの日本視察をとりあげ、清末の一部の官僚・知識人が、日本の教育近代化に対してとまどいを感じながらも、徐々に関心をよせはじめたことが指摘される。第二章「戊戌変法期の教育改革と日本教育の情報源」では、日清戦争後、康有為らの変法派の人々や中央・地方の一部の有力官僚が明治維新以後の日本の近代化に強い関心を持つようになったことを明らかにし、日本の義務教育制度を含む学制全般への関心の高まりと、とくに日本の軍事教育への着目を明らかにしている。第三章「近代学制導入への模索と日本学制取調べ」では、二〇世紀に入って清朝政府が本格的に政治制度の全面的な改革を推進した時期の日本教育視察のうち、清朝が「欽定学堂章程」ついで「奏定学堂章程」を公布し、科挙を廃止して、教育制度の近代化を一応達成した時点までの、さまざまな立場からの視察の事例が検討される。第四章「学制の実施と対日教育視察」では、一九〇六年以降、辛亥革命直前までの時期の、制度の面の改革を現実に実施していく過程においてなされた各級の教育行政官僚の日本視察が検討される。第五章「清末中国遊歴官紳の位相と日本側の対応」は、第一部全体のまとめにあたり、清末四〇年間の対日視察を概括するとともに、おびただしい視察者を受け入れた日本側の対応についても分析する。

 第二部「対日教育視察と中国近代学制成立への指標」においては、第一部でなされた検討をふまえて、清朝が教育制度の近代化を進めるにあたって、当該時期の対日教育視察がいかなる役割りを果たしたかが、政治体制改革の全体的な問題との関連において、明らかにされている。すなわち、第六章「張百熙の教育刷新と呉汝綸の渡日使命」では、管学大臣張百熙が京師大学堂総教習呉汝綸の日本視察の成果を取り入れて「欽定学堂章程」を制定するまでの経緯を、日本教育界の対応も含めて多面的に追跡し、近代国家の建設にとって教育制度の改革が不可欠の重要性をもつことへの痛切な認識に立脚して「欽定学堂章程」が構想されたことが指摘される。第七章「張之洞の学制推進とその限界」では、清末改革のもっとも重要な担い手の一人であった湖広総督張之洞の教育に対する考え方を追跡するとともに、その指導力のもとで、羅振玉らによる日本視察の成果を取り入れながら、新たに「奏定学堂章程」が公布され、ここに、清末教育改革における新制度の樹立については、一応の達成がみられたことを明らかにする。そして、ここに実現した「日本型教育制度」は、明治期の日本の教育制度への着目を軸に、いかにして近代的制度を中国文化の伝統的な価値体系と接合させるか、という課題を重視したものであったことが強調される。

 第三部「学制の地方浸透と対日教育視察」においては、制度的な整備が、教育の現場に現実にどのようなかたちで変革の波を及ぼしていったのかについて、代表的な事例を取りあげて分析が進められる。第八章「各省提学使一行の日本教育視察」では、新設された清朝各省の提学使による日本視察を分析し、それらの視察が清末の義務教育政策の実施に果たした役割が明らかにされる。第九章「直隷章の教育改革と官紳の東洋遊歴」では、清末の政治改革においてもっとも先進的な省として注目された、総督袁世凱のもとの直隷省の教育改革と、日本視察との関連を検討する。ここで著者が、直隷省各州県の郷紳層が教育行政改革との関連のなかで多数日本を訪問し、地方における教育の近代化の推進に重要な役割りを果たした事実を発掘したことは、学問的に大きな貢献である。第十章「通州張謇の日本教育考察と教育実践」では、清末に郷紳の主導した社会改革のもっとも代表的な事例の一つとしての、江蘇省南通の張謇が行った事業に着目し、張謇が日本の地方町村立小学校の現場視察の体験を生かしながら、江蘇省北部の農村に近代的な学校教育の導入をはかったことを明らかにする。

 このような考察をふまえて、終章においては、清末の教育改革における近代的な教育制度の導入が、直接的にも間接的にも、西洋をモデルとして行われたのではなく、日本の明治教育を指標として推進されたのはなぜかという問題について、著者の結論が提示される。すなわち、著者は通説を覆して、伝統的な文化や価値観の検討を不可避的にともなう近代教育の導入を迫られた清末の改革指導層は、伝統文化の維持と新たな国民的統合の達成という困難な課題に直面し、それゆえ、先行した日本が急速に西洋の近代的教育制度を自らの伝統文化に接合した方法に着目したのである、という本研究の結論を提示している。

 以上が、この論文の内容の概要である。この論文の意義および価値として、以下の諸点が挙げられるであろう。

 著者は、日本および中国において、清末の日本視察者の日記や視察記録をおびただしく発掘するとともに、日本の外務省記録や新聞報道、清朝政府の行政文書などによって、視察者の目的と視察経過を詳細にあとづけ、論旨に説得力を持たせることに成功した。

 本研究は、膨大な史料にもとづいて着実に事実を明らかにした実証的研究である。そうした着実な作業を通して、著者は、従来の通説的な理解では明らかにされなかった多くの重要な事実を提示するとともに、それらの成果を踏まえて、自らの主張として述べるべき論点を明示し、それらの論点について説得的に論理展開することに成功した。

 本研究は、20世紀初頭に清朝が教育制度の近代化を推進した際に、いわゆる「日本モデル」が採用されたことについて、「日本を媒介にして西洋に学ぶ」とする通説的理解を覆し、それは日本が実現している近代的教育への評価に由来するとともに、その明治教育への評価は、単に西洋近代への関心によるのではなく、むしろ自国の伝統的な文化の尊重という観点に由来しているという斬新な理解を明示した。

 さらに、この問題は、清末のみならず、中華民国の時期をも含んで、中国における「国民国家」の建設、ないし「国民統合」の達成に不可欠な「国民形成」のための教育改革とは、いかなるものであったかというより大きな問題を検討することに、展望を開くものといえる。本研究においてこのような展望を開き得た著者の学問的力量は、特筆に値するものと思われる。

 また、中央政府や有力地方大官が派遣した視察者のもたらす明治教育への評価が重要な契機となって、学制の新設が実現したことを明らかにするとともに、とくに直隷省の場合にみられるように、地方の郷紳層が改革の推進に果たした役割を詳細に明らかにしたことは、学界への大きな貢献といえる。さらに、このような事実の究明は、教育制度の変革にとどまらず、清末地方社会の変容を実証的に再検討するうえでも、新たな見通しを切り開く画期的なものである。

 総じて、本研究は、清末=明治期の日中文化交流・教育交流の歴史が、留学生の往来やお雇い教員の事蹟などをテーマとしておびただしい先行研究があるなかで、清国からの視察者の派遣という従来ほとんど明らかにされてこなかった分野を開拓し、研究の間隙を埋めるとともに、この分野の研究を大きく、かつ、確実に前進させる画期的な意義を有するものと評価できる。しかも、著者は、本研究を通じて、「国民国家」形成の問題、清末地方社会の指導層の問題などについて、新たに重要な視点を提示した。これらの点について、本研究においては、なお、必ずしも十分に議論が展開されているとはいえないところもあるが、今後の課題としての論点の提示として評価しうる。

 以上、なお議論を深める余地は認められるものの、これは本研究の価値と学界への貢献を減ずるものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

UTokyo Repositoryリンク