本研究は、清末中国の教育改革に関する研究の一環として、清末における日本教育視察に焦点をあて、中国第一歴史档案館所蔵「批奏摺文教類」、「学部案巻」及び日本外務省外交史料館所蔵の清国官民日本視察に関する未公刊史料を利用し、さらに同時期の視察者らが残した数多くの視察記録という第一次史料に基づき、中国の近代において行われた日本教育視察について、歴史的な展開過程を見ようとするものである。視察者らが日本の近代教育制度、その状況をどのように認識し、またいかなる視点から評価を下そうとしたのかを論究し、ついで、日本教育視察と中国最初の近代学制、教育宗旨の立案、制定及び実施との関連について、実証的に考察しようとするものである。 清末中国の教育改革は、日本教育の影響が大きく働いていることはほぼ定説になっている。清末における「日本モデルの教育改革」を考える時、日本教育を受け入れる主な媒介者--留学生・視察者・日本人教習--についての研究は不可欠である。これは明治日本の教育近代化に関する研究を見ても同じであるが、西洋教育移入の方途について、近代日本海外留学生・お雇い外国人教師・幕末維新期の遣外使節団・海外視察者への考察を通じて、極めて精密な、そして科学的な調査研究が行われてきた。 それと比べて、清末中国における日本教育移入の方途に関する研究をみれば、まず二十世紀初頭の中国人の日本留学に関する研究は戦前からすでに着手され、これまでにかなり豊富な研究蓄積が存在する。次に、同時期に中国に招かれた日本人教習についての研究も八十年代から行われ、中国でも、日本でも多くの研究成果があげられた。 しかし、日本の近代教育を受け入れる媒介者として重要な役割を果たした対日教育視察者及びその視察記録に関する系統的な研究はいままでほとんど行われておらず、空白状態となっているのが現実である。私は、清末における近代学制の成立及びその実施の過程を究明するには、当時日本に赴いた視察者の考察内容を無視してはならないと思う。清末の教育視察者たちは、伝統的科挙体制の下に、既に自己の思想を形成していた。彼等は日本教育取調べなどの政府からの命令で、日本へ赴き、日本社会に展開される教育実態を直接に観察・調査し、日本での学習体験を経て、東遊する前に持っていた翻訳書などによる初期の教育認識を修正し、具体化し、認識を深めた。その認識は、直接改革の中枢の政策決定に影響を与え、中国近代学制を創出する上で重要な要因をなしている。また、学制制定以後、地方教育行政を担当する末端官僚や郷紳の日本遊歴も学制の実施及び政策の地方浸透に大いに役割を果たした。視察者らの書いた調査報告書は、教育改革への動きが本格化する中、あいついで公刊され、学制の実施過程において全国各地方で参考資料として役立てられたであろうことも十分推測され、大きな歴史的意義をになったと思われる。 本論文は清末対日教育視察について、一八七一年(同治10、明治4)日清修好条規が締結されてから、一九一一年(宣統3、明治44)辛亥革命が勃発するまでの約四十年間を研究の範囲として限定し、さらに次の時期に分けて考察することにする。 第一期:一八七一年(同治10、明治4)日清修好条規・通商協定締結から、一八九四年(光緒20、明治27)日清戦争開始までの約二十三年間。 第二期:一八九五年(光緒21、明治28)日清講和条約(馬関条約)調印から、一九〇〇年(光緒26、明治33)義和団事件、八カ国連合軍の北京侵入までの五年間。 第三期:一九〇一年(光緒27、明治34)清朝新政開始、辛丑条約締結から、一九一一年(宣統3、明治44)辛亥革命までの新政十年間。 まず、この約四十年間にわたる中国人の海外視察の推移をみれば、日清戦争以前の時期における海外視察は渡航費用自弁による自発的遊歴が主流を成していた。そして、戊戌変法期、新政初期に至っては、中央や各省の督撫や各学校などがそれぞれ視察者を海外に送ったりして、そこに計画も規律もなく、場あたりの派遣という傾向が強かった。一九〇四年に制定された『奏定学堂章程』は新しい教育体系の統一的なビジョンを描いたもので、その中の海外遊歴に関する規定「奏定奨励官紳遊歴章程」も、海外視察についてはじめて体系的且つ包括的に整えられたものであった。この章程の公布は、中国人の洋行熱をますます高潮させるとともに、海外視察の整理に向かう一つのきかっけともなった。さらに、一九〇六年に学部が「京外官紳出洋遊歴簡章」を制定し、それによって、外洋視察派遣制度の整備が漸く進められ、清末の海外視察史において一時期を画するに至ったのである。 次に、対日教育視察に関する本論文における考察を通じて、各時期の主な特徴を以下の通り指摘する。 第一期の遊歴はいまだ公的な立場での大規模な海外視察は実施されていない段階にあり、中国人の日本遊歴は公用・商用・研究・観光などいろいろな形で展開されたが、日本教育に関する情報は、ある時は自費遊歴者の偶然の日本教育との出会いを契機に、またある場合は、時代の危機に対処するために、政府がやむをえず派遣した遊歴大臣が「夷狄の情」を探査することによって、収集され、流入した。もとより、それは清政府にとっては否応なしに組み込まれた国際的環境への弥縫策以上のものではなかったが、彼らもさまざまな外洋見聞をしたのであった。多くの自費遊歴者らの見聞の成果は、当時中国国内での政治風土のために、かならずしも直接的な形として活用されなかった。しかし、間接的には、一八九〇年代後半の戊戌変法運動による教育改革に前史的な基盤を用意したものであったと考えることができる。 第二期は日清戦争以後の五年間であり、維新派による「変法」と「興学」の提唱によって、諸外国、特に日本を手本に近代学校体系を設立しようとし、海外留学熱と同時に海外視察も高揚させる結果をうんだ。清末中国人の日本遊歴の中で、とくに日本学事視察が現れたのはこの時期のことである。近代的学校観の確立のための模索過程ということのできるこの時期の対日本教育視察に関する本論における考察を通じて指摘できることは、視察者によって収集された情報が、限界をもちながらも、学校制度の確立を期した積極性のある内容をもつ学校観となったということである。 この時期の視察者の成果は、なお、二十世紀初頭に構想された中国の近代学校体系の確立に際してそれに直接的な素材を提供するものではなかったにしても、近代学校体系を設立しようとする問題意識に、第一期との根本的な様相の相違が現れている。 第三期の前半は学制制定の時期である。二十世紀になってから清政府は「新政」を実施し、教育改革の展開を促進させる法制上の途を開き始めた。教育改革中樞である開明派官僚らは伝統的科挙制度の代わりに、近代的教育制度を導入しようとした際、教育視察者の派遣を通じて、各国の教育制度を比較考察し、その「最善」のものを指標とする立場を堅持した。「中体西用」という西洋文明を取り入れる際の思想的枠組みがあったため、「中学」と「西学」を新たな教育の中で、いかに位置づけるかが極めて深刻な、実践的な課題として浮上してきた。新政を担う新たな人材の養成が緊急に迫られる中、教育改革を行わざるを得ないこととなったが、一方、改革がもたらすであろう思想的障害には深い懸念をもっていた。このような背景の下で派遣された教育視察者らは、明治教育の思想的基盤の形成の方法に深い関心を示し、日本の政体と教育制度との関連を重視し、清王朝の支配体制を維持・強化できることに合致しうることを優先的視点としていた。 第三期の後半にあたる清末最後の六年間は新学制の実施及び改正の時期である。科挙制度が廃止されてから、清政府は普通教育の普及に力を入れ、新政発足当初の近代的行政のための人材養成から、国民の形成へと、教育の目的を転換させようとした。しかし清末における国民教育の普及はきわめて特異なもので、支配体制再建のための国民教化の役割を担うとともに、立憲制施行のための前提条件を構築しなければならないものであった。 清末における義務教育の普及は、地方行政制度の改編による新たな学区設定をもって、義務教育政策を「上から」強制的に地方農村の隅々まで普及しようとするものであった。その際に、「地域権力の所在」であった官紳層の先導力が大きく期待された。分化・再編過程にある地域社会の官紳層の日本視察が学制の実施及び政策の地方浸透に、どんな役割を果たしたかについて、具体的な省・州・県・人物という個々の事例の追跡的な検討を通して、その視察の効果や役割といったいわば質的な側面をある程度明らかにした。 中国と日本は教育近代化を行う過程において、近代的方法と伝統的意識との関係という問題に非常に敏感であった。それは近代中国や日本にとって、伝統の対極は単なる革新・進歩というだけではなく、革新思想は異文化である西洋文化として現れたからである。中国と日本における教育近代化は、自国の従来の思想や、価値観の再検討を必然的に伴うものであった。そこで直面した至難の課題の一つが、西洋の近代教育の受容と国家統合に必要なナショナルな意識をもった国民の育成という課題である。 二十世紀初頭、中国の教育改革指導層が西洋の近代教育を導入する際に、模倣のモデルを直接西洋にではなく、日本においたのは、中国より三十年ほど早めに教育近代化を行った日本は、上述した至難の課題にどう対処し、解決したのかに注目したからであると考えられる。清末中国が日本から学ぼうとしたのは、日本がいかにして急速に西洋の近代的教育システムを「伝統文化」に接合したかという方法であったと思う。 こういう意味から、本論文は、従来の、清末の教育改革は「日本を介して西洋に学ぶ」ものという定説に対して疑問を提起し、是正する試みを行った。清末最後の十年間に「日本型教育体制」が確立されたのは、一時的便宜な手段(日本に学ぶほうが経済的で、文化的に便利など)として、日本を媒介に西洋に学ぼうとするのではなかった。清政府は自国の伝統思想である儒教思想を保持しながらも、西洋の近代的学校制度を導入しようとする場合に、儒教主義修身道徳が保存された日本の教育制度に強く感銘を受け、それが中国の現実に最も適応するという見地から、明治中期以後の国家主義的教育方針、「教育勅語体制」をふさわしいモデルとして取入れたのであった。 |