本研究の目的は、高齢者の生活空間の分析を通じて、高齢者問題の地域性を明らかにするとともに、市町村を主体とした高齢者保健福祉の推進という現在の高齢者行政の基本方針の妥当性を検討することにある。 現在、わが国では人口の高齢化が急速に進展しており、約30年後には、国民の4人に1人が65歳以上の高齢者となる超高齢社会に突入することがほぼ確実であると予測されている。また、変化は人口の量的な側面にとどまらない。高齢者の属性面でも都市居住者の比率の上昇、高学歴化、職業経験のホワイトカラー化が進み、社会サービスの需要者および供給者としての高齢者の姿が変容する。このような人口構造の急激な変化は、生産年齢人口の割合が相対的に高い時代に制度化された既存の社会・経済の諸システムの再編を要請するものである。 高齢化の進展に伴って、さまざまな分野の学問が高齢者研究に参入し、高齢者の生活のさまざまな側面について研究が進められてきている。しかし、介護や年金制度等これまで関心を集めてきた対象が空間性に乏しかったために、高齢者問題や高齢化社会問題が地理学の課題として注目されることは少なかった。そのために、高齢者問題の地域性や高齢者の活動の空間的な範囲についての把握が遅れているが、このことが高齢者政策の不効率につながる恐れがある。 そこで、本研究では高齢化の状況、高齢者の属性や高齢者を取り巻く社会的な環境が対照的である大都市圏郊外地域と農山村地域を事例地域として選定し、アンケート調査によって高齢者が日常的な生活活動を行い、社会関係を構築している空間的範囲である生活空間を抽出する。そして両地域における生活空間を比較検討することによって、高齢者問題の地域性を明らかにし、それを踏まえて現在の高齢者政策を批判的に検討する。なお、事例地域には、大都市圏郊外地域に神奈川県横浜市と埼玉県越谷市、農山村地域に岐阜県大野郡清見村と沖縄県国頭郡大宜味村根路銘部落を選んだ。 図表 第1章では、わが国における高齢化の状況、高齢者政策の動向を概観し、地域性を踏まえた高齢者政策が目指されてはいるものの、現在のところは必ずしも目標が達成されていないこと、及び、市町村を主体とした高齢者行政を推進していくためには、その方針の根拠となっている「住み慣れた地域」がどこであるのか、そして、人口規模、空間的領域などの面で全く条件の異なる市町村を一律に高齢者保健福祉の主体とすることが可能であるか、について検討する必要があることを指摘し、本研究の目的を明らかにした。 調査の分析に先立って第2章では、多岐にわたる既存の高齢者・高齢化社会研究の中から、地理学や社会老年学およびその隣接分野において、高齢者を空間的に分析している研究、及び、高齢者問題の地域性や高齢者と地域社会との関係など、地域や地域性に関して明示的に言及している研究について整理した。欧米の地理学においては高齢者の生活空間に関する研究の蓄積があるものの、日本においてはほとんど行われていないこと、高齢者問題の地域性については論点は挙げられているものの、具体的な裏付けに欠けていること等から、本研究の意義について明らかにした。 第II部では、大都市圏郊外地域の高齢者の生活空間と定住意志の分析をした。 まず、第3章では都市高齢化に関する既存研究を概観した。都市の高齢者が農山村の高齢者、及び、従来の高齢者像とは異なる存在であることが強調され、都市高齢者の特性に対応した新しい高齢者対策の必要性を説く研究が多いものの、その多くは予察的な指摘にとどまっている。高齢者の属性の変化だけでなく、属性の変化が高齢者の生活にどのような変化をもたらしたのか、今後もたらすのか、について分析を進める必要がある。 第4章では横浜調査の分析を行なった。横浜調査では、高齢者の生活活動のなかから、高齢期の生活において重要な意味を持つと考えられる余暇的活動に着目し、アンケート調査によって高齢者が余暇活動を行なうにあたって取り結んでいる社会関係の空間的な範囲を抽出した。これを「関係空間」と呼ぶ。そして、高齢者の属性が「関係空間」の構成に及ぼす影響を検討することによって、男性の転入者は脱地域的な関係の比重が高く、地域的な関係を形成しにくいこと、女性の転入者の場合は属性に関わらず地域的な関係を構築しており、その傾向は後期高齢者や居住歴の短い人に顕著であること、他方、地付層の場合は男女ともに緊密な近隣関係を取り結んでいることが明らかになった。さらに、代表的な事例についてライフコースの進展に伴う生活空間の変容についてインテンシブな聞き取りを行ない、郊外地域の高齢者に特徴的な問題点として、ライフコースの進展に伴う生活空間の断絶を指摘した。 第5章で取り上げた越谷調査では、横浜調査の知見を踏まえて、分析の対象を生活必需的な活動にも広げ、より大量のアンケート調査を行った。その結果、高齢者の生活空間は市レベルに相当する「地元」が中心であることが判明し、市町村主体のサービスの提供が高齢者の生活空間と整合していることが確認された。しかし、今後、増加が予測されるホワイトカラー、高学歴、地元以外の出身の高齢者の場合は生活空間が市域を超えて東京まで広がっているが、「地元」において社会関係を構築していない人が少なくないことが明らかになった。従って、高齢者の属性の高学歴化、ホワイトカラー化が進み、転入者が増加することによって、地域社会において社会関係を構築していない高齢者が増加する可能性が指摘できる。 また、属性と定住意志をクロス分析した結果、現時点では高齢者の7割が現在の居住地に定住意志を持っていることから、当面は市町村主体、住み慣れた地域重視の政策妥当であることが検証された。一方、高齢になってから転居してきた人の場合には定住意志を持つ人の割合が低いが、「地元」において社会関係を構築している場合には定住意志を持ちやすい。このことから、地域社会における社会関係の構築が、居住年数の短さ、借家居住、子供との別居など定住意志の形成に不利な条件を補うものであることが読みとれる。 第6章では2つの調査の分析結果を受けて、ライフコースの進展に伴う生活空間の断絶に適応するためのサポートの必要性を指摘し、いくつかの可能性を提示した。一方、今後高齢者の属性の高学歴化、ホワイトカラー化、転入者の増加によって地元に社会関係を構築していない高齢者が増加するならば、現在の居住地に定住意志を持たない人が増加する可能性が考えられる。その場合には、従前の「住み慣れた場所」の支援機能を期待する政策ではカバーできない高齢者が増えることが予想される。 第III部では、高齢化の進行状況および高齢者を取り巻く状況が異なる2つの地域を取り上げて、農山村地域における高齢者問題について検討した。 第7章では、農山村の高齢者問題に関するこれまでの議論から、2つの論点を導出した。一つは小規模市町村におけるサービス供給の問題であり、もう一つが過疎地域において高齢者の生活を支える仕組みを明らかにすることである。 第8章では清見調査の分析を行った。清見調査では、高齢者の生活実態と生活空間に関するアンケート調査、及び、清見村を含む飛騨広域市町村圏における高齢者保健福祉行政の動向の調査を行った。アンケート調査の結果、清見村は広域中心都市である高山市に近い中山間に位置していることもあり、ある程度以上健常な高齢者の生活空間は村域を越えて高山市に広がっていることが明らかになった。これは、自動車免許の保有率の高さによるところが少なくないと考えられる。ただし、高齢者の生活空間が村域を越えて広がってはいるが、行政上の広域圏である郡の広がりと一致しているわけではない。これらの知見と行政の動向をすりあわせることによって、広域行政の範囲が高齢者の生活空間と一致していないという問題点が明らかになった。 第9章では、根路銘調査の分析を行った。根路銘部落はすでに高度に高齢化が進展している沖縄県の過疎村である。根路銘調査ではライフヒストリー地域社会への関与、子供との関係、住居や農地などの財産の保有状況についてインテンシブな聞き取り調査を行った。その結果、高齢者にとって根路銘部落に居住することが、生活コストを低減し、相対的に低い年金収入を基礎とした生活を可能にすること、緊密な地縁・血縁関係に基づくサポートが期待できること、家屋敷・農地、墓の管理といった親族内での役割を果たすことによって生きがいを得るなどの生活戦略に基づく選択であることが判明した。また、高度に高齢化した社会を支える仕組みとして、現在は部落以外に居住しているが、折に触れて帰省し、家族内部や地域社会において何らかの役割を果たしている部落出身者(ここではパートタイム住民と名付けた)の存在意義が明らかになった。さらに、家族内部におけるインフォーマルなサポートを超えた、都市地域に住む非高齢者と過疎地域に住む高齢者の間における半社会的な経済的・人的資源の移転のシステムとして「郷友会」の役割の重要性が明らかになった。 最後に第IV部第10章では、以上の分析を受けて、高齢者を取り巻く状況の地域差を整理した上で、生活空間の視点から見た高齢者問題の地域性を整理した。都市地域においては、加齢に伴う生活空間の変容に適応するためのサポートが求められるが、その際に高齢者の生活空間が市レベルの広がりを維持していることがあまり政策に反映していないという問題がある。一方、農山村地域では広域施設の効率的な立地などの問題がある。このような地域性をふまえた、よりきめ細かい空間政策としての高齢者福祉施策の立案が求められる。 |