学位論文要旨



No 111618
著者(漢字) 橋本,敬
著者(英字) Hashimoto,Takashi
著者(カナ) ハシモト,タカシ
標題(和) 動的ネットワークにおけるコードとコミュニケーションの進化
標題(洋) Evolution of Code and Communication in Dynamical Networks
報告番号 111618
報告番号 甲11618
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第81号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池上,高志
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 教授 甘利,俊一
 東京大学 助教授 山口,和紀
 東京大学 助教授 牧野,淳一郎
内容要旨 1イントロダクション

 この論文では、記号の使用方やその解釈の体系を「コード」と呼ぶ。ある組織などにより規定されたものではなく、自発的に発生するコードは動的に変化しうる。その運動には、幾つかのコードが共存する事(mixture of code)と論理的に閉じたコードがつくれない事(openness of code)が影響を与えるであろう。この論文では、言語におけるコードと遺伝コードの進化についてモデル化し、その創発、進化を論じる。

2形式文法システムの進化

 言語のコードを事前に書き下す事はできないが、事後的に言葉の使用について記述する事は可能である。しかし、この記述は常に変化しうる。言語コードはコミュニケーション自体による変化をまぬがれ得ないであろう。

 言語コードの進化を研究するために、会話を行う個体のネットワークを考える。各個体(エージェント)は形式文法を持つシステムとして定義される。エージェントがそれぞれの文法に基づいて語を発し、全エージェントが発話された語の理解を試みる(会話ネットワーク)。このネットワークで、語の発話・受理に応じた得点が与えられるある種のゲームを行う。文法の変異過程により一部のエージェントが得点に応じて新しいエージェントに置き換えられるという、進化ダイナミクスを導入する。

 あるエージェントの計算能力は、受理可能な語の集合の大きさで測られる。また、あるエージェントの処理する情報量は発した語の長さと理解した語の長さの積と定義し、ネットワーク内を流れる情報量は、その平均で測る。語の多様性は発話された語の種類とする。

 得点は、より多くの語を発話・理解できると上がり、他のエージェントに理解されると少し下がるという設定にする。初期状態としてランダムに作った計算能力の低い文法(チョムスキー階層では正規文法に属する)を持つエージェントを10個体つくる。計算能力、ネットワーク内を流れる情報量、語の多様性は時間的に増大する傾向にあるが、あまり変化しない部分と急激な発展が交互に現れるという断続平衡的な様相を呈する。

 平衡するところでは、共語集団(ensemble with common set of words,以下ECW)が形成されている。ECWとは同じ語を発話・理解しあうエージェントの集団である。すなわち、ある特定の語の使用が選ばれており、コードが自律的に形成されたと見ることができる。異なる2つのECWが存在する時、高い能力のエージェントにより構成されるECWが淘汰される場合がある。より多く話される共語を発話・理解できないエージェントは、たとえ高い計算能力を持っていても淘汰される。ECWの共存(mixture of code)により高い計算能力への進化は抑制されるのである。

 ほかのエージェントより多くの語を発話・理解するエージェントが有利な場合には、ECWがつぎつぎに現れるというコードの進化が起きる。理解しあう事が非常に有利である場合は、一つのコードができるが、コードの進化は起きず、語の多様性とネットワーク内の情報は低いレベルに留まる。逆の状況では、語の多様性は上がるが、情報の流れは低い。これはコードが成立せず、相互理解なしに多くの語が発せられている状態である。

 計算能力の急激な発展は2種類の機構によりもたらされる。一つはモジュール型進化である。これは、一つの新しいルールをモジュール的に使う事で、多くの新しい文を発話・理解できるようになる発展過程である。自然言語との関連で考えるならば、接辞による語形成に対応するであろう。もう一方はループ構造の出現である。文法内にループを持つことで再帰的な書き換えが可能になり、原理的には無限個の語を発することができる。これは文法の構造的な変化であり、アルゴリズム的進化と呼ぶ。これは、複文を作る事により一つの文で長く豊富な記述ができることに対応する。ループを含む文法はチョムスキー階層において文脈自由のクラスに属し、初期の正規文法より一つ上のクラスである。すなわち、チョムスキー階層をのぼる形の進化が起きている。

 ECWによる進化の抑制と、これらの文法の進化が交互に起きることで、断続平衡的な進化が見られるのである。

3テープとマシンの共進化

 遺伝情報系におけるコドンとアミノ酸の対応がわかっても、ある遺伝子型がどのように表現型に発現するかは完全にはわからない。このレベルでは、情報の解釈側の役割が重要である。また、遺伝コードはシステムが自己複製可能なように組織化されなければならないが、自己複製には自己言及のパラドックスがある。つまり、自己複製のために自己を観測せねばならず、観測に対して安定でないものの複製は困難となる。ノイマンはマシンとその記述により自己複製オートマトンを構成した。

 自己複製を可能にする遺伝コードがどのように進化するかを見るために、ここでは、テープとそれを読むマシンのネットワークを考える。テープは円形のビット列で、マシンの記述となっている。マシンはテープを解釈し、新しいテープとマシンをつくる。マシンによってテープが書き換えられる事を「能動的ミューテーション」という。また外部ノイズにより確率的にテープ上の記号が変化することは「受動的ミューテーション」と呼ばれる。

 外部ノイズの上昇により、最小自己複製ネットワークから大きな複製ネットワークへの進化が見られる。外部ノイズが低い場合は、能動的ミューテーションなしで自己複製する、一対のテープとマシンによる最小のネットワークが安定に存在する。受動的ミューテーションによりパラサイト的ネットワークができ大きなネットワークへと進化していく。外部ノイズがある程度大きくなると、大きく複雑なネットワークへの転移が起きる。この転移後は外部ノイズなしでもネットワークは安定にその構造を維持する。この自己維持ネットワークを「コアネット」と呼ぶ。これは個々のテープ・マシンの自己複製から、大きなネットワークが全体として複製する状態への進化である。このネットワークでは、能動的ミューテーション率(A)が高い値に保たれる。Aの値はマシンがテープを書き換える率である。これを計算を行っている程度と見ると、おおきなネットワークの維持のために計算が行われているという見方が可能である。コアネットにおけるAは固定点だけではなく、時間的に振動するものもある。

 コアネットには幾つかの自己触媒的なネットワークが埋め込まれている。自己触媒ネットワークには、テープが個々に複製されているものと、そうでないものという2つの種類がある。前者は、アイゲンらのハイパーサイクルと同じものであり、A=0である。後者はテープとマシンの両方が相互につくりあうループをなしており、A>0である。このタイプでは、非等方的な結合をもつ大きな自己触媒ネットワークが安定に存在できる。

 振動するコアネットでは、Aやマシン、テープの数が振動するだけではなく、ネットワークのトポロジー自体が時間的に変動する。ある時は少数の小さな自己触媒ループでネットワークが構成されるが、その後大きなループが多数存在するようになり、また少数の小さなループに戻るという時間的な変動を順周期的に繰り返す。

 マシンはテープを解釈し新たなマシンをつくる。この解釈の仕方の体系がこのシステムでの遺伝コードに対応するものである。固定点のコアネットではコードが組織化され安定に存在している。ひとつのコアネットを構成する異なる自己触媒ループでは同じテープから違うマシンがつくられる場合もある。振動コアの場合はコード自体が時間的に変動するのだが、これは「閉じたコード」をつくれていないと見れる(openness of code)。すなわちあるコードに基づいた解釈をする事自体がネットワークを不安定化させている。

4結論

 言語的コードの進化の研究において、語の使い方が選ばれるというコードが生じた。また、チョムスキー階層をのぼるかたちの進化が起きるが、二つのコードの対立で高い計算能力への進化が抑制される。「より多くの語を発話・理解したい」という要請が、コードの進化につながる事がわかった。進化と、コードの成立によるその抑制は断続平衡的な発展を生み出す。

 遺伝的コードの進化の研究においては、多くのテープとマシンが相互につくりあう事により大きなネットワークが全体として自己複製するコアネットが進化した。そこでは、マシンによるテープの解釈というコードが全体として自己複製が可能なように組織化されている。また。ネットワークのトポロジーが時間的に変動する振動コアネットができるが、これは閉じたコードがつくれない事によって生み出される振動である。論理を閉じれない事による運動は、力学系の新たな見方を提示するものである。

審査要旨

 論文提出者は博士論文において、進化というものがいかにして生じるかという問題を特に言語や遺伝子といった「コード」の進化という視点からモデル化を行い、文法や遺伝子の進化と多様化の機構について新しい知見を得ることに成功した。この論文では単に計算機で生命進化の疑似現象をシミュレートするだけでなく、進化の力学に対し新しい理論的土台を与えようという意味で非常に画期的なものである。

 主論文は全4章からなる。第1章は序論であり、コードという考え方がいかに進化を考えるときに鍵となりうるかが言語と遺伝情報を比較対照しながら論じられている。

 第2章では、形式文法の起源と進化に関する具体的なモデル設定とその解析が行われている。言語の計算機モデルとして01のビット列という抽象的な文を生成しそれを受理することで会話をする個体集団のモデルを提案した。さらに会話に対して簡単なゲームを設定し、個体は自分の持つ文法をそのゲームでより得点を得られる文法へと変化させることができるとした。

 その結果、文法の進化の仕方には2種類あることが明らかにされた。ひとつは文法が再帰的な構造を獲得することで語の受理能力を増加させる過程である。これはチョムスキーが提唱する文法階層の下層から上層へと昇るダイナミクスを、具体的な形で初めて示したものとして評価できる。もうひとつは、モジュール語の生成とそれによる進化の発見である。これはモジュール語を生成し、それを他の語と組合せることで文の多様性を増す過程である。先のチョムスキー階層に照らしあわせると、同一階層内での文法の進化を表現している。遺伝子の進化にみられるこのようなモジュール進化が言語にもみることができるという知見は新しいものでこのモジュール語は自然言語における接辞語に対応するものと考えられる。

 さらに集団内にみられる語の多様性を時間的に追いかけることで、それが断続平衡的な振舞いを示すことが明らかとされた。断続平衡とは例えば進化が連続的に生じるのではなく、大きな進化と小さな進化が階段的に生じるということである。実際の生物の形態進化に断続平衡的なものがみられたかどうかは議論の余地があるが、抽象的な言語の進化にも見られるという発見は少なくとも断続平衡が進化に伴う普遍的現象であるということを示唆する点で重要である。しかし断続平衡を与える機構はさまざまであろう。ここでは共語集団の形成が断続平衡をもたらすことが示された。共語集団とは、共通の語を理解し発話しあう個体の集団である。より多様な語を会話するよりある特殊な話を会話する集団が出現することで進化の道筋は制限され特殊化する。いったん共語集団が形成されると、今度はその共通語を解した上でより多様な語を発話する個体が有利となる。この繰り返しを断続平衡を生む機構のひとつとして新しく提案することに成功した。

 第3章では、遺伝的コードの起源と進化に関する具体的なモデル設定とその解析が行われている。生命のひとつの特徴である自己複製は、安定な自己記述コードの発明が不可欠であることが古くフォンノイマンによって指摘されている。この自己記述コードとは現在のDNA分子の保持する情報に相当するものと考える事ができる。システムは自己記述が読まれることによって複製が可能となる。いままでの研究では読み手によって異なる解釈が与えうるという記述コードの持つ本質的な性質は扱われて来なかったし、異なるものを記述するコードが多様に共存する状態は扱われてこなかった。この論文で初めて、いくつかのマシンの集団が記述コードをそれぞれに解釈して(書き換えて)新しいいマシンと記述コードを作る状況がモデル化された。記述コードは01の円環ビット列、解釈するマシンは固有の書き換え規則を備えたチューリングマシンとして表現されている。シミュレーションではマシンが記述コードを解釈する際に外部的なノイズにより間違いを起こすと考えそれがどう影響を及ぼすかに焦点があてられた。

 その結果、外部ノイズの上昇とともに自己複製を行いうる1対のマシンとその記述コードは不安定となり、複雑な複製ネットワークを進化させて安定化することが示された。複製ネットワークでは、マシンが自分の記述コードを複製するのではなくネットワークを構成する他のマシンが自分のコードを複製してくれるという相互に記述しあう構造になっている。いったんこの複製ネットワークが出現すると、外部ノイズを取り除いても多様なマシンの複製が保たれるし、ノイズ下でもある決まったマシンと記述コードの集団を複製しつづける。そこでこの複製ネットワークを支える内部に出現した自己触媒的構造を特にコアネットと名付けている。このコアネットの特徴として、記述コードの書き換えが頻繁に行われている点が挙げられる。これは記述コードを複製するだけで書き換えることのないアイゲンらのハイパーサイクルモデルとは質的に異なる新しいものである。

 最後の章では、上の二つの結果が要約され今後の研究の方向性が具体的に述べられている。例えば2章に対応して外界の文節化としてのコードの研究、3章に対応して免疫系における自己非自己のラベルとしてのコードの研究があげられている。従来の研究では扱いの難しいこれらのテーマに、この論文で展開されたようなモデル化がどのくらい効果的であるか、待たれるところである。

 2、3章それぞれの内容はともに論文が専門誌に掲載が決定しており、またいくつもの国際会議で結果が発表され国際的にも注目を集めている。以上のように論文提出者の研究はコードの生成と複製という視点を全面に出して、進化の理論的研究において新しい方向を切り開いたものであり、いままでモデル化が困難であり一般的な理論がつくられにくい進化の力学という分野に方向性と基本的考え方を与え、その意味できわめて独創的な貢献をもたらしたものと認められる。

 以上の点から本論文は博士(学術)の学位論文としてふさわしいものであると、審査委員会は認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54494