学位論文要旨



No 111624
著者(漢字) 鹿子木,宏明
著者(英字)
著者(カナ) カノコギ,ヒロアキ
標題(和) 多準位系での光学暗共鳴
標題(洋) Optical Dark Resonance in multi-level systems
報告番号 111624
報告番号 甲11624
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博総合第87号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 遠藤,泰樹
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 助教授 清水,明
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 桜井,捷海
内容要旨

 シュレディンガー方程式に従う量子系の電磁場中での振る舞いを理解するのには、二準位系と単一輻射場の単純なモデルが広く用いられている。また、実際には多準位系多輻射場のケースでも、いくつかの独立した二準位系が組み合わさったとして解析を行うことが多い。例えば図1(a)のような二つの輻射場を含む二重共鳴実験の場合を考える。この系の励起準位からの蛍光量、つまり励起状態のpopulationは、二つの二準位系(基底状態間、および励起状態と基底状態の間)がともに共鳴状態になったとき最大になるというわかりやすい理解が可能である。この場合、片方の輻射場の周波数を固定しもう一方の周波数を掃引すると、シングルピークのスペクトルが得られると期待される。しかし、図1(a)のさらに細かい準位構造(ゼーマン副準位)と選択則を考慮すると、この系は図1(b)のような9準位8輻射場の問題になる。(ここで幅射場には適当な偏光を仮定した。)果たしてこの系の蛍光スペクトルはどのようなものになるだろうか。図1(b)においてRF場の周波数を固定し、レーザー光の周波数を掃引したときの蛍光スペクトルを数値的に求めたのが図2である。(この図は単純に多準位の光学的Bloch方程式の定常解を解くことで得られ、特殊なものでは全くない。)スペクトルの概観は確かに期待されたシングルピークだが、共鳴点付近で複雑な構造が存在しているのがわかる。本研究の最も有効な結果の一つは、任意の多輻射場中の任意の多準位系原子の持つこのスペクトル構造の解析的な予測が初めて可能になったということである。

 蛍光スペクトルは、本質的に輻射場によるPumpingと自然放出によるDecayの釣り合いによって決まる量であり、緩和過程を無視した計算から得られることは無い。この緩和項の存在はBloch方程式の対称性を崩すため、任意の多準位系の一般的な理論を展開することは難しい。例えば、3準位+2輻射場系の蛍光スペクトルの(長大な)解析解すら1975年になって初めて得られた[1]。また、これまでの一般論としては、電場強度と離調周波数に特殊な条件を課したものだけが存在している。しかしこれらの理論は、例えば図2を説明することすらできない。

 さて、図2に見られるDipはDark Resonance(もしくはAnti-resonance,Inverse-Raman resonance,Trapped state,Population trapping等)と呼ばれる多光子過程であることが本研究により明らかになった。Dark Resonance(以下DR)そのものはA型の3準位+2輻射場系で初めてあらわれる現象であり、文献1の解析解を用いてBrewerらによって説明された[2]。DRは自然幅よりもさらに狭い共鳴線幅を持っていて、応用は高精度分光に留まらず、自然放出による反跳限界以下の原子トラップ等に広く利用されている。面白いことに、この現象は2準位、V型あるいはカスケード3準位では起こらない。本研究ではエネルギー準位+輻射場のconfiguration(ネットワーク図)とDRが生じるかどうかの関係、及びそのときの暗線の本数の関係を定式化した。例えば図1(b)では15本の暗線が図3の位置に現れることが解析的な計算で示され、density matrixのHamiltonian行列が81×81の大きさを持つこの系の数値計算を行う必要は無くなった。また本研究によると、数値計算では解りにくいスペクトルの微細構造を明らかにすることができる。図3の数値解からは5ないしは7本の暗線構造しか判らないが、実はそこには15本の微細構造が存在していた。このように、1光子近似を用いたシングルビークの輝線構造と、本研究により得られる多光子過程の暗線構造を合わせることで、任意多準位系の呈する図2のようなline shapeはただちに予測が可能となった[3]。

図1図2図3

 また、DRはもともと中性原子のレーザー冷却の極限温度を決める現象として注目を集めていた。本研究はDRの現れる周波数を解析的な形で提供するため、冷却原子の幅射場によるマニュピレーション、高精度衝突実験を行なう際の最も基礎的な理論面での予測を与えるものである。

 次に、実際にDRを実験に応用する場合、DRの共鳴幅を決める要素及びそのtransientな振る舞い等を調べる必要がある。Brewerらの報告[1]以降、3準位以上のline profileの完全な(つまり全てのパラメータを含んだ)解析は行われていなかったが、本研究では5準位系+4輻射場の系の完全な(非常に長い)解析解を初めて得た[4]。特に5準位系は中性原子トラップ実験への応用が有望でしかも実験的に得やすい系(核スピンI=3/2を持つアルカリ原子)であり、現在我々の研究室で進められている4準位系の解析に先駆けて行われた。そしてDRの共鳴幅が解析的な形で求められ、3準位系でのDRに比べて5準位系のDRは、その共鳴幅が次の比で狭いということがわかった。(ここではレーザー光及びRF場の共鳴ラビ周波数)

 

 これは物理的には、暗共鳴状態への"遷移"強度が、暗線の分裂によって小さくなるためと考えられている。この、強い輻射場中でも共鳴幅が狭く保たれる性質は、トラップ実験などへの応用に特に役立つと思われる。また、系のtransientな振る舞いを数値計算により求め、DRの収束時間はその共鳴幅の逆数によって決まることも確かめられた。

 最後に、DRの新しいブランチの実験的な観測を初めて行った[5]。図4がその実験図である。前述の5準位系をK39により得た。対称な形を持つ5準位系の特殊性(ドップラーシフトしないDR位置)から、光と原子ビームを平行に照射してもDRが検出できるため、観測に必要な長い相互作用時間を確保することができ、通常の観測に必要な原子トラップやレーザークーリングを用いなくともよかった。また5準位系のline profileの解析解から得られた、DR検出のための相互作用時間の下限、レーザーの線幅の下限、およびRFパワーの(criticalな)許容範囲を求め、注意深く実験を行った。図5がその実験結果であり、RFパワーの見積もり誤差を考慮すると前出のDR位置の理論的予測とほぼ一致した。

図4図5

 実験で検出されたDRのディップの浅さは、主として相互作用時間の不足にあると考えている。そのため、研究の次の段階として、カリウム原子を用いたレーザークーリングを実現し[6]、DR実験やトラップ実験への応用を考えている。半導本レーザー光にRF周波数変調をかけ、そのサイドバンド光をリポンプ光に用いることで、比較的簡単にカリウム原子のレーザークーリングを行うことができた。実験結果から、0m/sおよび320m/sの速度分布に大きなピークを作ることができた。この技術により、ms程度の相互作用時間を得ることが期待でき、DR実験への応用が期待される。

 [1] R.G.Brewer and E.L.Hahn Phys.Rev.A 11 1641(1975)

 [2] E.Arimondo and G.Orriols Lett.Nuovo Cimento 17 333(1976)

 [3] H.Kanokogi and K.Sakurai submitted to Phys.Rev.A

 [4] H.Kanokogi and K.Sakurai in press on Phys.Rev.A(Mar.1996)

 [5] H.Kanokogi and K.Sakurai in preparation

 [6] H.Kanokogi,H.Numata,T.Mitsui and K.Sakurai not published

審査要旨

 2つの輻射場が相互作用しているラムダ(∧)型3準位系では、2つの輻射場が共鳴条件を満たしたときに、上準位からの蛍光強度がゼロとなる暗共鳴(Dark Resonace)を示すことが知られている。この暗共鳴の共鳴幅は自然幅よりも著しく狭く、高分解能分光学や1光子反跳限界以下の極超低温レーザー冷却で強力な実験手段となっている。また、多数の強光電場下の多準位系の特異な光応答により反転分布を用いないレーザー発振の実現などが試みられている。本論文提出者は、5準位系が2つの光電場と2つの高周波電場に共鳴するときの暗共鳴に関して理論的・実験的に研究し、さらに、その発展として多準位と多数の輻射場が相互作用するときの暗共鳴の一般論を展開している。本論文はレーザー冷却の実験技術や多数の強光電場下の多準位系の特異な光応答の解明に寄与するものである。

 第1章は論文の序章で、これまでに行われていた関連研究のレビューおよび多重量子遷移の観点から見た暗共鳴に関して著者の研究の立場から解説してあり、あわせて本論文でなされた研究全体の解説となっている。その中で、通常の原子の3準位系の2重共鳴を例に取り、強輻射電場下では、2重共鳴と見える系でも多準位系での多重暗共鳴線が現れることを指摘している。そして、本論文の解析方法によれば、任意の多輻射場中の任意の多準位系原子が示す複雑な暗共鳴多重線の微細構造を簡単に解析できると主張している。

 第2章は、申請者が行った5準位+4輻射場における暗共鳴の理論的・実験的研究の記述に当てられている。暗共鳴は中性原子のレーザー冷却の極限温度を決める実験技術として注目を集めている。本章の理論的研究は暗共鳴の現れる周波数を解析的な形で提供するもので、筆者が観測した多重共鳴実験の実験事実を説明するのに加え、冷却原子の輻射場によるマニュピレーション・高精度衝突実験などを行なう際の最も基礎的な理論面での予測を与えるものである。

 著者は、後述のカリウム原子線の多重共鳴実験の蛍光スペクトルに現れた暗線を説明するため、2つのレーザー光と2つの高周波電場が加えられた5準位原子系を回転波近似を用いた光ブロッホ方程式より解析している。定常状態の密度行列の長大な解析解から、この系の暗共鳴の条件をレーザー光と高周波電場の離調度、それらの強度の関数として求めた。また、暗共鳴の線型、その共鳴幅も決定できた。通常の3準位系での暗共鳴と異なり5準位系の暗共鳴は、その共鳴線が3重に分裂し、その幅が3準位型の約0.8倍と狭くなることがわかった。これは物理的には、暗共鳴状態への"遷移"強度が、暗線の分裂によって小さくなるためと考えられる。強い輻射場中でも共鳴幅が狭く保たれるこの性質は、トラップ実験などへの応用に特に役立つと思われる。また、光ブロッホ方程式をもちいて、数値計算により系の過渡的な振る舞いを求め、暗共鳴の収束時間はその共鳴幅の逆数によって決まることも確かめた。

 次の節は暗共鳴の新しいブランチの実験的な観測に当てられている。実験装置はカリウム原子線装置と高安定ファブリーペロー干渉計にロックされた高安定半導体レーザー(766.5nm)、高周波発振機、高周波共鳴回路および蛍光観測装置よりなる。核スピン3/2を持つアルカリ原子の基底状態間には、エネルギー差が等しい2組のゼーマン準位間遷移が存在するため、多重共鳴系の実験に適している。そのため、質量数39のカリウム原子を用い、5準位系として光学遷移 2P3/2(F’=2)〈-〉2S1/2(F"=2),高周波遷移2S1/2(F=2〈-〉F=1)を用いた。前節の理論的解析によると、この系のような対称な形を持つ5準位系はドップラーシフトしない暗共鳴線を持つことが示されている。この特殊性のため、光と原子ビームを平行に照射しても暗共鳴が検出できるので、観測に必要な長い相互作用時間を確保することができ、レーザー冷却を用いることなく、暗共鳴が観測できた。また5準位系の共鳴位置と幅の解析解から得られた、暗共鳴検出のための相互作用時間の下限、レーザーの線幅の下限、および高周波パワーの(criticalな)許容範囲を求め、注意深く実験を行った。観測された共鳴線は前出の暗共鳴位置の理論的予測とほぼ一致し、理論の妥当性を確かめた。

 第3章では、第2章の研究の発展として、多準位と多輻射場のある時の光暗共鳴に関する一般論を展開している。まずはじめに、これまでにわかっている多準位系の暗共鳴に関して概観したあと、一般化されたN準位系の回転波近似下の光ブロッホ方程式を用いて、光暗共鳴の条件を定常状態の密度行列の解から導いた。エネルギー準位が多数の輻射場により木構造状(グラフ理論での意味)に結ばれている系に関しては、密度行列の運動方程式の対称性(ハミルトニアンの対称性)から系の密度行列運動方程式のコレーレント項は暗共鳴に関与するいくつかのグループにくくられ、暗共鳴条件はハミルトニアンのそれぞれの小行列式をゼロとおくことにより求められることを代数学的に証明した。これにより共鳴周波数の解析解を比較的簡単に求めることができる。共鳴条件、蛍光準位に対するoo=0の解の一意性の吟味、その初期条件依存性などに関しても議論している。この理論の応用として、2つのレーザー光でカリウム原子の光学遷移(F=3,MF=2〈-〉F=2,MF=2,MF=1)を励起し、1つの高出力の高周波磁場が8つのゼーマン準位間の遷移を起こしている系に関して計算を行った。この系は電場の弱いときには、単純な3準位系の2重共鳴のように振る舞うが、強輻射電場下では1つの輻射場がゼーマン準位からなる多重準位系と相互作用するので多重輻射場下での暗共鳴として考えられ、多重暗共鳴線が現れることが示された。通常の数値計算により求められる蛍光スペクトルでははっきりしない暗共鳴線の微細構造も指摘している。また、ある準位構造では、レーザー光だけでは暗共鳴は現れないが、高周波電場で原子をドレスすると、暗共鳴が現れるなどの現象も見つけている。

 論文付録では、著者が行ったカリウム原子のレーザー冷却に関して述べている。半導体レーザー光にRF周波数変調をかけ、無変調光をポンプ光、そのサイドバンド光をリポンプ光に用いる。減速に伴う共鳴周波数のずれは、レーザー発振周波数を減速にしたがって高くして、常に共鳴条件を保つことにしている(チャーピング法)。カリウムの超微細構造に対応して、0m/sおよび320m/sの速度分布に大きなピークを作ることができた。この技術により、ミリ秒程度の相互作用時間を得ることが期待でき、光暗共鳴実験への応用が期待される。

 論文審査の結果、本論文は多数の強光電場下の多準位系の特異な光応答の解明とレーザー冷却技術に寄与するものであり、以上のように本論文提出者 鹿子木宏明は実験・理論においてレーザー分光学、量子エレクトロニクスに関して十分な学力と知識を有し、博士(理学)の学位が授与される資格があると、審査委員全員が認めた。

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