学位論文要旨



No 111625
著者(漢字) 高口,博志
著者(英字) Kohguchi,Hiroshi
著者(カナ) コウグチ,ヒロシ
標題(和) レーザー及びマイクロ波分光による炭素鎖フリーラジカルの研究
標題(洋) Carbon-chain Free Radicals Studied by Laser and Microwave Spectroscopy
報告番号 111625
報告番号 甲11625
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博総合第88号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 山内,薫
 東京大学 助教授 山本,智
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 永田,敬
 東京大学 教授 濱口,宏夫
内容要旨 炭素鎖ラジカル

 本研究ではHC4O、CCN、HCCSの3種の炭素直鎖ラジカルを分光学的研究の対象とした。炭素鎖を持つフリーラジカルはこれまでに多くの分子種が分光学的に検出されており、これらはCnXあるいはHCnXと表記したときの炭素鎖の長さ(n)と末端重原子(X)により分類できる。末端重原子は窒素(N)、酸素(O)、硫黄(S)、珪素(Si)などがあり、その長さが10を越えるものまで検出されている。

 このような炭素鎖ラジカルの研究では分子の(非)直線性が着目され、特に変角振動の関与する振電相互作用がその議論の中で重要な役割を果たす。直線構造で2II、2などの縮重した電子状態を持つ分子ではレナーテラー効果が存在するが、この効果が大きくなると分子は非直線になる。一方、この効果が小さい場合、平衡構造は直線であるが、非常に複雑な振電準位構造を持つ。

 マイクロ波分光で得られる純回転スペクトルの解析からは、分子構造の詳細な情報が得られる。一方、広いエネルギー領域にわたる振電構造の情報を得るにはレーザーを用いた電子遷移の研究が不可欠である。多くの炭素鎖ラジカルが基底状態における高分解能分光で検出されているが、その電子励起状態について知られているものは種類が限られている。レーザーを用いた電子遷移の研究は、電子励起状態のエネルギー準位構造だけでなく、分子の反応ダイナミクスの情報も与える可能性をもつため、このような分子種に対する詳細な理解のためにはこれらの分光法を組み合わせた多角的な研究が不可欠である。

ラジカル生成法;パルス放電ノズル

 フリーラジカルの分光学的研究において最も重要な実験的技術は、短寿命分子であるフリーラジカルの効率的な生成法である。本研究においては、3種のラジカルに対してともにその生成法としてパルス放電ノズルを用いた。これは超音速ジェット中に高効率で炭素鎖ラジカルを生成することができる。ジェットによる回転温度の冷却効果とジェット中では衝突がほとんどないことを最大限に利用することで、化学的に不安定なフリーラジカルに対する実効的な検出感度を上げることができる。炭素鎖ラジカル生成に対するパルス放電ノズルの性能の高さは、フーリエ変換マイクロ波分光法との組み合わせにおいてこれまで実証されてきた。本研究では、さらにこのパルス放電ノズルを電子遷移の研究に適用できる装置を開発した。高感度のレーザー誘起蛍光(LIF)法と組み合わせることにより、CCNラジカルでは断熱近似の破れに帰因するような弱い遷移強度のスペクトルまで検出できた(第4章)。またHCCSラジカルでは励起状態におけるダイナミクスを反映した蛍光の時間的変化を観測することもできた(第5章)。

HC4Oラジカルのパルス放電フーリエ変換マイクロ波分光

 比較的長い炭素鎖を持つフリーラジカルは、(遠)赤外、マイクロ波分光などの高分解能分光法により、近年新たに多くの種類が検出されてきている。これらの分光法の持つ高い分解能は、構造の決定に不可欠であるだけではなく、開殻のラジカルに特有の微細、超微細構造を分離して観測するためにも重要である。観測された超微細構造の解析からは、不対電子の分布についての知見が得られる。

 HCnOと表されるグループはこれまでHCO、HCCO、HC3Oが分光学的に研究されているが、いずれもレナーテラー効果により非直線構造を持つ。一方、これと等電子配置であるHCnSラジカルはHC4Sまで検出されているが、いずれも直線ラジカルである。

 本研究では酸素を含む炭素鎖ラジカルであるHC4Oラジカルを、パルス放電ノズルを用いて超音速ジェット中に生成し、フーリエ変換マイクロ波分光によりその純回転遷移を測定した。パルス放電ノズルと組み合わせたフーリエ変換マイクロ波分光法は、炭素鎖ラジカルの低いJが関与する遷移の観測に特に有力な分光法であり、本研究においてもその利点を生かし、水素核に由来する超微細相互作用分裂を観測し、解析することができた。超微細相互作用定数であるフェルミ接触定数から、このラジカルの不対電子は水素の1s軌道が寄与しない分子軌道に存在していることがわかった。このことは、この分子では直線構造であれば2IIiである電子状態が強いレナーテラー効果により非直線となり、不対電子は電子状態の縮重が解けてできた分子軌道のうち分子面外に分布した軌道に存在しているという説明を裏付ける。高い精度で決定した回転定数と遠心力歪み定数もこのラジカルの非直線性を支持する。

CCNラジカルC2+-X2IIrバンドの超音速ジェットレーザー誘起蛍光分光

 CCNラジカルはMererとTravisが基底状態からA2、B2、C2+状態への室温での吸収スペクトルを測定して以来、X2II状態とA2状態におけるレナーテラー効果の詳細を明らかにする目的で振電構造や回転構造の観測が行われてきた。v2(2は振電相互作用に関与している変角振動モード)=1の遷移は禁制なので、AおよびX状態の振電構造において最も重要と考えられるv2=1状態の位置は、これまで実験的に直接決定されていなかった。本研究ではこのラジカルの振電状態を明らかにするために、パルス放電ノズルをレーザー誘起蛍光法と組み合わせた装置を開発し、C2+-X2IIr遷移のLIFスペクトルを超音速ジェット中で観測した。

 これまで知られているバンドの他に新たに14の振電バンドを観測し、各振電状態の回転定数とバンドオリジンを決定した。これよりC2+状態のすべての振動モードに関する振動パラメーターを非調和項も含めて決定することができた。これらの解析において、回転構造、振電構造いずれについても大きな摂動の影響は見られなかった。

 また本研究では、振電的に誘起されたバンドが弱く観測された。そのスペクトル例を図1に示す(C(010)II-X(000)IIバンド)。図1(b)に示したシミュレーションは本来ならば存在しない平行遷移の遷移モーメントを仮定したものであり、実測値(図1(a))とよい一致を示す。このことから、このバンドが確かに断熱近似の破れによるものであることがわかった。このv2=1バンドのデータをこれまで報告されているホットバンドのものと同時解析をすることで、A2及びX2II状態の(010)-(000)の間隔を実験的に決定することができ、このデータを基に両状態におけるレナーテラー効果の再解析を行った。

図表図1(a)実測スベクトル / 図1(a)シミュレーション

 振電誘起バンドの遷移強度を与えているC2+状態の振電相互作用について考察した。励起状態が状態であるので、X2II、あるいはまだ知られていないII電子励起状態とのへルツベルグテラー効果や、電気双極子モーメントに対する核の運動の効果といったモデルが考えられる。

HCCSラジカルのA2II-X2IIiバンドのレーザー誘起蛍光スペクトルと量子ビートの観測

 比較的小さな炭素鎖ラジカルでもその電子遷移が知られているものは多くない。n=2に限っても本研究で取り上げたHCCS以外にはCCO、CCN、CCHラジカルといった程度であり、電子励起状態の詳しい報告例は限られている。HCCSラジカルに関しては室温での吸収スペクトルおよび発光スペクトルの観測が行われている。本研究ではこのラジカルの電子遷移を超音速ジェット中で観測し、低い回転状態の遷移を選択的に観測することを試みた。

 回転冷却されたスペクトルから、遷移の上下の状態のの帰属を行うことができた。これにより、これまでなされていた振動バンドの帰属の誤りを指摘するとともに、A、X両状態の振動数に再考の必要があることを見いだした。

 観測されたほとんどの振電バンドにおいて、蛍光信号上に量子ビートが観測された。励起エネルギーを上げるにつれて、図2に示すように蛍光の時間的振る舞いは変化していった。量子ビートは複数の固有状態のコヒーレントな励起により生じるが、外場の影響がない状態で、コヒーレント幅(〜100MHz)内に複数の固有状態があり、それらが項エネルギーとともに増えていくことは、この電子励起状態が何らかの摂動を受けていることを意味する。特にエネルギーの高い状態からの蛍光では図2(c)のように長いテールを引いているのが見いだされたことから、摂動を与えている状態は蛍光を発さない性質を持つことがわかる。HCCSの分子軌道の考察からスピン多重度の異なる状態(4重項状態)との摂動の可能性は低く、電子基底状態の高振動励起状態との相互作用(内部転換)が起きていると考えられる。A状態付近の電子基底状態の振動状態密度の見積もりも、このことを支持した。

図表図2(a) オリジンバンド / 図2(b) オリジンバンド+1400cm-1 / 図2(c) オリジンバンド+2200cm-1
審査要旨

 炭素鎖を骨格として持つ直鎖フリーラジカル種では、その電子状態が縮重しており、Renner-Teller効果が分子の直線性に重要な役割を果たすことになる。このようなフリーラジカル種の分光学的な研究は、その電子基底状態、および、電子励起状態の分子内ポテンシャルが関わる振電相互作用に関わる貴重な情報を提供する可能性があるため、多くの研究者がその重要性を認めている。ところが、そのフリーラジカル種の効率のよい生成法が十分には確立していないため、その分光学的な研究は十分とは言い難い。特に、電子励起状態が詳細に調べられている炭素直鎖フリーラジカル種の種類は限られているのが現状である。本論文提出者は、このような研究の現状に基づき、パルス放電ノズルの方法を積極的に活用し、高分解能分光学の立場から、フーリエ変換マイクロ波分光法によって電子基底状態にある炭素直鎖フリーラジカルの幾何学的構造を決定する一方、可視・紫外域のレーザー分光の手法によりその電子励起状態における振電構造を明らかにすることによって、多角的な立場から振電相互作用の本質を明らかにすることを試みた。

 論文は、5つの章からなっている。第1章では、本論文において行われた高分解能分光測定の結果見い出された観測事実を紹介するとともに、その測定結果が、分子内の振電相互作用の解明に如何に結び付くのかを解説した。そして、炭素直鎖フリーラジカルの振電相互作用を研究することの意義について述べている。第2章では、観測に用いられたフーリエ変換マイクロ波分光装置、レーザー誘起蛍光スペクトル観測装置について、そして、共通に用いられたパルス放電ノズルについての説明が実例とともに解説されている。特に、パルス放電ノズルを備えたレーザー誘起蛍光スペクトル観測のための装置は、論文提出者自身が本論文において開発したものである。

 第3章では、HC4Oラジカルのマイクロ波分光に関する研究が報告されている。これまで、HCnO型の分子種としては、HCO、HCCO、HC3Oが知られており、いずれもRenner-Teller効果によりその非直線性が明らかとなっている。ここでは、HC4Oラジカルについての初めての分光学的なデータを提供するとともに、水素核に由来する超微細相互作用分裂に着目した。精度の高い回転定数、遠心力歪み定数のデータに加え、超微細相互作用の大きさから得られるフェルミ接触定数に基づいて、HC4Oラジカルの幾何学的構造が非直線であることを明らかにすることに成功した。すなわち、直線型の極限において、2IIiとなる電子状態がRenner-Teller効果のために分裂し、非直線型をとるのである。

 第4章では、超音速ジェット中のCCNラジカルの紫外域のC2+-X2IIrバンドのレーザー誘起蛍光スペクトルについて報告されている。以前にも、このバンドに関しては観測例があったが、C状態におけるv2=oddに関するデータが存在しなかったために、その変角振動モードに関するポテンシャルは明らかではなかった。本章では、ホットバンドおよび振電許容バンドを含め、新たに14の振電バンドを観測し、各振電状態の回転定数とバンドオリジンを決定した。そして、これらの測定に基づいて、そのC状態におけるDunham型の振動パラメーターを決定することができた。さらに、このC2+-X2IIrバンドの観測に基づいて、A2およびX2II状態のそれぞれおける変角振動の基本振動数、すなわち、(v1,v2,v3)=(0,1,0)の準位と、(0,0,0)の準位のエネルギー差を決定することができた。また、このデータに基づいて、A2およびX2II状態におけるRenner-Teller効果についてのより詳細な解析を行うことがはじめて可能となった。

 第5章では、HCCSラジカルのA2II-X2IIバンドのレーザー誘起蛍光スペクトルおよび量子ビートの観測結果が述べられている。回転温度について十分に冷却されているスペクトルに基づいて、それぞれの遷移における、A2IIおよびX2II状態の準位のの値を決定することができた。そして、この結果に基づいて、以前の振電バンドの帰属が正しくないことを明らかにすることができた。また、観測されたほとんどの振電バンドについて、その蛍光減衰に量子ビートが観測された。さらに、比較的エネルギーが低い領域では、量子ビートが明確に観測される傾向があるが、エネルギーが増加するにつれてビートがはっきりとしなくなる傾向があることが明らかとなった。このことは、エネルギーの増加とともに、励起光のコヒーレント幅に存在する量子準位の数が増加するためと解釈された。そして、電子基底X状態の高振動励起状態の準位密度の計算に基づいて、A状態の回転振電準位とX状態の高振動励起状態との間の振電相互作用の結果として量子ビートが観測されたことが結論づけられた。ここで見い出された量子ビートの励起エネルギー依存性は、ひとつの特定の分子において、その振電エネルギーの増加とともに量子ビートの現象が顕著に変わる例として、貴重な例と認められる。

 以上、論文提出者は、高分解能分光の技術に基づいて、炭素直鎖フリーラジカル種の幾何学的構造と振電相互作用に関する貴重なデータを提供したものと高く評価される。よって、審査委員会は、論文提出者高口博志が博士(理学)を受けるのに十分な資格を持つものと認めた。なお、本論文第3、4、5章については、共著論文として公表され、また、公表予定であるが、論文提出者が主体的に研究を遂行したものであることは確認済みである。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54495