学位論文要旨



No 111631
著者(漢字) 関川,太郎
著者(英字)
著者(カナ) セキカワ,タロウ
標題(和) 電子-プロトン結合のある水素結合系分子結晶の分光学的研究
標題(洋) Spectroscopic study of hydrogen-bonded molecular systems with -electron-proton coupling
報告番号 111631
報告番号 甲11631
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2995号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 藤森,淳
 東京大学 教授 田隅,三生
内容要旨

 有機分子性結晶は、電子軌道の異方性、遍歴性による電子状態の低次元化の効果が物理現象に顕著に現れており、物性物理の興味深い対象となっている。一方、物性物理学の発展は、新物質の発見創成により促されてきた。今後もその重要性は増すことはあっても減ることはないであろう。近年、新物性発見、創成の可能性を秘めた物質群として、水素結合を含んだ分子性結晶が注目されている。その特徴は二点ある。第一点は、自然界のDNAや蛋白質に見られるような分子間水素結合により、分子間相互作用を強めること。第二点は、電子状態の変化をともなった水素結合の組み替え(-XH…Y--X…HY-)を起こしうろことである。前者は、水素結合ネットワークによる新たな電子状態を持つ分子集合体の構築、後者は、プロトンと電子状態が連動した新物性の開拓が期待される。

 このような研究の流れを受け、本論文では、電子により特徴づけられた分子性結晶の電子状態に対する、水素結合の役割及び相互作用を、上記二つの観点から、主に、分光学的な手法を用いて多面的に研究した。前者の観点から、分離積層型電荷移動錯体ジアミノピレンーテトラシアノキノジメタン(DAP-TCNQ)とアセチレンジカルボン酸-水素カリウム塩(ADCA)を、後者の観点からサーモクロミズムを示すサリチリデンアニリン誘導体(SA)を取り上げた。

 第二章では、DAP-TCNQ(図1)を取り上げた。DAP-TCNQは擬一次元系と考えられるが、DAP鎖とTCNQ鎖は水素結合で結ばれており、水素結合による鎖間相互作用が一次元電子状態に与える影響に興味がもたれる。まず、単結晶の、様々な温度での可視域から中赤外域の反射スペクトル、および、ESRによるスピン帯磁率の測定により、次元状態の同定を行った。その結果、DAP鎖からTCNQ鎖への電荷移動量が0.93で、half filledからずれた状態にあり、かつ、電子相関の強いスピンパイエルス系であることを明らかにした。更に、低温下の反射スペクトルを測定したところ、約0.8eVのハバードギャップ(A)の下の吸収(ミッドギャプ状態)に対応する新たな構造(B)を見いだした。(図2)half filledにある物質では、このような構造が現れないため、一次元鎖中の中性サイトがかかわった吸収帯と考えられる。更に、DAP-TCNQの一次元鎖は二量体化している。100K以下での残留スピン濃度とミッドギャプ状態の振動子強度を比較すると、ミッドギャプ状態にはスピンはかかわっていないことが分かった。よって、ミッドギャップ状態は、中性サイトを境界として格子の二量体化の位相が180度変わった、スピン0ソリトン状態と帰属した。実際、中性サイトに近接した二量体内の電子遷移と考えれば、再近接サイト間クーロン反発力を考慮するとエネルギー位置を説明することができる。その吸収強度は、格子歪みとともに大きくなるが、分子間距離が短くなることにより電子の遍歴性が大きくなり、振動子強度が大きくなったと考えた。更に、ジメチル-TCNQ(DMTCNQ)との電荷移動錯体を作り比較した。DAP-DMTCNQでは、水素結合が強くなり、ミッドギャップの吸収強度が小さくなっていることを見いだした。一方、二量体化による格子歪みも小さいことが、赤外吸収およびスピン帯磁率の測定から分かり、これが、ミッドギャップ吸収が弱くなる直接の原因といえる。その要因としては、水素結合により強められた鎖間相互作用、および、TCNQについたメチル基による立体障害が、格子の歪みエネルギーを増すため、歪みが小さくなると解釈した。このことは、水素結合が電子状態制御の手段となりうることを示す。

図表図1:DAP-TCNQの結晶構造 / 図2:40Kにおける反射スペクトル

 第3章では、ADCA(図3)をとりあげた。この物質は、イオン性の水素結合、(O…H…O)-、により、アセチレンジカルボン酸が結ばれて一次元鎖を形成している。イオン性の水素結合は、結合長が短く、カルボキシル基の電子が水素結合内に非局在化(電荷移動)している状態に近いと考えられ、分子間に電子を非局在化させる可能性を持つ。水素結合中の電荷移動の効果を調べるため、圧力下および低温下での赤外吸収スペクトルを測定した。その結果、水素結合の中心に対して反対称なC=O伸縮振動モードは、高圧力下で吸収係数が増大し、低温下で線幅が狭まることを見いだした。一方、対称モードはどちらの依存性も示さなかった。これらの結果は、次のように解釈される。圧力効果に関しては、反対称モードにより電子は水素結合中を非対称に分布する。この時、水素結合長が短いほど振動による電荷移動が大きくなり、遷移双極子能率が大きく変化すると考えられ、その結果吸収係数が増大する。一方、対称モードは、電子分布を対称にするため水素結合には大きく依存しないと考えた。次に、温度依存性であるが、前の結果から、反対称モードは水素結合長に敏感であることが分かった。そこで、水素結合長を変化させるような振動モードとの結合によって、吸収線幅に温度依存性が現れると考え説明した。

図3:アセチレンジカルボン酸

 第4章では、SAをとりあげた。SAは、基底状態で熱励起によりプロトン移動を伴って、エノール型からケト型へ互変異性を起こす。(図4)この時の、プロトン移動に伴う電子の組み替えによる電子状態の違いが、目には色の違いとして認識される。一方、SAは、光励起による励起状態においてもプロトン移動を起こす。これは、光化学反応といえるが、光による物性制御の可能性も秘めている。そこで、本研究では、光励起によるプロトン移動を制御するという観点から、5つのSAに関して水素結合長に対するプロトン移動時間の変化を調べた。水素結合長は、前章でも示したように、水素結合を特徴づける変数のひとつである。また、プロトン移動に際し、電子の組み替えが起きるということから、電子供与性及び受容性置換基をつけることでプロトン移動のポテンシャルがどう変わるかということにも興味が持たれる。そこで、4つのSAについて置換基効果を調べた。プロトン移動時間は、プロトン移動により決まっている励起エノール状態の寿命に相当すると考えられる。よって励起エノール状態からの発光寿命がプロトン移動時間になる。その寿命を、フェムト秒レーザーを用いた和周波発生法で調べた。また、試料は、単結晶を用いた。

図4:サリチリデンアニリンにおける(a)サーモクロミズム及び(b)フォトクロミズム(1)水素結合長依存性

 定常発光、励起スペクトルを様々な温度で測定し、電子構造を明らかにした。次に、発光の時間依存性を調べたところ、定常発光スペクトルの高エネルギー側では、サブピコ秒程度の寿命を持つ成分、低エネルギー側では、数百ピコ秒程度の寿命をもつ成分が観測された。前者は、励起エノール状態、後者は、励起ケト状態からの発光と帰属した。励起状態のポテンシャル障壁の有無に関心が持たれるが、重水素化により寿命が1.3倍になること、また、障壁がないとされる物質よりも移動時間が5から10倍長いことから、障壁があると結論した。低温での移動時間も変わらないことから、量子力学的なトンネルをしていると考えられる。移動時間は、水素結合長が長いほど長くなることが分かった。(図5)しかし、一方、分子の平面性が崩れると励起状態でプロトン移動が起きないことも明らかにした。

図5:水素結合長とプロトン移動時間の関係
(2)置換基効果

 3つの誘導体について、定常発光、励起スペクトルを様々な温度で測定し、電子構造を明らかにした。次に、発光の時間依存性を調べたところ、やはり二成分観測されたが、早い成分の寿命に波長依存性がみられた。低エネルギー側で長くなり、ほぼ一定値になった。この値をプロトン移動時間と考えると、試料間の違いは、励起状態のエノール、ケト型のエネルギー差の違いにより、直接的には説明される。すなわち、エネルギー差が小さいほどポテンシャル障壁が高くなり、移動時間がかかる。また、寿命の波長依存性は、振動準位間の熱平衡化に対応すると考えた。このような、エネルギー差を生じる原因は、置換基の電子供与性、受容性によって電子状態の安定化の度合いが異なるためと解釈した。

審査要旨

 本論文は,電子とプロトン結合のある水素結合系分子結晶について分光学的研究を行ったものであり,論文は全部で5章からなっているが,内容はかなり独立した3つの部分(2,3,4章)から構成されている.

 まず第1章の序論にはじまり,第2章では電荷移動錯体であるジアミノピレンーテトラシアノキノジメタン(DAP-TCNQ)およびジメチルTCMQを含むDAP-DMTCNQについて,スピンバイエルヌ系におけるスピンゼロソリトンの形成を論じている.第3章ではアセチレンジカルボン酸-水素カリウム塩について,強い水素結合の系における電荷移動の効果を論じている.第4章ではサーモクロミズムを示すサリチリデンアニリン誘導体をとりあげ,光誘起プロトン移動およびその水素結合長依存性と置換効果を研究している.第5章は以上のまとめである.

 まず第2章では擬1次元系であるDAP-TCNQをとりあげている.DAP鎖とTCNQ鎖は水素結合で結ばれているが,これに基づく鎖間相互作用が1次元電子状態に与える影響に注目した.単結晶を用いて,いろいろな温度における可視,赤外の反射スペクトルおよびスピン帯磁率の測定を行った.その結果,本来赤外不活性のフオノンモードが赤外スペクトルの中に観測され,温度の低下と共にその振動子強度が増加していくことが明らかになった.また帯磁率が低温で急速に減少していくことを見いだした.これらの事実からこの系は室温あるいはそれ以下の温度でhalf filledから若干ずれたスピンパイエルス系であり,2量体化による格子の歪を伴っていると結論している.またC=C伸縮モードの振動数からDAPからTCNQへの電荷移動量は0.93であると推定した.低温における反射スペクトルには約0.8eVの電荷移動バンドの低エネルギー側にミッドギャップ状態に対応する新たな構造を見いだした.half-filled状態にある物質ではこのような構造が現れないこと,残留スピン濃度が低いことから,このミッドギャップ状態をスピンゼロのソリトン状態と帰属した.この部分では自ら良質結晶の作製に尽力すると共に,新たに製作した顕微分光システムによって0.1mm×0.1mmという微小結晶について光学測定を行っている.また得られた結果の中では,特にスピンパイエルス系で光学的にミッドギャップ状態を見いだした点が高く評価される.

 第3章では,イオン性の水素結合によって1次元鎖を構成するアセチレンジカルポン酸-水素カリウム塩について水素結合中の電荷移動の効果を調べるため,圧力下および低温下の赤外吸収スペクトルを測定した結果について述べている.水素結合を中心にして対称的なC=0伸縮振動モードは,高圧力下で吸収係数が増大し,低温で幅が狭まることを見いだした.これは水素結合長が短いほど振動に伴う電荷移動が大きくなり,遷移双極子能率が大きくなるためと解釈された.

 第4章では,サーモクロミズムを示すサリチリデンアニリン誘導体(SA)をとりあげている.この物質は基底状態で熱励起によりプロトン移動を伴ってエノール型からケト型に互変異性をおこし,この変化は吸収スペクトルの変化すなわち色の変化として認識される.申請者はまず発光及びその励起スペクトルの温度依存性から電子構造を明らかにした.次に和周波発生による時間分解発光測定の装置を製作し,約200フェムト秒の時間分解能で発光の振舞いを調べた.その結果,定常発光で観測されるスペクトル成分は数百ピコ秒程度の寿命を持つが,その高エネルギー側にサブピコ秒の寿命を持つ成分があることが分かった.寿命の長い成分はケト,短い成分はエノール状態からの発光と帰属され,状態の移り変わりがエノール型の発光の減衰とそれに呼応するケト型の発光の立ち上がりとして明瞭に観測された.また,短寿命成分の寿命がかなり長いことと重水素置換によって時定数が√2程度延びる事から,エノール型からケト型に至るポテンシャルには障壁があり,状態の変化はトンネル効果によると結論された.

 また,3種類の誘導体について同様の実験を行ったところ,発光の短寿命成分の減衰率に差があることが分かり,これは励起状態でのエノール状態とケト状態のエネルギー差が小さいほどポテンシャル障壁が高くなり移動に時間がかかるとして解釈された.この部分については,超高速の時間分解発光という高度な分光技術を使いこなし,プロトンダイナミックスを時間軸上でとらえた点が高く評価される.

 以上のように本論文は水素結合を軸に,分子性結晶におけるその役割を多角的に捉えて極めて広範に実験研究を行ったもので,博士(理学)論文として十分に評価できると審査委員全員が認め,合格と判断した.

 なお,本論文には一部の物質系については物質合成の研究者との共同研究が含まれるが,研究の主要部分は一貫して申請者が主体的に行ったものと認められる.

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