審査要旨 | | 本論文は,電子とプロトン結合のある水素結合系分子結晶について分光学的研究を行ったものであり,論文は全部で5章からなっているが,内容はかなり独立した3つの部分(2,3,4章)から構成されている. まず第1章の序論にはじまり,第2章では電荷移動錯体であるジアミノピレンーテトラシアノキノジメタン(DAP-TCNQ)およびジメチルTCMQを含むDAP-DMTCNQについて,スピンバイエルヌ系におけるスピンゼロソリトンの形成を論じている.第3章ではアセチレンジカルボン酸-水素カリウム塩について,強い水素結合の系における電荷移動の効果を論じている.第4章ではサーモクロミズムを示すサリチリデンアニリン誘導体をとりあげ,光誘起プロトン移動およびその水素結合長依存性と置換効果を研究している.第5章は以上のまとめである. まず第2章では擬1次元系であるDAP-TCNQをとりあげている.DAP鎖とTCNQ鎖は水素結合で結ばれているが,これに基づく鎖間相互作用が1次元電子状態に与える影響に注目した.単結晶を用いて,いろいろな温度における可視,赤外の反射スペクトルおよびスピン帯磁率の測定を行った.その結果,本来赤外不活性のフオノンモードが赤外スペクトルの中に観測され,温度の低下と共にその振動子強度が増加していくことが明らかになった.また帯磁率が低温で急速に減少していくことを見いだした.これらの事実からこの系は室温あるいはそれ以下の温度でhalf filledから若干ずれたスピンパイエルス系であり,2量体化による格子の歪を伴っていると結論している.またC=C伸縮モードの振動数からDAPからTCNQへの電荷移動量は0.93であると推定した.低温における反射スペクトルには約0.8eVの電荷移動バンドの低エネルギー側にミッドギャップ状態に対応する新たな構造を見いだした.half-filled状態にある物質ではこのような構造が現れないこと,残留スピン濃度が低いことから,このミッドギャップ状態をスピンゼロのソリトン状態と帰属した.この部分では自ら良質結晶の作製に尽力すると共に,新たに製作した顕微分光システムによって0.1mm×0.1mmという微小結晶について光学測定を行っている.また得られた結果の中では,特にスピンパイエルス系で光学的にミッドギャップ状態を見いだした点が高く評価される. 第3章では,イオン性の水素結合によって1次元鎖を構成するアセチレンジカルポン酸-水素カリウム塩について水素結合中の電荷移動の効果を調べるため,圧力下および低温下の赤外吸収スペクトルを測定した結果について述べている.水素結合を中心にして対称的なC=0伸縮振動モードは,高圧力下で吸収係数が増大し,低温で幅が狭まることを見いだした.これは水素結合長が短いほど振動に伴う電荷移動が大きくなり,遷移双極子能率が大きくなるためと解釈された. 第4章では,サーモクロミズムを示すサリチリデンアニリン誘導体(SA)をとりあげている.この物質は基底状態で熱励起によりプロトン移動を伴ってエノール型からケト型に互変異性をおこし,この変化は吸収スペクトルの変化すなわち色の変化として認識される.申請者はまず発光及びその励起スペクトルの温度依存性から電子構造を明らかにした.次に和周波発生による時間分解発光測定の装置を製作し,約200フェムト秒の時間分解能で発光の振舞いを調べた.その結果,定常発光で観測されるスペクトル成分は数百ピコ秒程度の寿命を持つが,その高エネルギー側にサブピコ秒の寿命を持つ成分があることが分かった.寿命の長い成分はケト,短い成分はエノール状態からの発光と帰属され,状態の移り変わりがエノール型の発光の減衰とそれに呼応するケト型の発光の立ち上がりとして明瞭に観測された.また,短寿命成分の寿命がかなり長いことと重水素置換によって時定数が√2程度延びる事から,エノール型からケト型に至るポテンシャルには障壁があり,状態の変化はトンネル効果によると結論された. また,3種類の誘導体について同様の実験を行ったところ,発光の短寿命成分の減衰率に差があることが分かり,これは励起状態でのエノール状態とケト状態のエネルギー差が小さいほどポテンシャル障壁が高くなり移動に時間がかかるとして解釈された.この部分については,超高速の時間分解発光という高度な分光技術を使いこなし,プロトンダイナミックスを時間軸上でとらえた点が高く評価される. 以上のように本論文は水素結合を軸に,分子性結晶におけるその役割を多角的に捉えて極めて広範に実験研究を行ったもので,博士(理学)論文として十分に評価できると審査委員全員が認め,合格と判断した. なお,本論文には一部の物質系については物質合成の研究者との共同研究が含まれるが,研究の主要部分は一貫して申請者が主体的に行ったものと認められる. |