学位論文要旨



No 111632
著者(漢字) 惣津,寧
著者(英字)
著者(カナ) ソウヅ,ヤスシ
標題(和) Ni(111)表面上単原子層グラファイト及びアルカリ原子吸着層の電子状態理論
標題(洋) Theory of the Electronic States of Monolayer Graphite Coadsorbed with Alkali Atoms on the Nickel(111)Surface
報告番号 111632
報告番号 甲11632
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2996号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 教授 寿栄松,宏仁
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 助教授 河野,公俊
 東京大学 教授 家,泰弘
内容要旨

 表面物理学は、始めに単一の固体の表面(一元系)が独特の様々な性質を示すことから興味が持たれ、次に固体表面と外部の物質の示す様々な相互作用の影響を調べる二元系の研究に新たな興味を見出した。更に興味を推し進めるならば、一層変化に富む系として三元系の研究が重要な分野となるであろう。表面物理学における三元系の面白さは、今まで二元系が示していた表面物質間の相互作用が新たな物質の介在によって変更を受けることである。この論文では、電子構造が実験的に調べられている、単原子層グラファイトとアルカリ原子のNi(111)表面上共吸着系を計算物理の手法によって調べ、特にグラファイト層のバンドに注目して電子状態がどのような原理に従って決定されるかを議論の中心に据えて解明していくこととする。

 遷移金属や遷移金属炭化物の表面に成長した単原子層グラファイトは、その研究の初期の頃には孤立した単原子層グラファイトと同じ電子状態を持つものと思われていた。[1]しかし、角度分解光電子分光法(ARUPS)やトンネル走査顕微鏡(STM)の実験によって、この考え方は重大な修正を受けた。即ち、ブリルアン域K点の付近ではバンドは下地の軌道と強い混成を起こし、著しく変形することが観測された。[2][3]理論の方からもこの軌道混成がバンドを変形することが裏付けられている。[4][5]

 最近になって、単原子層グラファイトとNi(111)表面の吸着層間にアルカリ原子層を挟んだ共吸着系のバンド構造が長島らのARUPS実験によって調べられた。その結果、一般的な傾向としてグラファイト層のバンドはアルカリ原子の半径が大きくなるに従ってバンドのK点におけるギャップが縮小してよりバルクのグラファイトに近づくことが観察された。長島らは、この傾向をグラファイト層と下地のニッケル原子との軌道混成が弱くなるためであると説明したが、アルカリ原子がグラファイト層に及ぼす影響については疑問が少なくなかった。どの因子がグラファイト層の電子状態を決定的に支配するかを正確に知るために、筆者は計算物理の手法を用いた議論を上記の三元系に適用する価値が十分にあると考えた。

 全ての系の計算は密度汎関数法の一つであるDV-X法を用いて行った。単原子層グラファイトのNi(111)表面上吸着層と、様々な吸着密度に対応する単原子層グラファイト/アルカリ原子層/Ni(111)表面のモデルを図1と図2に描いておく。バンド構造の中からバンドなどの特定のバンドを容易に選び出せるように、LCAO法を用いることとし、各原子軌道は周辺の原子からの影響を平均化した原子ポテンシャルを解くことにより決定した。

図1 Ni(111)表面上に吸着した単原子層グラファイトの2タイプのモデル。(a)全部ホローサイトに吸着する場合。(b)半分がトップサイトに吸着する場合。図2 Ni(111)表面上に共吸着した単原子層グラファイトとアルカリ原子層の様々な周期構造。(a),(b)2×2,(c)3/2×3/2.

 まず、二元系である単原子層グラファイトのNi(111)表面上吸着層の電子状態が吸着サイトと層間距離を様々に変えて調べられた。最も吸着サイトが近い場合、元々二本だったバンドが四本に分裂して増えたように見える。これは下地の3d電子との強い軌道混成によって一つのレベルが結合性軌道と反結合性軌道の二つに分かれるためである。典型的な単原子層グラファイト/Ni(111)系のバンド構造を図3に掲げておく。グラファイト層と下地との距離が広がるにつれ軌道混成は弱まっていく傾向を見せる。層間距離の変化に応じたバンドのこのような振る舞いは、原子や分子の化学吸着に非常に近い傾向を持つと言えよう。一方、グラファイト層の電子状態は吸着サイトの違いによっても大きく左右される。炭素原子の半分が下地原子のトップサイトにあって残りの半分がホローサイトにあるというモデルを採用した場合、K点でのバンドは、図4に示すごとくホローサイト原子の軌道だけから成るバンドとトップサイト原子の軌道だけから成るバンドにエネルギー準位が別れ、それらが交互に並ぶ構造を見せる。全ての炭素原子がホローサイトにあるとした場合には、この構造はなく、二重に縮退したバンドの組が二組見える。どちらのモデルが実際の系に近いかは明確に断定できない。

図3 Ni(111)表面上に吸着した単原子層グラファイトのバンド構造。図1(b)のモデルを使い、dMG-Ni=2.15Åとして計算した。図4 図3のバンドの微細構造。

 グラファイト層とニッケル表面との間にアルカリ原子を挟んだ三元系では、グラファイト層とニッケル表面とが引き離され、軌道混成相互作用は弱くなる。図5に示すKの挟まれた系では、K点においてバンドに依然としてギャップが残ってはいるものの、その幅は0.8eV程度しかない。意外にも、下地のニッケルを除いてもギャップは残る。このことは、グラファイト層の相互作用の相手がもはやニッケルでなくカリウム原子層の方に入れ代わったことを示している。カリウムのコアの3p軌道はバンドと軌道混成を起こすほど近付いており、この原子の作る摂動ポテンシャルがK点においてバンドを変形させるものと考えられる。

図5 Ni(111)表面上に共吸着した単原子層グラファイトとカリウム層のバンド構造。

 グラファイト層とニッケル表面との層間に挟む原子をナトリウムに変更した場合、グラファイト層とニッケル表面の距離は軌道混成を起こし得るほどに近くなる。図6に示したバンド構造では、K点の付近でバンドが幅を持っている。これは単原子層グラファイトとニッケル表面の直接の軌道混成の結果である。というのも、ニッケルを取り除いて単原子層グラファイトとナトリウム原子層の二元系にした場合にはバンドは全く幅を持たないからである。更にこの二元系では、カリウムを含む同様の二元系と異なりK点でのバンドにギャップがない。これはナトリウムの作る摂動ポテンシャルがカリウムのものと比べて極めて小さいからだと考えられる。実際、ナトリウムのコア2pレベルはバンドのレベルよりもはるかに低く、軌道がグラファイト層に影響を及ぼすほど遠くまで広がっていないことを示唆する。以上の点から、ナトリウムの三元系の場合にはグラファイト層とニッケル下地との軌道混成相互作用がナトリウムを挟むことで弱められた系であると結論される。実験的に観測されたナトリウム三元系は、実はではなく3/2×3/2という周期を持っている[3]が、単原子層グラファイトとナトリウムの相互作用の弱さを考慮すれば、周期構造の違いがバンドの劇的な変形を引き起こすとは思えない。

図6 Ni(111)表面上に共吸着した単原子層グラファイトとナトリウム層のバンド構造。

 もう一つの原子種であるセシウムの三元系は2×2の周期構造で計算された。図7にそのバンド構造を示す。バンドはカリウムの三元系と異なり、K点において全くギャップを見せない。セシウムのコアの5pバンドはバンドと混成を起こしているので、ナトリウムの系の場合と違ってセシウムのポテンシャルが弱いとは思えない。これは2×2周期の構造が持つ対称性が周期のものと異なるために起こったことである。即ち、単純にグラファイト層とニッケル下地との間にセシウム原子が詰まった系を想定する限り、ARUPS実験[3]で観測されたようなバンドのギャップは理論的に導かれないことが結論されるのである。従って、セシウムを含む三元系の場合に限って表面構造は再構成していると予想せざるを得ない。

図7 Ni(111)表面上に共吸着した単原子層グラファイトと2x2セシウム層のバンド構造。

 単原子層グラファイト層とニッケル表面との相互作用は、ニューンズとアンダーソンによる化学吸着の理論モデル[6]によって解析できる。両層の周期が整合的なので理論は1次元のモデルに還元される。従来は1次元ニューンズ=アンダーソン模型は単に元の模型の理論的な単純化であると思われてきたが、単原子層グラファイト層とニッケル表面の二元系には実際に適用できる。吸着サイトの違いによる影響も論じられたが、ニューンズ=アンダーソン模型だけでは図4の様なバンド構造は得られないことが判明した。そこで、三元系の場合にグラファイト層がアルカリ原子から受けているような摂動ポテンシャルがニッケルの場合でもバンドの変形に寄与しているものと結論される。

 アルカリ原子から単原子層グラファイトへの摂動論的影響はタイトバインディング模型によって論じられる。の周期を持つ系ではブリルアンゾーンの折りたたみによって2種類のK点が同じ点に移される。2つのK点に対応するブロッホ波は互いに結合し、結果としてバンドの縮退が解けることになる。2×2の周期を持つ系では2種類のK点が同じ点に移されることがなく、従って2種類のブロッホ波の結合もない。結果としてバンドの縮退は維持される。このように、アルカリ原子によるグラファイト層のバンドのギャップへの影響は系が持つ対称性に著しく左右されるものである。以上述べてきたような結果は、一般の三元系というものの複雑さを伺わせる。

参考文献[1]R.Rosei,S.Modesti,F.Sette,C.Quaresima,A.Savoia and P.Perfetti:Phys.Rev.B29(1984)3416[2]H.Itoh,T.Ichinose,C.Ochima,T.Ichinokawa and T.Aizawa,Surf.Sci.254(1991)437[3]A.Nagashima,N.Tejima,and C.Oshima,Phys.Rev.50(1994)17487[4]K.Kobayashi,Y.Souzu,N.Isshiki and M.Tsukada,Appl.Surf.Sci.60/61(1992)443[5]Y.Souzu and M.Tsukada,Surf.Sci.326(1995)42[6]D.M.Newns,Phys.Rev.178(1969)1123
審査要旨

 本論文はNi(111)表面の単原子層グラファイト(MG)にアルカリ原子が共吸着した三元系の電子状態を、第一原理電子状態計算法を用いて詳細に調べたものである。表面物理学における三元系のおもしろさは、いままで二元系が示していた表面物質問の相互作用が新たな物質の介在によって変更を受けることであるというのが著者の立場であり、その意味から言えば基盤となる遷移金属、リジッドバンドモデルがかなり良いと予想されるMG、そして「インターカレーション」として導入された単純金属原子という組み合わせは、理論計算の対象としては的確な選択であろう。

 論文は5章からなる。第1章はイントロダクションであり、MG/Ni(111)およびアルカリ共吸着系に関する実験結果がまとめられている。第2章では計算手法であるDV-X法の簡単な紹介と、本研究での計算条件が説明されている。計算結果は第3章にまとめられ、第4章では簡単なモデルハミルトニアンを用いてその定性的理解を試みる。第5章は結語である。

 MG/Ni(111)系およびMG/アルカリ金属/Ni(111)系のバンド構造は、最近ARUPSの実験によって詳しく調べられた。その結果前者ではグラファイトのバンドがK点付近で下地の軌道と強い混成を起こし著しく変化すること、また後者では挿入するアルカリ原子の半径が大きくなるにしたがってバンドのK点におけるギャップが縮小してバルクのグラファイトに近づくことが観測された。これはグラファイト層と下地のニッケル原子との軌道混成が弱くなるためと解釈されたが、たとえばCs原子の場合にはグラファイトー下地間の距離が遠すぎることから、このような軌道混成による説明には無理があると思われる。そこで著者は、グラファイトとアルカリ原子との直接相互作用、アルカリ原子を媒介とした下地との間接相互作用、表面再構成という三つの説明を考え、第一原理電子状態計算法を使ってそれらの可能性を調べることにした。これが本研究の直接的な動機である。

 バンド計算はバンドの性格の解析が容易な密度汎関数法にもとづくLCAO-DV-X法により、まず二元系であるグラファイト/Ni系について、2種類の吸着サイトおよびいくつかの層間距離で行われた。続いて111632f08.gifKの挟まれた三元系の計算が行われた結果、K点でのバンドギャップが残ること、さらにこのギャップが下地のニッケルを取り除いても同程度にあらわれることがわかった。このことはグラファイト層の相互作用の相手がもはやニッケルではなくカリウム原子層に代わったことを示している。

 ナトリウムを挟んだ系ではイオン半径が小さいため、グラファイト層とニッケル層の距離は軌道混成を起こしうるほど近くなるが、K点でのバンドにギャップが無い。またナトリウムの作るポテンシャルはバンドへの摂動としては小さすぎる。すなわちナトリウムの三元系はグラファイト層と下地との軌道混成相互作用がナトリウムを挟むことで弱められた系であると結論された。

 セシウムの三元系(2×2Cs)ではK点において全くギャップがみられない。これは系の持つ対称性が111632f09.gif周期のものと異なるためであり、単純にグラファイト層とニッケル層の間にセシウム原子が詰まった系を想定する限り、実験で観測されたようなバンドのギャップは理論的に導かれない。このことは本論文の第4章のモデルハミルトニアンをつかった解析でより明確に示されている。従ってこの系の場合には、下地のニッケル表面は再構成していると予想される。本論文ではもっとも簡単な再構成表面として追加原子モデルが提案されている。

 以上の第一原理計算に加え、本論文の第4章ではニューンズーアンダーソンモデルを用いた解析的な手法による考察が行われている。その結果、グラファイト層と下地のニッケルとの相互作用だけでは実験で得られたバンド構造がまったく再現できないこと、すわなちこの三元系においてアルカリ金属が積極的な役割を果たしていることが明確に示された。

 このように、本論文はMG/アルカリ金属/Ni(111)系の電子状態を初めて理論的に取り扱い、三元系のもつ多様性、複雑性をあらためて認識させるものとなった。本論文で実験結果をすべて定量的に説明できたとは言いがたいが、今後発展が予想される表面三元系の理論的取り扱いの端緒を切り開くものとして、本研究は非常に重要な貢献を成すものである。よって審査員全員の合意により、本論文は博士(理学)の学位論文として合格と判定した。

 なお本論文は塚田捷氏との共回研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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