学位論文要旨



No 111641
著者(漢字) 菊地,章仁
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,アキヒト
標題(和) 表面における電荷密度波とSTM像の理論
標題(洋) Theory of surface charge density waves and their STM images
報告番号 111641
報告番号 甲11641
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3005号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小谷,章雄
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 助教授 勝本,信吾
内容要旨

 近年のSTM(走査トンネル顕微鏡)の発達に依って、遷移金属ダイカルコゲナイド表面のCDW(電荷密度波)状態が直接に観察出来るようになった。1T-TaS2およびTaSe2表面のSTM像は、CDWによる表面電子構造の長周期的変調を極めて明瞭に示している。しかし、CDWのSTM像とは果たして何を意味するのか、曖昧な点が残っている。例えば、どのようにしてSTM像に原子像の明暗として長周期の変調が現れるのか。また、それはCDWの振幅とどう関係しているのか。こうした問題は未解決のままである。そもそも、遷移金属ダイカルコゲナイド系のSTM像に関しては、CDWが存在しない場合でさえも基本的な問題がある。簡単な近似では、STM像は表面のフェルミ準位付近の状態密度で決まる。一方、遷移金属ダイカルコゲナイド系のフェルミ準位は、カルコゲンで構成される表面からさらに一層内部に位置する遷移金属に主に依るものである。したがって、ある種の層状物質のSTM像のように、内側の遷移金属層がSTM像として現れる可能性がある。こうした問題に理論的な立場から解答を与えることが一つの目的である。

 ところで表面(STM系)においてCDWはバルクと同じ性質を示すと考えて良いものだろうか?電子論的に見るとSTM系ではバイアス電圧の存在下で定常非平衡な環境が実現されている。こういう環境の下で、表面のCDWの形成機構はどうなるか。具体的にはオーダーパラメターはどう影響を被るか。またSTM探針はどのような効果を及ぼすか。それらが表面におけるCDWの問題として考えられる。これに関係した問題として次のような事が挙げられる。遷移金属ダイカルコゲナイド系は結晶のポリタイプ及び原子の組み合わせに依って金属から半導体、半金属に及ぶ様々の電子的性質を示す。分子線エピタキシーの技術によって、これらの物質群をを超薄膜として基盤上に成長させたり、或いは、性質の異なった物質を一層毎に積み上げること(ヘテロ超格子)が可能になった。こうした人工超格子構造の中のCDWの性質はどうであろうか。もし、想定する系が完全な孤立2次元電子系なら、表面のCDW(半無限系の境界)と言った問題を考える必要は無い。しかし現実にCDWの発現する系は弱い3次元性を持った層状物質であって、層間の相互作用を無視できない。従ってCDWにその性質が反映されることが期待できる。現実に、遷移金属ダイカルコゲナイド系の一種である2H-MoS2薄膜表面のSTM像は下地の影響を被リモワレ像として知られる特殊なSTM像を示す。(但しこの物質自体はCDW転移を示さない。)CDWの薄膜(1T-TaS2)の実験例においてはSTM像が無限結晶の超周期構造(構造として知られる)とは異なった特徴を持つと言う報告も在る。(薄膜でない系においてはバルクで現れる構造がSTMで見えている。)

 以上の目的にしたがって電子状態論の見地から研究を進めた。

各章の内容

 論文の第1章は導入部である。

 論文の第2、3章ではSTM/STSの理論、及び遷移金属ダイカルコゲナイド系の性質に就いて手短にまとめた。

 第4章ではTaS2表面のSTM像のシミュレーションを実行した(図1参照)。具体的にはDV-X法でバンド計算を実行し局所状態密度からシミュレーションを行った。得られた結果はSTM像に現れるのは表面最外層のS原子であることを示唆している。簡単に言えば探針に近いS原子の寄与がTa原子の寄与を上回ったということである。そしてバンド計算の結果にCDW状態の平均場近似を適用しCDWの電子構造を決定した。ここでは構造を仮定している。得られたCDWのSTM像はほぼ実験と対比可能なパターンを示す。さらにCDWのSTSスペクトルの空間分布がバイアス電圧に敏感に依存して変化するという特筆すべき結果を得た。

図1:STM像のシミュレーション。図(a)は通常状態の1T-TaS2表面のSTM像を示す。図(b)はCDW存在下の1T-TaS2表面のSTM像を示す。明るい原子像は最外層のS原子である。

 第5章から表面のCDWに特有な性質の検討に入る。前章のCDWの取扱は本質的に2次元電子系に基づくものだった。しかしそれでは層状物質に期待される層間の相互作用を無視した事になる。その種の相互作用を考慮したとき、CDWの性質が表面でどう変化するかがここでの問題である。モデルとして仮定したのはCDWの変調が表面と平行にある系である。ここではTight-Binding的描像に基づき検討を行った。ハミルトニアンは次の形になる。

 

 上式ではnは原子面の番号である。またKは表面に平行な波数ベクトルである。(n)がCDWのオーダーパラメーターであり、波数KおよびK+Qの固有状態を結びつける。まず始めにCDW表面のグリーン関数を解析的に導き表面領域の局所状態密度を計算した。そこでは、グリーン関数の極の解析から、表面ポテンシャルによる束縛状態の存在が示された。

 実際に必要なのは自己無撞着な理論である。その目的のために、散乱理論に基づいた新しい計算手法を開発した。この方法は伝達行列の形式に従って上記ハミルトニアンの固有状態を数値的に求めるものである。この利点の一つは、摂動論に頼らずにトンネル電流を計算できることである。想定した系はCDWと通常金属の界面、および表面(STMを含む)である。その結果CDWが表面あるいは界面の影響で変化する様子が示された。これは接触による一種の近接効果である。中でも特筆すべきはSTM探針が表面のCDWを変化させる可能性を初めて理論的に示した事である。

 此章の議論で表面界面のCDWの性質が定性的に明らかになった。ただし実験との定量的な比較、説明と言った点ではまだ不充分な所がある。現実の物質は此モデルよりも複雑なバンド分散や結晶構造を持っている。そればかりでなく、表面CDWの問題では、現実の物質においては、この論文で検討したような純粋に電子論的な側面のほかに、積層欠陥や界面の不整合と言ったCDWの原子変位を押さえる力学的な効果を無視できない。こうした問題の定量的検討は将来の研究に残される。

 第6章では、5章の新手法を更に一般的な系に適用する可能性を探った。ここでは超電導体・通常金属の接合系に的を絞り、この新手法の有効性を示した。

 第7章は論文の内容のまとめである。

 また本論文の付録として、表面のCDWに関する幾つかの問題の原理的な検討を行なった。

将来の展望

 本論文の内容は将来的には有限温度の場合に拡張されるべきものである。実際にはCDWは温度に依存して構造相転移を示す。本論文ではCDWの超構造を絶対零度で固定して扱い(低温のCommensurate相に対応)相転移のダイナミカルな問題は検討しなかった。この点に関して次のような根本的な問題がのこる。それは果たしてCDWの超構造が表面と無限結晶とで同じであろうがということである。STMの実験として、超薄膜系のCDWはバルクで期待されるのとは異なった特徴を示した例が有る。この実験例はおそらく薄膜系の基盤となる物質の影響や積層欠陥の効果といったどちらかと言えば力学的な原因を持つのであろう。しかし、理論的には謎の多い現象である。CDWの超周期構造は、一般的にフェルミ面のネステイング条件、すなわち次式で定義される誘電感受率の発散に対応する波数で与えられる。

 

 もし、上の誘電感受率の発散に主な寄与をする電子が、何らかの理由、たとえばポテンシャルの変化と言った理由で排除されるなら、CDWの発現自体を押えるかも知れない。こうした原理的な問題が将来の研究に残されている。

審査要旨

 1T-TaS2,2H-NbSe2などの遷移金属カルコゲン化合物は電荷密度波(CDW)状態をとることがよく知られているが,近年の走査型トンネル顕微鏡(STM)の技術の進歩によって,これらの物質のCDW状態における表面が直接に観測できるようになった.しかしながら,STM像がCDW状態のどのような微視的電子状態を反映するのかは,現在のところ必ずしも明かではなく,電子状態計算を基にしたSTM像の理論が必要である.例えば,これらの物質の表面第一層はカルコゲン原子からなるが,一方フェルミ準位近傍の電子状態は主として遷移元素のd電子からなっており,CDWの形成にもd電子のフェルミ面が重要な役割を果たしている.したがって,STM像が主として第一層のカルコゲン原子を見ているのか,内側の遷移金属層を見ているのかは自明ではなく,未解決の興味ある問題である.また,STM像にCDWの長周期構造が現れる機構,CDW状態の表面とバルクにおける相違,CDW状態に対するSTM探針の影響などの諸問題は理論計算によって明らかにされることが望まれている.本学位論文はこれらの問題を微視的電子論に基づいて理論研究したものである.

 本論文は7章から構成されている.第1章は序論で本研究の目的と背景が述べられている.第2,3章では,それぞれ,STMの理論と遷移金属カルコゲン化合物のCDWについての紹介がなされている.第4,5章は本論文の中心部分で,第4章では1T-TaS2のTaS2単一層に対するDV-X法によるバンド計算を基にしたSTM像のシミュレーションが,また第5章では簡単化されたモデル系に対してタイトバインディング近似と散乱理論における伝達行列法による計算を基に,CDWと正常金属の界面の研究や表面のCDWに対するSTM探針の影響の研究がなされている.第6章では超伝導体・正常金属接合系の電子状態に対する簡単な計算がなされ,第7章はまとめに充てられている.

 本研究から得られた主な成果は次の通りである.

 (1)第4章の1T-TaS2単一層に対するSTM像の計算から,正常相,CDW相のいずれにおいても,STM像は表面第一層のTa原子からの寄与を強く反映することが示された.これは探針に近いS原子の寄与がTa原子の寄与を上回るためであるが,同時に,Taの5d電子状態がSの3s,3p状態との混成相互作用を通じてS原子位置の電子状態に反映されることが重要な意味をもっている.

 (2)1T-TaS2単一層の111641f05.gifのCDW構造を平均場近似によって扱うことにより得られたSTM像は,実験データのSTMの長周期像とほぼ対比可能なパターンをもつことがわかった.さらに,CDW状態におけるSTS(走査型トンネル分光)スペクトルの空間分布がバイアス電圧によって敏感に変化するという注目すべき結果を理論的に予言した.

 (3)第5章では,CDW系と正常金属の界面や,CDW系とSTM探針からなる系を単純化したモデルにより統一的に扱い,界面のCDWが正常金属の影響を受けやすいことや,表面のCDWがSTM探針の影響で変化する可能性などを指摘した.

 (1)と(2)の結果は,トンネル電流がTaS2表面の局所電子状態密度に比例するという近似に基づいていること,(2)はCDWを絶対零度で平均場近似し,従って電子格子相互作用のダイナミックスが無視されていること,また得られたSTM像と実験データの一致はまだ十分ではないこと(計算結果は高温側の擬コメンシュレイト相のSTM像に近いが,低温側の111641f06.gifのコメンシュレイト相のパターンとはかなり異なっている),などが今後の問題として残されている.しかし,バンド理論による微視的電子状態に基づき1T-TaS2のCDW状態のSTM像を初めて具体的に計算し,未解決の問題に答を与えた成果は十分に評価できる.(3)の結果は,モデルの簡単さのために定性的であり,また予め推測できる範囲を超えてはいない.しかし,計算はしっかりした方法論に立脚して実行されており,今後より具体的で定量的な計算が行われるための最初の一歩としての意義が認められる.

 このように、本論文はCDW系表面のSTM像の理論という新しい課題に対して着実な第一歩を踏み出したものであり、表面物性理論の発展に寄与するところが大である。よって、本論文は博士(理学)の学位論文として合格であると審査員全員が認めた。

 なお、本研究は、塚田捷教授(指導教官)との共同研究となる部分を含むが、研究計画から計算の遂行、結果の考察まで、論文提出者が主体となって行ったものであることが認められた。

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