審査要旨 | | 1T-TaS2,2H-NbSe2などの遷移金属カルコゲン化合物は電荷密度波(CDW)状態をとることがよく知られているが,近年の走査型トンネル顕微鏡(STM)の技術の進歩によって,これらの物質のCDW状態における表面が直接に観測できるようになった.しかしながら,STM像がCDW状態のどのような微視的電子状態を反映するのかは,現在のところ必ずしも明かではなく,電子状態計算を基にしたSTM像の理論が必要である.例えば,これらの物質の表面第一層はカルコゲン原子からなるが,一方フェルミ準位近傍の電子状態は主として遷移元素のd電子からなっており,CDWの形成にもd電子のフェルミ面が重要な役割を果たしている.したがって,STM像が主として第一層のカルコゲン原子を見ているのか,内側の遷移金属層を見ているのかは自明ではなく,未解決の興味ある問題である.また,STM像にCDWの長周期構造が現れる機構,CDW状態の表面とバルクにおける相違,CDW状態に対するSTM探針の影響などの諸問題は理論計算によって明らかにされることが望まれている.本学位論文はこれらの問題を微視的電子論に基づいて理論研究したものである. 本論文は7章から構成されている.第1章は序論で本研究の目的と背景が述べられている.第2,3章では,それぞれ,STMの理論と遷移金属カルコゲン化合物のCDWについての紹介がなされている.第4,5章は本論文の中心部分で,第4章では1T-TaS2のTaS2単一層に対するDV-X法によるバンド計算を基にしたSTM像のシミュレーションが,また第5章では簡単化されたモデル系に対してタイトバインディング近似と散乱理論における伝達行列法による計算を基に,CDWと正常金属の界面の研究や表面のCDWに対するSTM探針の影響の研究がなされている.第6章では超伝導体・正常金属接合系の電子状態に対する簡単な計算がなされ,第7章はまとめに充てられている. 本研究から得られた主な成果は次の通りである. (1)第4章の1T-TaS2単一層に対するSTM像の計算から,正常相,CDW相のいずれにおいても,STM像は表面第一層のTa原子からの寄与を強く反映することが示された.これは探針に近いS原子の寄与がTa原子の寄与を上回るためであるが,同時に,Taの5d電子状態がSの3s,3p状態との混成相互作用を通じてS原子位置の電子状態に反映されることが重要な意味をもっている. (2)1T-TaS2単一層ののCDW構造を平均場近似によって扱うことにより得られたSTM像は,実験データのSTMの長周期像とほぼ対比可能なパターンをもつことがわかった.さらに,CDW状態におけるSTS(走査型トンネル分光)スペクトルの空間分布がバイアス電圧によって敏感に変化するという注目すべき結果を理論的に予言した. (3)第5章では,CDW系と正常金属の界面や,CDW系とSTM探針からなる系を単純化したモデルにより統一的に扱い,界面のCDWが正常金属の影響を受けやすいことや,表面のCDWがSTM探針の影響で変化する可能性などを指摘した. (1)と(2)の結果は,トンネル電流がTaS2表面の局所電子状態密度に比例するという近似に基づいていること,(2)はCDWを絶対零度で平均場近似し,従って電子格子相互作用のダイナミックスが無視されていること,また得られたSTM像と実験データの一致はまだ十分ではないこと(計算結果は高温側の擬コメンシュレイト相のSTM像に近いが,低温側ののコメンシュレイト相のパターンとはかなり異なっている),などが今後の問題として残されている.しかし,バンド理論による微視的電子状態に基づき1T-TaS2のCDW状態のSTM像を初めて具体的に計算し,未解決の問題に答を与えた成果は十分に評価できる.(3)の結果は,モデルの簡単さのために定性的であり,また予め推測できる範囲を超えてはいない.しかし,計算はしっかりした方法論に立脚して実行されており,今後より具体的で定量的な計算が行われるための最初の一歩としての意義が認められる. このように、本論文はCDW系表面のSTM像の理論という新しい課題に対して着実な第一歩を踏み出したものであり、表面物性理論の発展に寄与するところが大である。よって、本論文は博士(理学)の学位論文として合格であると審査員全員が認めた。 なお、本研究は、塚田捷教授(指導教官)との共同研究となる部分を含むが、研究計画から計算の遂行、結果の考察まで、論文提出者が主体となって行ったものであることが認められた。 |