高温超伝導体は、1986年の発見以来、常伝導相に見られる異常な振る舞い、特に磁気励起の問題を巡って多くの関心を引いてきた。これらの異常の中でも最も重要とみなされているのが、擬スピンギャップ異常と呼ばれる現象である。この現象は、中性子非弾性散乱、および核磁気共鳴の縦緩和において顕著に現われ、反強磁性スピン揺らぎの低エネルギー領域が、超伝導転移温度より高温の常伝導相において抑制をうける現象である。この現象が、イットリウム系に代表される二重層銅酸化物に特有であることから、最近二重層鋼酸化物の磁気励起をめぐる問題が多くの関心を集めている。 擬スピンギャップ異常は、対応する電荷励起における明瞭なギャップ的振る舞いを伴わないため、CuO2面内電子系で電荷自由度とスピン自由度が分離して見えるという描像を支持するかにみえる。つまり、擬スピンギャップ異常の起源を探る試みは、CuO2面内電子系がフェルミ流体として記述されうるかという重大な問題への重要な手がかりを与える。しかしながら、現段階でCuO2面内電子系がフェルミ流体として記述できるか否かという問題は解決していない。つまり、擬スピンギャップ異常をどのように解釈し得るかという問題意識が重要になる。 理論の立場からは、これまでに出発点からスピン電荷分離を仮定した非フェルミ流体描像(スピノン・ホロン描像)に立脚した擬スピンギャップ異常の説明が出されてきた。これはスピンギャップを、ホロンがボーズ凝縮するより高温側でスピノンのみが凝縮した相と解釈する立場である。 二重層銅酸化物における面間の磁気相関とスピンギャップ異常の関連を最初に指摘したのはIoffeらであった。その後、UbbensとLeeは磁気的に結合する二重層銅酸化物を、面間の磁気的相互作用を取り入れたt-J模型によって扱い、面間のスピノン凝縮によるスピンギャップ相の実現可能性を議論した。 しかし、これらの試みはいずれもCuO2面内電子系が非フェルミ流体であることを仮定した上での議論であって、初めからフェルミ流体の可能性を否定した扱いである。 そこで我々は、スピンギャップ異常をフェルミ流体論の枠内で、二重層銅酸化物の特性として理解する可能性を探ろうと考えた。これによって、擬スピンギャップ異常がCuO2面内電子系がフェルミ流体であるか否かを判定する上で果たす役割を判定できると考えられるからである。 フェルミ流体論の枠内でスピンギャップ異常を説明しようとする場合、面内の安定な粒子正孔励起を破壊せずに磁気的自由度を抑制する機構を探る必要がある。つまり、背景の面内電子系の凝縮相への転移を伴わずに、低エネルギー磁気励起に強い抑制効果が生じる可能性が要求される。従って、この立場では、スピンギャップは超伝導ギャップのような真のギャップではなく、何らかの機構によって磁気励起の低エネルギー領域に強い抑制効果が生じ、その結果見せかけのギャップ的振る舞いが見えていると考えられる。 この動機を踏まえて我々は、二重層銅酸化物の特徴として、たとえ弱くとも面間に反強磁性相互作用J0⊥が存在する場合、これが面内で強く発達した反強磁性スピン揺らぎによって非常に強く増強されることに着目した。 この場合、面間の相互作用は、面内スピン揺らぎの増強因子(ストーナー因子(q))の二乗を含む形で、J⊥(q)=J0⊥(q)2の様に増強される。この様子を図1に示す。 図1 面間相互作用が面内のスピン揺らぎによって増強される様子。波線はJ0⊥、波線は面内ハバード相互作用。濃い実線と薄い実線はそれぞれ対面する面内キャリアーのグリーン関数。陰をつけた三角形が面内スピン揺らぎによるバーテックスを表わし、ストーナー増強因子に対応する。 J0⊥の存在は、Y2Ba4Cu7O15の核磁気緩和およびYBa2Cu3O6絶縁相での赤外分光によっても確認されており、ドーピング濃度に大きく依存しないことが期待される。これに対し、J0⊥の起源である面間のキャリアーホッピング過程は強いドーピング濃度依存性を持ち、擬スピンギャップ異常の見られる低ドープ領域では有効的に非常に小さくなっていると期待できる。これを踏まえて、我々は二重層でのキャリアーの直接ホッピングを無視した簡単なモデルから出発する。 面間のスピン揺らぎは、反強磁性ベクトルq*=(,)の周辺で強く増強されるため、J⊥(q)を介したq*近傍の運動量移行をともなう面間の磁気的結合が非常に重要になる。 我々は、J⊥(q)によって誘起される電子・正孔対の交換散乱過程に着目した。この散乱過程は、面間磁気相関の成長とともに磁気励起の全体構造に大きな影響を与えるはずである。 磁気的相互作用によるスピンの散乱過程を扱う際に、散乱される2粒子のスピン状態によって3種の散乱チャンネルが現われる。そこで、我々はまず、準備として単純な2次元面内の遍歴電子においてハイゼンベルグ相互作用が存在する場合の動的スピン帯磁率を調べた。この模型は、強相関効果は含まれていないものの、形の上ではt-J模型と同等である。この模型に対して、一般化されたRPAを用いて計算を行った。この場合、通常の泡型求和と同時にバーテックス補正も考慮する必要がある。これに対して我々は、バーテックス補正の満たすペーテー・サルピーター方程式を閉じた形で解き、この補正が無視しうろことを定量的に示した。 また、スピンが保存する範囲で、スピン反転過程まで取り入れた計算を行うことによって、一般化されたRPAの枠内で、スピン空間での回転対称性が満たされていることを示した。 面内の単純な模型によるスピン依存散乱過程の扱いを踏まえれば、二重層系での動的スピン帯磁率の計算は見通しのよいものとなる。 我々はまず、J⊥(q)によって誘起される面間の交換散乱を記述するT行列を求めた。この際、q*近傍の運動量移行をともなう結合が重要になる点を考慮し、スピンの組み合わせによる3種のT行列、,,の満たすペーテー・サルビーター方程式を解いた。その結果、中間状態で多数回のスピン・フリップを伴う2種の過程、,が特に重要となる点を明らかにした。 以上の点を踏まえて、我々は面間に磁気的結合がある場合の動的スピン帯磁率、を計算した。ここで、mnは面のインデックス、はスピンの空間成分インデックスである。スピン空間での回転対称性を証明した上で、我々は横揺らぎの独立な2成分を表わす既約分極ダイアグラムに,,がどのように現われるかを調べた。特に、重要な寄与をもたらす過程を図2に示す。 図2 動的スピン帯磁気率の擬ギャップ的振る舞いに重要な寄与をもたらす二つの過程。a.はへの寄与を与え、e.はへの寄与を与える。 その結果、、ともに、,を介したモード結合効果による強い抑制効果を受けることを見い出した。 つまり、反強磁性ベクトル周辺の、解析接続された、の虚部に、ピークより低エネルギー側で強い抑制効果が生じることを示した。数値計算の結果を図3に示す。この機構による抑制効果は、面間相互作用がなければありえないものである。 図3 図2に示した過程が面内のRPAによるスピン揺らぎに与える効果。低エネルギー側でRPA的振る舞いからの大きな抑制が見られる。 我々はまた、得られた結果と実際の実験結果との関連についても議論した。 まず、中性子非弾性散乱については、中性子の磁気モーメントが作る磁場と各面の電子スピンとの相互作用による散乱過程を検出するため、微分散乱断面積はの形ですべての相関関数を等価に含む。この場合、低エネルギー側での磁気励起はとによる強い抑制効果を受ける。 次に、核磁気縦緩和においては、核スピンと電子スピンとの結合が面内の超微細構造定数を通して行われるため、面内の磁気相関+のみが緩和過程に寄与する。この場合もに見られる抑制効果によって、低エネルギーでの磁気励起の現象を説明することができる。 また、核磁気共鳴に見られるスピン・エコー崩壊は、空間的に離れた核スピン間に働く電子系のスピン揺らぎを介した間接相互作用強度についての知見を与える。このため、での抑制効果はこの場合逆に増強効果としてあらわれる。このため、我々の扱いではスピン・エコー崩壊率にはギャップ的振る舞いが見られないことになり、この結果も実験結果を説明しうる。 以上の結果から、我々は限定されたモデルの枠内ではあるが、面内電子系のフェルミ面を安定にたもったまま動的スピン帯磁率の擬ギャップ的振る舞いを説明する可能性を得た。 我々の考えたモード結合は、面間の交換散乱過程が強く成長しても面内電子系の安定な粒子・正孔励起を破壊しないので、系が超伝導状態に転移した後も大きな変更を受けずに成長すると考えられる。 また、イットリウム系に見られる超伝導転移温度以下でのシャープな41meVピークが、発達した面間相互作用が超伝導ギャップ内に誘起するエクシトンに由来すると考える可能がある。この点については今後の課題としたい。 また、弱い直接ホッピングを入れた場合に我々の主張が変更を受けるか否かについても現在考察中である。 |