学位論文要旨



No 111643
著者(漢字) 岸根,順一郎
著者(英字)
著者(カナ) キシネ,ジュンイチロウ
標題(和) 磁気的に結合した二重層銅酸化物におけるスピンの揺らぎ
標題(洋) Spin Fluctuations in Magnetically Coupled Bilayer Cuprates
報告番号 111643
報告番号 甲11643
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3007号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小形,正男
 東京大学 教授 福山,秀敏
 東京大学 教授 上田,和夫
 東京大学 教授 高田,康民
 東京大学 助教授 前田,京剛
内容要旨

 高温超伝導体は、1986年の発見以来、常伝導相に見られる異常な振る舞い、特に磁気励起の問題を巡って多くの関心を引いてきた。これらの異常の中でも最も重要とみなされているのが、擬スピンギャップ異常と呼ばれる現象である。この現象は、中性子非弾性散乱、および核磁気共鳴の縦緩和において顕著に現われ、反強磁性スピン揺らぎの低エネルギー領域が、超伝導転移温度より高温の常伝導相において抑制をうける現象である。この現象が、イットリウム系に代表される二重層銅酸化物に特有であることから、最近二重層鋼酸化物の磁気励起をめぐる問題が多くの関心を集めている。

 擬スピンギャップ異常は、対応する電荷励起における明瞭なギャップ的振る舞いを伴わないため、CuO2面内電子系で電荷自由度とスピン自由度が分離して見えるという描像を支持するかにみえる。つまり、擬スピンギャップ異常の起源を探る試みは、CuO2面内電子系がフェルミ流体として記述されうるかという重大な問題への重要な手がかりを与える。しかしながら、現段階でCuO2面内電子系がフェルミ流体として記述できるか否かという問題は解決していない。つまり、擬スピンギャップ異常をどのように解釈し得るかという問題意識が重要になる。

 理論の立場からは、これまでに出発点からスピン電荷分離を仮定した非フェルミ流体描像(スピノン・ホロン描像)に立脚した擬スピンギャップ異常の説明が出されてきた。これはスピンギャップを、ホロンがボーズ凝縮するより高温側でスピノンのみが凝縮した相と解釈する立場である。

 二重層銅酸化物における面間の磁気相関とスピンギャップ異常の関連を最初に指摘したのはIoffeらであった。その後、UbbensとLeeは磁気的に結合する二重層銅酸化物を、面間の磁気的相互作用を取り入れたt-J模型によって扱い、面間のスピノン凝縮によるスピンギャップ相の実現可能性を議論した。

 しかし、これらの試みはいずれもCuO2面内電子系が非フェルミ流体であることを仮定した上での議論であって、初めからフェルミ流体の可能性を否定した扱いである。

 そこで我々は、スピンギャップ異常をフェルミ流体論の枠内で、二重層銅酸化物の特性として理解する可能性を探ろうと考えた。これによって、擬スピンギャップ異常がCuO2面内電子系がフェルミ流体であるか否かを判定する上で果たす役割を判定できると考えられるからである。

 フェルミ流体論の枠内でスピンギャップ異常を説明しようとする場合、面内の安定な粒子正孔励起を破壊せずに磁気的自由度を抑制する機構を探る必要がある。つまり、背景の面内電子系の凝縮相への転移を伴わずに、低エネルギー磁気励起に強い抑制効果が生じる可能性が要求される。従って、この立場では、スピンギャップは超伝導ギャップのような真のギャップではなく、何らかの機構によって磁気励起の低エネルギー領域に強い抑制効果が生じ、その結果見せかけのギャップ的振る舞いが見えていると考えられる。

 この動機を踏まえて我々は、二重層銅酸化物の特徴として、たとえ弱くとも面間に反強磁性相互作用J0⊥が存在する場合、これが面内で強く発達した反強磁性スピン揺らぎによって非常に強く増強されることに着目した。

 この場合、面間の相互作用は、面内スピン揺らぎの増強因子(ストーナー因子(q))の二乗を含む形で、J(q)=J0⊥(q)2の様に増強される。この様子を図1に示す。

図1 面間相互作用が面内のスピン揺らぎによって増強される様子。波線はJ0⊥、波線は面内ハバード相互作用。濃い実線と薄い実線はそれぞれ対面する面内キャリアーのグリーン関数。陰をつけた三角形が面内スピン揺らぎによるバーテックスを表わし、ストーナー増強因子に対応する。

 J0⊥の存在は、Y2Ba4Cu7O15の核磁気緩和およびYBa2Cu3O6絶縁相での赤外分光によっても確認されており、ドーピング濃度に大きく依存しないことが期待される。これに対し、J0⊥の起源である面間のキャリアーホッピング過程は強いドーピング濃度依存性を持ち、擬スピンギャップ異常の見られる低ドープ領域では有効的に非常に小さくなっていると期待できる。これを踏まえて、我々は二重層でのキャリアーの直接ホッピングを無視した簡単なモデルから出発する。

 面間のスピン揺らぎは、反強磁性ベクトルq*=(,)の周辺で強く増強されるため、J(q)を介したq*近傍の運動量移行をともなう面間の磁気的結合が非常に重要になる。

 我々は、J(q)によって誘起される電子・正孔対の交換散乱過程に着目した。この散乱過程は、面間磁気相関の成長とともに磁気励起の全体構造に大きな影響を与えるはずである。

 磁気的相互作用によるスピンの散乱過程を扱う際に、散乱される2粒子のスピン状態によって3種の散乱チャンネルが現われる。そこで、我々はまず、準備として単純な2次元面内の遍歴電子においてハイゼンベルグ相互作用が存在する場合の動的スピン帯磁率を調べた。この模型は、強相関効果は含まれていないものの、形の上ではt-J模型と同等である。この模型に対して、一般化されたRPAを用いて計算を行った。この場合、通常の泡型求和と同時にバーテックス補正も考慮する必要がある。これに対して我々は、バーテックス補正の満たすペーテー・サルピーター方程式を閉じた形で解き、この補正が無視しうろことを定量的に示した。

 また、スピンが保存する範囲で、スピン反転過程まで取り入れた計算を行うことによって、一般化されたRPAの枠内で、スピン空間での回転対称性が満たされていることを示した。

 面内の単純な模型によるスピン依存散乱過程の扱いを踏まえれば、二重層系での動的スピン帯磁率の計算は見通しのよいものとなる。

 我々はまず、J(q)によって誘起される面間の交換散乱を記述するT行列を求めた。この際、q*近傍の運動量移行をともなう結合が重要になる点を考慮し、スピンの組み合わせによる3種のT行列、,,の満たすペーテー・サルビーター方程式を解いた。その結果、中間状態で多数回のスピン・フリップを伴う2種の過程、,が特に重要となる点を明らかにした。

 以上の点を踏まえて、我々は面間に磁気的結合がある場合の動的スピン帯磁率、を計算した。ここで、mnは面のインデックス、はスピンの空間成分インデックスである。スピン空間での回転対称性を証明した上で、我々は横揺らぎの独立な2成分を表わす既約分極ダイアグラムに,,がどのように現われるかを調べた。特に、重要な寄与をもたらす過程を図2に示す。

図2 動的スピン帯磁気率の擬ギャップ的振る舞いに重要な寄与をもたらす二つの過程。a.はへの寄与を与え、e.はへの寄与を与える。

 その結果、ともに、,を介したモード結合効果による強い抑制効果を受けることを見い出した。

 つまり、反強磁性ベクトル周辺の、解析接続されたの虚部に、ピークより低エネルギー側で強い抑制効果が生じることを示した。数値計算の結果を図3に示す。この機構による抑制効果は、面間相互作用がなければありえないものである。

図3 図2に示した過程が面内のRPAによるスピン揺らぎに与える効果。低エネルギー側でRPA的振る舞いからの大きな抑制が見られる。

 我々はまた、得られた結果と実際の実験結果との関連についても議論した。

 まず、中性子非弾性散乱については、中性子の磁気モーメントが作る磁場と各面の電子スピンとの相互作用による散乱過程を検出するため、微分散乱断面積はの形ですべての相関関数を等価に含む。この場合、低エネルギー側での磁気励起はによる強い抑制効果を受ける。

 次に、核磁気縦緩和においては、核スピンと電子スピンとの結合が面内の超微細構造定数を通して行われるため、面内の磁気相関+のみが緩和過程に寄与する。この場合もに見られる抑制効果によって、低エネルギーでの磁気励起の現象を説明することができる。

 また、核磁気共鳴に見られるスピン・エコー崩壊は、空間的に離れた核スピン間に働く電子系のスピン揺らぎを介した間接相互作用強度についての知見を与える。このため、での抑制効果はこの場合逆に増強効果としてあらわれる。このため、我々の扱いではスピン・エコー崩壊率にはギャップ的振る舞いが見られないことになり、この結果も実験結果を説明しうる。

 以上の結果から、我々は限定されたモデルの枠内ではあるが、面内電子系のフェルミ面を安定にたもったまま動的スピン帯磁率の擬ギャップ的振る舞いを説明する可能性を得た。

 我々の考えたモード結合は、面間の交換散乱過程が強く成長しても面内電子系の安定な粒子・正孔励起を破壊しないので、系が超伝導状態に転移した後も大きな変更を受けずに成長すると考えられる。

 また、イットリウム系に見られる超伝導転移温度以下でのシャープな41meVピークが、発達した面間相互作用が超伝導ギャップ内に誘起するエクシトンに由来すると考える可能がある。この点については今後の課題としたい。

 また、弱い直接ホッピングを入れた場合に我々の主張が変更を受けるか否かについても現在考察中である。

審査要旨

 高温超伝導の問題は発見から10年たった今も複雑であり、全貌を理解されるに至っていない。特に高温超伝導体の磁気励起に関しては、超伝導転移温度より上の温度からギャップ的な振舞が見られるという特異な現象が見出されている。本研究はこの擬スピンギャップと呼ばれている問題を取り上げ、この現象を理解するためのメカニズムを考察した。

 高温超伝導体における擬スピンギャップに関する実験データを整理すると、まずY系での中性子散乱の実験で、超伝導転移温度(Tc=59K)よりはるが上の温度(150K)あたりから、波数(,)の散乱強度の内、低エネルギー部分が弱くなっているということが知られている。又、NMRの核磁気緩和時間T1の温度依存性を調べると、Tcより高い温度で1/T1Tがピークを持ち、それ以下Tcまで減少し続けることがわかっている。1/T1Tはスピン帯磁率の虚数部分の低エネルギー極限での値に比例しているので、中性子散乱の実験と矛盾しない。これらの実験は、スピン励起の低エネルギー部分にギャップが開いて励起が無くなるか、あるいは励起が非常に弱められているということを示している。

 一方La系の高温超伝導体では不純物の影響があるために、スピンギャップ的な振舞の有無については、今なお論争が続いている。しかしNMRの1/T1Tの結果は、やはりTcより上の温度から微小な減少が見られるようである。

 この擬スピンギャップの現象は、高温超伝導の転移温度Tcと連動しているように見え、高温超伝導発現のメカニズムの理解のために非常に重要であろうと考えられている。実際、強い磁性を持つ反強磁性絶縁体の母物質に電荷を担うホールをドーピングしていくと、まず擬スピンギャップの生じる現象が起こり、さらに高温超伝導相が隣接しているように見えている。以上のような実験を理解するために、大きく分けて2つの立場がある。(1)一つには、この擬スピンギャップ的な振舞が高温超伝導体全体に共通するものだとするもの、(2)二つ目は、Y系とLa系の違いを重視して、この違いは、Y系では2枚のCuO2面が向かいあっているが、La系ではCuO2面は一枚ずつ独立しているという違いから生じていると見なす立場である。この立場は新しい物ではなく、Millis,Monien,Leeなどによって提唱されている。現在までのところ、どちらの見方が真実に近いのか決着はついていないが、本論文では後者の立場を取った。

 このような観点に立って、2枚のCuO2面間の相互作用を考慮したモデルを作り、そのモデルを調べるのであるが、高温超伝導体が強い相関を持つ電子系と考えられているために、どのように解析するかが次に難しい問題となっている。現在よく用いられる手法は2つあって、(1)強相関を取り入れたt-Jモデルというものを考え、強い相関を近似的に取り扱う(2)従来のようなフェルミ液体論が高温超伝導でも基本的に成り立っていると仮定し、それを基礎にして相互作用を摂動で扱うという2つの手法がある。

 本論文では後者、すなわち従来のフェルミ液体の立場を取り、CuO2面間の相互作用の有無が磁気励起に対してどのような効果があるか理論的に調べた。さらに中性子散乱とNMRの実験がこれによって理解できるかどうか考察した。本論文の構成は以下のようになっている。第1章が序、第2章が今までわかっている実験とスピンギャップに関する理論についてのレヴューである。第3章では、本研究で用いるモデルハミルトニアンを導入し、ダイアグラムの手法による計算をまとめてある。結果の考察と、中性子散乱・NMRの1/T1Tの計算は、第3章の終りにまとめられている。

 具体的なモデルとしては、以下のようなハミルトニアンを採った。

 111643f06.gif

 ここで下添字のnは2枚の面(n=1,2)を表す。フェルミ液体の立場をとるので、面内は弱相関のハバードモデルであると仮定しており、Uに関しては通常のグリーン関数ダイヤグラムの手法で取り扱う。面間の相互作用J0⊥は、向かいあった位置でのスピン間の交換相互作用の形を仮定した。面間の相互作用にはこの他にもいろいろなものが想定できるが、本研究では特に(1)式のような交換相互作用の形のものが重要であると考え、この相互作用の効果を議論している。実際この項は、向かいあった位置でのスピンー重項を形成する働きがある。もしスピンー重項が形成されると、それによるスピンギャップが得られるという筋書きである。

 まず、グリーン関数を用いたダイアグラムの方法によって、面内の相互作用Uによるvertex correctionが面間の相互作用J0⊥を実効的に強めるということが示された。このことは、もともとのハミルトニアン中のJ0⊥が小さくても、面内の遍歴電子系の相関によって実効的なJが大きい値となり、その結果スピンギャップが開きやすくなるということを意味している。実際に2つの面上のスピンは、この増加されたJによって強い引力を感じることになり、一重項を形成する。温度を下げていくと、この原因による不安定性が生じて相転移してしまうことが示されるが、これは近似のせいであると考えられ、本当の不安定性ではないと思われる。本論文では、この不安定性の前駆現象がスピンギャップとして見られるという可能性を議論した。

 このメカニズムを用いて具体的に中性子散乱強度の温度変化とNMRの1/T1Tの温度変化を計算した。まず、波数(,)のところの中性子数乱強度には、ダイナミカルネスティングという現象によるピークが現れる。これは以下のようにして生じる。反強磁性の場合にはネスティングのために、波数(,)の位置にピークが生じる。しかし今はドーピングによってフェルミ面が変更を受けているのでピークにはならない。その代わり、ある有限のエネルギーのときに、ちょうどネスティングにとって有利な状況が生じ、そのエネルギーでピークを持つことが可能である。これをダイナミカルネスティングと呼ぶ。本論文では、このようなダイナミカルネスティングが(1)式のモデルで生じることをまず示し、そのピークの低エネルギー側の温度依存性を調べた。その結果、温度が下がるにつれてピークは生長するが、それに伴い低エネルギー側のすそは小さくなることがわかった。ダイアグラムの解析から、この現象は面間の相互作用によるスピン一重項の形成のためだと考えられる。本論文では、比較のために面間の相互作用J0⊥がないときの計算も行なっている。J0⊥=0の場合にも中性子散乱強度の減少は見られるが、J0⊥の相互作用がある場合には、この減少がより強調されることがわかった。

 次にNMRの1/T1Tの温度依存性について調べた。この量は、スピン帯磁率の虚数部分の低エネルギー極限での値に比例したものであるが、運動量が(,)のところだけではなくブリルアンゾーン全体について積分した値である。このため計算は中性子散乱に比べて大変となる。この論文では、とりあえず代表的な運動量の値をとって和を取るという方法で1/T1Tの温度依存性を評価した。その結果、J0⊥の相互作用がない場合には1/T1Tは低温に行くにしたがって増加するが、J0⊥があると、スピンー重項の形成のために温度が下がるにつれて1/T1Tも下がるという傾向が見出された。

 以上のように本研究では、フェルミ液体論の立場に立ち2枚のCuO2面を考慮することによって、スピンギャップを説明し得るようなメカニズムを考察した。しかし、実際の実験ではスピンギャップのドーピング依存性、エネルギー・温度のスケールなどが分かっており、それらのことが総合的に説明できるかどうかは議論の余地がある。また、得られたスピンギャップによって、面内のスピン揺らぎが逆に抑制されるという効果があるはずであり、その効果を取り入れるためには自己無憧着な計算が必要である。これら全てについて明らかにするのは非常に困難であり、本論文ではそこまで行なってはいない。しかし、もともと本論文で扱っている問題自体が、議論を呼んでいるものであり、この複雑な問題への解釈の1つの可能性を提唱したという点が評価できると思われる。この論文を出発点として、今後研究が広がっていくことも期待される。

 以上のことを考慮して、審査員一同は本論文が博士論文にふさわしいものであると認定した。

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