学位論文要旨



No 111645
著者(漢字) 小嶋,健児
著者(英字)
著者(カナ) コジマ,ケンジ
標題(和) 一重項基底状態物質のミュオンスピン緩和測定
標題(洋) Muon Spin Relaxation Measurements of Singlet Ground-State Materials
報告番号 111645
報告番号 甲11645
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3009号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安岡,弘志
 東京大学 教授 福山,秀敏
 東京大学 助教授 西山,樟生
 東京大学 助教授 今田,正俊
 東京大学 助教授 吉澤,英樹
内容要旨

 私は、学位論文のための研究として、スピン梯子物質(Srn-1Cun+1O2n;n=3,5)、ハルデン物質((Y2-xCax)2Ba(Ni1-yMgy)O5)及び、スピンパイエルス物質((Cu1-xZnx)(Ge1-ySiy)O3)の、主にミュオンスピン緩和法(SR)による研究をおこなった[1,2,3,4]。これらの系は、反強磁性的相互作用を持つスピン系であるにもかかわらず、特定の格子構造(2本足スピン梯子[5])や、スピンの値(S=1;ハルデン系[6])、格子の周期的歪み(スピンパイエルス系[7])のために、Neel的な反強磁性秩序が抑制されて、スピン一重項が基本となった基底状態(一重項基底状態)を持つと考えられている系である(図1)。

図1:一重項基底状態の概念図。これら3種のスピン系は、スピン一重項対(アレイ型の太線)が基本となった基底状態を持つ。

 これら一重項基底状態の一般的な磁気的特徴のひとつとして、「基底状態における内部磁場の欠如」があげられる。この特徴を実験的に検証するためには、スピン緩和を用いた局所磁場プローブ法が有効であるが、SRは、そのような種々の測定手法の中で、微小・希薄なモーメントに対して最も高感度な手法である[8]。さらに、以上の物質に非磁性原子(Mg2+→Ni2+、Zn2+→Cu2+)や正電荷(Ca2+→Y3+)をドープすると一重項基底状態から不対スピンを作り出すことができるが、この博士論文研究では、これらドーピングに伴う不対スピンのダイナミックスをSR法で調べた。

スピン梯子物質(Srn-1Cun+1O2n)

 この物質は、これまでのところ、梯子の幅を決めるCu原子の数(’足’の数)が2と3の物が合成できている(各々n=3,5に対応)[9]。我々は、その両方のSR測定をおこない、「3本足梯子」は、約52Kでスピンが秩序化する一方、「2本足梯子」は20mKまで常磁性的にふるまうことを発見した(図2)。理論的には、スピン梯子系の基底状態は、梯子の足の数が偶数の時だけ一重項基底状態であると予想されているため[5]、我々のSR測定の結果は、この予想を支持している。また、3本足梯子系の秩序温度(52K)は、同じSr(Ca)-Cu-Oからなる二次元正方格子系のネール温度(Ca0.86Sr0.14CuO2:540K)と一次元チェイン系のネール温度(Sr2CuO3:5K)の中間であることが明らかになったが、これは、梯子構造が、二次元と一次元の間の次元性を持つことを反映していると考えられる。これらの結果は、論文[1]にまとめられている。

図2:スピン梯子物質のSRスペクトル。「3本足梯子系」Sr4Cu6O10では、スピン秩序化に伴う静的内部磁場が観測されたが、「2本足梯子」Sr2Cu4O6はmK領域まで常磁性的にふるまう。
ハルデン系と非磁性原子/正電荷ドープ((Y2-xCax)Ba(Ni1-yMgy)O5)

 ハルデン系とは、S=1スピンの一次元チェインで、隣同士のスピンが反強磁性的相互作用を持つ系である。この系の基底状態は、F.D.M.Haldaneが最初に指摘したように、多数のスピン一重項からなると考えられている[6]。最近、ハルデン系のモデル物質として、無機物質のY2BaNiO5が発見された[10]。この系の利点は、非磁性原子(Mg)をスピンサイト(Ni)にドープして、チェインを切ることのできる点と、Y3+サイトにCa2+をドープして、系に正電荷をドープできる点である。我々は、まず、何もドープしていない系のSR測定をおこない、100mKまで、磁気秩序が現れないことを確かめた。この結果は、非磁性的基底状態の予想を支持している。また、非磁性原子(Mg)をドープして、チェインを切った系Y2Ba(Ni1-yMgy)O5も、20mKまで磁気秩序を示さず、一重項基底状態を保つらしいことが明らかになった(図3)。

 正電荷をドープしたハルデン物質(Y2-xCax)BaNiO5では、帯磁率にスピングラス的カスプと冷却過程による履歴が現れる(図3)。我々は、SRで、このカスプ温度以下のスピン揺らぎを調べ、その結果、mK温度領域まで、奇妙なスピン揺らぎが残ることが明らかになった。このスピン揺らぎによるミュオンスピン緩和関数は、従来の久保-鳥谷部理論では説明の付かない磁場依存性を示し、この系のスピン揺らぎが、従来仮定されているマルコフ過程からほど遠いことを示唆している。同様の奇妙なスピン揺らぎは、フラストレートしたカゴメ格子系(SrCr8Ga4O19)のSRでも観測されており[11]、両者の基底状態の類似性が注目される。これらの結果の大部分は、論文[2,3]にまとめられている。

図3:ハルデン物質の帯磁率とSRスペクトル。純な系と非磁性原子ドープした系は非磁性基底状態を保つが、正電荷ドープした系は、帯磁率のスピングラス的カスブに対応して、ミュオンスピン緩和がはやくなる。
スピンパイエルス系と非磁性原子ドープ((Cu1-xZnx)(Ge1-ySiy)O3)

 スピンパイエルス系とは、S=1/2一次元スピンチェインで、スピン−格子結合のため、有限温度Tsp以下で、格子が二倍周期に歪み、それと同時にスピン一重項対が、互いに近づいたスピン間で形成される系である。近年、CuGeO3という無機モデル物質が発見され[12]、スピンサイト(Zn2+→Cu2+)や、側鎖(Si→Ge)へのドーピングの影響が調べられるようになった。この博士論文研究では、まず、CuGeO3が非磁性基底状態を持つことを、SRで20mKまで確認した。さらに、側鎖にドープした系(Cu(Ge1-ySiy)O3;y=0.02)では、内部磁場によるミュオンスピンのLarmor歳差運動が観測され、CuスピンのNeel秩序を支持する結果となった。スピンサイトにZnをドープした系((Cu1-xZnx)GeO3)では、Zn濃度揺らぎに伴う内部磁場のマクロスコピックな分布のため、ミュオンスピンのLarmor回転は観測できなかったが、Neel温度以下で静的な内部磁場によるミュオンスピン緩和が観測された。その緩和率は、Neel温度TNを最高にするZn濃度(x〜0.04)で最大値を取ることが明らかになり、’Znオーバードープ領域’(x>0.04;[12])では秩序化するモーメントの長さが縮むことが示唆された。

図4:側鎖にSiドープしたスピンパイエルス物賀の零磁場SRスペクトルと内部磁場の温度変化。CuモーメントのNeel秩序による、ミュオンスピン回転が観測された。温度変化の図中の破線はべき則〜による解析。
まとめ

 本博士論文研究でのSR測定によって、上記3種の一重項基底状態物質(Sr2Cu4O6、Y2BaNiO5及び、CuGeO3)は、非磁性の基底状態を実現していることが明らかになった。これらの系はみな、常磁性的でゆっくりしたミュオン緩和を引き起こす。ところが、非磁性原子をスピンサイトにドープした場合の応答は、ハルデン物質(Y2Ba(Ni1-yMgy)O5)とスピンパイエルス物質((Cu1-xZnx)GeO3)で、定性的に異なる。前者は非磁性基底状態を保つ一方、後者はモーメントの静的秩序化を示した。この応答の違いは、基底状態の構造の違い(図1)を反映しているのかもしれない。

 本博士論文研究を通じて、最も新しい現象は、正電荷ドープしたハルデン物質((Y2-xCax)BaNiO5)で観測された、奇妙なスピン揺らぎである。このスピン揺らぎは、mK領域でも残る上、通常のマルコフ過程に基づくスピン緩和理論では説明できず、その理解は、将来の課題として残されている。

参考文献[1] K.Kojima etal,Phys.Rev.Lett.74(1995)2812.[2] K.Kojima etal,Phys.Rev.Lett.74(1995)3471.[3] K.Kojima etal,J.of Mag.Mag.Matrs.140-144(1995)1657(ICM94 proceedings).[4] K.Kojima etal,unpublished.[5] T.M.Rice etal,Europhys.Lett.23(1993)445;S.Gopalan etal,Phys.Rev.B49(1994)8901.[6] F.D.M.Haldane,Phys.Lett.93A(1983)464;Phys.Rev.Lett.50(1983)1153.[7] H.M.McConnell and R.J.Lynden-Bell,J.Chem.Phys.36(1963)2393;D.D.Thomas and H.Keller and H.M.McConnell,J.Chem.Phys.39(1962)2321;D.B.Chesnut,J.Chem.Phys.46(1966)4677.[8] R.S.Hayano etal,Phys.Rev.B20(1979)850;Y.J.Uemura etal,Phys.Rev.B31(1985)546.[9] M.Azuma etal,Phys.Rev.Lett.73(1994)3463.[10] D.J.Buttrey etal,J.of Solid State Chem.88(1990)291.[11] Y.J.Uemura etal,Phys.Rev.Lett.73(1994)3306.[12] M.Hase etal,Phys.Rev.Lett.70(1993)3651;M.Hase etal,Phys.rev.Lett.71(1993)4059.
審査要旨

 本論文は7章からなり、第1章では本研究の骨子となっている低次元磁性体における基底状態で反強磁性磁気秩序を伴わない、いわゆる一重項基底状態(singlet ground state)の基本的な概念と研究の背景が概説されている。第2章と第3章では本研究の実験手段であるミュオンスピン緩和の原理と測定方法、そこから得られる物理情報を説明し、特に緩和時間の理論的研究について詳しく述べられている。第4章、第5章、第6章ではそれぞれ本研究で取り上げた典型物質であるスピン梯子物質、ハルデン物質及びスピンパイエルス物質についての実験結果と解析について述べられている。第7章はこれらの結果の総括と本研究で得られた結論について述べられている。

 本学位論文の研究として、申請者はスピン梯子物質(Srn-1Cun+1O2n;n=3,5)、ハルデン物質((Y2-xCax)2Ba(Ni1-yMgy)O5)及び、スピンパイエルス物質((Cu1-xZnx)(Ge1-ySiy)O3)の三種の物質系を取り上げ、主にミュオンスピン緩和法(SR)を用いて低温での磁気的性質についての研究をおこなっている。これらの系は、反強磁性的相互作用を持つスピン系であるにもかかわらず、特定の格子構造(2本足スピン梯子)や、スピンの値(S=1;ハルデン系)、格子の周期的歪み(スピンパイエルス系)のために、ネール的な反強磁性秩序が抑制されて、スピン-重項が基本となった基底状態を持つと考えられている系である。これら一重項基底状態の一般的な磁気的特徴のひとつとして、「基底状態における内部磁場の欠如」があげられる。この特徴を実験的に検証するためには、スピン緩和を用いた局所磁場プローブ法が有効であるが、SRは、そのような種々の測定手法の中で、微少・希薄なモーメントに対して最も高感度な手法である。さらに、これらの物質に非磁性原子(Mg2+→Ni2+、Zn2+→Cu2+)や正電荷(Ca2+→Y3+)をドープすると一重項基底状態から不対スピンを作り出すことができるが、本博士論文では、これらドーピングに伴う不対スピンのダイナミックスをSR法で研究した成果も述べられている。

 以下にそれぞれの系についての実験結果と、それらの解析から得られた結論について要約する。

1) スピン梯子物質(Srn-1Cun+1O2n)

 この物質は、これまでのところ、梯子の幅を決めるCu原子の数(’足’の数)が2と3のものが合成できている(各々n=3,5に対応)。本研究では、その両方のSR測定をおこない、「3本足梯子」は、約52Kでスピンが秩序化する一方、「2本足梯子」は20mKまで常磁性的にふるまうことを発見している。理論的には、スピン梯子系の基底状態は、梯子の足の数が偶数の時だけ一重項基底状態であると予想されているため、本研究のSR測定の結果は、この予想を支持している。また、3本足梯子系の秩序温度(52K)は、同じSr(Ca)-Cu-Oからなる二次元正方格子系のネール温度(Ca0.86Sr0.14CuO2:540K)と一次元チェイン系のネール温度(Sr2CuO3:5K)の中間であることが明らかになったが、これは、梯子構造が、二次元と一次元の間の次元性を持つことを反映していると結論している。

2) ハルデン系と非磁性原子/正電荷ドープ((Y2-xCax)Ba(Ni1-yMgy)O5)

 ハルデン系とは、S=1スピンの一次元チェインで、隣同士のスピンが反強磁性的相互作用を持つ系である。この系の基底状態は、F.D.M.Haldaneが最初に指摘したように、多数のスピン一重項からなると考えられている。最近、このハルデン系のモデル物質として、無機物質のY2BaNiO5が発見された。この系の利点は、非磁性原子(Mg)をスピンサイト(Ni)にドープして、チェインを切ることのできる点と、Y3+サイトにCa2+をドープして、系に正電荷をドープできる点である。本研究では、まず、何もドープしていない系のSR測定をおこない、100mKまで、磁気秩序が現れないことを確かめている。この結果は、非磁性的基底状態の予想を支持している。また、非磁性原子(Mg)をドープして、チェインを切った系Y2Ba(Ni1-yMgy)O5も、20mKまで磁気秩序を示さず、一重項基底状態を保つらしいことを明らかにしている。

 正電荷をドープしたハルデン物質(Y2-xCax)BaNiO5では、帯磁率にスピングラス的カスプと冷却過程による履歴が現れる。本研究では、SRで、このカスプ温度以下でスピン揺らぎを調べ、その結果、mK温度領域まで、奇妙なスピン揺らぎが残ることを明らかにしている。このスピン揺らぎによるミュオンスピン緩和関数は、従来の久保-鳥谷部理論では説明のつかない磁場依存性を示し、この系のスピン揺らぎが、従来仮定されているマルコフ過程からほど遠いことを示唆している。同様の奇妙なスピン揺らぎは、フラストレートしたカゴメ格子系(SrCr8Ga4O19)のSRでも観測されており、理論的解明には至っていないが、両者の基底状態の類似性が注目される。

3) スピンパイエルス系と非磁性原子ドープ

 スピンパイエルスとは、S=1/2一次元スピンチェインで、スピン-格子結合のため、有限温度TSP以下で、格子が二倍周期に歪み、それと同時にスピン一重項対が、互いに近づいたスピン間で形成される系である。近年、CuGeO3という無機モデル物質が発見され、スピンサイト(Zn2+→Cu2+)や、測鎖(Si→Ge)へのドーピングの影響が調べられるようになった。研究では、まず、CuGeO3が非磁性基底状態を持つことを、SRで20mKまで確認している。さらに、側鎖にドープした系(Cu(Ge1-ySiy)O3;y=0.02))では、内部磁場によるミュオンスピンのLarmor歳差運動が観測され、Cuスピンのネール秩序を支持する結果となっている。スピンサイトにZnをドープした系((Cu1-xZnx)GeO3)では、Zn濃度揺らぎに伴う内部磁場のマクロスコピックな分布のため、ミュオンスピンのLarmor回転は観測できなかったが、ネール温度以下で静的な内部磁場によるミュオンスピン緩和が観測された。その緩和率は、ネール温度TNを最高にするZn濃度(x〜0.04)で最大値を取ることが明らかになり、’Znオーバードープ領域’(x>0.04)では秩序化するモーメントの長さが縮むことが示唆されている。

 以上、纏めてみると本博士論文研究でのSR測定によって、上記3種の一重項基底状態物質(Sr2Cu4O6、Y2BaNiO5及び、CuGeO3)は、非磁性の基底状態を実現していることが明らかになった。これらの系はみな、常磁性的でゆっくりしたミュオン緩和を引き起こしている。ところが、非磁性原子をスピンサイトにドープした場合の応答は、ハルデン物質(Y2Ba(Ni1-yMgy)O5)とスピンパイエルス物質((Cu1-xZnx)GeO3)で、定性的に異なっている。前者は非磁性基底状態を保つ一方、後者はモーメントの静的秩序化を示すことが判明した。この応答の違いは、基底状態の構造の違いを反映している。本博士論文研究を通じて、最も新しい現象は、正電荷ドープしたハルデン物質(Y2-xCaxBaNiO5)で観測された、奇妙なスピン揺らぎである。このスピン揺らぎは、mK領域でも残る上、通常のマルコフ過程に基づくスピン緩和理論では説明できず、その理解は、将来の課題として残されている。

 以上のように、本研究は最近話題になっている低次元磁性体の一重項基底状態について微視的な立場より研究を行い、特に低温での磁気的性質を明らかにしたものであり、この分野の実験的研究に対する貢献は多大であると判断し、審査委員一同学位論文として適当であると結論した。

 なお、本論文はコロンビヤ大学植村泰明教授、東京大学工学部内田慎一教授、同内野倉國光教授や京都大学高野幹夫教授数名との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。又、この件に関して、共同研究者からの同意承諾書が提出されている。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53898