本論文は4つの章と要約の章からなり、第1章と第2章は研究の目的と背景および光電子分光の原理の紹介に当てられている。3d化合物磁性体は局在電子磁性体と遍歴電子磁性体の両極限の中間に位置し、非常に多様な磁性を示すが、その詳細なメカニズムは不明である。これらメカニズムの解明には、電子構造を明らかにすることが重要な課題となっている。 本論文では、3d化合物磁性体として、NiAs型叉は欠陥NiAs型構造を持つFeカルコゲナイド(FeS,Fe7S8,Fe7Se8)およびMnプニクタイド(MnAs,MnSb)を取り上げ、それらの電子構造を正・逆光電子分光法を用いて研究した。FeSは反強磁性を示す半導体であるが、Feサイトに規則的に欠陥の入ったFe7S8はフェリ磁性を示す金属である。さらに硫黄をセレンに変えたFe7Se8もフェリ磁性を示す。すなわち、上記カルコゲナイドは、結晶構造、電子数およびカルコゲンの種類を系統的に変えた物質群であり、多彩な磁性を示す。本論文では、これらの変化によって生じた光電子スペクトルの変化を系統的に測定し、測定結果を主にバンド計算から得られている電子構造や電子比熱の実験結果と比較し検討した。一方、Mnプニクタイドの研究では、スピン角度分解光電子スペクトルを測定し、バンド計算の結果と比較した。 第3章では、Feカルコゲナイドの物性と測定方法の紹介の後、これらの物質の正・逆光電子分光の測定結果と考察が述べられている。硫化物の価電子帯の光電子スペクトル中にサテライトの存在を確認し、硫化物中のFe3d電子の局在性がセレン化物に比べ強いと結論した。また正・逆光電子分光によって、FeSではバンドギャップが存在すること、Fe7S8とFe7Se8ではギャップが閉じていることを見い出した。 バンド計算によると、FeSは半金属的な電子構造を持つ。上記の実験結果は、電子相関がFeSのバンドギャップ形成に重要な役割を演じていることを示唆している。実験から得られたFe7S8とFe7Se8のFe3dのバンド幅は、バンド計算に比べて狭まり、高結合エネルギー側の光電子スペクトル強度は計算に比べて大きくなっている。一方、フェルミ準位近傍の強度はバンド計算に比較して弱い。この結果は電子比熱係数が増強しているという実験結果と一見矛盾し、電子相関が重要な役割を演じていると推論した。 FeSについて配置間相互作用を考慮したクラスター計算を行なった。この結果はFeSが電荷移動型の絶縁体であることを示し、高結合エネルギー側にはサテライト構造が現れる。しかし、全体としてはバンド描像がFeSの電子構造を記述する良い出発点を与えることを明らかにした。 最も遍歴性の強いFe7Se8について、バンド計算に電子相関の効果を取り入れるため局所的なモデル自己エネルギーを導入し、実験スペクトルを再現するようにスペクトル関数を決定した。その結果、実験スペクトルとの一致はかなり改善されたが、フェルミ準位近傍での一致は良くなく、局所的なモデル自己エネルギーの改善の必要性を指摘した。 第4章では、MnSbとMnAsの物性の紹介とスピン角度分解光電子分光の結果と考察が記載されている。いずれの化合物も光電子スペクトルの解析から、Mn3d電子の遍歴性は強く、MnSbの遍歴性がMnAsに比べて強いと結論した。MnSbのスピン角度分解光電子スペクトル中に多数の構造を発見し、逆格子空間の点とA点の間で、少数と多数スピンバンドの分散を実験的に決定した。計算によるバンドの結合エネルギーと比較すると、観測されたバンドはより深い結合エネルギーのところに位置する。また、MnAsの測定でもスペクトル中に多数の構造を観測し、点からL点の間で、少数と多数スピンバンドの分散を実験的に決定した。観測したバンド分散は計算によるバンド分散と良く一致する。さらに、交換分裂を実験的に見積り、その値が計算値に比べ、大きな値を持つことを見い出した。 最後の要約の章は、論文全体のまとめに当てられている。 以上に述べたように、本論文では、FeカルコゲナイドとMnプニクタイドを用い、結晶構造、電子数およびカルコゲンの種類を系統的に変えた時の化合物磁性体の電子状態の変化を光電子分光法によって明かにすると共に、化合物磁性体対して初めてスピン角度分解光電子分光の観測に成功した。本論文は固体物理の分野に対する貢献が大きく、博士(理学)の学位論文として相応しい内容をものとして審査員全員が合格と判定した。 なお、本論文の相当部分は、指導教官を含む9名の研究者との共同研究であるが、論文提出者が主体となって測定や結果の解析を行なったものであり、論文提出者の寄与が充分であると判断した。 |