学位論文要旨



No 111664
著者(漢字) 矢口,宏
著者(英字)
著者(カナ) ヤグチ,ヒロシ
標題(和) グラファイトにおける磁場誘起電子相転移
標題(洋)
報告番号 111664
報告番号 甲11664
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3028号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池畑,誠一郎
 東京大学 教授 安岡,弘志
 東京大学 助教授 高田,康民
 東京大学 助教授 河野,公俊
 東京大学 助教授 大塚,洋一
内容要旨

 グラファイトは、炭素原子からなる結晶で、蜂の巣状に炭素原子の並んだ原子面が、2面を単位として周期的にc軸方向に積み重なってできている層状物質である。また、グラファイトは半金属で、そのキャリア数は、電子・正孔とも約3×1018cm-3と典型的な金属と比較して非常に少なく、7.3Tという比較的弱い磁場で、最低ランダウ準位の電子的なバンドと正孔的なバンドのみがフェルミレベルをよぎる擬量子極限に到達する。そのため実験室で発生可能な磁場で、顕著な量子効果が観測されることが期待される。

 実際、グラファイトの電子系は、c軸に平行な強磁場中、低温下で電子相転移を起こすことが知られている。この相転移は、印加した磁場を上昇させていくと、ある磁場位置で急激な抵抗の上昇を示すという現象として観測される。転移磁場が強い温度依存性を示すことから、この現象は一電子的な描像で理解されるものではなく、多体的な効果による相転移であると考えられる。理論的には、吉岡・福山によってc軸方向に波数2kFの電荷密度波(Charge Density Wave;CDW)転移が生じていると解釈されている。これは、c軸に平行な強磁場下で面内の運動がランダウ量子化されることによって、電子系のエネルギースペクトルが、c軸方向にのみ分散を持った一次元的なものになるためである。但し、CDWよりもスピン密度波(Spin Density Wave;SDW)の方が転移温度が高く、形成に有利とする理論もある。

 これまでに行われた実験的研究として、CDW転移であるという理論的解釈に基づいて、そのスライディングに関する検証を行ったものや、不純物効果、圧力効果などが調べられている。これらの結果は、基本的にはCDW(またはSDW)転移であるという解釈を支持するものである。但し、スライディングに関連して非線型伝導が観測されているが、これは、面内の伝導を調べたものであり、この結果は、CDW転移であるという意味においては、理論的解釈を支持するものであるが、その向きがc軸方向であるという点に対しては否定的である。

 また、測定をより低温強磁場に拡張する試みも行われている。特にパルス強磁場でヘリウム3温度の低温域にまで測定を拡張することによって、強磁場側に新たな相転移と考えられる磁気抵抗の構造が現れる。図1に磁気抵抗の磁場依存性を示す。と示したものは、従来から知られているc軸方向のCDWと解釈されているもので、で示したものが新たな構造である。このは、と転移磁場の温度依存性が同じ関数形で表されることがら、類似の相転移であると考えられる。これらの転移の特徴として、は低温になるに従って抵抗のとびが小さくなっていくという、奇妙な振る舞いを示す。一方、は約3K以下で現れ、低温になるに従って顕著になる。

 以上をふまえて、低温強磁場下の電子相転移に関して、直接的な情報を得るべく大きく分けて次の3つの研究を行った。特に、及びで何が起きているのが、特にその秩序の方向という観点を重要な点と考えた。

 まず第一に、試料に(速)中性子を照射して欠陥を導入した系について調べた。導入された格子欠陥の一部は、アクセプターとして働くことが知られている。従って、中性子の照射によって、キャリア数(電子数と正孔数のバランス)に変化を与える。また、欠陥の導入は散乱を多くすることが予想される。

 結果として、中性子を照射したグラファイトにおいて、転移の転移磁場の上昇、すなわち転移温度の低下が観測された。この結果は、荷電不純物による対破壊の効果として定量的に説明されることが分かった。(この場合の荷電不純物とは、アクセプターとしてはたらく格子欠陥である。)このことは、この転移が何らかの対凝縮であることを示唆している。CDW(またはSDW)状態は、電子・正孔対の対凝縮として記述されるので、この結果はこの転移がCDW(またはSDW)転移であることを支持していると考えられる。また、転移が多量の欠陥の導入によって抑制されると、は低温になるに従い抵抗上昇が大きくなることを見いだした。このことは、を抑制していることを示唆している。従って、は競合関係にあるものと思われる。このことは、これまでが低温になるに従って、抵抗の上昇が小さくなるという奇妙な振る舞いに対して説明を与えると考えられる。

 第二に、c軸伝導の測定を行った。これまでに理論的にはC軸方向のCDW転移であると解釈されながらも、c軸伝導でこれらの相転移をとらえた例は知られていない。c軸伝導を測定した結果を図2に示す。図2のスケールでは殆ど見えないが、転移は、面内伝導と一致する転移磁場で抵抗の上昇が見られた。さらに強磁場側では、面内の抵抗には見られない大きな抵抗の上昇が見られた。この異常な上昇は、温度に強く依存し低温になるに従って大きくなる。また、面内伝導で見られていたと磁場位置が比較的近いが、転移との関係は、磁場位置の関係からは明確な対応づけできなかった。但し、中性子照射を行ってを抑制した試料のc軸伝導では、と対応する構造が現れたが、更に強磁場では特に構造は現れなかった。この結果は、図2中のc軸伝導での抵抗上昇が、と対応しているという解釈と矛盾しない。

図表図1:横磁気抵抗(xx)の温度依存性 / 図2:縦磁気抵抗(zz)の温度依存性

 第三に、面内伝導およびc軸伝導の非線型性について調べた。一般に、格子と不整合な周期を持つ密度波は、不純物や欠陥にピン止めされていて伝導に参加することができないが、十分強い電場によってそのピン止めをはずされることにより、集団的に電気伝導に参加できるようになる。この、いわゆるスライディングにともなう非線型伝導が観測される可能性がある。但しその向きは、密度波の秩序方向であって、その垂直方向には現れない。従って、電流・電圧特性を測定して、スライディングと考えられる非線型伝導が観測されれば、密度波の秩序の方向に関して大きな情報を得ることができる。

 まず、面内の伝導においては、転移を境界にして密度波のスライディングによるものと思われる非線型伝導を確認した。これは、基本的には、これまでに報告されたものを再現する形になっている。従って、c軸方向の密度波という解釈を否定するものである。非線型電場の大きさは、約10 V/cm程度とこれまでに報告されている閾電場よりも1桁ないし2桁大きい。但し、閾電場を評価した温度・磁場領域が異なっており、定量的な比較評価することは難しい。

 またc軸伝導に関しては、前述したc軸方向で特に現れる異常な抵抗上昇を示す領域で、密度波のスライディングによると思われる非線型伝導が観測された。閾電場は約0.1-1 V/cm程度とばらつきがあった。

 以上から、まず転移については、従来の理論的解釈のようなc軸方向の密度波ではなくて、面内方向に大きな波数ベクトルの成分を持つ、密度波が生じているものと考えられる。その機構として、(TMTSF)2PF6や(TMTSF)2ClO4で見られる磁場誘起SDWの可能性があると思われる。グラファイトのフェルミ面は、3回対称歪みのため2次元的なネスティングには有利な形状をしていると考えられる。しかし、3次元的な分散を考えると(TMTSF)2PF6や(TMTSF)2ClO4と比較して、ネスティングに有利でない等の点もあり、詳細な検討を要する。

 また、新たに見出されたc軸伝導に現れる異常な抵抗上昇をについて、c軸方向のスライディングと見られる非線型伝導が観測されたことから判断して、c軸方向に密度波が生じていると考えられる。この機構として、最も有力と考えられるのは、もともとはの解釈としてあった、c軸方向の波数2kFのCDW(またはSDW)である。また、面内で見られる転移との対応は明確でないものの、同一の転移を見ている可能性がある。

審査要旨

 グラファイトは、蜂の巣状に炭素原子の並んだ原子面がC軸方向に積み重なってできた層状物質で、半金属である。そのキャリア数は典型的な金属と比較して非常に少なく、そのため、実験室で発生可能な磁場で顕著な量子効果が観測されることが期待され、実際、C軸に平行な強磁場中、低温下で電子相耘移(転移A)を起こすことが知られている。この転移は多体的な効果による相転移であると考えられ、理論的にはC軸方向の電荷密度波転移によると解釈されてきた。しかしながら、面内の伝導において非線型性が観測され、また、より低温強磁場下で新たな転移(転移B)が観測されるなど、グラファイトにおける低温強磁場下の電子相転移の原因については未だに解明されていない。

 そこで本論文では、この転移の原因を明らかにするために以下の実験を行った。

 第一に、試料に速中性子を照射し、アクセプターとして働く格子欠陥を導入した。その結果、転移Aの転移磁場の上昇、すなわち、転移温度の低下が観測された。この事実は、荷電不純物による対破壊の効果として定量的に説明できることがわかった。 また、転移Bが欠陥の導入により抑制されること、及び、転移Aは低温になるに従い抵抗上昇が大きくなることを見いだした。 このことは、転移Bが転移Aを抑制していることを示唆している。

 第二に、C軸方向の伝導の測定を行った。 C軸方向の伝導は本実験で始めて測定された。 その結果、転移Aと一致する磁場で抵抗の上昇がみられ、また転移Bと思われる磁場の位置でさらに大きな抵抗の上昇がみられた。

 第三に、面内、及び、C軸伝導の非線型性について調べた。 このことにより、密度波の秩序の方向に関して大きな情報を得ることができる。 まず、面内に関しては転移Aを境にして、従来報告されている非線型伝導を確認した。 またC軸の伝導に関しては、C軸方向で特に現われる異常な抵抗上昇を示す領域で、非線型伝導が観測された。

 以上のことから、まず転移Aについては、従来の理論的解釈のようなC軸方向の密度波ではなく、面内に大きな波数ベクトルの成分を持つ密度波が生じているものと考えられる。 その機構としては磁場誘起SDWの可能性があると思われる。 また、新たに見出されたC軸伝導に現われる異常な抵抗上昇の機構として、最も有力と考えられるのは、C軸方向のCDWである。なお、面内で見られる転移Bとの対応は明確ではないものの、同一の転移を見ているものとおもわれる。

 以上、本論文はC軸方向に対する新たな知見を得るなど、この物質の強磁場下での電子相転移の解明に大きな寄与をなしたことは、高く評価され、審査員全員により博士(理学)の学位論文として合格と判定された。

 なお本論文は家泰弘、高僧正、三浦登、岩田忠夫氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54499