審査要旨 | | 本論文は9章からなり,第1章は序論,第2章は含ヨウ素ドナーIEDTおよび類縁体のカチオンラジカル塩の合成,結晶構造,電気伝導度,第3章はIEDTとジチオレン金属錯体M(dmit)2との電荷移動錯体の合成,結晶構造,電気伝導度,第4章は含ヨウ素ドナー分子へのセレン,酸素,拡張系の導入,第5章は第4章で得られたセレン誘導体のカチオンラジカル塩の合成,結晶構造,電気伝導度,第6章は含ヨウ素ドナー分子DIETSと主にテトラシアノ金属錯体との塩の合成,結晶構造,電気伝導度,第7章は局在スピンを持つアニオンとDIETSとを組み合わせた系の合成,結晶構造,電気伝導度,第8章は-CH…O型の水素結合を示すBOユニットを組み込んだ系の合成,結晶構造,電気伝導度について述べられ,第9章はまとめである。 第1章序論では,分子性電気伝導体の電子構造および物性と,分子配列との密接な関係が示され,分子配列の制御の重要性が強調されている。分子性伝導体は通常カチオンとアニオンとから構成されているので,カチオンとアニオン間の相互作用は,結晶全体の構造を決める上で重要な役割を担っているはずである。それにもかかわらず,従来の分子性伝導体の開発では,単一分子の設計のみに集中し,カチオン…アニオン相互作用に関する考慮がほとんどなされていない点を指摘している。そこで,"強く"かつ"指向性"を持つカチオン…アニオン相互作用としてヨウ素-シアノ基間(-I…NC-)相互作用を分子性導体の結晶構造制御に応用することを提案している。これは,p-ヨードベンゾニトリルのような中性有機結晶ではよく見られ,結晶内における分子配列を支配していると考えられているものである。具体的には,分子軌道計算の結果などを参考にして,ヨウ素原子をTTF骨格に,シアノ基を対アニオンへ割り振ることで,上記の-I…NC-相互作用を分子性導体中で実現できると提案している。また,ヨウ素-シアノ基間相互作用よりは弱いが,CH…O型の水素結合の応用についても述べられている。 第2章では,主に含ヨウ素ドナー分子IEDTの一連のカチオンラジカル塩の構造と物性について述べられている。IEDTは,母体分子のTTF骨格をリチオ化した後,一塩化ヨウ素でヨウ素化して得ている。ヨウ素を導入してもドナーとしての能力が損なわれないこと,およびHOMOが分子末端のヨウ素原子上にまで拡がっていることを,電気化学的測定から明らかにした。さらに,結晶構造解析から,予想通り結晶中に"強く"かつ"指向性"を持つカチオン…アニオン相互作用(-I…NC-だけではなく-I…Br-等も)が存在し,これがユニークな結晶構造を構築していることを示した。 第3章では,IEDTからなる分子性導体の中でも最も興味深い系の一つである,(IEDT)[M(dmit)2](M=Ni,Pd,Pt)について詳細に述べられている。特に,Pd(dmit)2塩は1.3Kまで金属状態を保つ。これは,同じ結晶構造を持つがヨウ素原子を含まない系が,低温で金属状態の不安定性を示すことと対照的である。フロンティア軌道の分子間重なり積分を検討した結果から,分子間の強力な-I…S-相互作用が金属状態の安定化に関与している可能性を示唆している。また,第2および3章の結果から,ヨウ素原子が相互作用する相手としては,シアノ基だけではなく,ハロゲン原子あるいは硫黄原子などの孤立電子対を持つ原子(団)であればよいことを明らかとした。 第4章では,セレン,酸素,拡張系等を導入したドナー分子の合成と電気化学的性質について述べられている。第2および3章でとり扱ったドナー分子は,カルコゲン原子としては硫黄のみを含む分子で,そのカチオンラジカル塩は低温で半導体化するものが多かった。そこで,主に電気伝導性を向上させるために上記のような分子修飾を試みている。ここでは,含ヨウ素ドナーの新しい合成経路を見出している。これは,TTF骨格を形成する前のユニットにあらかじめヨウ素を導入するものであり,非対称ドナーの場合,特に有効である。この方法と従来法とを組み合わせることによって,多数の含ヨウ素非対称ドナー分子を合成している。また,TTF骨格へのSe導入法として,有毒なH2SeやCSe2を用いない合成経路を開発した。 第5章では,第4章で得られた含セレンドナーのカチオンラジカル塩の構造および物性が検討され,たしかに硫黄のみの系に比べて電気伝導性が向上していることが確認されている。 第6章では,含セレンドナ-DIETSのカチオンラジカル塩の構造および物性について,M(CN)4塩(M=Ni,Pd,Pt)を中心に,詳細に述べられている。注目すべきは,-I…NC-相互作用によって対アニオンまで含めた高分子状の繰り返し構造が発現している点で,このようなカチオン…アニオン相互作用によって制御された分子配列が結晶全体に拡がった構造は,従来の分子性導体には見られなかったものである。 第7章では,局在スピンを持つアニオンとDIETSとを組み合わせた系について述べられている。-I…X-(X=CN,Cl,Br,S)相互作用の,新しい物性発現への応用として,遍歴電子と局在スピンとの相互作用について注目している。FeX4(X=Cl,Br)の2:1塩では,ドナー分子上のヨウ素原子とアニオン上のハロゲン原子との間の強い相互作用によって3次元的な高分子状編み目構造が形成されていることを見出している。FeCl4塩は4.2Kまで,FeBr4塩は約15Kまで金属状態を保つ。多量の試料を作成することが難しいため,磁気物性測定にはまだ至っていないが,電気伝導性と局在スピンが共存する系が構築できたことは物性物理的にも非常に興味が持たれる。 第8章ではBO骨格を組み込んだ新規非対称ドナー分子の開発について述べられている。BO系分子性導体では,カチオンーアニオン間に-CH…O-型の弱い水素結合の存在が指摘され,これが安定な金属状態を与えやすい分子配列に寄与していると考えられている。また,BO骨格はドナー分子の溶解度を向上させるという,合成上の利点も有している。そこで,Se原子を含む骨格とBO骨格とを組み合わせて,溶解度が高く,しかも安定な金属状態を確保できるドナー分子の開発を試みている。その結果,3種の16族元素(O,S,Se)を1分子中に含むドナーを用いて,極低温まで安定な分子性金属を3種見出している。特に,"-(SO)2AuBr2では,楔形の分子が交互に密着して配列することで横方向の相互作用を増大させるという,多次元的分子間相互作用の新しいタイプを見出している。 第9章では,以上の結果がまとめられ,今後の展望について述べられている。 従来の分子性伝導体の開発では,対イオンまで含めた結晶構造全体の制御手段についてはほとんど検討されてこなかった。本研究では,"強く"かつ"指向性"を持つカチオン…アニオン相互作用を分子性導体の結晶構造制御に応用し,従来の系には見られなかったユニークな構造を持つ分子性導体の開発に成功し,さらに新しい機能発現の可能性をも示している。これらの結果は,今後の分子性導体開発の指針をつくりあげていく上で重要な基礎となるであろう。 なお,本論文の一部は,加藤礼三,澤博,岡野芳則との共同研究であるが,論文提出者が主体となって合成及び物性評価を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)を授与できると認める。 |