学位論文要旨



No 111689
著者(漢字) 今久保,達郎
著者(英字)
著者(カナ) イマクボ,タツロウ
標題(和) 分子性伝導体における結晶構造制御に関する研究
標題(洋) Studies on Crystal Engineering in Molecular Conductors
報告番号 111689
報告番号 甲11689
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3053号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加藤,礼三
 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 講師 田島,裕之
内容要旨 1.

 分子性伝導体の開発においてその結晶構造と物性は非常に密接に関連しているにもかかわらず、対イオンまでをも含めた結晶構造全体の明確な制御手段の開発はほとんどなされていない。一方、通常の中性物質の結晶においては、水素結合等の比較的強い分子間相互作用によって結晶中における分子配置が支配されている例が数多く存在する。本研究ではこれらの分子間相互作用の中から、p-ヨードベンゾニトリル結晶中におけるヨウ素-シアノ基間の’強力でなおかつ指向性を持った’分子間相互作用による1次元鎖の形成に着目し、このヨウ素-シアノ基間相互作用を分子性導体に応用することにより、物性制御を念頭においた総合的な結晶設計を可能にすることを目標とした。さらに、前述のヨウ素-シアノ基間相互作用よりは弱くなるものの、従来の系に比べて強い-CH…O-型の水素結合の存在が指摘されているBO骨格を組み込んだ新規ドナー分子の合成を行い、結晶構造と物性に与える効果について従来の系との比較検討も行った。

図1.p-ヨードベンゾニトリル結晶中に見られる1次元鎖の形成
2.含ヨウ素新規ドナー系の開発

 前述のヨウ素およびシアノ基を各々、TTF骨格及び対アニオンへと割り振ることによってドナー分子と対アニオンとの間に強固な相互作用を導入し、対アニオンの形状(配位数及び配位方向)のちがいに対応させて種々のユニークな結晶構造を発現させることを試みた。分子設計段階において、ヨウ素原子をTTF骨格へ導入することによる構造および物性への影響を評価するために、この系の基本分子であるIEDTについて分子軌道計算を行った結果、HOMOが分子末端のヨウ素原子上にまで拡がっていること、およびp性のLUMOがヨウ素原子上へ局在化しているという2つの特徴を有していることがわかった(図2)。この結果、分子外縁部にまで拡がったHOMOは主に物性面に、またLUMOのヨウ素原子上への局在化はシアノ基の配位による強力な分子間相互作用の発現に寄与するであろうと予想できた。ヨウ素原子を導入した新規ドナー分子の合成は、母体分子であるEDT-TTFをLDAを用いてリチオ化した後に一塩化ヨウ素でヨウ素化することにより合成できた(式1)。ヨウ素原子を導入した新規ドナー分子についてはサイクリックボルタンメトリーによる酸化電位の測定を行い、母体分子と比較して第一酸化電位と第二酸化電位の差が小さくなっており、予想通りHOMOが末端のヨウ素原子上にまで拡がっていることが確認された。また、第一酸化電位の値から、ヨウ素原子の導入によっても十分なドナー性を維持出来ることもわかった。電荷移動塩の合成は定電流電気分解法により行い、まずドナー合成が比較的容易であるIEDT系について検討を行った。代表的な結晶構造を図3,4に示すが、いずれも結晶中において予想通り強力でなおかつ指向性の強い分子間-I…X-(X=CN,Br,S…)相互作用が存在し、その結果非常にユニークな結晶構造が実現していることがわかった。また、物性面で特に注目されるのは、Pd(dmit)2塩においてその電気伝導性が4.2Kまで安定な金属状態を保っていることで(図5)、同型の結晶構造を持ち、ヨウ素原子を含まない系である-(EDT-TTF)[Pd(dmit)2]が、低温で金属状態の不安定化を生じることとは対照的である。フロンティア軌道の分子間の重なり積分を検討した結果、アクセプター層のフェルミ面の形状の差異、および分子間における強力な-I…S-相互作用によるlayer間でのD…A相互作用の方向性の変化が認められ、これらのちがいがIEDT系における金属状態の安定化に寄与していると考えられる。また、これらのIEDT系の結果から、ヨウ素原子と相互作用させる相手としてはシアノ基だけではなく、ハロゲン原子あるいは硫黄原子といったlone pairを持つ原子が対アニオン(分子)の末端に位置するものであれば良いことも判明した。次に電気伝導性を向上させる目的で骨格内にセレン原子を含んだIETS系及びDIETS系について検討を行った。合成に関しては、前述の系と異なり母体となるEDT-STF分子の合成が容易ではないことから、分子の半分のユニットである1,3-ジチオール-2-チオンをLDAによるリチオ化を経て先にヨウ素化しておき、これを対応するユニットのケトン体とP(OEt)3を用いてカップリングするという非対称TTF骨格への新しいヨウ素原子導入法を開発した(式2)。この、先にヨウ素原子を導入した後にカップリングを行う方法とIEDTの系で用いた最終段階でヨウ素原子を導入する方法の2つの新手法を使い分けることにより、様々な組み合わせのヨウ素原子を含む非対称TTF骨格の構築が可能となり、図6に示すような多くの含ヨウ素新規ドナー分子を合成することが出来た。

 電荷移動塩の合成は定電流電気分解法により行い、得られた塩の電気伝導度はいずれも硫黄のみの系と比べて大きく向上していることがわかったが、さらに結晶構造の面においてもヨウ素原子に基づく分子間相互作用により、図7に示す(DIETS)4Pd(CN)4に見られるような対アニオンまでをも含めた高分子状の繰り返し構造が発現することも判明した。このような分子間相互作用によって制御された分子配列が結晶系全体に拡がった構造は、従来の分子性導体では全く見られなかったものである。以上のようにヨウ素原子に基づく分子間相互作用によってユニークな結晶構造が得られることがわかったわけであるが、これらは主にドナー分子軌道におけるLUMOの特徴を生かした例と言える。次の段階として分子末端のヨウ素原子上にまで拡がったHOMOを活用した新物性の開発を検討した。具体的には局在スピンを持つアニオンであるFeX4[X=Cl,Br]を導入した系の構築を試みた。局在スピンと遍歴伝導電子が共存する系は物理的にも非常に興味の持たれている系である。X=Cl,Brいずれも1:1塩(半導体)と2:1塩の2つの塩が得られた。2:1塩についてはFeCl4塩では4.2Kまで、FeBr4塩では約15K付近まで安定な金属状態を保つ(図8)。2:1塩の結晶構造は、いずれも前述の系と同様ドナー分子上のヨウ素原子とアニオン上の塩素原子との間の強い分子間相互作用により3次元的な高分子状編み目構造を形成していることがわかった。残念ながらこれらの金属的な2:1塩は半導体的な1:1塩との作り分けが難しく磁気的物性測定には至っていないが、このような伝導性と磁性の共存する系が構築できることは物理的にも非常に興味が持たれる。また、このFeX4系の結果から、’強力で指向性を持った’分子間相互作用を分子性伝導体へ導入することによりユニークな結晶構造を発現させその構造的特徴を生かした新しい物性発現を目指す、という新しい物質設計の指針が示された。

図2.計算されたIEDT分子のHOMO(左)とLUMO(右)式1.IEDTおよびDIET分子の合成図3.(IEDT)2Ag(CN)2の結晶構造図4.(IEDT)[Pd(dmit)2]の結晶構造式2.IETSおよびDIETS分子の合成図5.(IEDT)[Pd(dmit)2]の電気抵抗の温度変化図6.ヨウ素原子を含む新規非対称ドナー分子図7.(DIETS)4Pd(CN)4の結晶構造図8.(DIETS)2FeCl4の結晶構造(左)と(DIETS)2FeX4[X=Cl,Br]の比抵抗の温度依存性
3.BO骨格を組み込んだ新規非対称ドナー系の開発

 BOを用いた分子性導体では-CH…O-型の弱い水素結合の存在が指摘され、それによるドナー分子間の凝集力が金属的な物性を与えやすい分子配列の発現に寄与していると考えられている。また、合成上の利点として分子自身の通常の有機溶媒への溶解度が非常に高いことも特徴となっている。一方でETの一部をSe原子に置換することによって次元性の拡大による金属的物性の安定化をねらったBETSあるいはBSといった分子は溶解度が低く、良質の結晶作成は簡単ではない。そこで、これらのSeを含むユニットとBOのユニットを組み合わせた非対称体を合成すれば、溶解度が高く、なおかつ分子間相互作用の増大と金属的な物性の確保という2つの特性を併せ持った分子となることが期待される。合成した新規ドナーTOST及びSOは予想通りセレン原子を含むドナー系としては有機溶媒に対する溶解性が非常に高く、カチオンラジカル塩の作成に非常に有利であることがわかった。得られたカチオンラジカル塩のうち特徴的なものとして、TOSTのMX4(M=Ga,Fe)塩が超伝導体を与えやすいとされているk型の分子配列をとること、及びSOのAuBr2塩が"型の分子配列をとり、いずれもヘリウム温度以下まで安定な金属状態を保持することを見い出した。特に"-(SO)2AuBr2では、図9に示すように楔形の分子が交互に密着する形で配列することで横方向の相互作用を増大させていることが結晶構造における特徴となっている。

 

図9.(SO)2AuBr2の結晶構造
4.まとめ

 以上のように、’強力で指向性を持った’分子間相互作用を活用した戦略的な分子-結晶系のデザインにより、多くの今までにないユニークな結晶構造を持った分子性伝導体の構築に成功した。さらにこれらの分子間相互作用に結晶構造制御以外の機能性を併せ持たせることにより、分子性物質における新しい物性開拓を目指す上で基盤となる有用な知見を得ることができた。

審査要旨

 本論文は9章からなり,第1章は序論,第2章は含ヨウ素ドナーIEDTおよび類縁体のカチオンラジカル塩の合成,結晶構造,電気伝導度,第3章はIEDTとジチオレン金属錯体M(dmit)2との電荷移動錯体の合成,結晶構造,電気伝導度,第4章は含ヨウ素ドナー分子へのセレン,酸素,拡張系の導入,第5章は第4章で得られたセレン誘導体のカチオンラジカル塩の合成,結晶構造,電気伝導度,第6章は含ヨウ素ドナー分子DIETSと主にテトラシアノ金属錯体との塩の合成,結晶構造,電気伝導度,第7章は局在スピンを持つアニオンとDIETSとを組み合わせた系の合成,結晶構造,電気伝導度,第8章は-CH…O型の水素結合を示すBOユニットを組み込んだ系の合成,結晶構造,電気伝導度について述べられ,第9章はまとめである。

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 第1章序論では,分子性電気伝導体の電子構造および物性と,分子配列との密接な関係が示され,分子配列の制御の重要性が強調されている。分子性伝導体は通常カチオンとアニオンとから構成されているので,カチオンとアニオン間の相互作用は,結晶全体の構造を決める上で重要な役割を担っているはずである。それにもかかわらず,従来の分子性伝導体の開発では,単一分子の設計のみに集中し,カチオン…アニオン相互作用に関する考慮がほとんどなされていない点を指摘している。そこで,"強く"かつ"指向性"を持つカチオン…アニオン相互作用としてヨウ素-シアノ基間(-I…NC-)相互作用を分子性導体の結晶構造制御に応用することを提案している。これは,p-ヨードベンゾニトリルのような中性有機結晶ではよく見られ,結晶内における分子配列を支配していると考えられているものである。具体的には,分子軌道計算の結果などを参考にして,ヨウ素原子をTTF骨格に,シアノ基を対アニオンへ割り振ることで,上記の-I…NC-相互作用を分子性導体中で実現できると提案している。また,ヨウ素-シアノ基間相互作用よりは弱いが,CH…O型の水素結合の応用についても述べられている。

 第2章では,主に含ヨウ素ドナー分子IEDTの一連のカチオンラジカル塩の構造と物性について述べられている。IEDTは,母体分子のTTF骨格をリチオ化した後,一塩化ヨウ素でヨウ素化して得ている。ヨウ素を導入してもドナーとしての能力が損なわれないこと,およびHOMOが分子末端のヨウ素原子上にまで拡がっていることを,電気化学的測定から明らかにした。さらに,結晶構造解析から,予想通り結晶中に"強く"かつ"指向性"を持つカチオン…アニオン相互作用(-I…NC-だけではなく-I…Br-等も)が存在し,これがユニークな結晶構造を構築していることを示した。

 第3章では,IEDTからなる分子性導体の中でも最も興味深い系の一つである,(IEDT)[M(dmit)2](M=Ni,Pd,Pt)について詳細に述べられている。特に,Pd(dmit)2塩は1.3Kまで金属状態を保つ。これは,同じ結晶構造を持つがヨウ素原子を含まない系が,低温で金属状態の不安定性を示すことと対照的である。フロンティア軌道の分子間重なり積分を検討した結果から,分子間の強力な-I…S-相互作用が金属状態の安定化に関与している可能性を示唆している。また,第2および3章の結果から,ヨウ素原子が相互作用する相手としては,シアノ基だけではなく,ハロゲン原子あるいは硫黄原子などの孤立電子対を持つ原子(団)であればよいことを明らかとした。

 第4章では,セレン,酸素,拡張系等を導入したドナー分子の合成と電気化学的性質について述べられている。第2および3章でとり扱ったドナー分子は,カルコゲン原子としては硫黄のみを含む分子で,そのカチオンラジカル塩は低温で半導体化するものが多かった。そこで,主に電気伝導性を向上させるために上記のような分子修飾を試みている。ここでは,含ヨウ素ドナーの新しい合成経路を見出している。これは,TTF骨格を形成する前のユニットにあらかじめヨウ素を導入するものであり,非対称ドナーの場合,特に有効である。この方法と従来法とを組み合わせることによって,多数の含ヨウ素非対称ドナー分子を合成している。また,TTF骨格へのSe導入法として,有毒なH2SeやCSe2を用いない合成経路を開発した。

 第5章では,第4章で得られた含セレンドナーのカチオンラジカル塩の構造および物性が検討され,たしかに硫黄のみの系に比べて電気伝導性が向上していることが確認されている。

 第6章では,含セレンドナ-DIETSのカチオンラジカル塩の構造および物性について,M(CN)4塩(M=Ni,Pd,Pt)を中心に,詳細に述べられている。注目すべきは,-I…NC-相互作用によって対アニオンまで含めた高分子状の繰り返し構造が発現している点で,このようなカチオン…アニオン相互作用によって制御された分子配列が結晶全体に拡がった構造は,従来の分子性導体には見られなかったものである。

 第7章では,局在スピンを持つアニオンとDIETSとを組み合わせた系について述べられている。-I…X-(X=CN,Cl,Br,S)相互作用の,新しい物性発現への応用として,遍歴電子と局在スピンとの相互作用について注目している。FeX4(X=Cl,Br)の2:1塩では,ドナー分子上のヨウ素原子とアニオン上のハロゲン原子との間の強い相互作用によって3次元的な高分子状編み目構造が形成されていることを見出している。FeCl4塩は4.2Kまで,FeBr4塩は約15Kまで金属状態を保つ。多量の試料を作成することが難しいため,磁気物性測定にはまだ至っていないが,電気伝導性と局在スピンが共存する系が構築できたことは物性物理的にも非常に興味が持たれる。

 第8章ではBO骨格を組み込んだ新規非対称ドナー分子の開発について述べられている。BO系分子性導体では,カチオンーアニオン間に-CH…O-型の弱い水素結合の存在が指摘され,これが安定な金属状態を与えやすい分子配列に寄与していると考えられている。また,BO骨格はドナー分子の溶解度を向上させるという,合成上の利点も有している。そこで,Se原子を含む骨格とBO骨格とを組み合わせて,溶解度が高く,しかも安定な金属状態を確保できるドナー分子の開発を試みている。その結果,3種の16族元素(O,S,Se)を1分子中に含むドナーを用いて,極低温まで安定な分子性金属を3種見出している。特に,"-(SO)2AuBr2では,楔形の分子が交互に密着して配列することで横方向の相互作用を増大させるという,多次元的分子間相互作用の新しいタイプを見出している。

 第9章では,以上の結果がまとめられ,今後の展望について述べられている。

 従来の分子性伝導体の開発では,対イオンまで含めた結晶構造全体の制御手段についてはほとんど検討されてこなかった。本研究では,"強く"かつ"指向性"を持つカチオン…アニオン相互作用を分子性導体の結晶構造制御に応用し,従来の系には見られなかったユニークな構造を持つ分子性導体の開発に成功し,さらに新しい機能発現の可能性をも示している。これらの結果は,今後の分子性導体開発の指針をつくりあげていく上で重要な基礎となるであろう。

 なお,本論文の一部は,加藤礼三,澤博,岡野芳則との共同研究であるが,論文提出者が主体となって合成及び物性評価を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)を授与できると認める。

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