学位論文要旨



No 111690
著者(漢字) 岩井,秀和
著者(英字)
著者(カナ) イワイ,ヒデカズ
標題(和) Au(001)上での吸着誘起再構築と吸着子の挙動の研究
標題(洋) Adsorption-Induced Restructuring and Behavior of Adsorbates on Au(001)
報告番号 111690
報告番号 甲11690
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3054号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,好正
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 助教授 井本,英夫
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨 1.塩素吸着

 面心立方格子であるAuの(001)清浄表面は、正方格子(1×1)ではなく、六方細密状の超格子構造(5×20)になる。このAu(001)-5×20の再構成が生じる原因を調べることを目的として、カリウム[1]および塩素の吸着を行った。その結果、共に同じ被覆率で5×20から1×1構造への相転移(脱再構成)が始まるのを低速電子線回折(LEED)で観察した。これらの下地と吸着子間の電荷移動は逆向きであることから、この脱再構成には吸着子との化学結合の効果が重要であると考えられる。

 さらに塩素吸着では低温で、単位格子の周期が被覆率に依存し、c(2×2)の変調がかかった超格子構造を観測した(図1(a))。塩素原子・分子の昇温脱離スペクトル(TDS)を詳細に解析したところ、塩素原子のTDS(図2)には分子のフラグメントも含まれているが、それらの積分強度比は被覆率に無関係で一定であることを見い出した。これは、被覆率がTDSの積分強度に比例することを示す。さらに被覆率に依存する超格子像の対称性とその伸縮および消滅則を考慮し、超格子は吸着塩素が作るとすると、一次元性の強いジグザグ鎖構造のモデルを得た(図1(b))。昇温脱離から得られる見かけの脱離エネルギーは、分子の脱離の場合では〜2eVと妥当な値を得る。それに対して、820Kでの塩素原子の鋭いピークでは〜5eVと異常に大きな値になる。これは、吸着子の一次元構造と下地の相転移(1×1構造の消失)によって、フラストレーションが高まった状態ができ、突発的な脱離が起きたと考えられる。

2.原子状水素吸着

 Cl/Au(001)での超格子像のスポット強度は強い(図1(a))。そのため、この超格子は下地のAu表面原子の変位による可能性もある。そこで次に、Au(001)-5×20上へ水素原子を吸着させ、そのときの表面構造の変化を観測した。H/Auの系はこれまでにほとんど研究されていない。

 水素原子は室温では吸着しないので、実験は100Kで行った。また水素分子は100Kでも吸着しない。指向性のよい原子状水素は、加熱したタングステン管中に水素ガスを通すことによって得た。この水素源については、タングステン温度と水素圧に対しての原子状水素の生成効率を予め調べてあり、測定上都合の良い条件を選んで本実験を行った。吸着水素の被覆率は、TDSピークの積分強度と、同時に再開発を行ってきた固体内部の水素の定量ができる共鳴核反応(RNRA)、1H(15N,)12C、によって見積もった。RNRAでは、1原子層分解能での水素の深さ分布を測定することを目標にしていたが、現時点では15Nのイオンビームのカレントが充分ではなかったので、今回はビームのエネルギー幅を広げ、表面から10層分をまとめて観測している。水素の被覆率の絶対値を決めるため、表面Si原子が水素原子で終端されているSi(111)-1×1の標準サンプルを作成し、これを1原子層吸着(1ML)とした。水素吸着による表面構造変化はLEEDで観測し、その他に水素のTDSおよび仕事関数変化の被覆率依存性を測定した。

図表図1(a)被覆率〜0.6での超格子構造:-R45°(100K:Ep=60eV)(b)その構造モデル。 / 図2塩素原子のTDS。分子のフラグメント()と原子からの成分()からなる。

 Au(001)清浄表面へ原子状水素を照射したときの、水素の照射量(ex-posure:L=s・Torr)に対する回折スポットの強度変化を図3に示す。水素の照射直後から、同時に、LEED像の整数次スポットは強度を増し、分数次スポットの強度は減少している。このことは塩素吸着のときと同じく、原子状水素の吸着によってAu(001)は5×20から1×1状に相転移していることを示している。そして最終的に不完全な1×1像となった。水素原子の吸着では、c(2×2)で修飾された超格子構造が現れてないことから、Cl/Au(001)で観測されたさまざまな超格子像は塩素原子の周期構造であると結論できる。図3では、整数次のスポット強度が約160OLで飽和している(矢印)。仕事関数も単調に減少するが、同様に約160OLで飽和する。これらの結果から、Au(001)上の水素が約160OLで飽和いていると解釈できる。

 質量数2(H2)のTDSでは、170Kでピークを観測した。このピークの積分強度から見積もった被覆率を、水素の照射量に対してプロットした結果を図4に示す。TDSによると300OLの吸着で、被覆率は0.15MLとなる。脱離水素の量は水素の照射量の増加に伴い単調に増加しており、上述から期待される1600Lでの飽和は見られない。H/Au(001)の3600LでのTDS中のLEEDスポットの強度変化(図5(a))では、図3とは異なり、整数次スポットの強度が減少する温度と分数次スポットの強度が増加する温度がずれている。3600LでのH/Au(001)のTDSの結果(図5(b))と見比べたとき、整数次スポット強度の減少は水素の脱離とほぼ一致している。これは水素吸着でできた1×1領域が、水素の脱離で消えるためと判断できる。しかし、分数次スポットの強度の増加がより高温側で始まっていて、水素の脱離後に1×1から5×20構造への転移は起こっていないようにみえる。

図表図3 LEEDの回折スポット強度の水素照射量依存性。 / 図4 TDSから見積もられた被覆率の水素照射量依存性。

 図5(a)の△印は整数次スポットの半値巾(FWHM)の変化を示す。整数次のスポット強度が減少しているにもかかわらず、WFHMも減少している。これは超格子5×20構造の整数次スポットを反映していると考えられる。つまり、1×1の消失によって5×20構造の"核"はできているが、5×20のコヒーレント長が大きいため、それに見合った結晶が成長しだすまでLEEDに反映されないだけだと考えられる。その温度が200Kである。

 TDSピークの積分強度の変化とLEEDスポットの強度変化、および仕事関数変化が一致しないことについては、照射された原子状水素が固体内部に吸収されているためと考えられる。RNRAでは、定性的にそれを示唆する結果が得られている。それによると、15000Lまで測定したところ、ほぼ水素の照射時間に比例して吸着・吸収水素の量は増えていった。今回のRNRAでは表面下10層ほどの水素をみているので、少なくとも10層以上は水素が潜っていると見積もれる。TDSの結果(図5(b))で、高温側のレベルが上がっているのは内部に潜った水素が脱離しているためと考えられる。また(図5(a))で、250Kで突然分数次スポットの強度が減少している。これは、TDSでのピーク後、表面下の水素の脱離によって再度5×20構造が壊れだしているためと考えられる。つまりこの系に対しては、TDSでは水素の定量はできないということがわかる。

図5 360OLの水素照射後の(a)回折スポット強度の温度依存性と(b)その時のTDS。△は(10)スポットの半値巾の変化を示す。

 [1]M.Okada,H.Iwai.R.Klauser and Y.Murata,J.Phys.:Condens.Matter,4(1992)L593.

審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章は、序章で、金単結晶の(001)表面(以後Au(001)と書く)構造のこれまでに得られた結果の概説、第2章は、Au(001)への塩素の吸着、第3章は、Au(001)への水素の吸着、第4章は、共鳴核反応を用いたAu(001)の表面水素の定量について述べられている。次に、これらの内容について述べる。

 第2章では、岩井秀和ら(参考論文)が、Au(001)へのカリウム原子の吸着により、5×20再構成表面が1×1構造に脱再構成することを見いだした。その原因を探るため、Au(001)に原子状塩素の吸着の実験を行っている。カリウム吸着の場合、被覆率(基板の表面に対する吸着原子の原子数の比)=0.05で脱再構成するが、塩素吸着の場合も、これとほぼ同じ=0.06で脱再構成する。また脱再構成する表面相転移の臨界温度も両者でほぼ同じ150Kである。このことから、Au(001)の脱再構成は吸着子とAu原子との化学結合の効果によると結論している。さらに塩素原子を室温で吸着させ、低温(〜100K)に冷却すると、低速電子線回折(LEED)パターンが吸着量によりさまざまに変化することを見いだしている。これと熱脱離スペクトル(TDS)の測定結果から、一次元性が強い吸着層の構造モデルを得た。これはTDSに見られる突発性脱離とともに、パイエルス不安定性の存在の可能性を暗示した興味ある結論である。

 第3章では、塩素吸着層の一次元性が基板表面ではなく、確かに吸着層に依るものであることを確かめるため、低温での原子状水素の吸着の実験を行っている。このことを確かめると同時に、新たに興味ある結果を得ている。LEEDの観察ではカリウム、塩素の吸着とは異なり、水素吸着では、不完全な脱再構成構造になる。そしてLEEDの整数次と5×20構造に対応する1/5次の反射のスポット強度、仕事関数の被覆率依存性では、ある水素露出量で、飽和値になる。一方、TDSの強度では飽和値は存在せず、露出量とともに直線的に増加する。このLEEDとTDSの被覆率依存性の間の矛盾した結果他に、低温で原子状水素を吸着した表面を昇温し、LEEDのスポット強度の変化を測定すると、これもTDSの結果とは合致しないという結果も得ている。

 第4章では、共鳴核反応1H(14N,)12Cを用いて、Au(001)の表面水素の定量を行っている。そして原子状水素がAu(001)の表面下に多量に吸蔵されることを見いだし、第3章で観測された矛盾点を解消している。原子力研究総合センターの5MVタンデム型加速器が最近更新された。この加速器を用いて、共鳴エネルギーの6.385MeVの15N2+ビームを発生させ、単色化する。そして共鳴核反応により、表面水素の高分解能深さ分布の測定をする。この測定法の開発を目指して、旧加速器が使用中止になり、新加速器が稼動するまでの3年の間に、第3章の研究の遂行と平行して、超高真空装置などの実験装置を建設している。加速器としてはまだ十分な性能を発揮するには至っていない。しかしこれを用いて表面水素の存在量の定量は出来る。そのため、Si(111)の理想表面のダングリングボンドが水素原子で終端されたSi(111)-1×1-H表面を標準試料として、表面水素の存在量の絶対値を得ている。そしてAu(001)の表面下の数原子層に、ほぼ金原子と同数の水素原子が潜り込んで吸蔵されるという、全く意外な結果を得ている。一方、通常の吸着水素の吸着量の測定法であるTDSにより、同じ標準試料を用いて、Au(001)の表面水素を定量した結果では、核反応で得た吸着、吸蔵量値の1/10の脱離量しか得られない。すなわち、低温でAu(001)に原子状水素を吸着させると、多量の水素が吸収され、表面のすぐ下に吸蔵されることと、この吸着、吸蔵水素の大部分は、熱を加えることにより、脱離するのではなく、固体内部に拡散することが判った。このように意外なAu(001)の表面水素がどの様な状態で存在するかはまだ判っていない。

 このように岩井秀和は、これまでに清浄表向の構造を除いてほとんど研究が行われていない、不活性な金属の代表と思われていたAu(001)について、意欲的な実験を行い、多くの興味ある現象を見いだし、これらは表面物性の研究にとって意義のある知見である。従って、岩井秀和は博士(理学)の学位を受けるにふさわしい研究成果を挙げている判断する。

 なお、本論文第2章は岡田美智雄、福谷克之、村田好正、第3章は福谷克之、村田好正との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験、解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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