学位論文要旨



No 111692
著者(漢字) 小野,寛太
著者(英字)
著者(カナ) オノ,カンタ
標題(和) スピン-角度分解光電子分光による強磁性ニッケルの電子状態と電子相関の研究
標題(洋) Electronic Structure and Electron Correlation of Ferromagnetic Nickel Studied by Spin-and Angle-Resolved Photoemission
報告番号 111692
報告番号 甲11692
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3056号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,虔一
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 助教授 柿崎,明人
 東京大学 助教授 藤森,淳
内容要旨 1.序論

 物性研究においては物質の示す性質(物性)をミクロな観点から理解することが最も重要である。多くの場合物性を示す要因となっているのは物質の電子状態であり、電子状態を知ることは物性を理解するうえで欠かせない。光電子分光は物質の占有電子状態を直接観測する非常に有効な手段として、さまざまな分野で幅広く使われている。スピン・角度分解光電子分光は通常の角度分解光電子分光で光電子のエネルギー、運動量を分けて観測するのに加え、さらにスピンまでも分けて観測するという点において完全実験である。特に、強磁性の発現の起源を探る上で不可欠な情報であるスピンに依存したバンド構造を実験的に決定することができる唯一の手法である。

 強磁性ニッケルでは、3d電子は強い電子相関により遍歴性と局在性という相反する側面をあわせ持つという面白い性質を持っている。本研究ではこの二つの性質をより深く理解することを目的として、光電子スペクトルにあらわれる遍歴的な側面と局在的な側面を、放射光を用いたスピン・角度分解光電子分光によって観測し、電子相関の果たす役割について考察した。

2.実験

 実験は高エネルギー物理学研究所放射光実験施設のリボルバー型アンジュレータビームラインBL-19Aで行った。スピン・角度分解光電子分光測定装置は、試料準備室、分析室、電子輸送系、モット検出器からなり、すべて超高真空に保たれている。試料準備室には、オージェ電子分光(AES)、低速電子線回折(LEED)、磁気光学カー効果(MOKE)などの測定装置が備えられており、試料の清浄化とキャラクタリゼーションをここで行う。分析室には静電半球型電子エネルギー分析器が備えられ、試料から放出された光電子のエネルギー分析を行う。エネルギー分析を行った光電子は電子輸送系を経由して100kVに加速された後、モット型スピン検出器に導かれスピン偏極度の測定を行う。モット型スピン検出器は重い原子核による、スピン依存散乱を用いたスピン検出器である。スピン偏極度Pは、上向きスピン、下向きスピンの電子の数をそれぞれN↑,N↓として、P=(N↑-N↓)/(N↑+N↓)であたえられる。

 Ni(110)単結晶試料は漏れ磁場の影響を少なくするためすべての辺を磁化容易軸である<111>方向に切断したピクチャーフレーム型を用いた。Ni(110)清浄表面は、Ne+によるスパッタリングと、560℃でのアニーリングを繰り返すことにより得た。得られた清浄表面はAESにより不純物が検出限界以下であることを確認し、またシャープな(1×1)パターンをLEEDで確認した。試料の磁化は試料にまいたコイルに電流を流すことにより行った。測定中は残留磁化を用いたが、残留磁化の大きさが飽和磁化のほぼ100%であることをMOKEを用いて確認した。

3.ニッケル3d電子の遍歴性 -バンド構造と電子相関-

 遍歴的な側面を顕著に示す例として、強磁性ニッケルのスピン依存したバンド構造の決定と電子相関の効果について研究を行った。強磁性ニッケルは強磁性遷移金属の典型例としてさかんに物性研究が行われてきた。強磁性ニッケルの電子状態の研究において一つの最終的な研究目標はスピンに依存したバンド構造を理論的、実験的に正確に求めることである。これまで通常の角度分解光電子分光によりニッケルのバンド構造を観測したという報告はあるが、スピン分解していない実験からスピンに依存するバンド構造を決定することには、大きな不確定性が残り理論的なバンド計算と比較しうるものではなかった。そこで、スピンに依存したバンド構造を実験的に正確に求め、局所密度近似(LDA)に基づくバンド計算やGW近似(GWA)による準粒子のエネルギー分散と比較することにより、ニッケルの電子状態を記述するうえでのLDAやその他の理論の妥当性、また現実の系では電子相関などによりどのようにバンド計算とずれるのかということを明らかにすることを目的として、スピン・角度分解光電子分光実験を行った。その結果、ニッケルのブリルアンゾーンの-K-X方向についてスピン分解したバンド構造を精度良く決定した。実験的に観測された交換分裂の大きさは、LDA、GWAによる計算結果と比べてかなり減少している。また、結合エネルギーについて実験値とLDAによるバンド計算の値とを比べると実験値は小さい値を示す(バンドの狭まり)。このバンドの狭まりを各スピンのバンドについて見てみると、上向きスピンバンドの方が下向きスピンよりも狭まりが大きい。この結果は、上向きスピン電子の電子相関が下向きスピン電子よりも強いことを示唆している。GW近似では遮蔽された電子間相互作用を取り入れており、バンドの狭まりについては多少改善されるものの、スピン依存性、交換分裂などは実験を再現せず、電子相関の取り入れ方が不十分であることが分かった。最近の、三体相関を取り入れた理論では、定性的ではあるがスピン依存性を再現している。ニッケルのバンド構造について、一電子モデルを出発点として理解するためには、スピン依存性を入れた自己エネルギーを考えなければならないことが示唆される。

4.ニッケル3d電子の局在性 -サテライト構造-

 次に、局在性を反映した例としてニッケルの光電子スペクトルにあらわれるサテライトとよばれる構造について研究を行った。強磁性ニッケルでは光電子励起にともなう多電子効果により、6eVサテライトと呼ばれる特徴的な構造が価電子帯光電子スペクトルの結合エネルギー6eVに観測される。この構造は一電子バンド描像では説明できず、ニッケル3d電子の局在性を反映したものであると考えられ、過去15年間6eVサテライトの起源は何かということが問題になっていた。そこでまず6eVサテライトの起源を明らかにする必要があると考え、スピン分解光電子分光実験を行った。

 6eVサテライトの強度はニッケルの3p吸収端(hv=67eV)で共鳴的に増大する。今まで、ほとんどの研究はこの共鳴増大したサテライトについてなされてきた。しかし、吸収端近傍では光電子放出とオージェ崩壊による電子放出との区別がつきにくいため、われわれは吸収端より低い励起エネルギーhv=63eVで実験を行った。光電子スペクトルには、上向きスピン、下向きスピンのスペクトルにそれぞれ多重項構造が観測された。Atomicモデルによれば、強磁性ニッケルは3d9の基底状態では、3dに下向きスピンのホールを1つ持っていると考えられるため、光電子放出の過程で上向きスピンを放出すれば、終状態の3d8状態は一重項、下向きスピンを放出すれば三重項になりやすい。観測されたサテライト構造は、3d8終状態に起因すると考え、各ピークを3d8状態の多重項と帰属した。この結果は不純物アンダーソンモデルによる理論計算とよい一致を示している。このことから、6eVサテライトの起源は3d8終状態に起因するものであり、終状態での同一原子内の二つの正孔の間に働く強いクーロン相互作用によりメインバンドの高結合エネルギー側にサテライト構造が現れることがわかった。

 次に、スペクトル強度が弱いため観測が困難であると考えられていたさらに高結合エネルギー側の13eVに観測されるサテライト構造についてもスピン分解光電子分光実験を行った。得られたスペクトルでは上向きスピンでは明瞭にピークが観測されるのに対し、下向きスピンではピーク構造はほとんど観測されない。Atomicモデルによれば、3d7終状態では二重項が大きな正のスピン偏極を示すことが予想され、また13eVの結合エネルギー付近には二重項状態が多数存在する。このことから、13eVサテライトは3d7終状態の二重項に由来するものであると考えられる。この結果は基底状態に3d8の電子配置が存在することを示す直接的な証拠となっている。

 このほかにも、6eVサテライトについて、ニッケル3p吸収端近傍で、スピン分解共鳴光電子分光を行い、6eVサテライトの共鳴増大には一重項状態が大きな寄与をしていること、スピン偏極度の励起光依存性を調べると一重項に起因するピークの結合エネルギーでは、吸収端近傍でスピン偏極度にdipを示すことなどを見い出した。

審査要旨

 本学位論文は五章からなり、第一章序論、第二章スピン・角度分解光電子分光、第三章電子の遍歴性とバンド構造、第四章電子の局在性とサテライト構造、第五章まとめとして構成されている。

 第一章の序論では本研究の背景にある強磁性ニッケルの電子状態と電子相関について述べている。

 第二章では本研究に使用したスピン・角度分解光電子分光の実験装置の概略と我が国では未だあまりなじみのないスピン・角度分解光電子分光法について光電子分光の原理から電子スピンの検出法、バンド構造の決定について解説した。通常の角度分解光電子分光に加えて光電子のスピンを分けて測定することにより、スピンに依存したバンド構造を実験的に決定できるこの手法の特徴について述べている。特に、本研究では放射光の波長可変という特色を生かした実験を行っているため、そのことについても簡単に述べられている。

 第三章では価電子帯のスピン・角度分解光電子分光の実験結果からスピンに依存したバンド構造の決定とスピンに依存した電子相関についての研究結果をまとめている。本研究で初めてニッケルのプリリアンゾーンの-K-X方向についてスピン分解したバンド構造を精度良く決定することができた。その結果、従来のスピン分解しない通常の角度分解光電子分光からスピンに依存するバンド構造を推測するといった研究から、スピンに依存したバンド構造を実験によって直接求め、理論と対応させて議論することが可能になった。観測された交換分裂の大きさはLDAやGWAの理論計算の結果に比べてかなり減少していることが分かった。また、実験で得られた結合エネルギーの値はLDAのバンド計算で得られた値より小さく、バンドが狭まっていることが分かった。このバンドの狭まりを各スピンのバンドについて比較してみると、上向きスピンのバンドの方が下向きスピンのバンドより狭まりが大きく、上向きスピン電子の方が下向きスピン電子よりも電子相関が強いことが示唆された。実際、定性的ではあるが最近の三体相関を取り入れた理論では実験で得られたスピン依存性を再現している。即ち、一電子モデルに従ってニッケルのバンド構造を理解するには、スピン依存性を考慮した電子相関を考えなければならないことが示唆された。

 第四章ではニッケルの光電子スペクトルにあらわれるサテライトと呼ばれる構造が電子の局在性を反映した現象であることを明らかにした。即ち、ニッケルの価電子帯光電子スペクトルには光電子励起に伴う多電子効果によって結合エネルギー6eVにサテライトと呼ばれる特徴的な構造が現れるが、この構造は一電子バンドモデルでは説明できず、ニッケルの3d電子の局在性を反映したものとしてその起源が議論されてきた。本実験で測定したスペクトルには上向きスピン、下向きスピンの各スペクトルにそれぞれ多重項構造が観測され、これらはいずれも3d8状態の多重項として帰属でき、不純物アンダーソンモデルによる理論計算とよく一致することが示された。この実験によって、6eVサテライトの起源は3d8終状態に起因するものであり、この終状態における同一原子内の二つの正孔の間に働く強いクーロン相互作用により高結合エネルギー側にサテライト構造が現れることが分かった。また、これまでスペクトル強度が弱いために観測が困難であるとされていたさらに高結合エネルギー側に現れる13eVサテライト構造についてもはじめてスピン分解光電子スペクトルの測定に成功した。その結果、上向きスピンについては明瞭な13eVサテライト構造が観測されるのに対し下向きスピンでは殆どサテライト構造は観測されなかった。これらの結果から、13eVサテライト構造は3d7終状態の二重項に起因するものと結論した。

 以上、この論文はスピン・角度分解光電子分光により強磁性ニッケルの電子状態をスピンに依存したバンド構造として実験的に決め、スピンに依存した電子相関の大きさを初めて実験的に求めた。また、スピン分解光電子スペクトルの測定によって価電子帯光電子スペクトルのサテライト構造の起源を明らかにし、強磁性ニッケルの光電子スペクトルにあらわれる電子の遍歴性と局在性を実証した。これらの研究は博士(理学)の学位論文としてふさわしい内容をもつものとして審査員全員が合格と判定した。

 なを、審査委員会は本論文の題名を「スピン・角度分解光電子分光を用いた実験」であることが分かる題名に変更するよう指示した。本論文の内容の一部は既にJ.Magn.Magn.Mat.,148(1995)74-75,Phys.Rev.B52,(1995)R11549-11552に発表され、前論文では本論文提出者がトップオーサーであり後論文ではセカンドオーサーである。また、五報の論文が印刷中である。放射光を使った実験の性質上、発表論文はいずれも柿崎明人他数名の共著者からなるが、研究は学位申請者が主体的に行なった研究であることが認められた。

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