有機スズ化学は有機化学において古くから研究されている分野の一つであるが、スズを含む低配位化学種に関してはそれらの化学種が極めて不安定であるため、近年ようやくその研究が始まったばかりであり、その化学についてはほとんど知られていない。なかでも有機化学で中心的な役割をはたすケトンのスズ類縁体として興味深いスズーカルコゲンニ重結合化学種に関しては、スペクトルによる観測例はおろか捕捉例さえ報告されていなかった。当研究室では既に2,4,6-トリス[ビス(トリメチルシリル)メチル]フェニル基(以下Tbt基と記す)と2,4,6-トリイソプロピルフェニル基(以下Tip基と記す)を立体保護基として初めて安定なケイ素-硫黄、ゲルマニウム-硫黄、セレン、テルルニ重結合化合物の合成、単離に成功している。筆者は修士課程において、同様な置換基の組み合わせで有機スズ二価化学種スタンニレンの硫化によって、初めてスズ-硫黄二重結合化合物(スタンナンチオン)を合成することに成功したが、このスタンナンチオン[Tbt(Tip)Sn=S]は徐々に二量化した。このことはケイ素、ゲルマニウムに比しスズを含む結合が長くかつカルコゲンとの二重結合が一層弱くなるため、スタンナンチオンの単離にはこの置換基の組み合わせでさえも系のかさ高さがたりないことを示していると考えられる。そこで博士課程においては、さらにかさ高い系を構築し、スズーカルコゲン二重結合化合物の性質の解明を目的として検討を行った。 1.かさ高い置換基を有する新規なスタンニレンの合成と反応 修士課程では塩化スズ(II)にかさ高いアリールリチウムを順次作用させることによりTbt(Tip)Sn:を合成したが、本研究において新たにジブロモスタンナン1とリチウムナフタレニドの反応による効率のよいスタンニレン2の合成法を見いだした。この方法によりスズ上に各種かさ高い置換基を有する新規なスタンニレン2を合成し、それらの単体カルコゲンとの反応によりスズーカルコゲン二重結合化合物の前駆体となりうるテトラカルコゲナスタンノラン3,4を得た。 2aは二硫化炭素との反応において興味ある反応性を示し、スタンニレン2分子と二硫化炭素3分子が反応した新規な構造を有する5が得られた。 この反応において、スタンニレン2aに二硫化炭素を低温で作用させると溶液は青緑色(max(THF)=608nm)を呈する。この中間体を捕捉するため反応溶液に種々のオレフィンを反応させたところ、速やかに反応が起こり、五員環化合物6,7が得られた。これより、反応はイリドAを経て進行し、またイリドAは1,3-双極子としての反応性を示すことがわかった。 2.スズーカルコゲン二重結合化合物の合成と反応 次に先に得られたテトラカルコゲナスタンノラン3,4の脱カルコゲン反応によるスズーカルコゲン二重結合化合物の合成に関して検討した。スズ上にTbt基を二つ導入した系が最もかさ高いと考えられるが、Tbt基のかさ高さのため導入できなかった。そこでTbt基中のDis基の一つのトリメチルシリル基を水素に置換しかさ高さを落としたTtm基、及びゲルマニウムの系においてテルルとの二重結合化合物までも安定に合成できるDis基を導入したテトラチアスタンノランのリン試剤による脱硫反応を検討したところ、やはりスタンナンチオンの二量化反応生成物が得られた。これより、これらの置換基の組み合わせでもスタンナンチオンは二量化することがわかった。 そこでTip基のイソプロピル基の部分をさらにかさ高いシクロヘキシル基及び1-エチルプロピル基に変換したTcp基及びTpp基をスズ上に導入したテトラチアスタンノランの脱硫反応を検討した。脱硫試剤として3当量のトリフェニルホスフィンを作用させたところ、いずれの溶液もスタンナンチオン8の生成を強く示唆する黄橙色を呈した。その119Sn NMRにおいて643ppm(8b),631ppm(8c)という三配位スズに特有な低磁場にスタンナンチオン8に由来するシグナルを初めて観測することができた。8はフェニルイソチオシアナート、メシトニトリルオキシドと速やかに反応し、それぞれ対応する[2+2],[3+2]付加環化反応生成物を与えた。 また系をより高周期のセレンに拡張し同様にテトラセレナスタンノランの脱セレン反応を検討したところ、紫外可視吸収スペクトル、119Sn NMR及び77Se NMRいずれにおいてもスタンナンセロン9のシグナルを観測することができた。このようにTip基よりかさ高い置換基をTbt基と併せ用いることによって、スズーカルコゲン二重結合化合物をNMRによって観測することが可能となった。しかしこれらの置換基の組み合わせでさえ8,9はいずれも室温で徐々に二量化することがわかった。このことより、スズーカルコゲン二重結合化合物を安定に単離するためにはTcp基及びTpp基よりさらにかさ高い置換基を導入することが必要となった。置換基をTcp基及びTpp基よりかさ高くする際に、シクロヘキシル基及び1-エチルプロピル基部分をさらに大きくすることは合成上有利とはいい難い。 そこでより置換基の細工がしやすいm-テルフェニル系を導入することとした。m-テルフェニル系置換基はCPK模型による考察より、Tbt基と併せ用いることによって2つのo-フェニル基が中央のベンゼン環に対して直交して内側をむくコンフォメーションをとることが予想された。まずTcp基及びTpp基と同程度、もしくはそれら以上の立体保護効果を期待できるDmtp基をスズ上に導入することとした。テトラチアスタンノラン3(R=Dmtp)に3当量のトリブチルホスフィンを作用させたところ、119Sn NMRにおいてスタンナンチオン8[Tbt(Dmtp)Sn=S]のシグナル(467ppm)は観測できたものの安定に単離することはできなかった。そこでDmtp基のメチル基の部分をさらに大きいイソプロピル基に替えた2,2"-ジイソプロピル-m-テルフェニル(Ditp)基を導入し同様な反応を検討したところ、スタンナンチオン8dを橙色の固体として得ることができた。またスタンナンセロン9dも安定な赤色固体として得ることができた。 またスタンナンチオン8f及びスタンナンセロン9fの付加反応を検討したところ、メシトニトリルオキシドとは[3+2]付加反応を、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンとは[4+2]付加反応をし、対応する付加体10、11を得た。極めてかさ高い置換基をもつ8f、9fにおいてさえこれらの反応が進行したことは、これらの化学種が二重結合化合物としての高い反応性を保持していることを示している。また後者の反応は、スタンナンチオン及びスタンナンセロンが高い二重結合性を有していることを示しており大変興味深い。 このようにカルコゲン元素上に立体保護基を導入できないため従来合成が困難とされてきた高周期14族元素-カルコゲン二重結合化学種の化学において、第5周期のスズを含む化学種でさえも適当な工夫をすることによって炭素と同様な二重結合の系が構築できることを示したことは、周期表を統一的に理解する上で意義深い結果である。 |