学位論文要旨



No 111693
著者(漢字) 斎藤,雅一
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,マサイチ
標題(和) 立体保護を利用した高反応性低配位有機スズ化合物の合成と反応
標題(洋) Syntheses and Reactions of Highly Reactive Low-coordinated Organotin Compounds by Taking Advantage of Steric Protection
報告番号 111693
報告番号 甲11693
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3057号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 教授 務谷,潔
 東京大学 教授 斎藤,太郎
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 中村,栄一
内容要旨

 有機スズ化学は有機化学において古くから研究されている分野の一つであるが、スズを含む低配位化学種に関してはそれらの化学種が極めて不安定であるため、近年ようやくその研究が始まったばかりであり、その化学についてはほとんど知られていない。なかでも有機化学で中心的な役割をはたすケトンのスズ類縁体として興味深いスズーカルコゲンニ重結合化学種に関しては、スペクトルによる観測例はおろか捕捉例さえ報告されていなかった。当研究室では既に2,4,6-トリス[ビス(トリメチルシリル)メチル]フェニル基(以下Tbt基と記す)と2,4,6-トリイソプロピルフェニル基(以下Tip基と記す)を立体保護基として初めて安定なケイ素-硫黄、ゲルマニウム-硫黄、セレン、テルルニ重結合化合物の合成、単離に成功している。筆者は修士課程において、同様な置換基の組み合わせで有機スズ二価化学種スタンニレンの硫化によって、初めてスズ-硫黄二重結合化合物(スタンナンチオン)を合成することに成功したが、このスタンナンチオン[Tbt(Tip)Sn=S]は徐々に二量化した。このことはケイ素、ゲルマニウムに比しスズを含む結合が長くかつカルコゲンとの二重結合が一層弱くなるため、スタンナンチオンの単離にはこの置換基の組み合わせでさえも系のかさ高さがたりないことを示していると考えられる。そこで博士課程においては、さらにかさ高い系を構築し、スズーカルコゲン二重結合化合物の性質の解明を目的として検討を行った。

1.かさ高い置換基を有する新規なスタンニレンの合成と反応

 修士課程では塩化スズ(II)にかさ高いアリールリチウムを順次作用させることによりTbt(Tip)Sn:を合成したが、本研究において新たにジブロモスタンナン1とリチウムナフタレニドの反応による効率のよいスタンニレン2の合成法を見いだした。この方法によりスズ上に各種かさ高い置換基を有する新規なスタンニレン2を合成し、それらの単体カルコゲンとの反応によりスズーカルコゲン二重結合化合物の前駆体となりうるテトラカルコゲナスタンノラン3,4を得た。

 

 2aは二硫化炭素との反応において興味ある反応性を示し、スタンニレン2分子と二硫化炭素3分子が反応した新規な構造を有する5が得られた。

 

 この反応において、スタンニレン2aに二硫化炭素を低温で作用させると溶液は青緑色(max(THF)=608nm)を呈する。この中間体を捕捉するため反応溶液に種々のオレフィンを反応させたところ、速やかに反応が起こり、五員環化合物6,7が得られた。これより、反応はイリドAを経て進行し、またイリドAは1,3-双極子としての反応性を示すことがわかった。

 

2.スズーカルコゲン二重結合化合物の合成と反応

 次に先に得られたテトラカルコゲナスタンノラン3,4の脱カルコゲン反応によるスズーカルコゲン二重結合化合物の合成に関して検討した。スズ上にTbt基を二つ導入した系が最もかさ高いと考えられるが、Tbt基のかさ高さのため導入できなかった。そこでTbt基中のDis基の一つのトリメチルシリル基を水素に置換しかさ高さを落としたTtm基、及びゲルマニウムの系においてテルルとの二重結合化合物までも安定に合成できるDis基を導入したテトラチアスタンノランのリン試剤による脱硫反応を検討したところ、やはりスタンナンチオンの二量化反応生成物が得られた。これより、これらの置換基の組み合わせでもスタンナンチオンは二量化することがわかった。

 

 そこでTip基のイソプロピル基の部分をさらにかさ高いシクロヘキシル基及び1-エチルプロピル基に変換したTcp基及びTpp基をスズ上に導入したテトラチアスタンノランの脱硫反応を検討した。脱硫試剤として3当量のトリフェニルホスフィンを作用させたところ、いずれの溶液もスタンナンチオン8の生成を強く示唆する黄橙色を呈した。その119Sn NMRにおいて643ppm(8b),631ppm(8c)という三配位スズに特有な低磁場にスタンナンチオン8に由来するシグナルを初めて観測することができた。8はフェニルイソチオシアナート、メシトニトリルオキシドと速やかに反応し、それぞれ対応する[2+2],[3+2]付加環化反応生成物を与えた。

 

 また系をより高周期のセレンに拡張し同様にテトラセレナスタンノランの脱セレン反応を検討したところ、紫外可視吸収スペクトル、119Sn NMR及び77Se NMRいずれにおいてもスタンナンセロン9のシグナルを観測することができた。このようにTip基よりかさ高い置換基をTbt基と併せ用いることによって、スズーカルコゲン二重結合化合物をNMRによって観測することが可能となった。しかしこれらの置換基の組み合わせでさえ8,9はいずれも室温で徐々に二量化することがわかった。このことより、スズーカルコゲン二重結合化合物を安定に単離するためにはTcp基及びTpp基よりさらにかさ高い置換基を導入することが必要となった。置換基をTcp基及びTpp基よりかさ高くする際に、シクロヘキシル基及び1-エチルプロピル基部分をさらに大きくすることは合成上有利とはいい難い。

 そこでより置換基の細工がしやすいm-テルフェニル系を導入することとした。m-テルフェニル系置換基はCPK模型による考察より、Tbt基と併せ用いることによって2つのo-フェニル基が中央のベンゼン環に対して直交して内側をむくコンフォメーションをとることが予想された。まずTcp基及びTpp基と同程度、もしくはそれら以上の立体保護効果を期待できるDmtp基をスズ上に導入することとした。テトラチアスタンノラン3(R=Dmtp)に3当量のトリブチルホスフィンを作用させたところ、119Sn NMRにおいてスタンナンチオン8[Tbt(Dmtp)Sn=S]のシグナル(467ppm)は観測できたものの安定に単離することはできなかった。そこでDmtp基のメチル基の部分をさらに大きいイソプロピル基に替えた2,2"-ジイソプロピル-m-テルフェニル(Ditp)基を導入し同様な反応を検討したところ、スタンナンチオン8dを橙色の固体として得ることができた。またスタンナンセロン9dも安定な赤色固体として得ることができた。

 

 またスタンナンチオン8f及びスタンナンセロン9fの付加反応を検討したところ、メシトニトリルオキシドとは[3+2]付加反応を、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンとは[4+2]付加反応をし、対応する付加体10、11を得た。極めてかさ高い置換基をもつ8f、9fにおいてさえこれらの反応が進行したことは、これらの化学種が二重結合化合物としての高い反応性を保持していることを示している。また後者の反応は、スタンナンチオン及びスタンナンセロンが高い二重結合性を有していることを示しており大変興味深い。

 

 このようにカルコゲン元素上に立体保護基を導入できないため従来合成が困難とされてきた高周期14族元素-カルコゲン二重結合化学種の化学において、第5周期のスズを含む化学種でさえも適当な工夫をすることによって炭素と同様な二重結合の系が構築できることを示したことは、周期表を統一的に理解する上で意義深い結果である。

審査要旨

 本論文は、6章からなっている。第1章は序論であり、第2〜6章においてスズの低配位型化合物であるスタニレンおよびスタンナンチオン(スズ-硫黄二重結合化合物)、スタンナンセロン(スズ-セレン二重結合化合物)の合成と反応性について述べている。

 第1章では、低配位有機スズ化合物とくに、二価スズ化学種であるスタニレンおよびスズと14族、15族、16族高周期元素との二重結合化合物に関する研究を総括し、本研究の位置づけを適切に行っている。また、本研究で活用された速度論的安定化の手法についてもその位置づけがなされている。

 第2章では、塩化スズ(II)を出発原料として発生させたスタニレンと硫黄およびセレンとの反応により、第4章以下で研究対象とするスズ-硫黄、スズ-セレン二重結合化合物の合成の出発原料となるテトラチアスタンノラン1、テトラセレナスタンノラン2の合成を行っている。

 第3章では、種々のかさ高い置換基をもつジブロモスタンナン3を出発原料としたスタンニレン4の合成法を開発し、それを用いることにより、フェニルイソチオシアナート、二硫化炭素などのヘテロクムレン類との反応を検討している。特に、二硫化炭素との反応では、4 2分子、二硫化炭素3分子の関与した興味ある生成物5が得られた。この反応を低温で行うと新規なスズを含むイリド6が生成することが、各種オレフィンを用いた捕捉反応により確認された。

 第4章では、第3章で開発したスタニレンの合成法を活用し、それと硫黄、セレンとの反応により各種のかさ高い置換基をもつテトラチアスタンノラン1、テトラセレナスタンノラン2を合成した。それらのうちTbt(Tcp)SnS4については、X線結晶解析によりその構造を明らかにした。

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 第5章では、テトラカルコゲナスタノラン1,2の三級ホスフィンによる脱カルコゲン化によるスタンナンチオン、スタンナンセロンの合成が検討されている。まず、スズ上の置換基をTbt基とTtm基、Tbt基とDis基としたスタンナンチオン7、8を対応するテトラテアスタンノランから合成する方法が検討されたが、7、8とも室温で二量化し9、10を与えることが判った。ついでより一層かさ高いと考えられるTcp基およびTpp基を導入したスタンナンチオン11、12およびスタンナンセロン13、14の合成を同様の方法で行ったところ、それらは119Sn,77Se NMRが測定できるほどに安定な化合物であることが明らかとなった。また、11、12はフェニルイソチオシアナート、メシトニトリルオキシドと反応し、[2+2]、[3+2]付加環化生成物を与えた。しかし、11-14のいづれも室温ではやはり徐々に二量化することが示された。そこで合成しやすくかつより有効な立体保護基としてm-テルフェニル骨格が導入された。まずDmtp基について検討されたがTbt(Dmtp)Sn=Sは119Sn NMRは測定されたものの安定には単離できなかった。ついでさらにかさ高い置換基としてDitp基について検討したところ、対応するテトラカルコゲナスタンノランのトリブチルホスフィンによる脱カルコゲン化により、スタンナンチオン15、スタンナンセロン16がそれぞれ安定な橙色および赤色の固体として単離された。これらは、安定なスズ-カルコゲン二重結合化合物の最初の例である。15、16のスズ-カルコゲン二重結合は極めてかさ高い置換基により保護されてはいるものの、メシトニトリルオキシド、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンと反応しそれぞれ[2+3]、[2+4]付加環化体を与え、二重結合としての高い反応性を保持していることが明らかとなった。

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 第6章では、テトラチアスタンノランを4当量以上のホスフィン試薬で処理すると、途中に生ずるスタンナンチオンでさらに脱硫反応を受けスタンニレンが生成することが述べられている。

 なお、本論文の第2章は岡崎廉治氏、時任宣博氏、松橋泰典氏、松本 剛氏、鈴木博之氏、万丸恭子氏、第3〜6章は岡崎廉治氏、時任宣博氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって合成、構造解析、反応性の検討を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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