学位論文要旨



No 111695
著者(漢字) 谷,幸則
著者(英字)
著者(カナ) タニ,ユキノリ
標題(和) 無機化合物・水溶液界面でのイオン選択的電荷分離に基づく化学センシング法の研究
標題(洋) Chemical Sensing Based on Ion-Selective Charge Separation at Inorganic Solid/Solution Interfaces
報告番号 111695
報告番号 甲11695
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3059号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 齋藤,太郎
 東京大学 教授 岩本,振武
 東京大学 教授 田中,虔一
内容要旨

 「序」 イオン同士の選択的相互作用による水溶液中での難溶性沈殿形成(たとえば、BaSO4,AgClなど)は、結晶生成過程が化学選択的である限り、新規イオン検出法として興味は続く。この化学現象は、古典的化学分析の一つである重量分析法の基礎原理であり、周期律表の多くの元素(イオン)が対象となる一般的な現象である。結晶生成過程での界面化学、特に、難溶性塩表面への固体構成イオンの選択的吸着あるいは表面からの選択的溶出は、古くは沈殿滴定の終点決定法であるFajans法などに応用されている。固液界面という限定された微少領域を認識場とする分析法は、バルクの分析法に比べ、時に、イオンの認織に引き続く情報変換過程を内在しており、更に、基本的に単分子層での化学であるために微量の試料しか必要とせず、また、高感度、高速度の分析が期待される。

 「目的」本研究は難溶性無機塩・水溶液界面での固体構成イオンの溶解現象とイオン交換現象を詳しく研究し、それらとイオン選択的電荷分離現象との関係を明らかにし、更にそれに基づき選択的イオン検出法を開発する事を目的とした。

 「方法」 難溶性固体表面からの固体構成イオンの溶出は、溶液中に溶出したイオン濃度変化として測定した。溶出したイオンは原子吸光法、イオンクロマトグラフィー、比色定量などにより求めた。また、XPS,FT-IRにより固体表面の観察も試みた。ここで固体表面からの固体構成イオンの溶出はバルクのそれに比して絶対量が少ない。そのため、固体表面と溶液体積の比をなるべく小さくすることで、固体表面からの固体構成イオンの選択的溶出を有意に測定できた。電解質を含まない純水への固体構成イオンの溶出をバックグランドとして、電解質を加えた水溶液中での溶出量と化学量論を比較することで、その溶出が界面でのイオン交換を伴うかどうかを判断した。溶出が固液界面でのイオン交換を伴う場合、固液界面での電荷分離を発現すれば、固体の膜電位の変化するはずである。そこで溶出とともに固体の膜電位変化を測定し、固液界面で電荷分離が生起されているかどうかを判断した。

結果と考察1)無機固体Fイオン伝導体・水溶液界面におけるイオン選択的電荷分離

 LaF3、PrF3、NdF3などの固体Fイオン伝導体固体表面からNaNO3やNa2SO4などの無関係塩を含む水溶液中に、Fイオンが選択的に溶出することを初めて見い出した。電解質を加えない場合には、有意なFイオンの選択的溶出は観測されず、Fイオンの選択的溶出には水溶液中の電解質が必要であることがわかった。電解質添加に伴うイオン強度増加により、塩の溶解度が増加する事は既知であるが、ここで重要なのは、古典的な塩の化学量論的溶出の前提とは明らかに異なり、固体が非化学量論的(F- >>3xLa3+)に溶出することである。当然、溶液バルクおよび固液界面での電荷中性則を保持するために、選択的に溶出したFイオンの代わりに無関係電解質アニオンが固体界面で「イオン交換(吸着)」していることがFT-IR、イオンクロマトグラフィーにより分かった。可動性Fイオンを持たないYF3、ErF3、PyF3などの固体界面からは有意なフッ化物イオンの選択的溶出が観測されなかったことから、Fイオンの選択的溶出は、可動性F-イオンの溶出によるものであると結論できる。再び重要なのは、「イオン交換」した電解質イオンが固液界面のどこに位置しているかである。LaF3膜電位はこれらの無関係電解質イオンに対しては全く応答を示さず、FイオンとOHイオンに対してのみ負の膜電位を示す。このことから、「イオン交換(吸着)」した無関係電解質アニオンは、Fイオンの溶出によって形成されたFの空孔に入らず、溶液側に位置することで、固液界面で電荷分離(固相側が正)を生起させると結論できる。つまり、形成されたFの空孔に水溶液側から入り、固相表面の正電荷を打ち消すことができるのは、Fイオンと半径の小さいOHイオンのみであり、その結果、LaF3固体膜がこれらのイオンに対して選択的な負の膜電位応答を発現させると考えられる。

2)重金属フェロシアン化合物・水溶液界面におけるイオン選択的電荷分離

 重金属フェロシアン化合物は、三次元的なFeII/III-CN-Metalによるネットワークによって構成され、その比較的大きな格子間隙(〜3.2A)に電荷中性を保持するためにK+イオンなどが挿入されている。銅電極表面に電解修飾したフェロシアン化銅薄膜を、(CH3)4N+、(CH3CH2)4N+イオンを含む電解質溶液中で処理すると、電解質を加えない純水の比べ、K+イオンが10倍ほど選択的に溶出する事を見出し、それに伴い電極電位が負にシフトすることが観測された。(CH3)4N+(7A)、(CH3CH2)4N+(8A)イオンは、明らかに格子間隙のサイズよりも大きく、格子間隙に位置する事は不可能であり、事実、これらのイオンは膜電位応答を生起させない。このことから、K+イオンの(CH3)4N+、(CH3CH2)4N+イオンを含む電解質溶液への選択的な溶出は、格子間隙からのK+イオンの溶出によるものであり、電荷中性則を満たすために格子間隙外に(CH3)4N+イオンが位置していると考えることができる。当然、K+イオンは、再びこの格子間隙に取り込まれ、電荷分離を打ち消すことができるため正の電位応答を生起させる。また、ほかのアルカリ金属イオンも水溶液側から格子間隙に取り込まれることができるので、正の電位応答を生じる。このときの電位応答選択性の強さは、Cs+>Rb+>K+>Na+>Li+となり、一方、アルカリ土類金属イオンは、格子間隙に入りうるイオンサイズにも関わらず有意な電位応答は示さなかった。この電位応答選択性は、イオンサイズによるものではなく、水相中から格子間隙への進入に必要なイオンの脱水和エネルギーの差(Cs+<Rb+<K+<Na+<Li+<<二価カチオン)によるものであると考えられる。同様な選択性がフェロシアン化ニッケル修飾電極でも観測された。フェロシアン化ニッケルを修飾した電極でアンモニウムイオンおよび種々のアルキルアンモニウムに対する電位応答を調べた結果、NH4+>(CH3)NH3+>(CH3)3NH3+なる応答選択性が観測され、他のアルキルアンモニウムに対し全く応答しなかった(図1)。このアルキルアンモニウムに対する電位応答選択性は、サイズの大きいイオンが格子間隙に取り込まれず、固相側の負電荷を打ち消すことができないことによるためで、上述のイオンの格子間隙への取り込みに基づくイオン選択的電位応答機構を強く支持する。

図表
3)マンガン酸化物に基づくアルカリイオンセンサーの開発

 マンガン酸化物は、種々のアルカリ金属イオンを取り込んだ構造を取り、無機イオン交換体の代表の一つである。金電極上に、アルカリ金属イオンの硝酸塩水溶液(2M)もしくは塩化物塩水溶液(1M)と硝酸マンガン(II)水溶液(2M)を展開し、820℃で加熱することで、種々のマンガン酸化物(図2)で金電極を被覆した。作成した電極は、アルカリ金属イオン包埋マンガン酸化物も大きさに基づいた選択的電位応答を示すことがわかった(図2)。これらのマンガン酸化物は、溶存酸素を含む無関係電解質溶液中で処理することで、はじめて大きな電位応答を示し、溶存酸素を含まない時に比べ、2倍以上のアルカリ金属イオンの溶出が観測された。この結果は、溶存酸素による固体中のマンガンの三価から四価への酸化に伴い、包埋されていたアルカリ金属イオンが溶出し固体表面に空孔が形成し、目的イオンが固相に取り込まれ、固相表面に過剰な正電荷が生じ、固液界面での電荷分離が生起されると考えられる。

図2 種々のマンガン酸化物の電位応答選択性と構造
4)固体構成イオンの選択的吸着に基づくイオンセンサーの基礎開発

 固体構成イオンの選択的吸着は、すべての無機難溶性塩・水溶液界面で生起されていると考えられるが、大部分の無機難溶性塩は電気的絶縁体であり、それを、膜電位の変化として検出することができない。そこで、上述のような難溶性無機塩・水溶液界面でのイオン選択的な吸着現象をより一般的な分析法として取り入れるため、膜電位変化ではなく単分子レベルの質量変化として情報変換する事を試みた。水晶発振子マイクロバランス(QCM)素子表面に代表的な難溶性無機塩を固定化し、そこへの構成イオンの選択的吸着の検出を試みた。その結果、QCM法により構成イオンの選択的吸着を直接検出できる事が分かり、難溶性無機の結晶生成・溶出過程、特に単イオンの吸着・溶出過程は、その無機化合物バルクの電導性のいかんにに関わらず、選択的イオン検出のメディアになることが判った。(表1)。

表1 種々の難溶性無機塩を修飾したQCMイオンセンサーの選択性
結論

 1。LaF3、重金属フェロシアン化合物およびアルカリ金属イオン包埋マンガン酸化物について構成イオンの溶解現象、イオン交換現象がどの様にイオン選択的電荷分離現象を生起させているか精密に検証した。

 2。得られた結果により重金属フェロシアン化合物を用いてアミン類の大きさに基づく電位選択性を発現させる事ができた。アルカリ金属イオン包埋マンガン酸化物を用いて、各アルカリ金属イオン選択性電極を提案できた。

 3。得られた結果を更に一般化するために電気電導性がない無機化合物に拡張できるよう単分子吸着過程を膜電位ではなく質量変化として情報変換する事を行い、それが可能な事を示した

審査要旨

 本論文は,7章から成り,第1章は概要であり,第2章の序論は,難溶性無機固体膜イオン選択性電極(ISE)の歴史と現状の問題点が述べられている.第3章は,フッ化ランタンとその関連化合物・水溶液界面における非化学量論的溶出とイオン選択的電荷分離との相関について論じている.第4章では,重金属フェロシアン化合物・水溶液界面におけるイオン選択的電荷分離と,それに基づくアルカリ金属イオン及びアンモニウムイオンセンサーについて論じている.第5章では,マンガン酸化物に基づくアルカリイオンセンサーの開発について記述している.第6章では,無機固体・水溶液界面でのイオン選択的吸着現象を,水晶発振子マイクロ天秤(QCM)により測定と解析を行い,また,その結果をもとに,電気伝導性のない無機固体膜を無機固体膜センサーに拡張出来ることを示している.第7章は,総合的結論が述べられている.

 今までの無機固体膜型イオン選択性電極は,(1)目的イオン(固体構成イオン)の固体表面上への,選択的吸着量と膜電位量変化の定量的関係の実験的考察が成されていなかった.又,(2)難溶性無機塩を感応素子とする膜電位応答のイオン選択性は,一般に溶解度積に支配されている.更に(3)膜電位を測定するためには,電気(イオン)伝導性が必要であり,ISEの感応膜として適用しうる難溶性塩が極めて限定される,などの問題点があった.これらの問題点を解決するため,申請者は(1)水晶発振子マイクロ天秤(QCM)法のより,目的イオンと膜電位変化の同時測定を行い,固液界面での目的イオン(塩構成イオン)の吸着量と膜電位変化量の定量的関係の解析を行った.(2)膜電位応答が,溶解度積に支配されない無機化合物のイオン選択的膜電位応答機構の解明と,それに該当する無機化合物の検索を行った.更に(3)塩構成イオンの選択的単イオン吸着現象もしくは結晶成長過程を,より一般的な分析法として取り入れるため,QCM法で質量変化として情報変換する事を行った.

 水晶発振子マイクロ天秤(QCM)による,目的イオンの選択的吸着量と膜電位応答の相関の定量的測定に関しては,その結果を,Gouy-Chapmann理論に基づき考察し,無機固体膜イオン選択性電極の膜電位が,目的イオンの選択的吸着によって生じる,溶液側の拡散電気二重層と固体表面の空間電荷層の電位差の和によって表わすことが出来ることを初めて実験的に示した.QCMに基づくこのアプローチは,電気伝導性に乏しい無機塩をQCM電極上に固定化する事で,固体構成イオンを検出できることを示唆しており,事実,申請者は,このことに気づいて,リン酸クロム,及び炭酸ランタンを感応素子としたリン酸センサー及び炭酸センサーを開発した.次に,種々の難溶性希土類及びアルカリ土類フッ化物の電解質水溶液への非化学量論的溶出を発見し,その結果をもとに,イオン選択的膜電位とバルクのイオン伝導性,イオン交換現象とを関連づけることを行った.同様な事を,重金属フェロシアン化合物,及びアルカリ金属イオンを包埋したマンガン酸化物で行い,やはり,固体構成イオンの非化学量論的溶出が,固体界面でのイオン選択的電荷分離にとって必須であることを明らかにした.この研究結果に基づき,重金属フェロシアン化合物系については,アルカリ金属イオンの電位応答識別が,膜電位応答により可能な事を示すだけではなく,アルキルアンモニウムイオン類に対し,イオンの大きさに基づく電位応答識別能を有していることを見出し,無機固体化合物で,直接有機物イオンが,膜電位応答識別出来ることを初めて示した.また,アルカリ金属イオン包埋マンガン酸化物系では,ナトリウムイオンに対するカリウムイオンの選択性が2000倍,また,カリウムイオンに対するナトリウムイオンの選択性が250倍という優れた電位応答選択性を示す固体膜イオン選択性電極がそれぞれ得られ,このアプローチによるカリウム及びナトリウムイオンセンサーの実用化の可能性が強く示唆された.

 以上要するに,申請者は,(1)QCMを用い,AgI,Ag2S固体膜電極表面への選択的な目的イオンの吸着量と膜電位変化量を定量的に検証し,(2)フッ化ランタンとその関連化合物,重金属フェロシアン化合物,及びアルカリ金属イオン包埋マンガン酸化物について,構成イオンの溶解現象,イオン交換現象が,どの様にイオン選択的電荷分離現象を生起させているかを精密に検証した.又,(3)得られた結果により,重金属フェロシアン化合物を用いて,アルカリアンモニウムイオン類の大きさに基づく電位選択性を発現させる事ができた.アルカリ金属イオン包埋マンガン酸化物を用いて,各アルカリ金属イオン選択性電極を提案できた.更に(4)得られた結果を一般化するために,電気電導性がない無機化合物に拡張できるよう単分子吸着過程を,膜電位ではなく質量変化として情報変換する事を行い,それが可能な事を示した.

 本研究は,分析化学にとって重要なものであり,博士(理学)取得を目的とする研究として十分であると審査委員会は全員一致で認めた.なお,本研究は,各章の研究が複数の研究者との共同研究であるが,論文提出者が主体となって行ったもので,論文提出者の寄与は十分であると判断する.

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