学位論文要旨



No 111696
著者(漢字) 角皆,潤
著者(英字)
著者(カナ) ツノガイ,ウルム
標題(和) 地殻内流体の挙動・起源に関する地球化学的研究
標題(洋) Geochemical studies of migration process and source of fluids in the crust
報告番号 111696
報告番号 甲11696
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3060号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 脇田,宏
 東京大学 教授 野崎,義行
 東京大学 教授 富永,健
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 高野,穆一郎
内容要旨

 河川水・地下水・熱水・海水といった流体の移動は、地球表層部における諸元素の移動・集積・分散を支配する主要な過程であり、地球化学だけでなく、海洋学・環境科学、固体地球物理学、鉱物・地質学、地震・火山学、水理学、生物学といった様々な地球科学分野において重要な研究対象となっている。本研究においては、このような地球表層部における流体移動の中でも、試料入手が難しいため従来あまり研究対象とされてこなかった、(1)島弧海山における深海底熱水活動、(2)深海底における冷水湧出、および(3)地震活動の前後に起こる地下水の移動、の三種の地殻内部における流体移動について研究を行った。その中で、(a)採取方法の開発・改良によって試料の採取を行い、(b)対象に応じた分析項目・手法の選択・開発・改良によって溶存化学・同位体組成を明らかにし、(c)その結果を元に流体の移動過程・溶存成分の起源・流体の起源・フラックスといった点に関して地球科学的考察を行った。本研究で新規に開発した分析項目としてはパージ&トラップ抽出とirmGC/C/MS(isotope-ratio-monitoring-Gas Chromatograph / Combustion / Mass Spectrometer)を組み合わせた熱水・冷湧水中の溶存メタンの炭素同位体比測定が特に挙げられる。従来行われてきたヘッド・スペース法(密閉試料水中に気相を作り、そこに抽出したメタンを直接irmGC/C/MSに導入する方法)では測定できない、メタン濃度1mol/kg以下の試料の13C(CH4)も測定するため、試料水からの全量抽出・精製・濃縮ライン(パージ&トラップライン)を製作しirmGC/C/MSに直結した。さらに測定精度を上げるためにGC部導入直前にcryo-focus(低温濃縮部)をオンラインで接続した。これによりメタン濃度80nmol/kgの試料でも、120mlを導入すれば、±1‰の精度で測定出来るようになった。

 第一の研究課題である島弧の海底海山における海底熱水系については、熱水中の溶存揮発性成分の起源を中心に考察を行った。深海底・形成されたばかりの新しい地殻という環境に囲まれて成立している海底熱水系には陸源有機物等の付加が無視できるため、He,CO2,CH4といった溶存揮発性成分の組成・同位体比は、その熱源マグマの組成・同位体比をそのまま反映していると考えられている。しかしこれまで研究されてきた海底熱水系は、中央海嶺や背弧などのプレート拡大軸のものが大部分であり、プレート収束域である島弧の深海底熱水系の溶存揮発性成分組成に関する報告はほとんど無い。陸源物質の影響の少ない島弧の深海底熱水系の溶存揮発性成分の組成・同位体比は、陸上の火山ガスからは得られない島弧火山マグマに関する情報を含んでいる可能性がある。そこで本研究では潜水調査船「しんかい2000」と「しんかい6500」を用いて、熱水活動の兆候が認められている伊豆-小笠原-マリアナ弧上の4つの海底海山(水曜海山・木曜海山・海形海山・PeakB海山)から、合計46個の高温(最高約311℃)熱水や温水の採取を行い、溶存揮発性成分を中心に分析した。そして異なるテクトニクス環境(島弧と中央海嶺)で生みだされる熱水中の、He,CO2,CH4の組成・同位体比を比較・考察することにより、その熱源マグマの性質の違いを地質学的・固体地球物理学的観点から考察した。島弧熱水のヘリウム同位体比(3He/4He比)は場所によらず、大気中ヘリウムの8.1倍程度と考えられ、中央海嶺系(NタイプのMORB等)の平均値と一致しており、陸上の島弧火山ガスの上限値であった。一方、CO2の絶対濃度はいずれも高く、CO2/3He比は(10〜12)x109程度で、中央海嶺系よりも有意に高い値を示し、典型的な陸上島弧火山ガスの値を示していた。さらにCO2やCH4の炭素同位体比(13C)はそれぞれ0〜-1‰(PDB)および-8〜-11‰(PDB)であり、中央海嶺系にも陸上の島弧火山ガスにも認められない非常に13Cに濃集した組成であることがわかった。このような特異な島弧海山の揮発性成分の特徴は、熱水循環過程の途中における何らかの分別過程、あるいは汚染に起因しているとは考えにくく、熱源となっている島弧海山のマグマ中の揮発性成分の化学的特徴をそのまま反映しているものと結論された。均一な上部マントルを仮定したモデル計算によると、上部マントル物質に約3%の沈み込むスラブ物質を付加して生成したマグマは、先の島弧海山熱水の特徴を反映したものになることがわかった。本研究で明らかになった島弧海山熱水の揮発性成分の特徴は、上部マントルにおける部分融解時における沈み込む堆積物の付加や、あるいはマグマ上昇過程における島弧地殻からの付加を受けない、一種の"クリーン"な環境で生成・移動した島弧マグマの、普遍的な特徴をそのまま反映したものであると考えられる。一方、この海底熱水系と揮発性成分についての特徴が一致しない陸上の島弧火山ガスについては、上部マントルにおける部分融解時、またはその後のプロセスにおいて、何らかの汚染または分別を受けている可能性が指摘できる。

 次に、大陸縁辺域の深海底における冷水湧出について、潜水艇を用い試料採取を行い、その温度・組成・同位体比から起源と湧出フラックスについて海洋学・水理学的視点から考察をおこなった。本研究では活発な冷湧水域の一つであると考えられている、相模湾初島南東沖の水深1,100m付近の海底に広がる深海生物群集域において、潜水調査船「しんかい2000」を用いて合計19個の海底直上水および湧水試料の採取を行い、溶存成分の組成・同位体比を明らかにした。湧水試料は周辺海水よりも約9℃高い11.6℃を示した。湧水の化学的特徴は以下のようにまとめられる。(1)海水と比較してアルカリ度・硫化水素・ケイ素・アンモニア・全炭酸・メタンに富んでおり、逆に塩化物イオン・硫酸イオン・カリウムイオン・ナトリウムイオン・マグネシウムイオン・カルシウムイオンといった成分に乏しい。(2)塩化物イオンの減少は最大で海水の20%に達する。(3)溶存ヘリウムの濃度および同位体比(3He/He比)には周辺海水に対する異常がほとんどみとめられない。このような湧水の化学的特徴や温度は、約40℃の陸域の地下水が、ほぼ同体積の堆積層中間隙水を巻き込みながら400m3/day程度のフラックスで湧出しているとすると矛盾無く説明できることがわかった。更に本湧水系の結果をグローバルな地下水の海底湧出に拡張した予察的な計算によると、このような間隙水を巻き込みながら海底に湧出する地下水は、海洋中(特に大陸縁辺域)における諸元素の分布に大きな影響を与える可能性があることがわかった。

 第三の研究については、地下水の地震前兆的な変動の有無について、ひとつの大地震を契機として行った地球化学的研究から明らかにすることができた。1995年1月17日に起きた兵庫県南部地震(M7.2)の発生前には、震源域近くの地下水の化学組成が大きく変動していたことが確認された。本研究において用いた試料は、神戸市内(震源まで20km、推定地震断層まで5km以内)に掘られた深さ100mの2本の井戸から揚水され、飲料用ミネラル・ウォーターとしてポリエチレンテレフタレート容器中に密封・市販されていた地下水である。地震発生後ただちに、1990年7月から1995年4月の間に汲み上げられていた合計78日分の地下水試料を集め、揚水・長期保存により変動しにくい成分の分析を行った。その結果、地下水中の塩化物イオン(Cl-)の濃度は、1994年7月以前はほぼ一定のバック・グラウンド値であったにもかかわらず1994年の8月頃から地震直前までほぼ連続して増加し、地震発生直前には10%近く高くなっていたことがわかった。また、地震発生後は2カ月近くの間、さらに高い塩化物イオン濃度を示したままであったこともわかった。さらにこの塩化物イオンの増加に連動して、硫酸イオン(SO42-)やアルカリ土類金属イオン(Mg2+,Ca2+,Sr2+,Ba2+)は増加し、逆にナトリウムイオン(Na+)やケイ素(Si)は減少していることもわかった。この一連の組成の変動は、揚水・保存による変質とは考えられず、地下水の組成変動を直接反映しているものと考えられる。この井戸の塩化物イオン等の濃度は降雨の影響を受けにくいことが一定のバック・グラウンド値からわかるため、地震前の組成変動は地震の何らかの前兆活動と関係がある可能性が大きい。この前兆活動のため地殻浅部の透水率が増加し、Cl-やSO42-、アルカリ土類金属イオンに富んだ相対的に浅層部起源の地下水の混合比率が増加したことが組成変動の原因であると考えられる。またこの地下水組成の変動以外にも、地下水湧出量の増加、地殻歪みの増大、地下水中ラドン濃度の増加といった異常が、本研究の結果と同様に本震発生の数カ月前から神戸市内外で始まっていたことが報告されており、1995年兵庫県南部地震発生の準備段階が、本震発生の数カ月前から震源域付近で始まっていた可能性が指摘できる。

 上述した研究から、(1)地殼内流体の挙動や起源についてヘリウムやCO2といった揮発性物質や塩化物イオンといった成分が良好な指標になる、(2)地下水が直接海洋に流入している過程が大規模に存在している、(3)諸元素の移動過程として地殻内の流体は重要な要素になっている、(4)地殻内流体の挙動は地殻内に起こる物理過程についての有用な指標になる可能性があるといったような、一連の新しい知見を得ることができた。

審査要旨

 本論文は全5章からなり、第1章で全体の概要を述べ、第2章で本論文で用いられている試料採取・分析法の詳解をした後、第3章で島弧海山における深海底熱水活動、第4章で大陸縁辺域で見られる深海底冷水湧出活動、第5章で地震活動の前後に起こる地下水の移動という3種の地殻内部における流体移動過程についての研究結果が述べられている。

 本研究により新しく開発した分析法として、第2章で述べられている、パージ&トラップ抽出とirmGC/C/MS(isotope-ratio-monitoring-Gas Chromatograph/Combustion/Mass Spectrometer)を組み合わせた熱水・冷湧水中の溶存メタンの炭素同位体比測定が挙げられる。従来測定が不可能とされているメタン濃度1mol/kg以下の試料の13C(CH4)の測定が可能になった。

 第3章では、島弧の海底海山における海底熱水系について、熱水中の溶存揮発性成分の研究を行い、起源の考察を行っている。海底の熱水系には、陸源有機物等の付加が無視できるため、He・CO2・CH4といった溶存揮発性成分の組成・同位体比は、その熱源マグマの組成・同位体比をそのまま反映していることが知られている。しかし、本論文以前に研究されてきた海底熱水系は、中央海嶺や背弧などのプレート拡大軸のものが大部分であり、島弧の深海底熱水系に関する報告はほとんど無かった。陸源物質の影響の少ない島弧の深海底熱水系の溶存揮発性成分の組成・同位体比は、陸上の火山ガスからは得られない島弧火山マグマに関する情報を含んでいる可能性があると推定される。そこで本論文では潜水調査船「しんかい2000」と「しんかい6500」を用いて、伊豆-小笠原-マリアナ弧上の4つの海底海山から、合計46個の高温(最高約311℃)熱水や温水の採取を行い、溶存揮発性成分を中心に分析している。そして異なるテクトニクス環境(島弧と中央海嶺)で生みだされる熱水中の、He・CO2・CH4の組成・同位体比を比較・考察している。その結果、島弧熱水のヘリウム同位体比は大気中ヘリウムの8.1倍程度で、中央海嶺系の平均値と一致しており、陸上の火山ガスの上限値であっることが見いだされた。一方、CO2の絶対濃度はいずれも高く、CO2/3He比は(10〜12)x109程度で、中央海嶺系よりも有意に高い値を示すことも見いだされた。さらにCO2やCH4の炭素同位体比(13C)はそれぞれ0〜-1‰(PDB)および-8〜-11‰(PDB)であることもわかった。このような特異な島弧海山の揮発性成分の特徴は、熱水循環過程の途中における何らかの分別過程、あるいは汚染に起因するとは考えにくく、島弧海山のマグマ中の揮発性成分の化学的特徴をそのまま反映しているものと結論している。一方、この海底熱水系と揮発性成分についての特徴が一致しない陸上の島弧火山ガスについては、上部マントルにおける部分融解時、またはその後のプロセスにおいて、何らかの汚染または分別を受けている可能性が指摘されている。

 次に第4章では、大陸縁辺域の深海底における冷水湧出について、潜水艇を用いて試料採取を行い、その温度・組成・同位体比から起源と湧出フラックスについて海洋学・水理学的視点から考察をおこなっている。本論文では相模湾初島南東沖の水深1,100m付近の海底に広がる深海生物群集域において海底直上水および湧水試料の採取を行い、溶存成分の組成・同位体比を明らかにしている。湧水試料は周辺海水よりも約9℃高い11.6℃を示していたことがわかった。湧水の化学的特徴は以下のようにまとめられている。(1)海水と比較してAlkalinity・H2S・Si・NH4CO2・CH4に富んでおり、逆にCl-・SO42-・K+・Na+・Mg2+・Ca2+といった成分に乏しい。(2)Cl-の減少は最大で海水の20%に達する。(3)溶存ヘリウムの濃度および同位体比には周辺海水に対する異常がほとんどみとめられない。このような湧水の化学的特徴は、陸域の地下水が、堆積層中間隙水を巻き込みながら400m3/day程度のフラックスで湧出しているとすると矛盾無く説明できることを見いだしている。更に本湧水系の結果をグローバルな地下水の海底湧出に拡張した予察的な計算によると、このような間隙水を巻き込みながら海底に湧出する地下水は、海洋中における諸元素の分布に大きな影響を与える可能性が指摘されている。

 第5章では、地下水の地震前兆的な変動の有無について、ひとつの大地震を契機として行った地球化学的研究から解明をすすめた。1995年1月17日に起きた兵庫県南部地震(M7.2)の発生前には、震源域近くの地下水の化学組成が大きく変動していたことが明らかにされている。用いた試料は、神戸市内(震源まで20km、推定地震断層まで5km以内)に掘られた深さ100mの2本の井戸から揚水された、飲料水で、容器中に密封・市販されていた地下水である。地震発生後ただちに、1990年7月から1995年4月の間に汲み上げられていた地下水試料を集め、化学分析を行っている。その結果、地下水中のCl-の濃度は、1994年の8月頃から地震直前までほぼ連続して増加し、地震発生直前には10%近く高くなっていたことがわかった。また、地震発生後も2カ月近くの間、さらに高い塩化物イオン濃度を示したままであったこともわかった。さらにこの塩化物イオンの増加に連動して、SO42-やMg2+,Ca2+,Sr2+,Ba2+は増加し、逆にNa+やSiは減少していることもわかった。この一連の組成の変動は、揚水・保存による変質とは考えられず、地下水の組成変動を直接反映しているものと推定している。この井戸の塩化物イオン等の濃度は降雨の影響を受けにくいことがバック・グラウンド値からわかるため、地震前の組成変動は地震の何らかの前兆活動と関係がある可能性が大きいと結論している。この前兆活動のため地殻浅部の透水率が増加し、Cl-やSO42-、アルカリ土類金属イオンに富んだ相対的に浅層部起源の地下水の混合比率が増加したことが組成変動の原因であると推定している。さらに、1995年兵庫県南部地震発生の準備段階が、本震発生の数カ月前から震源域付近で始まっていた可能性が指摘されている。

 以上を要するに、本論文提出者角皆潤は、(1)地殻内流体の挙動や起源についてヘリウムやCO2などの揮発性物質や塩化物イオンが良好な指標になる、(2)地下水が直接海洋に流入している過程が大規模に存在している、(3)諸元素の移動過程として地殻内の流体は重要な要素になっている、(4)地殻内流体の挙動は地殻内に起こる物理過程についての有用な指標になる可能性があるといった新しい知見を得ることに成功している。これは地球化学研究に大きく寄与するとともに、固体地球物理学・海洋学・水理学・地震学といった、他の地球科学分野に対しても大いに貢献する成果である。なお、主論文はいずれも本提出者が主著者となってすでに印刷公表され、あるいは公表が予定されている。これらの論文はいずれも本論文提出者が主体となって分析および検証を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文提出者角皆潤は博士(理学)の学位を受けるに十分な資格を有するものと判定した。

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