内容要旨 | | 1序 リン酸イオンは,生体において最も一般的な構成成分の一つであり,生体内にはこれを利用する様々な系が存在する.従ってリン酸イオンに対する人工ホストの開発は,分析化学のみならず人工制限酵素の開発や膜輸送といった様々な分野での応用が期待できる. 従来リン酸イオンの認識は,主に電荷-電荷相互作用に基づくものがほとんどであり,これまでに大環状ポリアミン,グアニジニウムなど多数の報告例がある.一方,電荷中性な人工ホスト(ニュートラルホスト)の開発はほとんどなされていなかった.しかし近年,アミド部位を認識サイトとした,水素結合によるリン酸イオンの認識が注目され始めた.生体中に於いて重要な相互作用の一つである水素結合を利用することにより,人工ニュートラルホストでリン酸イオンとどの程度の錯形成能が得られるか,といったことは大変興味深い.また,従来の電荷-電荷相互作用サイトと異なる新しい認識サイトを用いることはホストーゲスト化学の発展に寄与するものと思われる.以上の観点から,本研究では水素結合を用いたリン酸イオンに対するホストの開発を第一の目的とした. 人工ホスト化合物の分析化学への応用として,本研究ではリン酸イオンセンサー(液膜型イオン選択性電極及びオプトード)の開発を目指した.液膜型イオン選択性電極は,試料溶液中の目的イオン濃度(正確には活量)を電極の電位測定によって指示する分析法である.この電位応答は,水溶液中の目的アニオンが液膜中の感応物質(ホスト)と膜界面で錯体を形成し,対カチオンを伴わずに液膜界面に輸送・分配されて生ずる電荷分離によると考えられており(Fig.1),膜界面特有の化学現象である.一方,オプトードは,目的アニオンがホスト(chromo-ionophore)と錯形成をする際のスペクトル変化を利用したものであり,目的アニオンは対カチオンと共にイオン対抽出(またはイオン交換)される. Figure1. EMF response of neutral-carrier based anion-selective liquid membrane electrodes. 無機アニオンの水和エネルギー(-G)の大きさの序列は,Hofmeister系列(ClO4-;205kJ/mol<NO3-;300kJ/mol<Cl-;340kJ/mol<H2PO4-;465kJ/mol)として知られており,無機リン酸イオンは他の無機アニオンに比べて水和エネルギーが大きい.従って,水相中のリン酸イオンを選択的に有機相(液膜)中に分配させることは容易ではなく,液膜ヘリン酸イオンを選択的に分配する必要のあるイオンセンサーの開発は非常にチャレンジングである.また,従来のモリブデンブルー法(吸光光度法)に代る無機リン酸イオンの定量法を開発することは,医療分析,環境計測といった分野で重要であり,実用面において大変意義があることと思われる. 2ホスト設計 水素結合によるアニオン認識サイトとして,アミド部位が広く用いられるようになったが,本研究では認識サイトとして尿素またはチオ尿素部位を用いることにした.これらの部位はリン酸イオンと7のように水素結合を形成することが期待できる.さらに8のように適当な基本骨格(スペーサー)を用いてこれらの部位を2個配置させることによって,より安定な錯体を形成することが期待できる.CPKモデルによってスペーサーを検討した結果,m-キシレンまたはキサンテンが適当であると思われた.以上の検討に基づいて,ホスト1〜6を合成した. 3尿素またはチオ尿素部位を有するニュートラルホストによるアニオン認識i)H2PO4-との錯形成評価 まずm-キシレンをスペーサーとしたホスト1 および2について無機リン酸イオン(H2PO4-)とのDMSO-d6(ジメチルスルホキシド)中における錯形成を1H NMR分光法により検討した.ホスト1はH2PO4-の存在により,両方のNHのシグナルが低磁場シフト(>1ppm)することから,H2PO4-と錯体を形成することが分かった.錯体の化学量論を明らかにするために,いわゆるJob’s plotを行ったところ,錯体濃度はモル比0.5で最大になることから,1はH2PO4-と1:1錯体を形成することが明らかになった.1H NMR titrationを行った結果,錯形成定数は110M-1であることがわかった.尿素部位をチオ尿素部位に置換したホスト2について同様な検討をした結果,ホスト1に比べ約7倍の錯形成能(820M-1)が得られた. N,N’-ジメチル尿素(28M-1)やN,N’-ジメチルチオ尿素(120M-1)では上記の錯形成定数が得られないことから,ホスト1 とホスト2 では両方の認識部位がH2PO4-との錯形成に関わっているものと思われる.また,N,N-ジメチル尿素(3M-1)やN,N,N’-トリメチルチオ尿素(5M-1)では極めて小さい錯形成能しか示さないことから,ホストが11のように水素結合受容体になる可能性はほとんどないものと考えられる.以上の結果から,両ホストは9のようにH2PO4-と錯体を形成するものと思われる. ホスト2が1よりもより強い錯形成能を示すのは,ホスト2のチオ尿素部位(pKa=21.0)のpKaがホスト1の尿素部位(pKa=26.9)のpKaよりも約6 units小さく,つまりチオ尿素の方がより強い水素結合供与体であることに起因すると考えられる. ii)選択性 Table 1にホスト1および2と他のアニオンとの錯形成定数を示す.両ホストともCH3COO-以外の他の無機アニオンとはほとんど錯形成をせず,H2PO4-に対して選択的に錯形成することがわかった.観測された選択性はゲストアニオンの塩基性及び構造から次のように説明することができる.オキソアニオンであるHSO4-,NO3-,ClO4-はH2PO4-と同様な構造でホストと錯形成することができると思われるが(9参照),この中でH2PO4-が最も弱い酸(pKa=2.15),つまり最も強い水素結合受容体である.その結果,H2PO4-との錯形成力が最も大きくなると考えられる.またCH3COO-(pKa=4.76)がH2PO4-よりも弱酸であるにもかかわらず,H2PO4-よりも弱い錯体を形成するは,錯体の構造の違いによる為であると考えられ,予想される錯体の構造は10である.この錯体の構造の違いはホスト2のベンゼン環の2位の水素原子のケミカルシフトが,H2PO4-との錯形成により0.17ppm変化するのに対し,CH3COO-の場合にはほとんど変化しない(<0.01ppm)ことから支持される.従ってH2PO4-と錯形成をする場合の方が,ホストの水素原子とゲストアニオンの酸素原子の距離が小さくなり,より強い錯体を形成するものと思われる. Table 1. Association constants(K11,M-1,in DMSO-d6)of hosts 1 and 2 with guest anions of various basicity and structure.iii)置換基およびスベーサーの効果 さらにチオ尿素部位を有するホスト3〜6について,置換基およびスペーサーがH2PO4-との錯形成に及ぼす影響について比較検討した(Table 2).チオ尿素部位にフェニル基を直接導入したホスト3 はホスト2 に比べより強い錯形成能を示した.同様な傾向はホスト5 とホスト6 の間でも得られた.これはチオ尿素部位がフェニル基と共役することによるpKaの低下(ジフェニルチオ尿素;pKa=13.5)によるものと考えられる.また,ナフチル基を導入したホスト4はホスト2とほぼ同程度の錯形成能を示した.CPKモデルによると,チオ尿素部位とナフチル基との平面性が保たれていないことから,ホスト4では,両者の共役が減少しているものと思われる. Table 2. Association constants(K11,M-1,in DMSO-d6)of hosts 2 to 6 with H2PO4-,CH3COO- and Cl-. 一方,劇的な錯形成能の増加はキサンテンをスペーサーとしたホスト5 およびホスト6 で得られた.ホスト2からホスト5,またはホスト3からホスト6で見られる錯形成能の増加は,上記のチオ尿素部位にフェニル基を導入することによって得られる錯形成定数の増加に比べ著しく大きい.従ってこの著しい錯形成能の増加は,キサンテン骨格の剛直さが主な理由であると考えられる.つまりキサンテンをスペーサーとしたホスト5〜6は,m-キシレンをスペーサーとしたホスト2〜4に比べ分子の自由度が小さく,この違いが錯形成に伴うエントロピー項に寄与するものと思われる. 4イオン選択性電極 膜電位測定に使用した液膜は,感応物質としてホスト2(0.8wt.%)またはホスト3(1 wt.%),膜溶媒として2-Nitrophenyl octyl ether(o-NPOE),膜支持体としてポリ塩化ビニル(PVC)を用い,ホスト に対して脂溶性カチオンサイト(tridodecylmethylammonium chloride)を55mol%(0.8wt.%)含む液膜を作製した.この際,膜中での各ホストのモル濃度をそろえて液膜を作製した.測定試料溶液のpH調整には0.1MHEPES(2-[4-(2-hydroxyethyl)-1-piperazinyl]ethanesulfonic acid)/NaOH(pH6.8)を用いた. Fig.2にリン酸イオンに対する電位応答を示す.両液膜電極ともリン酸イオン濃度の増加に伴い負の膜電位応答を示した.しかし,電位応答の大きさには明らかな差が見られ,ホスト3を感応物質とした液膜電極は2mMから10mMの濃度範囲で2価イオンに対する理論応答(-29.7mV/decade,ca.25℃)を示した.この差は,ホスト3 がホスト2 よりもより強くリン酸イオンと錯体を形成することによって説明できる. Figure2. Potentiometric response curves for phosphate obtained at pH 6.8(0.1 M HEPES-NaOH)for(a)electrode based on host 2,and(b)electrode based on host 3.5オブティカルセンシング ホスト 2 のchromoionophoreとしての可能性を評価したところ,その紫外吸収スペクトルがH2PO4-との錯形成に伴い変化することを見い出した(Fig.3).この光学特性変化はチオ尿素部位に発色団(例えば,ニトロベンゼン)を導入することによってさらに増幅,つまりより可視領域に移行させることが期待でき,リン酸イオンオプトードを開発する上で重要な基礎知見が得られた. Figure3. Effect of dihydrogenphosphate(as N(C4N9)4+salt)concentration on UV absorption of host 2(0.2 mM in water-saturated 1,2-dichloroethane).The formation of a small amount of 1:2 complexes formed from one molecule of host 2 and two dihydrogenphosphate ions(K12530 M-1)beside the dominant 1:1 complex(K1119000M-1)explains why no clear isosbestic point is observed.6まとめ i) リン酸イオンを水素結合を用いて認識することに注目し,リン酸イオン認識サイトとして尿素またはチオ尿素部位を有するニュートラルホストを合成した. ii) アニオンとの錯形成能を1H-NMR分光法を用いて評価した結果,DMSO-d6中においてH2PO4-と選択的に錯形成をすることが分かった.また,ホスト5 およびホスト 6 では,現在報告されているニュートラルホストと比べ,最も強い錯形成力が得られた. iii) ホスト2 とホスト3をイオン選択性電極に応用した結果,H2PO4-との錯形成力を反映した電位応答が得られた.また,チオ尿素部位を有するニュートラルホストの紫外吸収スペクトルが,H2PO4-との錯形成によって変化することを見い出した.これらの結果から,チオ尿素部位を有するホストが,リン酸イオンセンサーの感応物質として有望であることを示すことができた. |
審査要旨 | | 本論文は4章からなる.第1章は序論であり,無機リン酸イオンの性質と一般的分析法及び本研究で開発を目指すイオン選択性電極及び化学センサーの一般的考察が述べられている. 第2章はリン酸イオン認識試薬の分子設計と合成について論じている.すなわち多点水素結合による無機リン酸イオンの認識を目指し,認識サイトとして尿素またはチオ尿素部位を有するホスト(認識試薬)1〜7を合成し,ジメチルスルホキシド(DMSO-d6)中におけるH2PO4-との錯形成挙動を1HNMR分光法を用いて評価している. 尿素部位を有する,’-bis(N’-butylureylene)-m-xylene(ホスト2)及びチオ尿素部位を有する,’-bis(N’-butylthioureylene)-m-xylene(ホスト3)とH2PO4-との錯形成挙動を評価した結果,ホスト3はホスト2よりもより強くH2PO4-と錯形成することを明らかにした.その理由を,チオ尿素の方が尿素よりより強い水素結合供与体であることに起因するとした.また両ホストともH2PO4-と選択的に錯体を形成することを明らかにした.得られた選択性をゲストアニオンの塩基性及び錯体のgeometryの違いによって説明している. チオ尿素部位を有するホスト3〜7について,置換基およびスペーサーがH2PO4-との錯形成に及ぼす影響について比較検討した結果,チオ尿素部位の酸性度をより強くするフェニル基及びスペーサーとしてキサンテンを用いることがH2PO4-との錯形成能増加に効果的であることを示した.特に2,7-di-tert-butyl-9,9-dimethyl-4,5-bis(N’-butylthioureylene)-xanthene(ホスト6)及び2,7-di-tert-butyl-9,9-dimethyl-4,5-bis(N’-phenylthioureylene)-xanthene(ホスト7)とH2PO4-とのDMSO-d6中における錯形成定数はそれぞれ55000M-1及び195000M-1であり,現在報告されているニュートラルホストと比べ,最も強い錯形成力が得られている. 第3章では合成した試薬の化学センサー,特にイオン選択性電極とオプティカルセンサー開発への応用が論じられている. ホスト3及び,’-bis(N’-phenylthioureylene)-m-xylene(ホスト4)を感応物質とした液膜電極を作製し,リン酸イオンに対する電位応答挙動を検討している.その結果,ホスト4を感応物質とした液膜電極では,従来のイオン交換体を感応物質とした液膜電極に比べ,より強い電位応答を示すことを明らかにした.得られた選択性は不十分であるものの,この結果により,チオ尿素部位を有するホスト化合物が,イオン選択性電極の感応物質として応用しうることを示した. ホスト3のchromoionophoreとしての可能性を評価し,その紫外吸収スペクトルがH2PO4-との錯形成に伴い変化することを見い出し,オブティカルセンサーの基礎知識を得ている. 第4章は,本研究全体の実験の詳細が記述されている. 以上要するに,本研究は i) リン酸イオンを多点水素結合を用いて認識することを目指し,リン酸イオン認識サイトとして尿素またはチオ尿素部位を有するニュートラルホストを合成し, ii) アニオンとの錯形成能を1H-NMR分光法を用いて評価した結果,DMSO-d6中においてH2PO4-と選択的に錯形成をすることを明らかにした.また,ホスト6およびホスト7が,現在報告されているニュートラルホストと比べ,最も強い錯形成力を持つことを明らかにしている.更に, iii) ホスト3とホスト4をイオン選択性電極に応用した結果,H2PO4-との錯形成力を反映した電位応答を得ている.また,チオ尿素部位を有するニュートラルホストの紫外吸収スペクトルが,H2PO4-との錯形成によって変化することを見い出した.これらの結果から,チオ尿素部位を有するホストが,リン酸イオンセンサーの感応物質として有望であることを示した. よって本研究は,分析化学において重要なものであり,博士(理学)取得を目的とする研究の成果として十分であると審査委員会は全員一致で認めた. なお,本論文は,岩男理敏氏,肖康平氏,Philippe Buhlmann氏,梅澤喜夫氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって進めたものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する. |