学位論文要旨



No 111699
著者(漢字) 藤川,安仁
著者(英字)
著者(カナ) フジカワ,ヤスノリ
標題(和) 高分解能電子エネルギー損失分光法によるフラーレン超薄膜の研究
標題(洋)
報告番号 111699
報告番号 甲11699
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3063号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 齋藤,太郎
内容要旨

 分子線エピタキシー(MBE)法による薄膜結晶成長は、擬2次元系の物性研究および新電子デバイス創製という観点から様々な物質において試みられている。特に分子性結晶の薄膜作成は、分子自身の持つ固有の物性の2次元化という点で近年非常に興味を持たれており、分子性結晶薄膜と基板との間の界面として、また薄膜の成長初期過程としての単分子膜の状態は興味深いところである。分子と基板との界面を考える際に、特にフラーレン(C60,C70)は結合のみで構成される点においてモデルとして理想的であると考えられる。そこで本研究ではフラーレンの単分子膜の状態を高分解能電子エネルギー損失分光法(High-Resolution Electron Energy Loss Spectroscopy,HREELS)によって調べ、C60分子の軌道と様々な反応性を持つ基板との間の相互作用やC70分子の配向に対して基板が与える影響を解明することを考えた。以下にその結果を述べる。

1.HREELS測定によるC60単分子膜と基板間の相互作用の解明

 まず、表面にダングリングボンドが存在せず比較的不活性であるといわれているMoS2劈開面を基板としてC60単分子膜のHREELS測定を行った。図1にMoS2劈開面上にエピタキシャル成長したC60単分子膜のHREELSスペクトルを示す。鏡面反射条件の測定では66,147,177meVにC60のIR活性モード(T1u)がバルクに比べほとんどシフトせずに観測され、また非鏡面反射条件の測定では厚い膜のスペクトルと一致したスペクトルが観測される。このことからMoS2基板がC60の骨格の結合にほとんど影響を与えていないことがわかり、C60分子とMoS2基板間に結合あるいは電荷移動などの強い相互作用は存在していないと考えられる。このことはMoS2表面にダングリングボンドが存在しないことから予想された結果である。しかし、鏡面反射条件の測定で観測される158meVのピークはC60の対称性(Ih)からは禁制のピークであり、厚い膜のHREELS測定では観測されない。このことから、MoS2表面上のC60分子の対称性は完全には保たれていないことが判り、MoS2表面がC60分子に影響を与えていることが示唆される。この原因として、MoS2表面上の局所電場によるC60分子の分極やMoS2表面の電子軌道とC60軌道の弱い相互作用が考えられる。

図1 C60/MoS2(1ML)のHREELSスペクトル(a):鏡面反射条件(b):非鏡面反射条件

 次に、シリコン表面上のC60分子の状態についてHREELS測定により解明を試みた。SiO2保護膜を加熱蒸発させることによって得られるシリコン再構成表面(Si(111)7x7,Si(100)2x1)には、再構成後も表面上にダングリングボンドが残っており、反応性が高いと考えられる。このような表面上ではC60分子はダングリングボンドと結合してマイグレーションが出来なくなってしまうため、通常はエピタキシャル成長しないものと考えられる。しかし、Si(111)7x7再構成表面上においては、C60R19.1°ダブルドメイン構造をとってエピタキシャル成長する事が知られている(図2)。このエピタキシャル成長の初期過程においては、C60分子ははじめから構造をとるわけではなく、被覆率が1を超えた時点で構造に転移することがわかっており、C60が単にダングリングポンドと結合している構造では説明できない。そこで、成長の初期過程においてC60とSi基板がどのような相互作用をしているかを解明するためHREELS測定を行った。また、Si(111)7x7上R19.1°C60単分子膜とSi(100)2x1上の乱雑なC60単分子膜について、様々な温度におけるC60分子とSi基板との反応性をHREELS測定を行うことでによって調べた。

図2 C60/Si(111)7x7のR19.1°構造

 まず図3にSi(111)7x7上に成長した被覆率0.2,0.6,1分子層のC60薄膜のHREELSスペクトルを示す。被覆率0.2分子層のスペクトルでは66,177meVのIR活性モードが観測されず、143meVに大きなピークが観測される。このようなスペクトルは後述するSi(100)2x1上のC60単分子膜でも観測され、C60がダングリングボンドと結合していることを示している。SatoらのSTM測定の結果から、この被覆率ではC60分子は主に7x7表面のコーナーホールおよびセンターアドアトムーレストアトム間に吸着していると考えられる。これに対して被覆率0.6分子層のスペクトルでは、65,176meVにバルクに比べ少し低エネルギーにシフトしたIR活性モードが観測され、また145meV付近のピークも0.2分子層のスペクトルに比べ、146meVと高エネルギー側にシフトしている。このことは被覆率が0.6分子層に増えたことにより、全体的にSi基板とC60分子の間の相互作用が弱くなったことを示している。この被覆率ではセンターアドアトムーレストアトム間に吸着したC60分子が最適位置の奪い合いを起こしており、C60とシリコン基板の結合の弱化を引き起こしていると考えられる。この結合弱化のプロセスがR19.1°構造への転移を可能にしていると考えられる。被覆率が1になってR19.1°ダブルドメイン構造をとるとHREELSスペクトルはかなり変化し、66,147,178meVにIR活性モードが観測され、157meVにもピークが観測される。このスペクトルはMoS2劈開面上のC60単分子膜のスペクトルによく類似しており、R19.1°ダブルドメイン構造をとった状態ではC60は化学結合を起こさずにSi表面に吸着していることがわかる。R19.1°ダブルドメイン構造ではC60の6/7はブリッジサイト(コーナーアドアトムーセンターアドアトム間)についているものと考えられるが、このサイトにおけるC60分子はSiダングリングボンドとそれほど相互作用をしていないと考えられる。

図3 C60/Si(111)7x7のHREELSスペクトル(鏡面反射条件)

 図4、図5はそれぞれSi(100)2x1上の乱雑なC60単分子膜とSi(111)7x7上のR19.1°C60単分子膜を図中に示す温度まで昇温した後のHREELSスペクトルである。(100)面上では850Kまで基本的に成長直後(350K)と同様のスペクトルが観測され、C60分子はSi基板と350Kで化学吸着し、850Kまで分解せずそのまま残ることがわかる。これに対し、(111)面上では850Kではじめて66meVのピークがソフト化し、下地と反応していることがわかる。しかし、145meV付近のピークが目立つことはなく、反応の形態は(100)面の場合と異なっている。この違いは(100)面と(111)面でのダングリングボンドの反応性の違いを示しており、(111)7x7面のアドアトムのダングリングボンドの反応性が低いことが原因であると考えられる。

図表図4 C60/Si(100)(1ML)の各温度でのHREELSスペクトル / 図5 C60/Si(111)(1ML)の各温度でのHREELSスペクトル
2.HREELSによるC70単分子膜の分子配向決定

 図6にMoS2劈開面上にエピタキシャル成長したC70単分子膜のHREELSスペクトルを示す。鏡面反射条件での測定で69,84,99,146,178meVにC70のIR活性モードによるピークが観測されるが、厚い膜の測定では観測される140meVのC70IR活性モードによるピークが欠けている。このモードはC70の5回対称軸(長軸)に平行に遷移双極子モーメントを持っており、表面垂直双極子選択則からC70は5回対称軸が表面に平行な状態で表面に吸着していると考えられる。C70はMoS2上に6回対称に成長するため、C70が長軸の方向を1方向に揃えて最密充填して配列しているとは考えられず、1層目においてC70分子の表面平行方向の配向は乱れていると考えた方が妥当である。この1層目の構造がC70を厚い膜にしたときの配向の乱れの原因であると考えられる。

図6 C70/MoS2(1ML)のHREELSスペクトル(a):鏡面反射条件(b):非鏡面反射条件

 先のような1層目の配向の乱れを避けるためには、5回対称軸の配向を表面に対し垂直方向に揃えることが重要であると考えるれる。C60薄膜成長の結果から、Si(111)7x7表面はフラーレンをR19.1°構造で吸着しやすいことがわかっている。R19.1°構造の格子定数は1.02nmとC70の5回対称軸に垂直方向の大きさ(1.01nm)と一致するため、Si(111)7x7表面上ではC70分子の5回対称軸が表面垂直方向にそろう可能性が高いものと考えられる。そこで、Si(111)7x7表面上にC70単分子膜を成長した結果、a軸の格子定数が1.05nmのR19.1°構造の膜が成長した。この格子定数から、C70の5回対称軸は完全ではないものの表面垂直方向に配向しがちであることが判る。このC70単分子膜のHREELS測定の結果を図7に示す。図のように178meVの双極子散乱ピークが消失し、厚い膜のスペクトルでは69meVに存在するピークが66meVに変化している。これは先ほどのMoS2表面上の結果とは逆にC70の5回対称軸に垂直方向に双極子を持つモードが消失するためであると考えられる。この結果はC70分子の5回対称軸が表面垂直方向にかなり近い方向に配向していることを示唆している。また、膜厚10nmの膜でも178meVのピーク強度の著しい低下が観測され、この配向を保った多層膜が成長したことが確認された。

図7 C70/Si(111)7x7(1ML)のHREELSスペクトル(a):鏡面反射条件(b):非鏡面反射条件
結論

 本研究ではフラーレン単分子膜をHREELS測定により解析し、反応性の異なるMoS2とSi表面上でのフラーレン分子の状態の解明を行った。C60単層膜の測定の結果、比較的不活性なMoS2表面上の単層膜では基板とC60分子との弱い相互作用を示すピークを観測した。Si(111)7x7表面上ではC60分子と基板との相互作用の強さはC60の被覆率に依存し、R19.1°構造をとるまでに結合が弱化するプロセスが存在することを示した。また、昇温実験の結果から、Si(100)2x1面とSi(111)7x7面でC60単層膜との反応性に違いがあることを示した。また、C70単層膜の配向をMoS2表面上とSi(111)7x7表面上で調べた結果、MoS2表面上では表面平行方向にC70の5回対称軸が配向するのに対し、Si(111)7x7表面上では表面垂直方向に近い方向に配向し、この1層目の配向が多層膜の配向に影響を与えることが示された。この結果は有機分子結晶の基板の選択による配向制御を考える上で意義深いものと考えられる。

審査要旨

 本論文は、MoS2ならびにSi基板上にエピタキシャル成長させたC60、C70超薄膜の振動スペクトルを、高分解能電子エネルギー損失分光(HREELS)により測定し、基板との相互作用を微視的レベルで解明したものである。全体は6章から成り、第1章は序、第2章は基礎的事項に関する考察、第3章は実験装置・手法、第4章はHREELS測定によるC60単分子膜と基板間の相互作用の解明、第5章はHREELS測定によるC70単分子膜の分子配向決定、第6章はまとめとなっている。

 第4章以下が本研究の主要部であり、第4章では、MoS2ならびにSi基板上にエピタキシャル成長させたC60超薄膜のHREELS測定に関し詳述している。MoS2劈開面上にエピタキシャル成長したC60単分子膜のHREELSスペクトルは、鏡面反射条件の測定ではC60のIR活性モードがバルクに比べほとんどシフトせずに観測され、また非鏡面反射条件の測定では厚い膜のスペクトルと一致したスペクトルが観測される。このことからMoS2基板はC60の骨格の結合にほとんど影響を与えていないことがわかり、C60分子とMoS2基板間に結合あるいは電荷移動などの強い相互作用は存在していないと考えられる。このことはMoS2表面にダングリングボンドが存在しないことから予想された結果である。しかし、鏡面反射条件の測定で158meVに観測されるピークはC60の対称性からは禁制のピークであり、厚い膜のHREELS測定では観測されない。このことがら、MoS2表面上のC60分子の対称性は完全には保たれていないことが判り、MoS2表面がC60分子に影響を与えていることが示唆される。この原因として、MoS2表面上の局所電場によるC60分子の分極やMoS2表面の電子軌道とC60軌道との弱い相互作用が考えられる。

 一方シリコン再構成表面には、再構成後も表面上にダングリングボンドが残っており、反応性が高いと考えられる。このような表面上ではC60分子はダングリングボンドと結合してマイグレーションが出来なくなってしまうため、通常はエピタキシャル成長しないものと考えられるが、Si(111)7x7再構成表面上においては、C60111699f14.gifRl9.1°ダブルドメイン構造をとってエピタキシャル成長する事が知られている。このエピタキシャル成長の初期過程においては、C60分子ははじめから111699f15.gif構造をとるわけではなく、被覆率が1を超えた時点で、111699f16.gif構造に転移することがわかっており、C60が単にダングリングボンドと結合している構造では説明できない。このエピタキシャル成長機構の詳細がHREELS測定により明らかにされた。すなわち、被覆率0.2分子層のスペクトルには、C60がダングリングボンドと結合していることを示すピークが見られるのに対し、被覆率0.6分子層のスペクトルには、少し低エネルギーにシフトしたIR活性モードが観測され、全体的にSi基板とC60分子の間の相互作用が弱くなることが示された。被覆率が1になって、111699f17.gifR19.1°ダブルドメイン構造をとるとHREELSスペクトルはかなり変化し、スペクトルはMoS2劈開面上のC60単分子膜のスペクトルによく類似してきて、この状態ではC60は化学結合を起こさずにSi表面に吸着していることが結論された。

 第5章では、C70単分子膜のHREELSスペクトルに関し詳しく議論されている。MoS2劈開面上にエピタキシャル成長したC70単分子膜のHREELSスペクトルは、鏡面反射条件での測定では、厚い膜で観測される140meVのC70のIR活性モードによるピークが欠けている。このモードはC70の5回対称軸(長軸)に平行に遷移双極子モーメントを持っており、表面垂直双極子選択則からC70は5回対称軸が表面に平行な状態で表面に吸着していると結論された。C70はMoS2上に6回対称に成長するため、C70が長軸の方向を1方向に揃えて最密充填して配列しているとは考えられず、1層目においてC70分子の表面平行方向の配向は乱れていると考えた方が妥当である。この1層目の構造がC70を厚い膜にしたときの配向の乱れの原因であると考えられる。

 以上述べたように、本研究によって、フラーレン超薄膜のエピタキシャル成長初期過程における基板との相互作用の詳細が、HREELS測定により初めて明らかにされた。したがって、本論文の提出者である藤川安仁は、東京大学博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める。

 なお本論文の第4章、第5章の内容の一部は、小間篤氏、斉木幸一朗氏、櫻井正敏氏との共著で発表されたが、実験ならびに解析の大半は論文提出者が進めたものである。

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