内容要旨 | | 第1章では、有機ラジカルの特徴と研究の現状、そして本研究の目的を述べた。有機ラジカルは、通常の磁性の担い手である遷移金属イオンと比べ、スピン密度が複数原子上に分布しており、また軽元素のみから成るためにスピン軌道相互作用が弱く、磁気異方性のきわめて小さい理想的なハイゼンベルクスピンとなっている。有機ラジカルで強磁性体ができることは1991年に証明され、以後今日までに約10種類の有機強磁性体が報告されているが、磁気相互作用発現の機構およびその性質は今後の課題として残されている。有機磁性体の特徴を考慮して、分子設計指針を確立する上で、有機ラジカル分子間の磁気相互作用の発現機構を解明するための、有機磁性体の系統的かつ詳細な研究が必要とされている。本研究は、安定有機ラジカル、ニトロニルニトロキシドを中心に、磁気相互作用と分子配列の相関関係を明らかにすること、さらにその磁気相互作用の特質を明らかにすることを目的として行った。ニトロニルニトロキシドの不対電子の軌道(SOMO)は主にNO基上に分布しており、中心炭素原子上には大きな負のスピン密度が誘起されている。このスピン密度の分布の磁性に及ぼす影響を調べるために、一連の誘導体結晶の磁性と構造を系統的に研究した。 第2章では実験方法について述べた。今回新たに作成した、極低温下の交流磁化率測定系および高圧下の静磁化率測定系が含まれている。 第3章ではp-FPNNについて0.15-300Kの温度範囲で磁化率測定を行い、この系には強磁性相互作用のみが存在し、0.05K付近で強磁性相転移を起こす可能性があること、また、図1(a),(b)の配置がそれぞれ2J/kB=+10K,+0.04Kの強磁性相互作用をもたらすことを明らかにした。また、108K付近で比熱に小さなピークが観測されること、そしてこの温度で対称性の低下が起こるが、室温の結晶構造が低温までほぼ保持されていることを低温ラウエ写真および粉末X線回折から明らかにした。 第4章ではp-CNPNNについて0.15-300Kの温度範囲で磁化率測定を行い、この物質が、二次元面内強磁性相互作用と弱い面間反強磁性相互作用を持つことを明らかにした。この系の面内強磁性相互作用も、図1(a)に見られるようなNO基とフェニル基の接近した分子配列によってもたらされている。このような配置では、SOMOの局在したNO基が隣接分子間で隔てられており、また、フェニル基上にはSOMO近傍の分子軌道の分布があるために強磁性的スピン配列が安定化された、と考えられる。 図1.p-FPNNの強磁性相互作用をもたらす分子配列(a)2J/kB=+10K,(b)2J/kB=+0.04K 第5章ではp-FPNNのF原子をCl,Br,Iのハロゲン原子で置換した系(それぞれp-ClPNN,p-BrPNN,p-IPNN)について、磁性と構造を検討した。これらは類似の分子配列を持ちながら、異なる磁性を示した。p-ClPNNとp-IPNNは同一晶系に属し、類似の構造を持つが、前者は反強磁性的、後者は強磁性的であった。両者に共通して見られた図2の配置では、NO基とフェニル基が接近しているが、この配置は強磁性相互作用にほとんど寄与していないことになる。磁気相互作用の大きさと符号が、分子の重なりに大きく依存していることを示している。 図2.p-ClPNN,p-IPNNに共通の分子配列 第6章では反強磁性相互作用を持つフェニルニトロニルニトロキシド誘導体数種について、その磁気相互作用を検討した。結晶構造に適合した磁性のモデルを導くに当たって、磁化率の温度依存性および強磁場磁化過程の測定を相補的に用いた。反強磁性相互作用はNO基同士の接近した分子配列によってもたらされている。図3にp-CF3PNNの結晶構造を示す。NO基の接近した配置には2種類あり(分子iとii,およびiとiii)、N・・・O分子間原子間距離はそれぞれ3.70,3.76Aと近い値をとっているが、その重なり方は異なる。拡張Huckel法で求めたSOMOの重なり積分の二乗の値の比は約10:1で、これは図3に帰属される反強磁性相互作用(2J/kB=-20K,-2K)の大きさの比と一致している。同様の関係がBIPNNにおいても成り立っている。これらの例は、反強磁性相互作用の大きさがSOMOの局在したNO基の重なりに依存することを示している。 図3.p-CF3PNNの結晶構造 第7章では、スピン密度の分布と磁気相互作用の関係を直接的に探るために、フェニル基を水素原子で置換したHNNについて磁性と構造を調べた。この相結晶中には、図5に示すような、正のスピン密度の分布したNO基と、負のスピン密度の分布した中心炭素原子が接近した分子配置が認められた。磁化率、強磁場磁化過程から、この分子配置には2J/kB=-22Kの反強磁性相互作用が帰属された。図5の配置では、NO基同士の接近による反強磁性相互作用と、NO基と中心炭素原子の接近による強磁性相互作用とが互いに打ち消しあった結果、反強磁性相互作用が上回った、と解釈した。 図5.-HNNの分子配列(2J/kB=-22K) 第8章では、2位に単原子あるいは低級のアルキル基を置換した系について、磁性と構造を調べた。ONCNO部位の相対配置によって、強磁性あるいは反強磁性相互作用が観測された。正味の強磁性相互作用が残るためには、NO基同士の接近による反強磁性相互用が極めて小さい、という条件を考えると、分子配列と対応がつく。 第9章では、ガルビノキシルの加圧下の磁性を取り上げた。ガルビノキシルは+10K以上の大きなワイス定数を持ちながら、85K付近で一次の相転移をおこし、非磁性状態になることが知られていた。加圧によって、この転移が抑えられ、低温まで強磁性相互作用が保持されることを発見した。図6に常圧と5.5kbarの加圧下におけるXpTの温度依存性を示す。常圧下で観測される転移が、5.5kbarの加圧によって完全に抑えられているのが分かる。これより小さな圧力下では、不完全な転移が観測された。5.5kbarの加圧下のワイス定数は高温部の外挿から約11Kと求められるが、低温では直線から大きくはずれ、弧を描く(図6挿入図)。これは系の一次元性に由来するゆらぎの効果と思われる。大きなワイス定数を持つにもかかわらず、磁気転移が低温まで起こらないのは、この一次元性によるスピンの揺らぎのためと考えられ、磁気転移が起こるとしても、それは0.5K以下と推定される。このように小さな圧力で磁性が著しく変化するのは、分子積層様式のわずかなズレが磁性に鋭敏に反映されていることを示唆している。 第10章では本研究で明らかにした、磁気相互作用と分子配列の相関関係および、有機磁性体の特質をまとめた。有機ラジカル分子上のスピン密度の分布は、分子間に働く磁気相互作用の機構を複雑にしているが、個々の相互作用を結晶中の分子配列に帰属することにより、強磁性および反強磁性相互作用に特徴的な配列様式を抽出し、磁性と構造の相関関係を導くことができた。また、ガルビノキシルを例に圧力が磁性に顕著な効果を及ぼす事例を発見した。本研究では、分子修飾と構造解析、および強磁場・極低温・高圧下の磁気測定を通して、有機磁性体の特質を明らかにすることができた。 図6.ガルビノキシルのXpTの温度依存性(挿入図はXp-1の温度依存性) |
審査要旨 | | 本論文は,安定有機ラジカル,ニトロニルニトロキシド(NN)を中心に,磁気相互作用と分子配列の相関関係を明らかにし,さらにその磁気相互作用の特質を解明することを目的としている。本論文は10章からなり,第1章は序論,第2章は実験方法,第3章はp-FPNNの強磁性相互作用,第4章はp-CNPNNの強磁性的スピン配列,第5章はp-FPNNのF原子を他のハロゲン原子に置換した系における磁性と分子配列の相関,第6章は反強磁性相互作用を持つフェニルニトロニルニトロキシド誘導体の磁気相互作用,第7章はフェニルニトロニルニトロキシドのフェニル基を水素原子で置換したHNNの磁性と構造,第8章は2位に単原子あるいは低級のアルキル基を置換したニトロニルニトロキシド誘導体の磁性と構造,第9章はガルビノキシルの加圧下の磁性について述べられ,第10章はまとめである。 第1章序論では,有機ラジカルの特徴と研究の現状を総括し,本研究の目的を述べている。有機ラジカルは,通常の磁性の担い手である遷移金属イオンと比べ,スピン密度が複数の原子上に分布しており,また軽元素のみから成るためにスピン軌道相互作用が弱く,磁気異方性の極めて小さい理想的なハイゼンベルクスピンである,という特徴を有する。1991年の有機強磁性体の発見以来,今日までに多くの有機強磁性体が発見されているが,磁気相互作用発現の機構やその性質には,未解明の部分が多い。そこで,本論文の主題である,磁性と結晶構造(分子配列)との相関関係の系統的研究の重要性について述べている。 第2章では,実験方法について述べられている。特に,今回は高圧下の静磁化率測定系および極低温下での交流磁化率測定系を新たに作成している。 第3章では,p-FPNNには強磁性相互作用のみが存在し,これが特定の分子配列と対応していることを,磁化率測定およびX線構造解析から明らかとしている。 第4章では,p-CNPNNについて磁化率測定を行い,この物質が2次元面内強磁性相互作用と弱い面間反強磁性相互作用を持つことを明らかとした。この面内強磁性相互作用は,NO基とフェニル基の接近した分子配列によってもたらされている。このような配置では,SOMOの局在したNO基が隣接分子間で互いに隔てられており,また,フェニル基上にはSOMO近傍の分子軌道の分布があるために強磁性的スピン配列が安定化される,と指摘している。 第5章では,p-FPNNのF原子を他のハロゲン原子(Cl,Br,I)に置換した系における磁性と分子配列の相関について述べられている。これらは,類似の分子配列を持ちながら,異なる磁性を示している。磁化率と結晶構造の検討から,NO基とフェニル基が接近しているにもかかわらず強磁性相互作用にほとんど寄与していない分子配列を見出している。これは,磁気相互作用の大きさと符号が,分子の重なりに大きく依存することを示す例となっている。 第6章では,反強磁性相互作用を持つフェニルニトロニルニトロキシド誘導体数種について,その磁気相互作用を,磁化率の温度依存性,強磁場磁化過程,X線構造解析等から検討している。その結果,反強磁性相互作用が,SOMOの局在したNO基同士が接近した分子配列によってもたらされ,その大きさはNO基の分子間の重なりに依存することを明らかとした。 第7章では,3-6章で対象としてきたフェニルニトロニルニトロキシド誘導体の嵩高いフェニル基を水素原子で置換し(HNN),スピン密度が集中しているONCNO部位のより直接的な接触を可能とさせ,スピン密度の分布と磁気的相互作用の関係を検討している。ここでは,正のスピン密度が分布したNO基と,負のスピン密度が分布した中心炭素原子が接近した分子配列が反強磁性相互作用を示している例を見出している。これは,強磁性相互作用発現のためのMcConnell提案に一見反しているように見えるが,NO基と中心炭素原子の接近による強磁性相互作用と同時に,NO基同士の接近による反強磁性相互作用も存在し,両者の競合の結果として解釈できることを示した。 第8章では,第7章に引き続き,2位に単原子あるいは低級のアルキル基を置換した系を対象に,ONCNO部位の相対配置と磁気相互作用との相関について検討している。この結果,正味の強磁性相互作用が残るためには,NO基同士の接近による反強磁性相互作用が極めて小さいことが条件であることを明らかとした。 第9章では,ガルビノキシルの加圧下における磁性について述べられている。この物質は,+10K以上の大きなワイス定数を持ちながら,85K付近で1次の相転移を起こし,非磁性状態になることが知られている。論文提出者は,加圧(約5.5kbar)によってこの転移が完全に抑えられ低温まで強磁性相互作用が保持されることを発見し,その機構について考察している。このように低い圧力で磁性が著しく変化するのは,分子積層様式のわずかなズレが磁性に鋭敏に反映されていることを示唆しているものであり,非常に興味深い。 第10章では,以上の結果がまとめられ,今後の展望について述べられている。 序論で述べられているように,有機ラジカルにおける磁気相互作用発現の機構やその性質には,未解明の部分が多い。量子化学計算によって,分子間の磁気相互作用を見積もる試みも行われているが,信頼性のある結果を求めることは現状では非常に難しく,分子磁性の理論を推進していくためにも信頼できる実験データの蓄積が強く望まれている。本研究は,系統的かつ詳細に磁性と結晶構造との相関関係を明らかにしたものであり,今後の分子磁性研究に大きく寄与すると考えられる。 なお,本論文の一部は,木下實,田村雅史,野沢清和,塩見大輔,岩澤尚子,鈴木里史,加藤礼三,澤博,上田寛,藤原陽子,後藤恒昭,香取浩子の各氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって物質合成,測定及び解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。 よって、審査委員会は全員一致をもって、論文提出者に対し博士(理学)の学位を授与できると判断した。 |