本論文は5章からなり、第1章は全体の序文であり、第2章はミズダコ・ロドプシンの光反応に伴う構造変化の研究について、第3章はバクテリオロドプシンの蛋白質構造に対する金属イオンの影響について、第4章はシッフ塩基を含むモデル化合物についての基準振動解析について述べている。第5章は全体の結論である。 第1章では、研究の概略について述べている。レチナール蛋白質は多くの生物に光受容体として存在し、発色団としてレチナールを含む分子量25,000から55,000の膜蛋白質である。いずれも、単一のポリペプチド鎖からなり、発色団レチナールは蛋白質中のリシン残基にプロトン付加シッフ塩基の形で結合している。可視光を吸収することで発色団が異性化し、それが生理活性発現の初期段階であることが知られている。レチナール蛋白質の光反応とそれに続く過程は、発色団の異性化と、それに誘起される蛋白質部分の構造変化からなり、蛋白質と発色団の相互作用の変化を知ることは、レチナール蛋白質の構造と機能の相関関係を理解するうえで必須であるといえる。本論文は、振動分光法により光反応に伴うレチナール蛋白質の構造変化を調べることを目的としている。 第2章では、ミズダコ・ロドプシンの光反応に伴う構造変化を赤外差スペクトル法によって研究している。視物質ロドプシンの研究はこれまでウシ・ロドプシンを中心に行われてきたが、ミズダコ・ロドプシンは光反応過程にウシ・ロドプシンとの違いが見られ、蛋白質の一次構造上の違いとの間の相関に興味が持たれている。本論文の著者は、赤外差スペクトル法を用いて研究を行い、最終生成物アシドメタロドプシンの前駆体として数秒程度の寿命を持つ中間体が存在することを見出した。これは、アシドメタロドプシンと同一の可視吸収を持つが、蛋白質構造が異なる中間体"t-アシドメタロドプシン"と考えられ、このような事実が見出されたことは、蛋白質構造の変化を直接観測できる赤外差スペクトル法が、ロドプシンの光反応過程を研究するうえで有用であることを示したものといえる。また、ルミロドプシンのC=N伸縮振動のHD交換による波数シフトについても研究し、ウシとミズダコではルミロドプシンでのシッフ塩基周辺の環境に相違があることを示唆している。 第3章では、バクテリオロドプシンの構造に対する金属イオンの影響について研究している。バクテリオロドプシンの可視吸収制御や生理活性に金属イオンが重要な役割を果たしていることが知られているが、これまで構造化学的研究は少ない。そこで、赤外分光法を用いて金属イオンの有無によるバタテリオロドプシンの構造変化について研究している。その結果、脱イオン化により、Asp-85にプロトンが付加することを見出した。バクテリオロドプシンのプロトンポンプ機構では、シッフ塩基プロトンはAsp-85に移動すると考えられており、脱イオン化バクテリオロドプシンではこの過程が阻害されるためにプロトンポンプ活性を失うものと考えられる。また、脱イオン化バクテリオロドプシンにCa2+を再構成する実験により、バクテリオロドプシンの可視吸収制御にAsp-85の電荷が影響していることをつきとめた。 第4章では、シッフ塩基を含むモデル化合物の基準振動解析についての研究を行っている。シッフ塩基はレチナール蛋白質の発色団と蛋白質を繋いでいる重要な部位であり、振動分光学的研究例は多いが、解釈には不十分な点が残っている。一般に、シッフ塩基のC=N伸縮振動は、プロトン付加によって10〜20cm-1高波数シフトすることが知られている。本論文の筆者は非経験m的分子軌道法を併用して基準振動解析を行ない、C=N伸縮振動の力の定数への電子相関の影響を明らかにし、波数シフトの原因及びカウンターイオンとの水素結合との関係について新たな知見を得た。また、共役するC=C結合を持つシッフ塩基のC=C,C=N伸縮振動バンドの赤外強度についても解析し、これらのバンドの強い赤外強度の原因について初めて定量的かつ合理的な結論を得た。 以上のように、本論文はレチナール蛋白質の光反応及びそれに続く過程について、新しい知見を得るとともに、以前から未解決のまま残されていた実験事実に対し、量子化学・計算化学の立場から確固たる結論を下したものである。本論文の第2章は津田基之、岩佐達郎、森田勇人、田隅三生との、第3章は奈良雅之、田隅三生、M.A.El-sayed、J.K.Lanyiとの、第4章は鳥居肇、田隅三生との共同研究であるが、実験、解析は論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者増田聡は東京大学博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める。 |