学位論文要旨



No 111701
著者(漢字) 増田,聡
著者(英字)
著者(カナ) マスダ,サトシ
標題(和) 振動分光法によるレチナール蛋白質の光反応過程の研究
標題(洋) Vibrational Spectroscopic Studies of the Photoreaction Processes of Retinal Proteins
報告番号 111701
報告番号 甲11701
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3065号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 助教授 菅原,正雄
内容要旨

 レチナール蛋白質は多くの生物に見られる光受容体であり、発色団としてレチナールを含む分子量25,000から55,000の膜蛋白質である。いずれも、単一のポリペプチド鎖からなり、発色団レチナールは蛋白質中のリシン残基にプロトン付加シッフ塩基の形で結合している。可視光を吸収することで発色団がcis-trans異性化し、視情報伝達(ロドプシンの場合)やプロトンポンプ(バクテリオロドプシンの場合)などの生理活性を発現することが知られている。レチナール蛋白質の光反応過程は、発色団の異性化と、それに誘起される蛋白質部分の構造変化からなり、光反応に伴う蛋白質構造や、蛋白質と発色団の相互作用の変化を知ることは、レチナール蛋白質の光反応機構を理解するうえで必須であるといえる。振動分光法は蛋白質や発色団の構造を調べるうえで有力な手段の一つであり、レチナール蛋白質の研究においても多くの成果を上げてきた。しかし、その研究例はバクテリオロドプシンとウシ・ロドプシンに集中しており、その他のレチナール蛋白質への応用例は少ない。また、振動スペクトルの解釈には力場計算を用いた理論的解析をする必要があるが、レチナール蛋白質の研究においては充分になされているとはいえない。本研究では、振動分光法をレチナール蛋白質に応用する新たな可能性を探るため、以下の研究を行った。

1ミズダコ・ロドプシンの光反応に伴う構造変化の研究

 ミズダコ・ロドプシンは酸性・中性条件下では光反応の最終生成物アシドメタロドプシンが安定であり、オレンジ色の光を照射することで元のロドプシンを生成するなど、これまでよく研究されているウシ・ロドプシンとは異なった性質をもっている。筆者はミズダコ・ロドプシンのアシドメタロドプシンーロドプシン、及び光反応の比較的初期の中間体であるルミロドプシンーロドプシンの赤外差スペクトルを測定した。

 まず、中性(pH〜6.8)常温(282K)での赤外差スペクトル測定を行った。励起光照射の時間を25sから125sまで変化させるにつれ、差スペクトル形状が変化することがわかった。このことはアシドメタロドプシンの前駆体として数秒程度の寿命を持つ中間体が存在することを示唆している。従来知られていたミズダコ・ロドプシンの光反応過程では、アシドメタロドプシンの前駆体はメソロドプシン(寿命約100ms)となっており、今回の結果を説明することができない。一方、塩基性条件下ではアシドメタロドプシンと同一の可視吸収を持つが、蛋白質構造が異なる中間体"t-アシドメタロドプシン"(寿命約5s)の存在が知られている。今回の結果は、中性条件下でもこの中間体が存在すると考えれば説明できる。従来のロドプシンの光反応過程の研究では、可視吸収変化をもとに中間体の帰属が行われてきたため、可視吸収変化を伴わないt-アシドメタロドプシン→アシドメタロドプシンの遷移を観測できなかったものと考えられる。このことは、蛋白質構造の変化を直接観測できる赤外差スペクトル法が、ロドプシンの光反応過程を研究するうえで有用であることを示唆している。

 次に、低温(210K)で同様の実験を行った。この条件ではルミロドプシンーロドプシンの赤外差スペクトルが測定できると考えられる。蛋白質由来と考えられるバンドは発色団由来のバンドより相対的に弱く、ルミロドプシンの段階では蛋白質構造がそれほど変化していないことを示唆している。プロトン付加シッフ塩基のC=N伸縮振動バンドはHD交換により低波数シフトし、シフト値はプロトン付加シッフ塩基の水素結合の強さを反映していると言われている。軽水中と重水中のスペクトルを、1689 cm-1のバンドを内部標準として差を取ることにより、シッフ塩基のC=N伸縮振動バンドを帰属した。ロドプシンではHD交換により、25cm-1低波数シフトし、ルミロドプシンでは23cm-1シフトすることがわかった。ウシのルミロドプシンでは、4cm-1しかシフトせず、ウシとミズダコではルミロドプシンでのシッフ塩基周辺の環境に相違があることを示唆している。

2バクテリオロドプシンの構造に対する金属イオンの影響

 バクテリオロドプシンは高度好塩菌の紫膜中に存在する光駆動型プロトンポンプである。通常は紫色(max=568nm)をしているが、pH〜2程度の酸性条件下、又は陽イオン交換カラムで脱イオン化することにより、青色(max=605nm)に変わり、プロトンポンプ活性を失う。従って金属イオンはバクテリオロドプシンの可視吸収制御や生理活性に必須であると考えられるが、これまで構造化学的研究は少ない。そこで、赤外分光法を用いて金属イオンの有無によるバクテリオロドプシンの構造変化について研究した。第1節のような赤外差スペクトル法による研究では、バンドがブロードな時や、互いに重なり合っているときにはパンドの帰属が困難となる。そこで、本研究では赤外吸収スペクトルにフーリエ・セルフ・デコンボリューションを適用することにより、ピークの分離を行った。

 赤外スペクトルの1800-1700cm-1の領域にはプロトン付加したカルボキシル基(COOH)のC=O伸縮振動のバンドのみが現れる。一方、1400cm-1前後の領域にはプロトン解離したカルボキシル基(COO-)のCOO対称伸縮振動のバンドが現れる。従って、この二つの領域を比較することによってカルボキシル基へのプロトン付加に関する情報が得られることになる。バクテリオロドプシンは4つのアスパラギン酸残基を持つが、nativeではAsp-96とAsp-115にプロトンが付加していることがわかっており、赤外吸収スペクトルの1741cm-1と1735cm-1のバンドがそれに対応している。脱イオン化バクテリオロドプシンでは、Asp-115残基のカルボキシル基由来のバンドが高波数シフトするほか、新たに1754cm-1にバンドが現れた。変異株を用いた実験により、この新たなバンドはAsp-85由来であると帰属した。一方、nativeで1405cm-1に存在するバンドは脱イオン化によって消失し、変異株を用いた実験により、Asp-85残基のプロトン解離したカルボキシル基のCOO対称伸縮振動由来であると帰属された。従って、脱イオン化に伴い、Asp-115残基のカルボキシル基の周辺の環境が変化し、Asp-85残基のカルボキシル基はプロトン解離することがわかる。バクテリオロドプシンのプロトンポンプ機構では、シッフ塩基プロトンはAsp-85に移動すると考えられており、脱イオン化バクテリオロドプシンではこの過程が阻害されるためにプロトンポンプ活性を失うものと考えられる。

 脱イオン化バクテリオロドプシンは、一分子あたりCa2+を二つ結合すると、青色から紫色に復帰することが知られている。そこで、脱イオン化バクテリオロドプシンにCa2+を再構成する実験を行った。バクテリオロドプシンにCa2+が一つ結合しただけではAsp-85はプロトン解離せず、二つ結合したときに始めてプロトン解離することがわかった。従って、バクテリオロドプシンが紫色に保たれるためには、Asp-85がプロトン解離していることが必須であると考えられる。

3シッフ塩基を含むモデル化合物の基準振動解析

 レチナール蛋白質の発色団と蛋白質を繋いでいる重要な部位であるシッフ塩基のいくつかのモデル化合物について、非経験的分子軌道法を併用した基準振動解析を行った。一般に、シッフ塩基のC=N伸縮振動は、プロトン付加によって10〜20cm-1高波数シフトすることが知られているが、ハートリー・フォックレベルの計算では逆に低波数シフトとなった。実測値を満足する波数シフト値を得るためには、電子相関として二次の摂動項まで取り入れ、基底関数にも分極関数を加える必要があることがわかった。カウンターイオンとの水素結合がプロトン付加シッフ塩基のC=N伸縮振動バンドの振動数に与える影響を調べたところ、水素結合が強くなるとHD交換による波数シフトが大きくなるという、従来の経験則を裏付けることができた。その原因は、従来言われてきたNH面内変角振動とのカップリングのほかに、D置換した際のND伸縮振動とのカップリングも考慮する必要があることがわかった。

 共役するC=C結合を持つシッフ塩基のC=C,C=N伸縮振動バンドは、プロトン付加により、その赤外強度を大きく増すことが知られている。非経験的分子軌道法を併用して算出した分子力場と双極子モーメントの微分値により、実測値をよく再現する振動数、赤外強度を算出することができた。通常のポリエン分子では赤外不活性となる、C=C,C=N結合が同位相に伸縮する振動が大きな赤外強度を持つことがわかった。共役C=C結合を持つシッフ塩基では二つの共鳴構造を考えることができ、C=C,C=N結合が同位相に伸縮する振動はこの共鳴構造の一方から他方への遷移に対応する。この遷移は分子の双極子モーメントを大きく変化させるために、大きな赤外強度を与えると考えられる。

審査要旨

 本論文は5章からなり、第1章は全体の序文であり、第2章はミズダコ・ロドプシンの光反応に伴う構造変化の研究について、第3章はバクテリオロドプシンの蛋白質構造に対する金属イオンの影響について、第4章はシッフ塩基を含むモデル化合物についての基準振動解析について述べている。第5章は全体の結論である。

 第1章では、研究の概略について述べている。レチナール蛋白質は多くの生物に光受容体として存在し、発色団としてレチナールを含む分子量25,000から55,000の膜蛋白質である。いずれも、単一のポリペプチド鎖からなり、発色団レチナールは蛋白質中のリシン残基にプロトン付加シッフ塩基の形で結合している。可視光を吸収することで発色団が異性化し、それが生理活性発現の初期段階であることが知られている。レチナール蛋白質の光反応とそれに続く過程は、発色団の異性化と、それに誘起される蛋白質部分の構造変化からなり、蛋白質と発色団の相互作用の変化を知ることは、レチナール蛋白質の構造と機能の相関関係を理解するうえで必須であるといえる。本論文は、振動分光法により光反応に伴うレチナール蛋白質の構造変化を調べることを目的としている。

 第2章では、ミズダコ・ロドプシンの光反応に伴う構造変化を赤外差スペクトル法によって研究している。視物質ロドプシンの研究はこれまでウシ・ロドプシンを中心に行われてきたが、ミズダコ・ロドプシンは光反応過程にウシ・ロドプシンとの違いが見られ、蛋白質の一次構造上の違いとの間の相関に興味が持たれている。本論文の著者は、赤外差スペクトル法を用いて研究を行い、最終生成物アシドメタロドプシンの前駆体として数秒程度の寿命を持つ中間体が存在することを見出した。これは、アシドメタロドプシンと同一の可視吸収を持つが、蛋白質構造が異なる中間体"t-アシドメタロドプシン"と考えられ、このような事実が見出されたことは、蛋白質構造の変化を直接観測できる赤外差スペクトル法が、ロドプシンの光反応過程を研究するうえで有用であることを示したものといえる。また、ルミロドプシンのC=N伸縮振動のHD交換による波数シフトについても研究し、ウシとミズダコではルミロドプシンでのシッフ塩基周辺の環境に相違があることを示唆している。

 第3章では、バクテリオロドプシンの構造に対する金属イオンの影響について研究している。バクテリオロドプシンの可視吸収制御や生理活性に金属イオンが重要な役割を果たしていることが知られているが、これまで構造化学的研究は少ない。そこで、赤外分光法を用いて金属イオンの有無によるバタテリオロドプシンの構造変化について研究している。その結果、脱イオン化により、Asp-85にプロトンが付加することを見出した。バクテリオロドプシンのプロトンポンプ機構では、シッフ塩基プロトンはAsp-85に移動すると考えられており、脱イオン化バクテリオロドプシンではこの過程が阻害されるためにプロトンポンプ活性を失うものと考えられる。また、脱イオン化バクテリオロドプシンにCa2+を再構成する実験により、バクテリオロドプシンの可視吸収制御にAsp-85の電荷が影響していることをつきとめた。

 第4章では、シッフ塩基を含むモデル化合物の基準振動解析についての研究を行っている。シッフ塩基はレチナール蛋白質の発色団と蛋白質を繋いでいる重要な部位であり、振動分光学的研究例は多いが、解釈には不十分な点が残っている。一般に、シッフ塩基のC=N伸縮振動は、プロトン付加によって10〜20cm-1高波数シフトすることが知られている。本論文の筆者は非経験m的分子軌道法を併用して基準振動解析を行ない、C=N伸縮振動の力の定数への電子相関の影響を明らかにし、波数シフトの原因及びカウンターイオンとの水素結合との関係について新たな知見を得た。また、共役するC=C結合を持つシッフ塩基のC=C,C=N伸縮振動バンドの赤外強度についても解析し、これらのバンドの強い赤外強度の原因について初めて定量的かつ合理的な結論を得た。

 以上のように、本論文はレチナール蛋白質の光反応及びそれに続く過程について、新しい知見を得るとともに、以前から未解決のまま残されていた実験事実に対し、量子化学・計算化学の立場から確固たる結論を下したものである。本論文の第2章は津田基之、岩佐達郎、森田勇人、田隅三生との、第3章は奈良雅之、田隅三生、M.A.El-sayed、J.K.Lanyiとの、第4章は鳥居肇、田隅三生との共同研究であるが、実験、解析は論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者増田聡は東京大学博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める。

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