本論文は、岩手県大槌湾の粗砂底潮下帯に生息する線虫群集の年間生産量を、線虫群集の季節変動と、エネルギー収支の主要なパラメータである呼吸量および摂食量の優占する線虫類に関する測定結果から、直接的に明らかにしたもので、主に5章からなる。 第1章は論文全体に関する緒言である。第2章のテーマは、本論文で研究の対象とした線虫群集の季節変動についてである。この研究の結果、線虫群集の密度は春季に最も高く冬期に最低となること、その変動の主要な原因が水温と春季の植物プランクトンのブルームであること、線虫群集が全部で37種からなること、少数の種が優占し、また優占する種が季節毎に交代することが明らかになった。特に優占種の交代と春季のブルームとの明確な関連が、優占種の食性に関する詳細な観察から明らかになった。この結果から、優占種についてエネルギー収支に関連するパラメータを測定すれば、群集全体のエネルギー収支が高い信頼性を持って推定できることが明らかになった。 そこで第3章では、研究対象とした線虫群集において優占する6種の線虫類に関し、エネルギー消費の主要なパラメータである呼吸活性を、大槌湾の水温の変動範囲をカバーする条件で測定し、各種の特徴を明らかにした。測定には従来用いられていたカーテシアンダイバー法にかわって、酸素電極と小型チャンバーの組み合わせを用いた。この測定方法は特殊な技能を必要としないので、今後新たな標準的方法となり得るだろう。測定結果は従来の報告値の範囲に入っていたが、種毎に、また同種内でも性別によって異なる値となった。特に性比が雌に大きく偏っている複数の種で、雄の呼吸活性が雌よりも有意に高いことが明らかになったが、このような呼吸量の性差は、全く新しい知見である。また温度に対する依存性の有無も種毎に異なることが明らかになった。本研究で得られた呼吸量の測定結果と線虫類の群集構造の季節変化に基づいて、本研究場所の線虫類群集の一日当たりのエネルギー消費量が求められた。その値は、線虫類の密度が春季に最も高かったにもかかわらず夏期の方が高く、夏期の方が水温が高く、また大型の線虫類が優占していることが原因と考えられた。各季節の一日当たりの値から線虫群集の年間エネルギー消費量は7.49gCm-2yr-1と推定された。 第4章では、エネルギー獲得の最も重要なパラメーターである摂食量を、優占する4種の線虫類に関して、新たな方法を用いて測定した。鉄コロイドをトレーサーに用いて測定する本論文の方法によって測定された線虫類の摂食量は従来の放射性同位元素を用いた方法よりも大きく、単純な生態系モデルに基づいて推定する従来の方法が、過小評価であったことを示唆した。 第5章では、これらの研究結果を総合し、大槌湾の研究場所における優占種毎および線虫類群集全体の年間生産量を明らかにした。群集全体の生産量には季節変動があり、群集の個体数は春季に最も高いにもかかわらず、一日あたりの生産量は夏期に最も高いことが明らかになった。また年間摂食量と年間生産量は、それそれ20.6gCm-2yr-1および4.9gCm-2yr-1であると結論された。この結果は、従来報告されている値の範囲に入っている。また、種毎の生産量と現存量との比は、従来年間世代数に一致するといわれていたが、本研究の結果では、はるかに高い値となり、この矛盾から線虫類が高次の栄養段階の生物による高い捕食圧にさらされていることが明らかになった。 本論文は、以下の2点について高い独創性を持つと評価された。まず、線虫群集の年間生産量を、初めて直接的なデータに基づいて計測した。線虫群集の年間生産量は、間接的な方法からの推定例が大西洋において2例あるに過ぎず、太平洋では研究例すらない。直接的方法を用いて計測した本論文の生産量の値は従来の推定値と大差ないが、結果の信頼性ははるかに高い。 第2に、線虫類のエネルギー生態学的研究に有用な新しい研究方法を開発した。線虫類の摂食量については、従来は放射性同位体をトレーサーに用いて測定されてきたが、過大評価過小評価いずれにもなる可能性が指摘され、信頼性に大きな問題があった。本研究では、全く新しい鉄コロイドをトレーサーに用いる方法を確立した。この方法は、線虫類の種毎に異なる餌に含まれるトレーサーの量が別々に直接測定できること、動物によるトレーサーの直接的吸収や体表への付着などの過大評価の原因を除外できることなどの点で、従来の方法よりも優れており、誤差の少ない摂食量の測定を初めて可能にした。 本論文は、記述の展開が論理的で、参考文献も重要なものについてはよく網羅されており、妥当である。また英文も可読性が高い。以上の審査結果から、本論文は、学位論文として十分の内容を持つものと判断された。 なお、本論文の第2章は、白山義久氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。 |