学位論文要旨



No 111722
著者(漢字) 金,東成
著者(英字)
著者(カナ) キン,トウセイ
標題(和) 大槌湾潮下帯粗砂底に棲息する線虫群集のエネルギー生態
標題(洋) ENERGY-BUDGET OF NEMATODE COMMUNITY INHABITING SUBTIDAL COARSE SAND IN OTSUCHI BAY,NORTHEASTERN HONSHU,JAPAN
報告番号 111722
報告番号 甲11722
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3086号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 白山,義久
 東京大学 教授 雨宮,昭南
 東京大学 教授 太田,秀
 東京大学 教授 高橋,正征
 北海道大学 教授 向井,宏
内容要旨

 線虫類は、メイオベントス(1mm〜0.032mmの篩画分に入る底生生物)の内で一般に最も優占する生物群であるが、そのエネルギー生態をフィールドにおいて群集レベルで行った研究例はほとんどない。特に太平洋では種の多様性が高く、研究が困難なため皆無である。しかし、岩手県大槌湾の潮下帯の粗砂底に棲息する線虫類は、他海域に比べ体サイズが大きく、種類が少ないことが知られ、またこの海域では海洋環境データがそろっており、観測船などの設備も完備している。そこで、この海域の線虫類について、フィールドデータと室内実験データとを合わせて、群集のエネルギー生態を研究した。線虫類の群集レベルのエネルギー収支を年単位で明らかにするために、まずその季節的変動を明らかにした。次いで各季節での優占種に関して、種毎にエネルギー収支に関連する主要なパラメータ、すなわち呼吸量と摂食量を明らかにした。さらに呼吸量からエネルギーの消費量を、また摂食量からエネルギー獲得量を求め、各種のデータを合算して群集全体の収支を求めた。

線虫類群集の年変動

 1993年7、11月、1994年1月、そして3月から1995年2月まで大槌臨海研究センター前の潮下帯の定点において、海底堆積物試料をSmith-McIntyre型採泥器で毎月サンプリングした。線虫類の群集構造の季節変動については、夏秋冬春の各季節を代表する1993年7、11月、1994年1、3月の試料を分析した。採集した海底堆積物から、内径34mmのサブコアを5本分取し、定量的に調査した。また生息環境として、STDを用いて水温と塩分濃度を調べた。

 水温は11月に最も高い15.95℃、3月に最も低い6.84℃であった。塩分濃度は、年間を通じてほぼ一定であった。また、堆積物粒子は-1〜+lの粗砂で、粒度には季節的にも鉛直的にも変化がみられないことが明らかになった。この結果は、線虫類の季節変動に関わる主な環境要因が、温度とそれに関連するものであることを示唆している。線虫類の密度は、春が10cm2当たり1206個体で最も高く、冬が68個体で最も低かった。各種類別の年変動を見ると、Mesacanthion sp.,Symplocostoma sp.およびPolygastrophora sp.は夏に優占するが、他の季節にはほとんどいなかった。またMetachromadora sp.とRhips sp.は秋に多くTheristus sp.は春に多かった。一方、Neochromadora sp.のように秋にやや多いが、年中密度がほとんど変わらないものもあった。季節ごとに優占種が交代し、食性に関係があることが明らかになった。すなわち夏には捕食性/雑食性種が45.7%、また粒子表面食性種が約40%を占めたが、秋には粒子表面食性種が60%を、また冬・春には非選択的泥食者が全体の60%を占めた。大槌湾では早春に起こる植物プランクトンのブルームが、各種ベントスの生活史に大きな影響を与えることが知られている。本研究からもブルーム直後に珪藻食性線虫類が増殖し、続く季節にその種の捕食者が優占するなど、その生活史特性がブルームと深く関連することが明らかになった。

各季節の優占種に関する呼吸量

 群集レベルのエネルギー収支を求めるためには、エネルギー消費の最も重要なパラメータである呼吸量を明らかにする必要がある。従来、線虫類の呼吸量の測定にはcartesian diver法が使われてきたが、温度や気圧を高い精度で一定に保つ必要があり、実験が難しい。そこで、本研究では小型(45l)チャンバー内で線虫を飼育し、高感度の酸素電極を用いて飼育海水中の溶存酸素量をモニターし、その減少率から呼吸量を測定した。動物は各温度条件で予め飼育し、各種別に雄、雌、幼稚体を区別して測定した。呼吸量が温度に依存することはよく知られている。そこで現場の年間の温度範囲をカバーする5、10、15および20℃で実験を行った。大きさが異なる各種類の呼吸量の比較にはM.I.(metabolic intensity)を次式から計算して用いた。

 

 ただしRは呼吸量、Vは体体積である。測定は大槌湾で優占する6種について行った。20℃におけるM.I.値は、どの種とも従来の報告値の範囲内であった。温度上昇に伴いPolygastrophora sp.、Mesacanthion sp.、Metachromadora sp.およびMonoposthia sp.では、M.I.値が有意に高くなり(各々r=0.60,0.49,0.67,0.78;p<0.001,<0.001,<0.05,<0.01)、Symplocostoma sp.とTheristus sp.では変化しなかった(p>0.05)。Mesacanthion sp.のM.I.値は他種に比べ各温度とも高い値を示した。この種類は捕食性であり、餌の探索と捕獲のために高い生理活性をもつ必要があるものと考えられる。また性別に測定を行ったSymplocostoma sp.,Mesacanthion sp.,Polygastrophora sp.の3種すべてについて、雄のM.I.が雌より高かった。この3種は共に雄の割合が雌より極端に低いため、雄は多数回雌と交尾するものと考えられ、そのために活発に活動するものと思われる。またSymplocostoma sp.の雄では、高温時(15・20℃)にM.I.が低下した。本種の雄成体は生活史において冬から春のみに出現するので、この結果は他の季節の温度条件に雄成体が適応困難であることが原因と考えられる。

線虫類の摂食量の測定

 線虫類各種のエネルギー収支を求めるために、重要なパラメータである摂食量を測定した。測定法としては、従来放射性有機物をトレーサーに用いるのが一般的であったが、この方法には種々の問題点が指摘されていたので、本研究では鉄コロイドをトレーサーに用いた。現場の堆積物のうち、63mのナイロンメッシュを通過し1mのヌクレポアフィルタで捉えられたものをデトリタスとし、その懸濁液に鉄コロイドを加えて標識を施した。この懸濁液を再度濾過し、標識したデトリタスを濃縮するとともに、余分な鉄コロイドを洗浄した。その後、標識デトリタスを濾過海水に再度懸濁し、動物に一定時間与えた。動物が摂食することによって消化管内に入った鉄を、走査電子顕微鏡に装着したエネルギー分散型X線分析装置を用いて定量した。また同一条件で単位重量のデトリタス当りの鉄含量も定量し、その比から摂食量を推定した。測定は優占する4種の線虫類について行った。その結果、摂食量は炭素量換算(gC day-1)で、Symplocostoma sp.は0.28、Polygastrophora sp.は0.29、Mesacanthion sp.は0.73、Metachromadora sp.は0.15であることが明らかになった。この結果は、従来の放射性有機物をトレーサーに用いて得た結果よりも大きめであった。有機物をトレーサーに用いる方法では、過大および過小評価となるさまざまな可能性が指摘されていたが、本研究の結果は過少評価であった可能性を強く示唆する。

線虫類群集のエネルギー生態

 本研究の結果を総合して、線虫類群集全体のエネルギー生態をまとめた。まず優占種に関して、摂食量から同化量(A)を推定し、その値と呼吸量(R)との差から生産量(P)を求めた。各季節の採集日の温度と各線虫類の密度ならびに各個体の体積から、線虫類各種のRを求め、P/R比は温度に拘らず一定と仮定してPを推定した。種毎に得られたPを合算して採集日1日あたりの群集全体のPを求めた。さらに、ある採集日と次の採集日との間は、Pが直線的に変化すると仮定して年間生産量を推定した。

 種毎の年間生産量(P)と現存量(B)との比(P/B)は、Symplocostoma sp.で10、Polygastrophora sp.で8となった。P/B比は一般に年間世代数に一致するといわれているが、これらの種は年1世代であることが、季節毎のデータから明らかになっているので、それよりもかなり大きい。本研究で求めた年間生産量は、短期間の実験データから推定したものであり、捕食による生産量の減少などを考慮していない。しかし、もし生産量の相当部分が捕食によって高次の栄養段階に移行していれば、このような生産量の測定法は過大評価となる。したがって捕食圧の高さが、P/B比が世代数よりも大きい値となった原因のひとつと考えられ、このようなアプローチからはじめて線虫類が高い捕食圧にさらされていることが明らかにされたといえる。線虫類が高次栄養段階に利用されているか否かは議論され続けているが、本研究の結果は魚類など高次の栄養段階の生物にとって線虫類が重要な食物源であることを示唆している。

 本海域の線虫類群集全体の年間推定摂食量は、20.6gCm-2yr-1、また年間推定生産量は4.9gCm-2yr-1であった。後者はWarwickらの結果(6.6gCm-2yr-1)と大差なかった。またこの値は本研究海域の年間一次生産量の推定値(320gCm-2yr-1)の、それぞれ6.4%と1.5%であった。総一次生産量のうち、底生生物生態系に供給される割合についてはデータがないが、大槌湾口におけるセジメントトラップ観測の結果では、海底付近の有機物フラックスはわずか8.8gCm-2yr-1と報告され、線虫類のみの摂食量にも満たない。この矛盾はもちろん、湾口のデータを直接潮下帯の線虫類群集に適用したためである。方、本研究で示された各温度に対する各種線虫類のP/B比を応用すれば、現場水温と線虫類の現存量のみから、生産量を推定することができる。湾口部の線虫類のデータに対してこの方法で生産量を推定したところ、年間生産量は0.5gCm-2yr-1と推定された。このように本研究の結果は、今後の線虫類に関する種および群集レベルでのエネルギー生態の研究に幅広く応用することが可能で、将来この分野の研究に大いに貢献するものと考える。

審査要旨

 本論文は、岩手県大槌湾の粗砂底潮下帯に生息する線虫群集の年間生産量を、線虫群集の季節変動と、エネルギー収支の主要なパラメータである呼吸量および摂食量の優占する線虫類に関する測定結果から、直接的に明らかにしたもので、主に5章からなる。

 第1章は論文全体に関する緒言である。第2章のテーマは、本論文で研究の対象とした線虫群集の季節変動についてである。この研究の結果、線虫群集の密度は春季に最も高く冬期に最低となること、その変動の主要な原因が水温と春季の植物プランクトンのブルームであること、線虫群集が全部で37種からなること、少数の種が優占し、また優占する種が季節毎に交代することが明らかになった。特に優占種の交代と春季のブルームとの明確な関連が、優占種の食性に関する詳細な観察から明らかになった。この結果から、優占種についてエネルギー収支に関連するパラメータを測定すれば、群集全体のエネルギー収支が高い信頼性を持って推定できることが明らかになった。

 そこで第3章では、研究対象とした線虫群集において優占する6種の線虫類に関し、エネルギー消費の主要なパラメータである呼吸活性を、大槌湾の水温の変動範囲をカバーする条件で測定し、各種の特徴を明らかにした。測定には従来用いられていたカーテシアンダイバー法にかわって、酸素電極と小型チャンバーの組み合わせを用いた。この測定方法は特殊な技能を必要としないので、今後新たな標準的方法となり得るだろう。測定結果は従来の報告値の範囲に入っていたが、種毎に、また同種内でも性別によって異なる値となった。特に性比が雌に大きく偏っている複数の種で、雄の呼吸活性が雌よりも有意に高いことが明らかになったが、このような呼吸量の性差は、全く新しい知見である。また温度に対する依存性の有無も種毎に異なることが明らかになった。本研究で得られた呼吸量の測定結果と線虫類の群集構造の季節変化に基づいて、本研究場所の線虫類群集の一日当たりのエネルギー消費量が求められた。その値は、線虫類の密度が春季に最も高かったにもかかわらず夏期の方が高く、夏期の方が水温が高く、また大型の線虫類が優占していることが原因と考えられた。各季節の一日当たりの値から線虫群集の年間エネルギー消費量は7.49gCm-2yr-1と推定された。

 第4章では、エネルギー獲得の最も重要なパラメーターである摂食量を、優占する4種の線虫類に関して、新たな方法を用いて測定した。鉄コロイドをトレーサーに用いて測定する本論文の方法によって測定された線虫類の摂食量は従来の放射性同位元素を用いた方法よりも大きく、単純な生態系モデルに基づいて推定する従来の方法が、過小評価であったことを示唆した。

 第5章では、これらの研究結果を総合し、大槌湾の研究場所における優占種毎および線虫類群集全体の年間生産量を明らかにした。群集全体の生産量には季節変動があり、群集の個体数は春季に最も高いにもかかわらず、一日あたりの生産量は夏期に最も高いことが明らかになった。また年間摂食量と年間生産量は、それそれ20.6gCm-2yr-1および4.9gCm-2yr-1であると結論された。この結果は、従来報告されている値の範囲に入っている。また、種毎の生産量と現存量との比は、従来年間世代数に一致するといわれていたが、本研究の結果では、はるかに高い値となり、この矛盾から線虫類が高次の栄養段階の生物による高い捕食圧にさらされていることが明らかになった。

 本論文は、以下の2点について高い独創性を持つと評価された。まず、線虫群集の年間生産量を、初めて直接的なデータに基づいて計測した。線虫群集の年間生産量は、間接的な方法からの推定例が大西洋において2例あるに過ぎず、太平洋では研究例すらない。直接的方法を用いて計測した本論文の生産量の値は従来の推定値と大差ないが、結果の信頼性ははるかに高い。

 第2に、線虫類のエネルギー生態学的研究に有用な新しい研究方法を開発した。線虫類の摂食量については、従来は放射性同位体をトレーサーに用いて測定されてきたが、過大評価過小評価いずれにもなる可能性が指摘され、信頼性に大きな問題があった。本研究では、全く新しい鉄コロイドをトレーサーに用いる方法を確立した。この方法は、線虫類の種毎に異なる餌に含まれるトレーサーの量が別々に直接測定できること、動物によるトレーサーの直接的吸収や体表への付着などの過大評価の原因を除外できることなどの点で、従来の方法よりも優れており、誤差の少ない摂食量の測定を初めて可能にした。

 本論文は、記述の展開が論理的で、参考文献も重要なものについてはよく網羅されており、妥当である。また英文も可読性が高い。以上の審査結果から、本論文は、学位論文として十分の内容を持つものと判断された。

 なお、本論文の第2章は、白山義久氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

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