学位論文要旨



No 111726
著者(漢字) 柿澤,昌
著者(英字)
著者(カナ) カキザワ,ショウ
標題(和) サケ科魚類におけるソマトラクチンの生理作用の解明
標題(洋) Physiological Function of Somatolactin in Salmonid Fishes
報告番号 111726
報告番号 甲11726
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3090号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,哲也
 東京大学 教授 守,隆夫
 北里大学 教授 川内,浩司
 東京大学 助教授 竹井,祥郎
 東京大学 助教授 朴,民根
内容要旨

 ホルモンは生体内における情報伝達およびホメオスタシスに重要な役割を果たしている。中でも下垂体より分泌されるペプチドホルモン群は生体の維持、ひいては種の維持に必須であることはよく知られている。近年(1990)、魚類の下垂体より全脊椎動物に先立ち新たなホルモン様タンパクが単離・精製され、その分子構造が成長ホルモン(ソマトトロピン)およびプロラクチンに似ていることから"ソマトラクチン"と名付けられた。その後の研究により、ソマトラクチンが少なくとも魚類の下垂体に普遍的に存在することが明らかにされたが、その生理作用は全く不明である。現存の生体に見られる形態や構造は、すべて長年にわたる環境の変化との関わり合いのもとに進化、発達してきたものである。脊椎動物の中でも初期に出現した魚類で発見されたソマトラクチンも、脊椎動物が出現し現在まで繁栄してきた上で重要な役割を担ってきたことが考えられる。ソマトラクチンの生理作用を調べることにより脊椎動物の適応と進化の過程および機構に関し新たな知見が得られることが期待される。本研究は、ソマトラクチンの生理作用を個体レベルで解明することを目的として行ったものである。

 先ず、サケ科魚類のソマトラクチンに特異的な抗体およびcDNAをプローブとして用いて、ソマトラクチンが下垂体の中葉で産生され、分泌顆粒内に蓄えられていること、およびその産生細胞が神経葉と密に接していることを明らかにした。これらの形態的特徴より、ソマトラクチン細胞が、ペプチド本ルモン産生細胞に共通してみられる特徴を有することが示された(第1章)。

 ソマトラクチン細胞は、これまでに調べられたほとんどの魚類で、下垂体中葉に存在するPAS陽性細胞に相当することが明らかになっている。ソマトラクチン発見以前の1980年代に、下垂体中葉のPAS陽性細胞に関して実験形態学的研究が盛んに行われた。その結果、PAS陽性細胞の活性が低カルシウムあるいは酸性環境への適応、生殖、代謝、ストレス等に反応して変化することが示唆されている。これらの個体レベルで認められる現象は複数の生理現象から成り立っているが、特にいくつかの現象に共通して見られるものとして、カルシウム代謝、エネルギー動員、血液の酸・塩基調節などが考えられる。そこで、サケ科魚類のソマトラクチンに特異的なラジオイムノアッセイ系、およびin situハイプリダイゼーション法を用いた細胞学的手法を確立し、主にニジマスを用いて、様々な環境条件下に晒した際の血中濃度あるいは遺伝子の発現を含めた産生細胞の活性の変化を調べた。

 先ず最初に、低カルシウム環境への適応とソマトラクチンとの関係を調べるため、環境水のカルシウム濃度を、海水と同レベルの10mMから淡水と同レベルの0.3mMへと低下させたところ、ソマトラクチンの血中濃度は上昇する傾向にあったが一貫性がなく、しかも10日以上の日数を要したため、環境水中のカルシウムとソマトラクチンとは直接的な関係はないものと思われる(第2章)。また、産卵回遊中のシロサケで、血中ソマトラクチン濃度の変動を調べたところ、沖、湾、川の3点で捕獲されたシロサケのソマトラクチンの血中濃度は、沖から川へと回遊が進むにつれ緩やかに上昇した(第3章)。さらに、絶食により長期にわたってエネルギー動員系を徐々に変化させたニジマスでは、血中ソマトラクチン濃度に明確な変化は現れなかった(第4章)。従って、ソマトラクチンの、長期にわたるエネルギー動員への関与の可能性は低いと考えられる。

 一方、ニジマスを、飼育水の水位の低下あるいは運動負荷等によるストレスにさらし、緊急かつ大量にエネルギーを動員させると、ソマトラクチンの血中濃度に著しい上昇が見られた。このことからソマトラクチンが緊急時におけるエネルギー動員に関与している可能性が考えられる(第4章)。しかし、ソマトラクチンと並行して血中濃度が上昇した副腎ステロイドホルモンであるコルチゾルにもエネルギー動員作用があること、さらに代謝によって生じた乳酸等により血液が酸性化していたことも考えられることから、ソマトラクチンの血液の酸・塩基調節への関与の可能性も十分に考えられる。

 そこで、エネルギー動員と血液の酸性化のうち、どちらにソマトラクチンがより直接的に関与しているかを明らかにするため、運動負荷時における血液のpHとソマトラクチン濃度の変化を継時的に調べたところ、運動終了直後に、血液の酸性化、乳酸の血中濃度の上昇と同期して、顕著な血中ソマトラクチン濃度の上昇が認められた。この時点でコルチゾルの血中濃度も上昇していたが、運動終了後、酸性化した血液のpHの回復に従い、ソマトラクチンの血中濃度が元のレベルへと低下するのに対し、血中コルチゾル濃度は依然として高いレベルを保っていた。一方、環境水を酸性化すると、血中ソマトラクチンの上昇、および血液の酸性化が見られたが、乳酸およびコルチゾルの血中濃度の上昇は認められなかった。エネルギー動員の有無に関らず、血液が酸性化した時にソマトラクチンの血中濃度が上昇したことから、ソマトラクチンが血液の酸・塩基調節に大きく関与することが示唆された(第5章)。従って、生殖、ストレス、あるいは運動負荷時には代謝酸による血液の酸性化が、また環境水の酸性化時には体内への酸の浸入による血液の酸性化が、血中ソマトラクチン濃度の上昇を引き起こしたものと考えられる。

 引き続いて、ソマトラクチンが酸・塩基調節に及ぼす作用機序をさらに明らかにするため、ニジマスの背大動脈にカニューレを挿入し、環境水の高炭酸化、塩酸注射、および運動負荷により血液の酸性化を促し、ソマトラクチンの血中濃度に及ぼす影響を調べた。環境水の高炭酸化に伴い血中の二酸化炭素が上昇し、その解離により血液が酸性化するとともに、血中重炭酸イオン濃度が増大したが、この時に、血中ソマトラクチン濃度は変化しなかった。しかし、塩酸注射、運動負荷時のように、血液の酸性化に対する緩衝作用のため重炭酸イオン濃度が低下する場合には、血中ソマトラクチン濃度が著しく上昇し、その後、低下した血中重炭酸イオン濃度の回復が見られた。以上の結果より、単に血液の酸性化のみではなく、それに伴う血中の重炭酸イオン濃度の低下が血中ソマトラクチン濃度を上昇させること、およびソマトラクチンは血液の酸性化により低下した重炭酸イオンを回復させる方向に作用することにより、血液の酸・塩基調節に関与している可能性が示された(第6章)。

 さらに、血液の酸性化時にソマトラクチンが血中の重炭酸イオンに及ぼす影響をより明確にするため、ニジマスに予めソマトラクチンに対する抗血清を投与し、血中ソマトラクチン濃度を正常時より低く抑えておいた後に塩酸を注射したところ、血中重炭酸イオン濃度の低下は抗血清投与群の方でより顕著であった。また血中重炭酸濃度は、非処理群では塩酸注射後120分には完全に回復したのに対し、抗血清投与群では、約80%までしか回復しなかった(第6章)。

 一方、ニジマス下垂体を器官培養し、各種視床下部ホルモンのソマトラクチン分泌に及ぼす影響を調べたところ、ドーパミン、エピネフリンが抑制的に、セロトニン、副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)、生殖腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)が、促進的に作用することが明らかとなった(第7章)。そこで、細胞外液の重炭酸イオン濃度の低下が、ニジマス下垂体からのソマトラクチン分泌に直接、影響を及ぼすか否かを、下垂体器官培養系を用いて検討した。その結果、培養液中に含まれる重炭酸イオン濃度が低下すると、下垂体からのソマトラクチン分泌量が対照群と比べて2倍以上に上昇した。一方、比較のために測定されたプロラクチン、および成長ホルモンの分泌量には変化が認められなかった。このことから、血液の酸性化に伴う重炭酸イオン濃度の低下が、下垂体からのソマトラクチン分泌を促進する直接的な要因であることが示された(第8章)。

 以上に示した一連の研究結果より、環境水の酸性化、あるいは激しい運動によって血液が酸性化した際に、低下した血中重炭酸イオン濃度を回復させることにより血液の酸・塩基のバランスを維持することが、サケ科魚類におけるソマトラクチンの重要な生理作用の一つであることが明らかとなった。

審査要旨

 近年、魚類の下垂体より全脊椎動物に先立ち新たなホルモン様タンパクが単離・精製され、その分子構造が成長ホルモン(ソマトトロピン)およびプロラクチンに似ていることから"ソマトラクチン"と名付けられた。その後の研究により、ソマトラクチンが少なくとも魚類の下垂体に普遍的に存在することが判明したが、その生理作用は全く不明であった。本研究は、ソマトラクチンの生理作用を個体レベルで解明することを目的として行ったものである。

 先ず第1章においては、ソマトラクチンに特異的な抗体およびcDNAをプローブとして用いて、ソマトラクチンが下垂体の中葉で産生され、分泌顆粒内に蓄えられていること、およびその産生細胞が神経組織と密に接していることを明らかにした。ソマトラクチン細胞は、下垂体中葉に存在するPAS陽性細胞に相当しており、その活性が低カルシウムあるいは酸性環境への適応、生殖、代謝、ストレスに対する反応して変化することが示唆されている。これらの現象に共通して見られるものとして、カルシウム代謝、エネルギー動員、血液の酸・塩基調節が考えられる。本論分においては、サケ科魚類のソマトラクチンに特異的なラジオイムノアッセイ系、およびin situハイブリダイゼーション法を確立し、主にニジマスを用いて、様々な環境条件下に晒した際の血中濃度あるいは遺伝子の発現を含めた産生細胞の活性の変化を調べている。

 先ず、環境水のカルシウム濃度を、海水レベルの10mMから淡水レベルの0.3mMへと低下させたところ、ソマトラクチンの血中濃度は上昇する傾向にあったが一貫性がなく、環境水中のカルシウムとソマトラクチンとは直接的な関係はないものと思われる(第2章)。また、産卵回遊中のシロサケでは、沖から川へと回遊が進むにつれ血中ソマトラクチン濃度が緩やかなに上昇した(第3章)。さらに、絶食により長期にわたってエネルギー動員を誘起させたニジマスでは、血中ソマトラクチン濃度に明確な変化は認められなかった(第4章)。従って、ソマトラクチンの、長期にわたるエネルギー動員への関与の可能性は低いと考えられる。

 一方、運動負荷等によるストレスをニジマスに与え、緊急かつ大量にエネルギーを動員させると、ソマトラクチンの血中濃度に著しい上昇が見られた。しかし、エネルギー動員時に代謝によって生じた乳酸等により血液が酸性化していたことも考えられることから、ソマトラクチンの血液の酸・塩基調節への関与の可能性も十分に考えられる(第4章)。。

 そこで、エネルギー動員と血液の酸性化のうち、どちらにソマトラクチンがより直接的に関与しているかを明らかにするため、運動負荷時の血液のpHとソマトラクチン濃度の経時変化を調べたところ、運動終了直後に、血液の酸性化、乳酸の血中濃度の上昇と同期して、顕著な血中ソマトラクチン濃度の上昇が認められた。一方、環境水を酸性化すると、血中ソマトラクチンの上昇、および血液の酸性化が見られたが、乳酸の血中濃度の上昇は認められなかった(第5章)。

 続いて、ソマトラクチンの酸・塩基調節における作用機序をさらに明らかにするため、環境の高炭酸化、塩酸注射、および運動負荷により血液の酸性化を促し、ソマトラクチンの血中濃度に与える影響を調べた。環境の高炭酸化に伴い血中の二酸化炭素が上昇し、その解離により血液が酸性化するとともに、血中重炭酸イオン濃度が増したが、この時に、血中ソマトラクチン濃度は変化しなかった。しかし、塩酸注射、運動負荷時のように、血液の酸性化に対する緩衝作用のため重炭酸イオン濃度が低下する場合には、血中ソマトラクチン濃度が著しく上昇した。以上の結果は、単に血液の酸性化だけではなく、それに伴う血中の重炭酸イオン濃度の低下が血中ソマトラクチン濃度を上昇させることを示している(第6章)。

 さらに、ソマトラクチンが血中の重炭酸イオンに及ぼす影響を調べるため、予めソマトラクチンに対する抗血清を投与し、血中ソマトラクチン濃度を正常時より低く抑えておいたニジマスに塩酸を注射したところ、血中重炭酸イオン濃度の低下は抗血清投与群の方でより顕著であった(第6章)。一方、ニジマス下垂体を器官培養し、各種視床下部ホルモンのソマトラクチン分泌に及ぼす影響を調べたところ、ドーパミン、エピネフリンが抑制的に、セロトニン、副腎皮質刺激ホルモン放出因子、生殖腺刺激ホルモン放出ホルモンが、促進的に作用することが明らかとなった(第7章)。さらに、培養液中に含まれる重炭酸イオン濃度を低下させると、下垂体からのソマトラクチン分泌量が対照群と比べて2倍以上に上昇した。即ち、血液の酸性化に伴う重炭酸イオン濃度の低下が、下垂体からのソマトラクチン分泌を促進する直接的な要因であることが明らかである(第8章)。

 以上に述べた一連の研究結果より、環境水の酸性化、あるいは激しい運動によって血液が酸性化した際に、低下した血中重炭酸イオンレベルを回復させることにより血液の酸・塩基バランスを維持することが、サケ科魚類におけるソマトラクチンの生理作用の一つであることが明らかとなった。本研究により明らかになったソマトラクチンの生理作用は、新たに拓かれつつある分野であり、本論文提出者、柿沢昌は博士の学位を受ける資格があるものと認める。なお印刷公表論文は共著であるが、第1章を除きいずれも第一著者であり、かつ全ての論文において本論文提出者が主として研究を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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