学位論文要旨



No 111731
著者(漢字) 松田,学
著者(英字)
著者(カナ) マツダ,マナブ
標題(和) マウス膵臓に対するプロラクチンの作用と授乳期のホメオレシス
標題(洋) Effects of prolactin on the pancreas in mice : homeorhesis during lactation
報告番号 111731
報告番号 甲11731
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3095号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 守,隆夫
 東京大学 教授 平野,哲也
 東京大学 助教授 坂本,忍
 東京大学 助教授 朴,民根
 東京大学 教授 嶋,昭紘
 東京大学 助教授 竹井,祥郎
内容要旨

 哺乳類では、胎児期や哺乳期の栄養環境はその後の生存に大きく影響すると共に、母体にとっても妊娠・授乳はときに生死に関わるイベントである。したがって妊娠・授乳期には、進化の過程で洗練された栄養調節機構が存在するものと考えられる。実際、授乳期には乳腺への栄養の取り込みが亢進すると同時に、その他の母体組織の栄養代謝などにも協同した様々な変化が生じて、乳腺への栄養供給を助けている。例えば、授乳に伴い乳腺において脂肪合成や糖の取り込みの促進がみられる一方で、脂肪組織では脂肪分解の促進、肝臓では糖新生の促進などがみられることが知られている。こうした協同的変化は、単に乳腺での栄養消費から生じた血中栄養濃度の低下を補う恒常性維持機構(homeostasis)によってのみ生じるのではなく、授乳期に特異的な神経内分泌系の働きを介して調節されていると考えられる。こうした協同的定方向性の調節機構はホメオレシス(homeorhesis)とよばれる。プロラクチンは多くの哺乳類において授乳期に下垂体前葉から多量に分泌されるホルモンで、乳腺の発達・乳汁の合成促進に働くばかりでなく、乳腺以外の組織にも働いて栄養代謝を変化させる作用をもつことから、授乳期のホメオレシスに大きく関わっていると考えられる。

 授乳期には、アザラシなど一部の例外を除いて、摂餌量の増加がおこり、授乳により生じた栄養需要の増加を賄っている。特に、マウスなど多くの子供を産む小動物では、授乳期の摂餌量が平常時の2倍以上にも増加する。他方、授乳にともない小腸上皮細胞や膵臓外分泌細胞の増殖が盛んになることから、摂餌量増加と共に消化吸収機能も増強され、摂餌量増加に見合った効率の良い消化吸収が行われていると思われる。

 本研究では、プロラクチンが消化機能増進にも働き、授乳期の栄養のホメオレシスに寄与しているのではないかと考え、そのマウス膵臓に対する作用を調べた(第1部)。まず、下垂体移植マウスを用いて、膵臓重量および細胞増殖に対する高プロラクチン血症の影響を調べた(第1章)。その結果下垂体移植は、摂餌量が増加する以前に膵臓外分泌細胞の増殖を促進し、膵臓重量を増加させた。これより、プロラクチンが膵臓消化機能の予備能を高める働きをもつことが示唆された。次に、膵臓の消化酵素含量に対する下垂体移植の影響を調べた(第2章)。その結果、下垂体移植は膵臓の消化酵素含量の増加、特にタンパク質・脂質の消化に関わる酵素含量を増加させた。しかも、細胞あたりの酵素含量は、移植後初期(12日ごろ)に一過的な増加を示した。したがって、プロラクチンは膵臓の消化機能を質的にも調節し、細胞増殖に先駆けて酵素含量の増加を促進すると考えられた。さらに、こうした下垂体移植の影響がプロラクチン作用によることを確証するため、マウス膵臓に対するヒツジプロラクチン投与の影響を調べた(第3章)。その結果、プロラクチンが膵臓外分泌細胞の増殖と消化酵素含量の増加に働くことが確認された。また、プロラクチンによる膵島B細胞および小腸上皮細胞の増殖促進も確認された。以上のことから、プロラクチンが迅速に膵臓の消化機能(あるいは予備能)さらには消化吸収機能全般を量的にも質的にも高めることで、授乳初期の栄養需要の急激な変化への対応を可能にし、栄養のホメオレシスに寄与していることが示唆された。ところで、こうした消化器官に対するプロラクチン作用の機序はまだ解明されていない。プロラクチンは、標的細胞の細胞膜上に存在する特異的な受容体を介してプロラクチンの担う情報を伝達する。したがって、このプロラクチン受容体の分布を調べることで、プロラクチン作用の機序に関する知見が得られると期待される。そこで、プロラクチン受容体のペプチド断片に対する抗体を作製し、受容体の消化器官での分布を調べた(第6章)。その結果、膵臓では膵島が、小腸では上皮細胞が免疫陽性を示した。これより、プロラクチンが膵臓外分泌部に直接作用している可能性は低く、一方小腸上皮には直接作用する可能性の高いことが示唆された。

 さて、マウスの授乳期には摂餌量の増加だけでなく、貯蔵組織からの栄養放出や一部の組織で栄養利用の制限が生じて、乳腺への栄養供給を助けるホメオレシスを担っている。プロラクチンは膵島からのインスリン分泌を促進するとともに、乳腺のインスリン感受性を上げる一方で、脂肪組織などには抗インスリン作用(脂肪組織では脂肪分解作用)をもつことが報告されており、授乳期の乳腺への糖や脂肪の積極的な分配を司っていると考えられる。このようなプロラクチンの作用をマウスで確かめるため、脂肪や血糖調節に対する下垂体移植の影響を調べた(第2部)。その結果、プロラクチンのインスリン分泌促進作用と脂肪分解作用(脂肪組織における抗インスリン作用)が示唆された(第4章)一方、糖代謝に対するプロラクチンの作用には雌雄差があり、移植下垂体をもつ雌ではインスリン分泌促進がみられるにも関わらず血糖値の低下がみられなかった。そこで、プロラクチンの糖代謝に対する影響をより詳しく調べるため、下垂体移植したマウスで糖負荷テストを行った(第5章)。その結果、雌では下垂体移植により耐糖能が低下することがわかった。次に、インスリン投与後の血糖値低下の度合を測定することで、下垂体移植による耐糖能の低下が組織のインスリンに対する感受性の違いに由来することを明らかにした。さらに、下垂体移植による耐糖能の低下が雌に特異的であることから、これに卵巣ホルモン(とくにエストロゲン)が関与しているのではないかと考え、下垂体移植による耐糖能の低下に対する卵巣除去およびエストロゲン投与の影響を調べた。下垂体移植による耐糖能の低下は卵巣除去個体ではみられなかったが、エストロゲンを投与した卵巣除去個体では発現した。以上の結果から、プロラクチンはマウスの発達した乳腺以外の組織に抗インスリン作用をもち、特に、糖代謝に関連する主要な組織(おそらく肝臓であると考えられる)では、エストロゲンとの協同してインスリン感受性を低下させることが示唆された。このようにプロラクチンはマウス授乳期の栄養のホメオレシスを起こす「引き金」であり、その牽引ホルモンであると考えられる。同時に、このホメオレシスを担う個々のプロラクチン作用の発現には、エストロゲンなど他のホルモンとの協同が不可決であると思われる。

 ところで、こうしたホメオレシスの「引き金」となるプロラクチンに対する組織の感受性はどのような調節を受けているのだろうが。特に授乳期の栄養調節にとって重要である膵島の、プロラクチンに対する感受性の調節に興味がもたれた。ホルモンに対する感受性は、まず、そのホルモンに対する受容体の発現調節を通じて制御されていることが考えられる。そこで、膵島のプロラクチン受容体発現に関する知見を得ようと試みた(第3部)。プロラクチン受容体は近年クローニングされ、膜1回貫通型の構造をもち、マウスには細胞内領域を異にする長型・短型の少なくとも2種類存在し、長型のみが核への情報伝達に関与することが知られている。しかし、膵島のプロラクチン受容体に関しては、組織の小ささと受容体発現量の少なさから知見は乏しい。そこで、まず、競合PCR法を用いたマウスプロラクチン受容体cDNA量の高感度定量法の確立を試みた(第7章)。点変異により制限酵素切断部位を導入したrecombinant DNAを競合鋳型として用いた結果、検出限界103分子/tube以下の非常に高感度な定量法を、プロラクチン受容体細胞外領域に相当するcDNAについて確立した。さらに、競合PCR法を応用した、プロラクチン受容体長短2型cDNAの量比の定量法を確立した。なお、今回確立した測定法を用いて、肝臓プロラクチン受容体mRNA量に対する下垂体移植の影響を調べたところ、下垂体移植マウスの肝臓ではプロラクチン受容体mRNAの全体量は増大したが、機能型とされる長型の割合はむしろ減少した。したがって、プロラクチンが受容体量を増やすことで肝臓における自らのホルモンクリアランス能を高めている可能性が示唆された。次にマウス膵島の初代培養系をもちいて、膵島プロラクチン受容体mRNAの発現に対する妊娠・授乳期のホルモンの影響を調べた(第8章)。その結果、膵島におけるプロラクチン受容体mRNAの発現は、プロラクチンおよび成長ホルモンによって促進的調節を受けることが明らかとなった。一方、性ホルモンやプロゲステロンは膵島プロラクチン受容体mRNAの発現量に影響を及ぼさなかった。また、膵島ではプロラクチン受容体の大部分が長型であり、肝臓と異なりプロラクチンによる長型と短型の量比の変化は認められなかった。したがって、膵島のプロラクチンに対する感受性は、プロラクチン自体による促進的調節を受けていることが示唆された。

 このように、プロラクチンは乳腺だけでなく栄養貯蔵器官や消化吸収器官の機能にも作用をもち、マウス授乳期にはプロラクチンの血中濃度上昇が引き金となって、他のホルモンと協同して乳腺への栄養供給が急速かつ円滑になされるようホメオレシス的な栄養調節が行われていると結論される。

審査要旨

 授乳期には乳腺への栄養の取り込みが亢進すると同時に、その他の母体組織の栄養代謝などにも協同した様々な変化が生じて、乳腺への栄養供給を助けている。この協同的変化は、単に乳腺での栄養消費から生じた血中栄養濃度の低下を補うホメオスタシスによってのみ生じるのではなく、授乳期に特異的な神経内分泌系の働きを介して調節されていると考えられる。こうした協同的定方向性の調節機構はホメオレシスとよばれる。プロラクチンは、乳腺の発達・乳汁の合成促進に働くばかりでなく、乳腺以外の組織にも働いて栄養代謝を変化させる作用をもつことから、授乳期のホメオレシスに大きく関わっていると考えられる。

 授乳期には、摂餌量の増加がおこり、授乳により生じた栄養需要の増加を賄っている。論文提出者は、プロラクチンが消化機能増進にも働き、授乳期の栄養のホメオレシスに寄与しているのではないかと考え、そのマウス膵臓に対する作用を調べた(第1部)。その結果、下垂体移植が、摂餌量増加以前に膵臓外分泌細胞の増殖を促進し、膵臓重量を増加させること(第1章)、また、膵臓の消化酵素含量の増加、特にタンパク質・脂質の消化に関わる酵素含量を増加させること(第2章)が明らかになった。さらに、プロラクチン投与が膵臓外分泌細胞の増殖と消化酵素含量の増加、および膵島B細胞・小腸上皮細胞の増殖促進に働くことが明らかになった(第3章)。これより、プロラクチンが迅速に膵臓の消化機能(あるいは予備能)さらには消化吸収機能全般を量的にも質的にも高めることで、授乳初期の栄養需要の急激な変化への対応を可能にし、栄養のホメオレシスに寄与していることが示唆された。こうした消化器官に対するプロラクチン作用の機序はまだ不明であるが、プロラクチン受容体に対する抗体を作製し受容体の消化器官での分布を調べた結果、プロラクチンが膵臓外分泌部に直接作用している可能性は低く、一方小腸上皮には直接作用する可能性の高いことが示唆された(第6章)。

 さて、マウスの授乳期には摂餌量の増加だけでなく、貯蔵組織からの栄養放出や一部の組織で栄養利用の制限が生じて、乳腺への栄養供給を助けるホメオレシスを担っている。論文提出者が、脂肪や血糖調節に対する下垂体移植の影響を調べた結果、プロラクチンのインスリン分泌促進作用と脂肪分解作用が示峻された(第4章)。また、プロラクチンはマウスの発達した乳腺以外の組織に抗インスリン作用をもち、特に、糖代謝に関連する主要な組織で、エストロゲンとの協同してインスリン感受性を低下させることが明らかとなった(第5章)。以上のことから、プロラクチンはマウス授乳期の栄養のホメオレシスを起こす「引き金」であり、乳腺への糖や脂肪の積極的な分配を司っていることが示唆された。

 さらに、論文提出者は、授乳期の栄養調節にとって重要である膵島の、プロラクチンに対する感受性の調節に興味を広げ、膵島のプロラクチン受容体発現に関する研究を行った。少ないプロラクチン受容体の発現量を定量するにあたり、競合PCR法を用いたcDNA量の高感度定量法を確立し、さらに、競合PCR法を応用した、プロラクチン受容体長短2型cDNAの量比の定量法を確立した(第7章)。次に、マウス膵島の初代培養系をもちいて、膵易プロラクチン受容体mRNAの発現に対する妊娠・授乳期のホルモンの影響を調べた(第8章)。その結果、膵島におけるプロラクチン受容体mRNAの発現は、プロラクチンおよび成長ホルモンによって促進的調節を受けることが明らかとなった。また、膵島ではプロラクチン受容体の大部分が長型であり、肝臓と異なりプロラクチンによる長型と短型の量比の変化は認められなかった。したがって、膵島のプロラクチンに対する感受性は、プロラクチン自体による促進的調節を受けていることが示唆された。

 以上のように、論文提出者は、プロラクチンが乳腺だけでなく栄養貯蔵器官や消化吸収器官の機能にも作用をもち、マウス授乳期にはプロラクチンの血中濃度上昇が引き金となって、他のホルモンと協同して乳腺への栄養供給が急速かつ円滑になされるようホメオレシス的な栄養調節が行われていることを実験的に示した。本研究はプロラクチンの新たな作用を含めた多様な作用の総括的理解を試みたものであり、当分野の発展に大きく貢献したと認められる。また、本研究の一部は守隆夫(全体)・朴民根(第1,2,4章)・川島誠一郎(第1,2章)・坂本忍(第4章)雨左秀司(第4章)・矢内原昇(第1章)(敬称略)との共同研究になっているが、終始主体的に取り組んだのは論文提出者であることを確認した。したがって、論文提出者、松田学は東京大学博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格をもつと判定した。

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