学位論文要旨



No 111735
著者(漢字) 小田,亮
著者(英字)
著者(カナ) オダ,リョウ
標題(和) マダガスカルのワオキツネザルによる音声コミュニケーション
標題(洋) Vocal communication of free-ranging ringtailed lemurs in Madagascar
報告番号 111735
報告番号 甲11735
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3099号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青木,健一
 東京大学 教授 木村,賛
 東京大学 助教授 諏訪,元
 東京大学 助教授 長谷川,寿一
 京都大学 教授 小嶋,祥三
内容要旨

 現生霊長類の音声コミュニケーションについての研究は、ヒトの音声言語の進化について多大な知見をもたらした。しかしながら、そのほとんどは真猿類と類人猿について行われており、原猿類の音声コミュニケーションについてはいまだ知られざる点が多い。とくにマダガスカルに生息する昼行性原猿類は、隔離された環境で独自の進化を遂げており、比較行動学的な見地からも重要な存在である。ワオキツネザル(Lemur catta)はその中でも行動、生態が最もよく研究されている種であるが、音声コミュニケーションについては飼育個体を対象とした研究が数例あるだけで、自然状態におけるコミュニケーションについてはほとんど分かっていない。本論文では、ワオキツネザルについて、そのコンタクトコールと警戒音の発声と知覚を、自然状態において研究した。

1.コンタクト・コールの発声に行動と社会関係が及ぼす影響について

 ワオキツネザルはマダガスカル南西部の乾燥林に分布し、平均15頭からなる集団をつくって生活している。かれらは集団で休息あるいは移動中に、特徴的な音声を発する(図1)。

図1.meow callのソナグラム

 この’meow call’は、集団内の個体がお互いに接触を保つために発せられると考えられてきた。本論文ではマダガスカルのベレンティー保護区に生息するワオキツネザルの1集団(16頭)を対象に、行動の文脈と他個体との近接関係が、この音声の発声行動と音響的特徴に及ぼす影響について調べた。個体追跡法により、各個体を約20時間ずつ追跡し、個体の行動と近接関係、発せられた音声を記録した。まず、単位時間あたりのmeow callの発声頻度を休息、移動そして採食の3つの文脈において比較してみると、この音声は主に休息時と移動時に発せられ、採食時には発声頻度が低下することが分かった(図2)。またソナグラフを用いて音響パラメーターを計測し、休息時と移動時のそれぞれに発せられた音声の音響的な特徴を比較してみると、休息時と移動時で音響的な特徴には差がなかった。

図2.行動の文脈による発声頻度の違い

 次に近接個体の有無と発声の関係をみるために、各個体について発声があったときの3m以内の近接個体の有無と、ランダムにとった近接個体の有無を比較してみた。その結果、他個体の近接が無い場合、つまり集団のメンバーが空間的に散らばったとき、meow callはより頻繁に発せられ(図3)、また先ほどと同様に近接個体があったときと無かったときで音響的特徴の違いをみてみると、近接個体がなかったときのほうが周波数変調の大きい、高い声を発していることが分かった。これは聞き手の注意を引きつけ、発声個体の定位を容易にするような音響的特徴をもった音である(表1)。

図3.Meow callを発した個体への他個体の近接表1.5つの音響パラメーターについての二元配置分散分析の結果

 このmeow callはしばしば個体間での鳴き交わしが行われる。この音声が集団内でどのように機能しているのかを調べるため、対象集団の社会関係と鳴き交わしの関係を比較してみた。集団内の社会関係をグルーミングと空間的な近接を指標にして描き出してみると、集団の中心にはメスが位置し、大きくふたつのサブグループに分かれることが分かった(図4)。この社会関係をmeow callの鳴き交わし関係と比較してみたところ、この音声はメスのサブグループ間で鳴き交わされる傾向が強かった(図5)。おそらくこの音声にはサブグループ同士の接触を保ち、集団のまとまりを維持する機能があることが推測される。

図4.集団内のグルーミング関係図5.集団内の鳴き交わし関係
2.同所に生息する異種間の警戒音知覚:ワオキツネザルはシファカの警戒音をどのように知覚しているか?

 ベローシファカ(Propithecus verreauxi verreauxi)はワオキツネザルと同じく、マダガスカルに生息する昼行性原猿類である。この2種はマダガスカルのある地域において共存しているが、どちらも空からの捕食者(猛禽類)と地上からの捕食者(主に肉食獣)のそれぞれに対応した警戒音を持っている(図6)。ワオキツネザルに同種の警戒音をプレイバックした実験によると、空からの捕食者に対する警戒音を聞いたときには上空を見上げるなどの反応が多くみられるが、地上からの捕食者に対する警戒音を聞いたときには近くの樹上に駆け登るといった反応が多くみられるといったように、それぞれの警戒音に対する反応は全く違ったものであった。このことから、ワオキツネザルは自種の警戒音を、捕食者を指し示すreferential signalとして知覚しているということがいわれている。

図6.a.ワオキツネザルの対猛禽類警戒音 b.ワオキツネザルの対肉食獣警戒音 c.ベローシファカの対猛禽類警戒音 d.ベローシファカの対肉食獣警戒音

 本論文では、ワオキツネザルが同種のもののみならずシファカの警戒音をも聞き分けて反応することができるかどうかを調べるため、2カ所の集団に対してプレイバック実験を行った。ひとつはシファカと共存しているマダガスカル・ベレンティー保護区の集団、もうひとつはシファカと接触の経験のない日本の動物園(伊豆シャボテン公園)の集団である。1個体に対猛禽類の警戒音と対肉食獣の警戒音の両方を聞かせ、5秒以内に予想される対捕食者行動がみられるかどうかを確かめた。これを対象個体が樹上にいる場合と地上にいる場合のそれぞれについて、ベレンティーでは26個体に対して、シャボテン公園では10個体に2回行った。

 結果によると、前者の集団においてはシファカの2種類の警戒音に対して自種のものに示したのと同様の適切な反応がみられた。シファカとワオキツネザルはその生態の違いから、森のなかでの利用空間も異なっており、ワオキツネザルがシファカの警戒音を聞き分けられることで得る利益は大きいと考えられる。一方、シャボテン公園の集団には反応の分化がみられなかった。この集団差から、シファカの警戒音に正しく反応するには警戒音と捕食者の対応関係を学習する必要があることが示唆された(図7)。

図7.ベレンティー(左)とシャボテン公園(右)のそれぞれの集団における警戒音への反応(地上場面)

 現在の真猿類と原猿類は始新世の頃(約5700〜3500万年前)に共通祖先から分岐した。現生の原猿類はこの共通祖先の原始的な形態を保持していると考えられている。加えて、マダガスカルの原猿類は独自の進化を経てきたこの島固有の種である。しかしながら、そのような原始的な形態や特異性にもかかわらず、ワオキツネザルのコミュニケーションの様式は真猿類においてみられるものと共通している。ワオキツネザルは原猿類のなかでも群居性が強く、社会構成や行動は真猿類のそれと似通っている。このような特徴がワオキツネザルの音声コミュニケーションの様式に影響しているのではないかと考えられる。

審査要旨

 現生霊長類の音声コミュニケーションに関する研究は、ヒトの音声言語の進化について多大な知見をもたらしている。しかし、そのほとんどが真猿類と類人猿を対象とするものであり、原猿類の音声コミュニケーションについては未知な点が多い。特にマダガスカルに生息する昼行性原猿類は、隔離された環境で独自の進化を遂げており、比較行動学的な見地からも重要な存在である。ワオキツネザル(Lemur catta)はその中でも行動、生態が最もよく研究されている種であるが、音声コミュニケーションについては飼育個体を対象とした研究が数例あるだけで、自然状態におけるコミュニケーションについてはほとんど分かっていない。論文提出者はマダガスカルのベレンティー保護区を調査地とし、そこに生息するワオキツネザルを対象に、そのコンタクト・コールと警戒音の発声と知覚を自然状態において研究した。長期間のフィールド・ワークによって統計分析に耐える十分なデータを収集することに成功している。

 本論分は5章からなり、第1章が序論、第4章が総合討論、第5章がまとめである。第2章は、ワオキツネザルのコンタクト・コールの発声に行動文脈と近接関係が及ぼす影響、第3章は、ワオキツネザルによるベローシファカ(Propi-thecus verreauxi)の警戒音の異種間知覚について述べられている。第2章は、欧文学術雑誌に既に発表された論文に基づいた内容である。第3章は、現在投稿中である。なお、第3章は、正高信男氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 第2章は、ワオキツネザルのmeow call(集団内の個体が互いに接触を保つために発せられるコンタクト・コールであると考えられている)の発声頻度と音響的特徴に対して、行動文脈と近接関係が及ぼす影響を明らかにした。特に、近接個体の有無と発声の関係が興味深い。各個体について発声があったときの3m以内の他個体の有無と、同じ個体についてランダム・サンプリングしたときの他個体の有無を比較すると有意な違いが見られた。すなわち、他個体の近接がない場合にmeow callがより頻繁に発せられた。また、近接個体の有無と meow callの音響的特徴の関係を調べてみると、近接個体がなかったときのほうが周波数変調の大きい、高い音を発していることが分かった。これは、聞き手の注意を引きつけ、発声個体の定位を容易にするような特徴をもった音である。これらの結果は、ワオキツネザルのmeow callがコンタクト・コールとして機能していることを強く示唆するものである。

 第3章は、ワオキツネザルが自種の警戒音のみならず、異種であるベローシファカの警戒音にも適切に反応することを示した。ベレンティー保護区ではワオキツネザルとベローシファカが同所的に生息しているが、この2種はどちらも対猛禽類の警戒音と対肉食獣の警戒音を持っている。論文提出者はまず、ワオキツネザルに同種の警戒音をプレーバックする実験によって、対猛禽類警戒音が上空を見上げるなどの反応、対肉食獣警戒音が近くの樹上に駆け登るなどの反応を引き出すことを自然状態で初めて確認した。次に、ワオキツネザルに対してベローシファカの二通りの警戒音をプレーバックしたところ、やはり同様の適切な反応が見られた。ここで特に興味深い結果は、ワオキツネザルが自種の対猛禽類警戒音よりもむしろベローシファカの対猛禽類警戒音により高い頻度で適切な反応を示したことである。同じ森の中でも地上にいることの多いワオキツネザルは、樹上生活者であるベローシファカの対猛禽類警戒音の方を信頼しているためであろうか。さらに、ベローシファカと接触の経験がない日本の動物園のワオキツネザル集団に対し、ベローシファカの警戒音をプレーバックする実験を行った。この集団では反応の分化が見られず、警戒音に正しく反応するには警戒音と補食者の関係を学習する必要があることが示唆された。

 論文提出者は自然状態でのワオキツネザルの音声コミュニケーションを定量的に解析することに初めて成功している。この研究の結果を報告している本論文は、生態人類学と生物科学に貢献しており、博士(理学)の学位論文として十分な内容をもつものと判断される。

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