生物の形やその成長の規則性を数理的に記述し、形態形成を支配する物理的要因を明らかにしようとする試みは古くはMoseley(1838)やThompson(1917)に遡るが、それを体系化して生物硬組織の成長を支配する幾何学的要素や制約条件を探ることを目指す理論形態学を確立したのはRaup(1962,1966)である。しかし、Raup以降行われた理論形態学は生物形態のマクロな幾何学の記述とそれを支配する機能的・生態的要素との関係の解析に主眼が置かれ、ミクロなレベルでの形態形成との関連性についてはあまり注意が払われなかった。 本論文は、軟体動物二枚貝類を対象として、殻体成長に関与する種々の要素と貝殻の全体形との関係を実際と理論の両面から解析し、微視的な構造のパターン形成がマクロな形態の成長の幾何学といかに関連しているかを詳細に検討した国際的にも注目される画期的な研究成果である。二枚貝類の殻は付加成長により形成され、マクロな殻形態は微視的な貝殻の成長の時系列的積算であるといえる。その微視的形態は殻皮の分泌・結晶の成長・外套膜の成長・外套膜の変形といった要素の相互作用の結果、構築される。 本論文の前半(第一部)では、まず貝殻の微視的構造の形成過程に注目し、現生二枚貝72種の貝殻の最大成長軸に沿った微細構造ユニットの配列と成長様式を光学顕微鏡・走査型電子顕微鏡・万能投影機を用いて詳細に観察・計測した。その結果、どのタイプの殻体微細構造においても、微結晶の成長に伴う幾何学的選別作用により微細構造ユニットの全体的配列や成長線の方向が決定されること、結晶成長速度の減衰によって構造ユニットや成長線が湾曲することを明らかにした。このような観察事実に基づき、貝殻断面上での個々の微細構造ユニットの微視的形態をコンピュータによりシュミレートし、実際の標本の観察結果と比較した。その結果、結晶成長速度の減衰が微細構造ユニットの伸長方向へ選択的に生じるとし仮定した場合に描かれる幾何学的パターンが実際の微細構造を最もよく再現することを明らかにして、断面上での成長線の付加様式は微結晶の成長速度と減衰率により決定されると結論づけた。 論文の第二部では、二枚貝類の殻の縁に多く発達する平行な共心円状貝殻彫刻の形成機構について考察している。まず多数の現生・化石二枚貝類の殻の成長軸方向の切片を作成し、成長線の付加様式と共心円状貝殻彫刻との関係を顕微鏡下で観察した。さらに、貝殻表面彫刻の形成要因として外套膜の伸縮・外套膜の成長率の変化・炭酸カルシウムの沈着率の変化の3つのパラメータを想定し、局所的には外套膜の運動の軌跡が一定のプロフィールに保たれるという仮定の下で、それぞれの場合について微視的殻形態のコンピューターシミュレーションを試みた。そして、得られた結果と顕微鏡観察結果との比較から、外套膜の長さを周期的に伸縮させた場合のシミュレーションの結果が最も良く実際のパターンを再現することを示した。この研究により、二枚貝の共心円状の三次元的な表面彫刻の多くが、主に外套膜の周期的な伸縮の結果形成されることを理論と実際の両面から見事に説明した。 論文の後半では、前半の微視的形態に関する研究成果を発展させて、殻体の巨視的な形態形成について考察している。まず、成長線湾曲度・結晶相対成長速度・外套線前進率の3つのパラメータを設定して殻断面の成長をモデル化を試みた。それは、成長のスカラー量があらかじめ決まっていても、成長の方向は結晶成長速度や外套膜の成長速度などのバランスによって決定されるというモデルであり、成長の運動学に基礎を置いた理論形態学的モデルとしては初めて、殻の成長方向自体がどのように決定されるかということにも言及している。さらに、実際の標本で各パラメータを求めて、その値からモデルに従って殻の膨らみと厚さの予測値を計算し、殻の膨らみや厚さの実測値と比較することによりモデルの妥当性を確認した。さらに、このモデル下での計算機シミュレーションにより、それぞれのパラメータが成長を通じて一定ならば、初期条件を変えても最終的に描かれる殻体断面は同じ形に収束することを明らかにして、二枚貝類では成長を通じて殻の形を一定に保つような負のフィードバック機構が働いていることを理論的に明らかにすることに成功した。また、上記パラメータのわずかな変化が、時として大きな形態変化をもたらす可能性を示唆している。申請者が提起した形態形成システムのモデルは、初期条件の変異に対する安定性と成長パラメータの平均値に対する変異性といった2面性を持つことを示している。申請者はさらに、二枚貝類の殻の巨視的形態の多様性とそれを規定している要因を探るため、実形態空間と理論形態空間の比較を試みた。まず、モデルに従って各パラメータを連続的に変化させて得られた殻の膨らみ・厚さ・外套線の内側の広さについてそれぞれ計算し、これら3つの形態値が占めうる理論形態空間の範囲を求めた。また202種の二枚貝標本の殻の計測値を基に、それらが占有する実形態空間の範囲を描き、理論形態空間の範囲と比較した。その結果、理論形態空間のパターンは実形態空間とそれとほぼ一致することが確かめられ、また外套線の内側の広さに依存して殻の膨らみを最大にするための最適な殻の厚さが変化することが明らかになった。また外套線の内側の広さと外套膜の筋肉のタイプとの関係の比較から、殻の膨らみについては系統的に制約を受けている可能性を示唆している。この研究の結果、二枚貝類の殻の微視的構造から巨視的な形態にわたるパターン形成が実際と理論の両面から統一的に説明することが可能となり、それに微視的結晶成長の速度・外套膜の成長率や伸長様式・結晶成長における幾何学的選別作用などの要素が強く関与していることが明確になった。 申請者が本論文で導入した方法と概念は理論形態学と形態構築論の新しい領域を開拓し、進化古生物学の発展に関して一つの規範を示したと言える。よって、審査委員全員は申請者が博士(理学)の学位を受けるに十分な傑出した論文を提出したと判断した。 |