繁殖生態・絶対成長速度・性成熟年齢・繁殖回数・寿命などの生活史に関する情報(生活史形質)は生物種の表現型の適応度と密接に関係するため、自然選択を中心に置いた集団生物学ではもっとも基本的な情報として重要視されてきた。しかし、生活史形質は化石の外部形態の観察からは直接抽出できないため、従来の古生物学ではほとんど考慮されてこなかった。 軟体動物は豊富な化石記録を持ち、化石として保存される殻は付加成長をするために幼生段階から成年段階までの生活史に関する情報が成長線の形で記録されている。本論文は、日本列島周辺の浅海〜干潟に多く分布し、かつ化石記録が豊富なマルスダレガイ科二枚貝のカガミガイ(Phacosoma japonicum)について、北海道から鹿児島湾にわたる各地域集団の生殖周期・成長様式と貝殻成長線の付加様式との関係についての詳細な解析から生活史形質の顕著な地理的変異を明らかにしたことや、生活史形質の地理的変異の維持機構について、アロザイム分析・移植個体の成長追跡・環境要因の比較などから総合的に考察し、生活史戦略の観点から1つのモデルを提唱した点で、国際的にきわめて注目される業績である。 本論文の第1章では、横浜市野島海岸で行った集団の生殖周期と殻の月間成長様式の経年変化の解析結果をまとめている。そして月別採集個体の貝殻内部の微細成長線付加パターンの光学顕微鏡・走査型電子顕微鏡による観察から、冬輪(winter break)と放精・放卵輪(spawning break)を識別することに成功した。また、放精・放卵輪は当地域集団の性成熟年齢である3齢から後に毎年1〜2回形成され、個体の一生の放精・放卵の回数とほぼ一致することを明確にした。これと並行して、函館湾や鹿児島湾の集団標本についても貝殻成長線を解析し、放精・放卵輪が性成熟年齢に達した後から毎年形成されることを示した。さらに上記の成果を基礎に、約12万年前の本種の化石個体の貝殻成長線を解析して性成熟年齢の推定を試みた。 ところで生活史形質は常に適応的であるとは限らず、例えば形質に系統的な制約がある場合には遺伝的浮動によっても種内変異が生じることがある。また環境分散による非遺伝的な変異の場合には、形質に進化は生じない。そのため生活史の進化を考える場合、様々な遺伝的・環境的要因を考慮する必要がある。学位申請者は、すでに修士論文において、本種の現生集団の絶対成長と性成熟年齢には顕著な緯度的勾配(クライン)が見られ、一般的に高緯度地域の個体群ほど性成熟年齢は遅く、最大到達殻高は大きくなることを明らかにしている。しかし、有明海の集団は例外的にこのクラインに従わず、近隣地域の個体群に比べて性成熟年齢は遅く、最大殻サイズも大きくなっており、その値は地理的に遠く離れた函館湾の集団とほぼ同じであるという結果が得られている。本論文の2章では、このような本種の生活史形質の地理的変異の遺伝的背景を明らかにするため行ったアロザイム分析結果とその考察がまとめられている。18酵素、20の遺伝子座の遺伝子頻度の解析の結果、分析した7地域集団全体での平均の多型率は0.386、平均ヘテロ接合度は0.146であり、集団間の分化の程度は二枚貝類の種と同程度であることがわかった。また、4つの遺伝子座(GPl,ME,PGM-1,PCDH)の遺伝子頻度に緯度的なクラインが確認され、その影響により高緯度地域の集団ほど平均ヘテロ接合度は高いことが示された。しかし、近隣地域の集団と比べて特異な生活史形質を持つ有明海の集団は、函館湾の集団とは遺伝的に遠く、むしろ近隣地域の集団と近い遺伝距離を示すことがわかった。このような事実から、申請者は本種に認められた生活史形質の地理的変異は系統的な制約だけでは説明ができず、何らかの形で環境因子の影響を受けていると結論づけた。 論文の第3章では、アロザイム分析の結果を参考にして、移植実験により本種の生活史形質の遺伝的基礎の有無を確認し、各地域集団の生活史周期を比較するにより本種の生活史に直接影響を及ぼす環境因子を特定を試みている。東京湾・有明海・鹿児島湾から採集された個体を油壷湾に移植して、3年間にわたり成長様式を追跡調査した。その結果、どの個体も、現地での各地域集団の成長様式をそのまま保ちながら成長することや性成熟年齢についても同様に移植後変化がないことを明らかにして、本種の成長様式と成熟齢には何らかの遺伝的関与があることを示唆している。 さらに、経年調査により、有明海・鹿児島湾・東京湾の集団間の生殖周期と月毎の殻成長様式の顕著な違いを認めた。この違いを、種々の環境要因と比較した結果、本種の生活史周期の地域差は各地域での植物プランクトン量の季節変化の違いと最も良く対応することを明らかにするとともに、有明海の集団の持つ特異な生活史形質は冬から春にかけての植物プランクトンのブルームと密接に関係すると結論づけている。本章の最後で、学位申請者は本種に見られる生活史形質の地理的変異の生じた要因について、Sebens(1987)による生活史戦略モデルを導入して考察している。このモデルによれば、有明海の個体群は冬から春にかけての餌量の最も豊富な時期に成長するため、夏に成長する近隣地域の個体群に比べて成長期間の海水温が低く代謝に消費するエネルギー量が少なくてすむため、最適の成熟サイズは近隣地域の個体群よりも大きくなると予測できるという。 本論文は、カガミガイという生活史の研究に適した素材を基に、分布域をほぼカバーする広い範囲にわたり各集団について体成長・生殖周期、およびそれらと成長線の付加パターンとのを関係などを詳細に解析し、生活史形質の地理的変異の概要とその形成機構を生態学的・進化生物学的に考察したきわめて独創性の高い研究成果である。とくに、生活史形質の情報が貝殻成長線の解析から数値として抽出でき、その手法が化石種においても解析可能であることを明示したことは、進化古生物学の重要かつ革新的な側面を開拓したと判断され、高く評価される。ただし、第3章で展開された生活史戦略モデルに関する議論は、定性的であり独創性に乏しい。今後、エネルギー量の定量化などを行い、独自のモデルを構築する必要があろう。しかし、申請者が導入した方向と概念は集団レベルでの進化古生物学に新しい規範を示したと言える。すでに、論文の第1章は、国際誌The Veligerに掲載され、内外の研究者から高い評価を受けている。以上のことから、審査委員全員は申請者が博士(理学)の学位を受けるに十分な傑出した論文を提出したと判断した。 |