学位論文要旨



No 111740
著者(漢字) 佐藤,慎一
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,シンイチ
標題(和) 成長線を利用した二枚貝類の生活史の解析とその進化古生物学的応用
標題(洋) Life History of a Venerid Bivalve Phacosoma Japonicum and its Evolutionary Implications
報告番号 111740
報告番号 甲11740
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3104号
研究科 理学系研究科
専攻 地質学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 棚部,一成
 国立科学博物館 室長 加瀬,友喜
 東京大学 助教授 加瀬,友喜
 東京大学 教授 太田,秀
 東京大学 講師 上島,励
 東京大学 助教授 大路,樹生
内容要旨 1.序論

 卵サイズ・成長速度・性成熟年齢・繁殖回数・寿命などの生物の生活史形質は、その個体の生存率や出産率に直接影響を与えるために適応度と密接に関連している。また、形質間には資源の分配による制約(トレードオフ)が生じるため、それぞれの形質は複雑に関連している。このため生物は生息環境に適応した結果、最適の生活史形質のセットが進化すると考えられる。このような生活史戦略の概念では、過去にはひとつの個体群中に生活史形質の個体変異が数多く存在し、そこから最適の形質のセットを持った遺伝子型だけが自然選択によって現在に残されていると仮定している。しかしながら、これまでの古生物学では、化石から過去の生物の生活史の情報を引き出すことができなかったために、この仮定は未だ推測の域を出ていない。一方、生物の形質は常に適応的であるとは限らず、例えば形質に系統的な制約がある場合には、遺伝的浮動によっても種内変異が生じることがある。また環境分散による非遺伝的な変異の場合には、形質に進化は生じない。そのため生物の生活史の進化を考える上では、様々な遺伝的・環境的要因を考慮する必要がある。

 本研究では、日本列島周辺の浅海〜干潟に多く分布し、かつ化石記録が豊富なマルスダレガイ科二枚貝のカガミガイ(Phacosoma japonicum)を素材として、成長線を利用した現生・化石集団の生活史の解析と、その種内変異を規定している要因について様々な考察を行う。

2.成長線付加パターン中の生活史に関する情報

 古生物の進化をより良く理解するためには、化石から生活史に関する情報を引き出す必要がある。二枚貝類の殻のような付加成長をする硬組織中には、生活史に関する情報が成長線の形で記録されており、しかもそれは化石にも良く保存されている。本章では、カガミガイの現生集団の月間成長様式と生殖周期の解析から、本種の微細成長線付加パターンに残される冬輪(winter break)と放精・放卵輪(spawning break)の識別・記載を行い、その結果を利用して化石集団の性成熟年齢の推定を試みた。

 現生集団標本の採集は、神奈川県横浜市の野島海岸で行った。1992年の1月から10月までの間に毎月1回採集された集団標本を基に、生殖周期と殻の月間成長様式の解析を行った。その結果、1)東京湾では、カガミガイの放精・放卵は6月下旬から8月上旬の間に行われる、2)未成熟個体では6月から7月の間に急速な殻の成長が見られるが、成熟個体ではその期間の殻の成長が阻害されており、その結果として成長線付加パターンに放精・放卵輪が形成される、3)冬輪では微細成長線の幅が秋から冬にかけて次第に減少して障害輪が形成され、その後は冬から春にかけて次第に微細成長線の幅が増加するのに対して、放精・放卵輪では夏の最も成長線の幅の広い時期に突然に障害輪が形成され、その後は成長線の幅が徐々に回復する様子が観察された、4)このような特別な微細成長線付加パターンにより、放精・放卵輪は冬輪などの他の成長障害輪とは明確に識別することができる、5)放精.放卵輪は当地域集団の性成熟年齢である3齢から後に毎年1〜2回形成されるが、それはその個体の生涯の放精・放卵の回数とほぼ一致する、などの事実が明らかになった。

 Sato(1994)によると、カガミガイの性成熟年齢には緯度的勾配が存在する(函館湾;4齢、東京湾;3齢、鹿児島湾;2齢)が、放精・放卵輪の形成は函館湾や鹿児島湾の集団標本でも確認され、それぞれ性成熟年齢に達した後から毎年形成されることが明らかにされた。さらに、海成上部更新統の下総層群木下層(約12万年前)から産出する化石カガミガイを用いて微細成長線付加パターンの解析を行ったところ、現生標本と同様に冬輪と放精・放卵輪が識別され、化石集団の性成熟年齢を推定することに成功した。今後は各地の化石二枚貝類の成長線解析を行うことで、二枚貝類の生活史形質の時間的変遷などを明らかにできるものと期待される。

3・アロザイム分析による遺伝的変異と集団構造の解析

 本種の現生集団の絶対成長と性成熟年齢には、顕著な緯度的クラインが見られ、概して高緯度地域の個体群ほど性成熟年齢は遅く、最大到達殻高は大きくなる。しかし、有明海の個体群は例外的にこのクラインには従わず、近隣地域の個体群に比べて性成熟年齢は遅く、最大殻サイズ大きくなっており、その値は地理的に遠く離れた函館湾の個体群とほぼ同じであった(Sato,1994)。このような生活史のクラインが生じる理由としては、1)隔離集団間での再交配、2)環境分散による非遺伝的変異、3)生息環境に対する生活史戦略、などが考えられる。ここで、もし本種の生活史形質に1番のような系統的な制約があるならば、生活史のクラインで例外的な値を示した有明海の集団は、遺伝距離でも函館湾の集団と例外的に近くなっているはずである。

 そこで本章では、アロザイム分析を行うことで本種の各地域集団の遺伝的変異と集団間の遺伝的分化程度を推定した。アロザイム分析では18酵素を対象にして、20の遺伝子座の遺伝子頻度を計測した。その結果、分析した7地域集団全体での平均の多型率は0.386、平均ヘテロ接合度は0.146であった。また、4つの遺伝子座(GPI,ME,PGM-1,PCDH)の遺伝子頻度に緯度的なクラインが確認され、その影響により高緯度地域の集団ほど平均ヘテロ接合度は高くなっていた。

 しかしながら、例外的な生活史形質を持つ有明海の集団は、函館湾の集団とは遺伝的に遠く、むしろ近隣地域の集団と近い遺伝距離を示していた。このため、本種の生活史の地理的変異は系統的な制約だけでは説明ができず、何らかの形で環境因子の影響を受けていることが明らかになった。

4.移植実験及び生活史周期の解析

 本章では、前章の結果を受けて、1)移植実験を行い本種の生活史形質の遺伝的基礎の有無を確認し、2)各地域集団の生活史周期を比較することで本種の生活史に直接影響を及ぼす環境因子を特定した。東京湾・有明海・鹿児島湾において採集された個体の殻表面に、個体番号を記したプレートを付けた後に油壷湾に移植して、移植後3年間の成長様式を追跡調査した。その結果、移植後の成長様式は移植前とほとんど変化はなく、現地での各地域集団の成長様式をそのまま辿っていた。また性成熟年齢についても同様に移植後の変化は見られなかった。これらのことから、本種の成長様式と成熟齢には何らかの遺伝的関与があることを明らかにした。

 また、1995年の1月から9月までの間に毎月1回集団サンプルを採集することにより、有明海・鹿児島湾の各地域集団の生殖周期と月毎の殻成長様式を解析し、それらの結果を1992年の東京湾でのデータと合わせて比較・検討を行った。その結果、本種の各地域集団の成長期間に顕著な地域差が確認された。すなわち、東京湾と鹿児島湾の集団は春から夏にかけて生殖巣の発達と殻成長が見られるのに対して、有明海の集団では冬から春にかけての成長が顕著に見られた。そこで、この生活史周期の地域差を、様々な環境要因(海水温・塩分濃度・植物プランクトン量の季節変化)や本種の個体群密度の地域差と比較した。その結果、本種の生活史周期の地域差は、各地域での植物プランクトン量の季節変化の違いと最も良く対応することが明らかになった。すなわち、植物プランクトンの大増殖は、西日本のほとんどの内湾では夏に発生するのに対して、有明海では特別に冬にピークに達している。そのため、本種の生活史周期は餌となる植物プランクトン量の季節変化に強い影響を受けていることが確認された。

 Sebens(1987)による生活史戦略モデルでは、最適の成熟サイズはその個体が体内に取り入れたエネルギー量から、代謝などによって消費したエネルギー量を引いた残りの量が最大となる体サイズで表わされる。有明海の個体群では、冬から春にかけての餌量の最も豊富な時期に成長を行っている。そのため、夏に成長する近隣地域の個体群に比べて、成長期間の海水温が低く、代謝に消費するエネルギー量が少なくてすむため、最適の成熟サイズは近隣地域の個体群よりも大きくなると予測できる。

5.結論

 成長線を利用したカガミガイの現生・化石集団の生活史の解析と、その種内変異に対する遺伝的・環境的要因の考察の結果、以下のことが明らかになった。

 1)東京湾では、カガミガイの放精・放卵期は6月下旬から8月上旬であり、成熟個体ではこの時期の殻成長が阻害されるために、成長線付加パターンに放精・放卵輪が形成される。そして、この放精・放卵輪を利用することで、化石集団の性成熟年齢を知ることができる。

 2)アロザイム分析の結果、本種の遺伝的変異にも南北間のクラインの存在が確認されたが、有明海の集団では生活史の地理的変異の結果と調和的でなかった。このため本種の生活史は、系統的な制約の他に何らかの形で環境因子の影響を受けていることが明らかになった。

 3)移植実験の結果、本種の生活史に遺伝的基礎が存在することが確認され、また各地域集団の生活史周期の比較から、本種の生活史が餌量の季節変化に強く影響されていることが明らかになった。そのため、本種の生活史形質にみられる種内変異は、各地域の生息環境に対する本種の生活史戦略であると解釈される。

審査要旨

 繁殖生態・絶対成長速度・性成熟年齢・繁殖回数・寿命などの生活史に関する情報(生活史形質)は生物種の表現型の適応度と密接に関係するため、自然選択を中心に置いた集団生物学ではもっとも基本的な情報として重要視されてきた。しかし、生活史形質は化石の外部形態の観察からは直接抽出できないため、従来の古生物学ではほとんど考慮されてこなかった。

 軟体動物は豊富な化石記録を持ち、化石として保存される殻は付加成長をするために幼生段階から成年段階までの生活史に関する情報が成長線の形で記録されている。本論文は、日本列島周辺の浅海〜干潟に多く分布し、かつ化石記録が豊富なマルスダレガイ科二枚貝のカガミガイ(Phacosoma japonicum)について、北海道から鹿児島湾にわたる各地域集団の生殖周期・成長様式と貝殻成長線の付加様式との関係についての詳細な解析から生活史形質の顕著な地理的変異を明らかにしたことや、生活史形質の地理的変異の維持機構について、アロザイム分析・移植個体の成長追跡・環境要因の比較などから総合的に考察し、生活史戦略の観点から1つのモデルを提唱した点で、国際的にきわめて注目される業績である。

 本論文の第1章では、横浜市野島海岸で行った集団の生殖周期と殻の月間成長様式の経年変化の解析結果をまとめている。そして月別採集個体の貝殻内部の微細成長線付加パターンの光学顕微鏡・走査型電子顕微鏡による観察から、冬輪(winter break)と放精・放卵輪(spawning break)を識別することに成功した。また、放精・放卵輪は当地域集団の性成熟年齢である3齢から後に毎年1〜2回形成され、個体の一生の放精・放卵の回数とほぼ一致することを明確にした。これと並行して、函館湾や鹿児島湾の集団標本についても貝殻成長線を解析し、放精・放卵輪が性成熟年齢に達した後から毎年形成されることを示した。さらに上記の成果を基礎に、約12万年前の本種の化石個体の貝殻成長線を解析して性成熟年齢の推定を試みた。

 ところで生活史形質は常に適応的であるとは限らず、例えば形質に系統的な制約がある場合には遺伝的浮動によっても種内変異が生じることがある。また環境分散による非遺伝的な変異の場合には、形質に進化は生じない。そのため生活史の進化を考える場合、様々な遺伝的・環境的要因を考慮する必要がある。学位申請者は、すでに修士論文において、本種の現生集団の絶対成長と性成熟年齢には顕著な緯度的勾配(クライン)が見られ、一般的に高緯度地域の個体群ほど性成熟年齢は遅く、最大到達殻高は大きくなることを明らかにしている。しかし、有明海の集団は例外的にこのクラインに従わず、近隣地域の個体群に比べて性成熟年齢は遅く、最大殻サイズも大きくなっており、その値は地理的に遠く離れた函館湾の集団とほぼ同じであるという結果が得られている。本論文の2章では、このような本種の生活史形質の地理的変異の遺伝的背景を明らかにするため行ったアロザイム分析結果とその考察がまとめられている。18酵素、20の遺伝子座の遺伝子頻度の解析の結果、分析した7地域集団全体での平均の多型率は0.386、平均ヘテロ接合度は0.146であり、集団間の分化の程度は二枚貝類の種と同程度であることがわかった。また、4つの遺伝子座(GPl,ME,PGM-1,PCDH)の遺伝子頻度に緯度的なクラインが確認され、その影響により高緯度地域の集団ほど平均ヘテロ接合度は高いことが示された。しかし、近隣地域の集団と比べて特異な生活史形質を持つ有明海の集団は、函館湾の集団とは遺伝的に遠く、むしろ近隣地域の集団と近い遺伝距離を示すことがわかった。このような事実から、申請者は本種に認められた生活史形質の地理的変異は系統的な制約だけでは説明ができず、何らかの形で環境因子の影響を受けていると結論づけた。

 論文の第3章では、アロザイム分析の結果を参考にして、移植実験により本種の生活史形質の遺伝的基礎の有無を確認し、各地域集団の生活史周期を比較するにより本種の生活史に直接影響を及ぼす環境因子を特定を試みている。東京湾・有明海・鹿児島湾から採集された個体を油壷湾に移植して、3年間にわたり成長様式を追跡調査した。その結果、どの個体も、現地での各地域集団の成長様式をそのまま保ちながら成長することや性成熟年齢についても同様に移植後変化がないことを明らかにして、本種の成長様式と成熟齢には何らかの遺伝的関与があることを示唆している。

 さらに、経年調査により、有明海・鹿児島湾・東京湾の集団間の生殖周期と月毎の殻成長様式の顕著な違いを認めた。この違いを、種々の環境要因と比較した結果、本種の生活史周期の地域差は各地域での植物プランクトン量の季節変化の違いと最も良く対応することを明らかにするとともに、有明海の集団の持つ特異な生活史形質は冬から春にかけての植物プランクトンのブルームと密接に関係すると結論づけている。本章の最後で、学位申請者は本種に見られる生活史形質の地理的変異の生じた要因について、Sebens(1987)による生活史戦略モデルを導入して考察している。このモデルによれば、有明海の個体群は冬から春にかけての餌量の最も豊富な時期に成長するため、夏に成長する近隣地域の個体群に比べて成長期間の海水温が低く代謝に消費するエネルギー量が少なくてすむため、最適の成熟サイズは近隣地域の個体群よりも大きくなると予測できるという。

 本論文は、カガミガイという生活史の研究に適した素材を基に、分布域をほぼカバーする広い範囲にわたり各集団について体成長・生殖周期、およびそれらと成長線の付加パターンとのを関係などを詳細に解析し、生活史形質の地理的変異の概要とその形成機構を生態学的・進化生物学的に考察したきわめて独創性の高い研究成果である。とくに、生活史形質の情報が貝殻成長線の解析から数値として抽出でき、その手法が化石種においても解析可能であることを明示したことは、進化古生物学の重要かつ革新的な側面を開拓したと判断され、高く評価される。ただし、第3章で展開された生活史戦略モデルに関する議論は、定性的であり独創性に乏しい。今後、エネルギー量の定量化などを行い、独自のモデルを構築する必要があろう。しかし、申請者が導入した方向と概念は集団レベルでの進化古生物学に新しい規範を示したと言える。すでに、論文の第1章は、国際誌The Veligerに掲載され、内外の研究者から高い評価を受けている。以上のことから、審査委員全員は申請者が博士(理学)の学位を受けるに十分な傑出した論文を提出したと判断した。

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