学位論文要旨



No 111754
著者(漢字) 川井,敬二
著者(英字)
著者(カナ) カワイ,ケイジ
標題(和) 音環境認知の観点からの人間 : 音環境系の記述に関する研究
標題(洋)
報告番号 111754
報告番号 甲11754
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3552号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安岡,正人
 東京大学 教授 松尾,陽
 東京大学 教授 高橋,鷹志
 東京大学 教授 橘,秀樹
 東京大学 助教授 平手,小太郎
内容要旨

 環境音と人間とのかかわりを対象とした研究領域は、従来からの騒音的観点に加えていわゆるサウンドスケープのように環境音を積極的にとらえる観点が提唱されるなどにより多様化の傾向にある。対象範囲の拡大したこの領域についてまだ定まった名前はなく、「音環境評価」「音環境調査」などのように、「騒音」を「音環境」と言い替えることで対象内容のニュアンスの表現を試みているように思える。

 80年代後半以降、しばしばみられるようになった音源の付加を伴う空間演出の例、あるいはすでに首都圏ではむしろ一般的となった楽音を用いた駅の発車ベルの例など、いわゆる音環境デザイナーの手による一連の計画が行われてきた。しかしこれらに対する音環境研究者の反応は是非の分かれたものであり、是とするにせよ非とするにせよ、それらの意見には主観的なもの、あるいは一面的なものが多いのも事実である。実際、現状において人間-音環境系に関して社会的なコンセンサスを持った概念およびその記述は騒音評価の領域にとどまっており、それを越えた各研究や計画の相互間あるいは全体的領域の中での位置づけは明確でないのが現状といえる。

 しかし多様な価値観に基づいた現代の音環境計画に対応するためには、人間、音環境、およびこれらの相互関係の把握、さらに総合的な環境における位置づけの把握を通して、問題とする音環境計画がそのなかの何を対象としているのかを記述し位置づけていく必要がある。また従来からの客観的認識論に基づいた方法論による環境工学的研究が陥りがちな専門化・細分化による研究の自己目的化に対して、研究の持つ意味や意義についても問われなければならない。ここで必要とされるのは多様な領域を包括的にとらえる観点、およびその観点からの記述の枠組みであると考えられる。

 本論文の目的は、以上に述べたような観点と記述の枠組みを提示することにある。本論文ではこの目的のもとに、人間-音環境系を包括的にとらえ得る観点として人間の音環境認知を提案する。建築環境工学が人間を対象とした研究領域であることから、観点を人間の認知におくことにより、将来にわたる多様化への対応と各研究の意義や価値についての人間を基準とした記述を可能とすることが期待される。

 音環境認知の観点からの記述は、従来から感性的段階あるいは高次の処理としてブラックボックス的に扱われることが多かった人間の環境認知について何らかのモデル(環境認知モデル)を設定し、それを枠組みとして音環境研究領域の各研究を位置づけていく形をとる。これにより入力-反応の関係だけでなく、内部情報処理の過程を含めた記述が可能となる。こうした環境認知モデルは認知心理学の領域においてもこれと決まったものは見られないことから、本論文では既往の文献により音環境研究領域を包括的に記述するのに十分なモデルを作成した。本論文で提示する環境認知モデルは独自の新しい知見を加えたものではなく、またこれ以外の枠組みによる記述も当然可能である。しかし音環境研究領域において認知的な観点が一般的ではなく、記述のための枠組みが共有されていない現状においては、この提示は意義のあるものと考えている。

 音環境認知の観点あるいは環境認知モデルの有用性は、それが研究領域の位置づけを明確にするとともに研究の方向性を見いだす手がかりとなる点にある。この有用性は期待できるものの実際に証明することは不可能といえるが、しかしもし本当に有用であるならば例証的に記述を積み重ねる中で結果として有用であると認識されていくであろう。こうした点から本論文がなすべきことは、記述のための観点と枠組みを提示すること、およびそれを用いた例示的な記述を行うことにあるものと考えており、これを論文の内容としている。

 本論文の構成の概要は次のようである。音環境認知の観点から人間-音環境系を記述するための枠組みである環境認知モデルおよび関係する諸概念の提示(第2章)、第2章で提示した記述の枠組みを用いた音環境研究領域の記述(第3章)、音事象から感じる印象の因子構造の把握を目的とした実験(第4章)、複合環境評価における音環境の寄与の把握を目的とした実験(第5章)、全体の総括(第6章)。

 第2章においては、人間-音環境系の記述における枠組みとなる環境認知モデルおよび関係する諸概念について論じた。この環境認知モデルの存在意義は、音環境研究領域における各研究をモデル上に位置づけることにより、全体的な系の上における位置づけ、あるいは研究相互間の位置づけが明確となり、さらに考察の方向性や採るべき方法論を見いだすための手がかりとなる、という点にある。従ってモデルは将来にわたる音環境研究が対象とする人間-音環境系を包括的にとらえられるものであることが必要である。

 本論文において提案するモデルは、人間と環境とのフィードバックを含む循環的な情報処理機構のモデルを骨格として、情報処理に影響を及ぼす「意識」と「感情」に関するそれぞれのモデルを結びつけたものであり、音に限らない一般的な環境認知に適用できるものと考えている。モデルおよび関係する諸概念については既往の認知心理学領域の文献から選択・集成した。環境認知モデルは研究者間で共通の理解が得られることも重要であるため、これらの選定にあたり、できるだけ新しく、一般的な文献の中から、理論的な裏付けのあるものの中で、実感として理解しやすいと考えられるものを採用した。こうして構成した環境認知モデルの概念図を図1に示す。

図1 環境認知モデルの概念図

 第3章の内容は、工学的な観点から人間-音環境系と既往の音環境研究についての概観、音環境研究領域が対象とする認知様相の類型に関する記述、騒音研究領域を主とした音環境研究領域におけるいくつかの事例についての音環境認知の観点からの記述、の3つの節から構成される。認知の観点からの記述の一例として騒音の心理的影響において重要な要因である「自動的で不随意的な意識化」については、産業騒音に典型的な大パワー・無意味音の意識化は生得的な情報抽出機構によるもの、近隣騒音に典型的な小パワー・有意味音の意識化は「怒り」感情によるものなどといった記述ができる。ここで生得的な情報抽出機構であることは、経験による影響のないことから個人差が小さく物理的指標など何らかの客観的指標との対応づけが期待できることを意味し、「怒り」感情によるものであることはそうした指標が適用できないことが予想される。

 第4章と第5章の実験については、第2章で提示した環境認知のモデルにおける記憶情報の「中身」についての基礎的知見の把握を目的とするものとしての位置づけと、実験結果の考察において環境認知モデルを用いた記述を行うことによる認知の観点の適用例としての位置づけの二面性を考えている。

 第4章はイメージ音事象(音を実際に聞くのではなく音の名前のみが呈示され、それが聞こえてきた状況を想像するもの)を用いた印象評価実験を通して、音事象から感じる印象の因子構造を把握することを目的としている。環境認知モデルにおいて印象とは対象に付随する概念的情報を反映したものといえる。さらに感情の面から見れば印象は音事象に付随する感情的態度を反映し、そうした音事象の出現によって、ある心の状態(ムード)や感情を生起させやすくする効果を持つものと位置づけられる。実験の結果、因子構造の軸として評価性及び活動性について被験者間での共通性がみられたほか、被験者によってばらつきのあるものとして生活感など種々の軸が見いだされた。これらの軸の持つ意味については先に述べたような認知の観点からの考察を行った。また実験は3種の音環境{居室・街路・テーマパーク}を設定状況としているが、状況の違いにより同種の音事象の印象評価に有意な差が見られた。

 第5章では、視環境と音環境の複合環境印象評価における音環境の寄与やその度合の把握を目的として現場実験を通した考察を行った。これは認知の観点から見れば、環境からの概念的情報と入力感覚との関係を見いだすものといえる。ここでの実験的検討は限定的な-ケーススタディにとどまるが、総合的な環境認知に対する音環境の寄与の把握は音環境計画の有用性を問うことに結びつくものであり、結果や手法は今後のこの方向の考察の手がかりになるものと考える。実験の結果としては、とくに活動性に関する評価において複合環境評価と音環境評価との高い相関がみられた。また視環境評価と比較して音環境評価は個人による評価傾向の差異が相対的に小さいものであった。

 論文全体の総括として、環境認知モデルを用いた記述の有効性についての例証の点では、第3章の音環境研究領域の各事項および第4章・第5章の実験の結果について、環境認知モデルの枠組みを用いて考察することによりその意味について明確に記述することができたと考えており、個々の研究を考える上でこの枠組みを適用することは有用と考える。

 しかしそれ以上に重要なのは、個々の研究あるいは研究領域をこの枠組みで記述することにより、研究者間において認識を共有できることにあると考えている。近代科学がそれぞれの領域において、何らかの共通言語的概念を媒介として研究者間で相互を理解し位置づけ、その中から方向性を見いだすことによって絶え間ない進歩を続けている。ここで必要なのが共通言語であることはいうまでもない。すなわちひとりあるいは少数による成果を積み重ねるためには相互の位置づけと方向性の理解、そして議論が必要である。本論文は音環境研究領域において、それを語る上での共通言語となり得るものとして音環境認知の観点による枠組みを提案するものである。

審査要旨

 本論文は「音環境認知の観点からの人間-音環境系の記述に関する研究」と題し、音環境が人間に与える影響を、騒音による不快感から自然音や演出音による快感問題まで多面的に捉え、その認知・評価構造を総括的・体系的に論述したものであり、序論と本文4章及び総括より構成されている。

 第1章序論では、近年とみに多様化する環境と人間のインターラクションを考える時、従来のように、環境刺激と心理評価を短絡的に対応させて、内部構造をブラックボックスのまま取り扱う手法では、様々な相互作用を総合的に記述することが不可能であるとし、環境認知の内部構造を記述する包括的モデルの必要性とその意義を論述している。

 第2章では、認知心理学的立場から、人間-音環境系を体系的に記述する場合に規範となる環境認知モデルのフレームワークを行い、関係する諸概念について説明している。すなわち、人間-環境系をフィードバックループを持つ循環的なシステムとして捉え、骨格となる情報処理機構のメインシステムモデルに、「意識」と「感情」に関するそれぞれのサブシステムモデルを結合した総合的な環境認知モデルを提示している。このモデルは既往の研究を統合整理して独自に構築し直したもので、図的表現を加えて理解し易い形で共通の概念基盤として示したところに意義がある。

 第3章では、環境工学的立場から、人間-音環境形の概観、音環境評価における様々な認知様相の類型的分析、騒音評価の事例における認知構造解析の三つを行っている。

 特に、「自動的で不随意的な意識化」の典型として、高レベル・無意味音に対する意識化は生得的・自己防衛的な反応であり、低レベル・有意味音に対する意識化は「怒」感情の生起による反応であるなどとし、環境認知モデルの有用性を示している点は評価できる。

 第4章では、音事象の名称提示によるイメージ評価実験により、音事象名から感じる印象について、その因子構造分析を行っている。

 この場合の印象は物理的刺激によるものではなく、名称の持つ概念情報により生起され、音事象への感情態度を反映したものであるとモデルによって説明している。独自の手法で、自由記述による被験者別の印象評価語を評定尺度とする因子分析を行った結果、共通軸として評価性と活動性を抽出した後、生活感など個人間で差の大きい因子を含め、その意味付をモデルを用いて行っている。

 第5章では、視環境と音環境の複合印象評価問題を取り上げ、現場実験によって、その構造解析や音環境因子の寄与度分析などを行っている。

 この実験は物理的刺激入力と概念情報入力の双方が複合的にある場合のケーススタディである。その結果、視環境評価と比較して音環境評価は個人差が少ないこと、活動性因子では複合環境評価と音環境評価に高い相関のあること、複合環境評価に寄与の大きい音環境要因として活動性因子とともに、「静かな-うるさい」、「耳触りのよい-耳障りな」などのあることを示している。最後の寄与度の問題は、音環境計画ひいては総合環境計画への有用な判断材料を与えるものとして、今後の研究成果が期待される。

 第6章では全体の総括を行い、環境認知モデルを用いた評価構造の記述は、前述のように評価プロセスの意味付を行う分析的研究において有用であるばかりではなく、個々の研究を相互に体系付けて、共通の土俵で議論を行う上で大きな役割を果たすものと主張している。

 以上、要するに本論文は、人間-環境系における総合的な評価問題において、巨大なブラックボックスの内部構造を同定する場合にその規範となる総括的な環境認知モデルを提示し、いくつかのケーススタディによってモデルの有効性を検証し、評価プロセスにおける選択、意識、感情などの意味付において新しい有用な知見を提供している。しかしながら、本研究の主眼はモデルの個々の事例への適用にあるのではなく、個々の研究を環境認知モデルという共通のフレームに位置づけることによって、相互理解を深め、より包括的な高次の評価システムを構築し、人間-環境系のあるべき姿を探っていくための基盤提供にあるといえる。この意味で、成熟度は低いが、今後の環境工学の研究に多面的に寄与するところが大きいと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54509