我国では最近、温熱環境を形成する各種要因の中でも、気流が人体の温熱感覚に与える影響に対する関心が高まりつつあり、夏季における快適空調に風速の変動を積極的に活用しようとする動向が見られ、家電製品として製品化が実現した例もある。これらの製品は、「風のゆらぎ」といった言葉に象徴される、風速が変動すること自体による「積極的な」快適感を期待した商品である。しかし、風速の変動性状がもたらす「積極的な」快適感は、あくまで、「暑い」「寒い」といったレベルでの熱的快適性を満たした上で初めてその効力を発揮するものであると考えられる。 その一方で、風速の変動が人体に及ぼす影響については、変動性状自体の快適性はおろか、熱的快適性についても未だ明確にされていない点が多い。現在一般的に用いられることの多くなったPMV(予測申告平均)やET*(新有効温度)といった指標は、あくまで定常かつ均一な温熱環境を想定したものであり、風速の変動を伴う非定常な環境を評価するには不十分である。また、海外や国内において、風速の変動が温熱感覚に及ぼす影響について検討した例は見られるものの、その多くは風速変動の一部の特徴を取り出してその影響を定性的に把握するに留まっており、風速の変動が本来持つ周期性や経時変化特性などの時間的要因を含めて評価するまでには至っていないのが現状である。風速が変動する場合、それに伴い人体側にも生理・心理反応の変動がみられ、風速変動が人体に及ぼす影響について把握するためには、環境側・人体側双方の時間的要因を考慮した時系列解析が必要であると考えられる。 本論文は以上の点に着目し、夏季の温熱環境に重点を置き、変動風発生装置を用いて気流を被験者に暴露する実験の結果から、風速の変動と人体の生理反応との関係、およびこの生理反応と心理反応との関係について、時間的要因を考慮して定量的に明らかにし、これらを統合することにより、風速変動に対する心理量応答の予測方法を提案したものである。 本論文では、生理量として主に皮膚の表面温度をとりあげた。これは、被験者実験により比較的容易に測定することが可能であること、皮膚表面には人間の温熱感覚の主要なセンサーである温度受容器が分布していること、人体-環境間の熱収支において皮膚表面からの熱の出入りが寄与する度合いが大きいこと、また、人体の温熱感覚と皮膚温との関係の強さについては過去の研究においても多く指摘されていることなどを考慮したものである。 本論文は、以下の7章により構成されている。 第1章は序論であり、本研究の背景と目的について述べるとともに、風速の変動を温熱感研究の立場から検討した既往の研究について整理することにより、本研究の位置づけを明確にした。 第2章では、本論文で解析を行う主要なデータを得ることを目的として行った被験者実験について、用いた変動風発生装置などの実験装置、実験条件、実験方法等を説明している。 変動風発生装置については、その構成や制御方法、性能について解説し、被験者の前方から全身にほぼ均一な風速が暴露されることを示した。環境条件としては、夏季を想定した気温28℃における実験を中心に行った。主要な測定データとしては、生理量として皮膚温をHardy&DuBoisの7点法に基づく7つの部位(手甲・前腕・前額・腹部・上腿・下腿・足甲)で、また、心理量として温冷感・快適感申告を全身に対する感覚として測定した。被験者に暴露する風速の変動性状の種類としては、風速の経時変化がステップ状となるものを中心に、SIN波型の経時変化をもつもの、また、様々な周波数の変動を含むものとして、自然気流の風速経時変化を模擬した風速変動の、計3タイプについて扱った。 第3章では、第2章で示した被験者実験で得られたデータを整理し、次章以降の検討へとつなげている。 まず、ステップ状の経時変化をもつ風速変動を暴露した場合の皮膚温の応答は指数関数の形状となること、また、風速のステップ変動幅が大きくなるほどそれに対する皮膚温応答の変動幅も大きくなることから、皮膚温のインパルス応答の畳み込み積分により、任意の風速変動に対する皮膚温応答の予測が可能と考えられることを示し、第4章ではこの予測計算方法について検討することとしている。また、皮膚温がほぼ定常となっている場合には、人体各部位の皮膚温と温冷感申告値との間に高い相関があることを明らかにし、第5章では、皮膚温と心理量との対応関係について検討することとしている。 第4章では、風速に対する皮膚温のステップ応答の微分をインパルス応答とみなし、これを任意の風速変動に対して畳み込み積分することにより、皮膚温の応答を予測する方法について検討している。 まず、人体の皮膚表面における熱収支モデルを構築し、このモデルと、ステップ状に風速を変化させた場合の皮膚温応答の測定値から、皮膚温のステップ応答を指数関数であらわした。また、このステップ応答関数の微分を皮膚温のインパルス応答とし、被験者実験で実際に暴露したSIN波型・自然気流型の風速変動に対して、畳み込み積分による予測計算を行い、測定値との対応をみた。これらの検討過程においては、被験者実験の測定結果に加え、サーマルマネキンを用いた風速暴露実験の測定結果からも検討を行っており、皮膚温のステップ応答関数の指数項を1項から2項に増すことにより、予測精度が飛躍的に向上することを示している。 第5章では、皮膚温変動と、それに対応する心理量との関係を明確にする方法について、様々な視点から分析を行っている。 まず、皮膚温が定常となっている場合における人体各部位の皮膚温と全身温冷感申告値との相関係数を求め、これを重み係数とした平均皮膚温の算出方法を提案している。この算出方法を用いることにより、従来から用いられているHardy&DuBoisの7点法による場合よりも、平均皮膚温と温冷感申告値との相関が格段に高くなる場合があることを示した。次に、新たに提案した平均皮膚温と温冷感・快適感申告値との対応関係について検討を行い、風速の変動により皮膚温が非定常となっている際には、同じ平均皮膚温に対応する温冷感・快適感申告値に大きく差が生じる場合があることから、平均皮膚温の絶対値のみを用いて心理量との対応付けを行うことは不可能であること、絶対値に加えて皮膚温変動の変化率をあわせて用いることにより、平均皮膚温と心理量との関係を明確に表現できることを示した。これらの検討過程において、定常風を暴露した場合に「ちょうどよい」と感じる風速が高い被験者と低い被験者では、皮膚温と快適感申告値との対応関係に違いがみられることも明らかになった。また、温冷感・快適感申告値相互の関係について検討し、風速の変動により皮膚温が非定常となっている際には、温冷感申告値と快適感申告値との対応が一意に定まらない場合があるため、人体の温熱感覚の評価に際しては、この2つをあわせた評価が必要であることを示し、温冷感・快適感申告値をあわせて「寒・暑・涼・暖」の温熱感覚に対応させ、平均皮膚温の絶対値・変化率とこれらの感覚との対応関係を示した。 第6章では、第4章・第5章での検討結果を発展させ、風速変動に対する皮膚温応答の予測方法、および皮膚温変動に対する心理量応答の予測方法の定量化・標準化を行い、これら2つを統合することにより、「標準的な人間」の、任意の風速変動に対する心理量変動の予測方法を提案している。また、この予測方法を第2章で示した被験者実験に対して用いることにより、予測式の検証を行うとともに適用範囲について検討した。気温28℃においては、定量的にも良好な結果が得られており、本論文で提案した温熱環境評価方法が有効であることを示すことができたと考える。 第7章では、まとめとして、本論文における検討で得られた結論や成果の総括を行うとともに、今後の課題について述べている。 以上のように、本論文は、従来定性的に扱われてきた、変動を伴う非定常な温熱環境と人体の生理・心理反応との関係を定量的に検討するとともに、変動する温熱環境に対する心理量変動の予測方法を提案したものである。本論文における検討は、温熱環境を構成する各種要因のうち、気流のみを扱ったものであるが、気温・放射・湿度など他の温熱環境要素に対して応用することも期待でき、今後より広範囲の温熱環境評価について研究を進めていく上でも、意義のある研究であると考える。 |