日本の茶室は、空間の理解と利用の両方の意味において、優れた現象学的空間である。本研究は、こうした視点から茶室空間をケーススタディとして、建築空間における視覚的体験のシミュレーション・モデルの開発を試みるものである。 分析の方法は、画像解析のモデルを採用し、ケーススタディとして20の茶室から抽出した60のデジタル画像のデータベースに適用するもので、筆者がこれまで行った茶室に関する研究手法を展開して、「記号場Semiotic field」なる概念によってモデルを論理学的に解明している。 本論文は、序文、第1章から第4章及び結論で構成されている。 序文では、今日の建築空間の記述が、数学的あるいは物理学的な記述に依存していること、また空間の意味に関しては概念的あるいは構造論的な記述に依拠しており、実際の空間体験の記述とは隔たりがあることを確認している。そして茶室の分析と体系化を図ろうをするならば、空間体験に即した新しい空間の記述法に依らなくてはならないとして、論文の目標を明示している。 第1章では、まず60の茶室に対する広範な現地調査を行い、7人の茶匠(武野紹鴎、千利休、千少庵、千宗旦、織田有楽、吉田織部、小堀遠州)の作品におけるデザイン言語を分析し、茶室のスタイルの変化について研究を行った。茶室のスタイルは、形態言語を生成する働きをもつ「シェイプグラマーShape grammar」によって決定されており、スタイルの変化は「シェイプグラマー」の変化または変形によって決定されている。従って異なるデザイン様式は、それらを生成するデザイン文法の間接的な比較によって検討が可能である。 さらに認知的空間の定義と空間記述の問題について言及する。我々も知っているように、現実の多くは、神経系統によって内面的に構築されるモデルである。また環境の基本的な物理的特性は、空間の構造よりも我々の脳の構造がより反映していると考えられている。これは全く新しい概念というわけではなく、既に19世紀末には芸術理論家達によって提示されていることである。しかしながら、認知科学の発展、特に形と形態の知覚の方法についての知識の進歩によって、視覚認知、脳内の空間の提唱、そしてそれらのコンピューターシュミレーションなどは、今後、建築の形態に対して重要な影響を持つことになると考えられる。 空間は極めて広い概念で、異なる意味を表し、それぞれ違った文脈で使われる。 ・物理的空間-具体的な物理的空間は、人間の活動が展開する「現実」の空間である。「現実」の空間は三次元で実際に場所を占めて存在しており、物としての計量が可能な空間である。 ・数学的空間-抽象的な数学的空間は、ある公理に従った任意の要素から成る。 ・心理的空間-心理的空間は、認知した結果形成される物理的空間のモデルである。心理的空間は物理的空間の個性と認知の特性の双方によって決定される。 認知空間の記述は、これら全ての空間概念を踏まえて考察されるべきで、人間が知覚し、形成するのと極めて近い物理的空間のモデルが必要とされるが、同時に、抽象的な数学体系を用いても形式化することができる。 以上のとおり、本章では形態文法に依拠した茶室の体系的記述の見通しが立つものの、優れて現象学的な建築としての茶室についての記述には、認知科学的記述が要請されていることを確認した。 第2章では、第1章で述べた空間体験の記述方法に関して、計算機を活用した認知科学が今日いかなる方法を持ちえてるかを概括している。特に画像理解のシステム、「目的を持った視覚Goal-directed vision」について述べる。本研究で採用する「目的を持った視覚」は、理論的には再構成論者のビジョンの対極に位置するものである。2次元データを3次元の空間上の記述へ変換する画像理解システムの目的は、Marrとコンピュタービジョンの再構成論者派の理論の影響を受けており、認識は、幾何学とパースペクティブな投影を変換することにより2次元の画像から3次元のシーンの幾何体系へ再構築する過程であると唱えている。記号認識はそれに続く2番目のプロセスであり、幾何学的な再構築に依存している。 しかしながらコンピュタービジョンには別の定義があり、その目的は、同時に複数の特別な目的を適応することにより、行動を可能にすることである。ビジョンシステムは、見ている世界や特徴を再構築し、目的を達成するための情報を与える基本単位の集合ではなく、個人(あるいは集団)が視覚的な課題-決められた対象物の認識-を解決するプロセスの集合であると考えられている。 第3章では、第2章で述べたシミュレーションモデルの一端として、計算機上で茶室の写真から、自動的に茶室を構成する主要な要素すなわち記号を抽出する実験を行っている。具体的には、茶室の画像データベースを解析するためのビジョンモジュールをコンピューター上でKBVisionTMのシステムルーチンライブラリとプログラム環境を使用して実行した。分析目的は、茶室の画像からあらかじめ定義された6つの茶室の構成要素(窓、壁、柱、床、戸、天井)をコンピューター上で認識することにある。この画像理解のプロセスは3つの段階に分けられる。 1.初めに、(茶室の写真をスキャナーで読み込みデジタル画像に変換する。)茶室の画像に対し、画像データの画素を画素集合で表現された記述子へ変換するセグメンテーションsegmentationの処理を行う。これらの記述子は、トークンと呼ばれ、線、領域、多角形、点といった数多くの線画の形状を取る。これらのトークンは、リレーショナルデータベースに保存される。画像のセグメンテーションはデータに大きく依存しているため、様々なアルゴリズムを試行したが、最終的にKohlerによって提唱されたThreshold by Maximum Contrastセグメンテーション・アルゴリズムを採用した。 2.次にトークンの属性(あるいは特徴とも呼ばれる)を計算し、リレーショナルデータベースに保存する。新しい特徴及び新しいフィールドは自動的にデータベス上の各記録(トークン)に付加されていく。これらの特徴は、次に画像の構成の認識や近似、サブパートなどといった画像上の関係性や文脈に関する情報にアクセスするのに役立ち、特徴グループには色ベース、テクスチュアベース、形状ベース、空間ベースの4つがある。 3.制約条件constraintsと呼ばれる識別関数は、特徴から属性を抽出し、ある対象がそこに存在する確率を出力するものとしてつくられている。制約条件には数多くの種類が存在する。「表示制約条件」は、トークンの特徴値を数学的に結合する関数である。また「単純制約条件」は、トークンの特徴値を制約条件スコア上にマッピングする断片的で線的な関数である。「複合制約条件」は、他の制約条件関数から得られた結果を結合する機能を持っている。 第4章では、第3章で行った実験的なシミュレーションモデルの一端をふまえて、空間体験の理論的なモデルについて考察している。具体的にはメモリーシステム及びスパーシャルシステムについて言及するものであるが、初めにフレーム理論に基づいたメモリーシステムについての分析を行った。ミンスキーによって提唱されたフレーム理論の形式は、タイプと事例を決定するのに一般的で適応性を持った手法である。フレームは、幾つかのスロットとそのスロットの定義から構成されている。各スロットは書き込むことも書き込まずにおくこともできる。また書き込む場合、その中は、実際の値、初期値、何らかの値を算出する手続き、別のフレームの四者何れかであることができる。ここでの目的は茶室における原型と階層の構造を特定することにある。 次に、同じくミンスキーによって開発されたピクチャーフレーム(以下p-frame)についてアレイ理論を用いて分析を行った。p-frameは、空間的な情報の記述に適したフレームの一つである。アレイ理論は、矩形のネストデータについての理論である。一つの格子は、多方向に沿って配置されたゼロもしくは数多くのアイテムから構成されており、矩形配置は、格子の集合において他との空間的な位置関係を持つ考え方である。空間モデルの表現は、格子の空間的な階層を包含している。そこの記号と構造は、対象領域における存在とそれらの相互の位置関係を示す。空間的な位置関係を表示するために、記号は幾つかの格子のセルに書き込まれる。このような矩形とネスト状のp-frameは茶室の空間配置の記述に適したものであると言えよう。 以上、p-frameの操作と変換の手続きの二つのシステムについて述べた。シェイプグラマーのように規則に基づいたシステムでは、表現上の構文構造を操作する規則に適用して分析される。しかしながら本研究で提案する空間についての推論の手法は、意味論あるいは記述法と対象の領域間のマッピングに依拠しており、分析結果は、実際の適切な空間的な関係に対応した関数を適用することで得られる。このようにp-frameに基づく推論は類推に限定された形式と考えられ、p-frameに関する研究によって明らかにされたものに限定される。またこのシステムは、不確定もしくは不完全な情報から得られる可能世界についての記述に有効であると考えられる。最終的に記号場における様相論理は以下のように表される。 ・記述可能な世界は実体間の関係が明白なもの。「実在する茶室」 ・関係を示す不確定な世界は、選択的な可能世界を意味するであろう。「可能茶室」 最終章の結論では、茶室を対象とした研究が、本論文によって一般的な空間体験の記述に展開されたところを要約している。 |