学位論文要旨



No 111760
著者(漢字) 秋田,剛
著者(英字)
著者(カナ) アキタ,タケシ
標題(和) 誘発電位を手掛りとした視聴覚情報の知覚に関する研究
標題(洋)
報告番号 111760
報告番号 甲11760
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3558号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安岡,正人
 東京大学 教授 松尾,陽
 東京大学 教授 高橋,鷹志
 東京大学 教授 橘,秀樹
 東京大学 助教授 平手,小太郎
内容要旨

 本研究論文では、生体を感覚情報処理システムとして捉え、従来の環境心理学で行われてきた、情報処理システムの内部をブラックボックスとして、入力に対する出力を主観申告として取り出し、環境と人間の関係について考察するという手法にとどまらず、感覚情報処理システムの中心的役割を果たす中枢神経系、特に大脳における感覚情報処理を直接的に捉えることを可能とする生体情報である、誘発電位の計測と解析を通じて、感覚情報処理の視点から、一般的建築環境(視環境・音環境)において人間が視覚情報・聴覚情報を如何に知覚しているか、という問題について知見を得ることを一貫して行った。

 第1章「序論」では、まず、大脳における感覚情報処理の視点から、視覚情報・聴覚情報の知覚に関して知見を得ることを通じて、視環境・音環境と人間の関係について考察する、という本研究の方針を説明した。また、既往研究の概観から、建築環境学において本研究のような視点・手法に立脚した既往研究が数少ないことを示すと同時に、神経科学・認知科学の分野において、誘発電位計測・解析の手法を使って既に数多く得られている大脳の視覚・聴覚のメカニズムに関する知見を、そのまま建築環境学へフィードバックするのではなく、一般建築環境にあり得る状況のもとての視覚・聴覚の情報処理について知見を得る段階を経て、それらの知識をよりよい環境の創造のために応用していく必要があることを論じた。

 第2章「生体の感覚情報処理と誘発電位」では、まず、生体を感覚情報処理システムと捉える考え方を導入し、今までの環境心理生理学がブラックボックスとしてきた、システムの情報処理過程自体を直接的に捉えることが誘発電位計測・解析により可能であること、そのような手法により、環境と人間の関係を新たな視点から解明することが可能であることを解説した。また、中枢神経系(特に大脳)から得られる生体情報である脳波と誘発電位の発生メカニズム、計測方法とその問題点について、既往文献を中心にまとめ、誘発電位の計測・解析によって、感覚情報処理システムの中核である大脳における情報処理反応速度・処理反応量(知覚反応速度・反応量に対応)に関して、知見を得ることができることを示した。その上で、この手法を用いることにより、特別に被験者の注意をある対象となる感覚情報に向けることなく、その感覚情報に対する反応・情報処理に関して知見を得ることが可能であることを指摘し、本研究で誘発電位計測・解析の手法により、注意がある特定の感覚情報に向いていない場合にその感覚情報が如何に処理されるか、という点や、知覚反応の継時変化、視覚・聴覚の相互干渉、複合的知覚の問題について、知見を得ることを試みることを解説した。

 第3章「聴覚情報の知覚に関する実験」では、聴覚情報の知覚に関して、一連の誘発電位計測実験を行った。実験1では、聴覚情報の物理量が聴覚情報処理に及ぼす基礎的な影響について調べる実験を行った。その結果、聴覚誘発電位計測・解析の手法は、聴覚情報の音程の高さに関連した情報処理よりも、聴覚情報の強さに関連した聴覚情報処理について、より多くの知見をもたらすことが示された。

 実験2及び3では、聴覚情報に対して注意が向いていない場合の聴覚情報処理、聴覚情報とは無関係な作業を行っている際の聴覚情報処理に関する実験を行った。その結果、聴覚情報に対して注意が向いており且つその出現が予期可能である場合、聴覚情報処理の速度は速くなること、聴覚情報に対して注意を向けているものの、その出現を予期できない場合には、必然的に聴覚情報処理も受動的なものとならざるを得ず、結果的に聴覚情報処理速度は注意が向いていない場合と変わらないこと、情報処理反応量には注意の向きの違いだけで大きな差が出ること、特に入力される聴覚情報に対して注意が向いていない場合には、50dBA以下の聴覚情報は、生体にとってより小さな知覚反応を起こす対象として見なされ、その一方で70dBA程度の大きさを持った聴覚情報は、注意を向けている場合も向けていない場合も同等に大きな知覚反応を起こす対象として処理されていること、が明らかとなった。

 また、聴覚情報の知覚に対する馴れの影響に関して行った解析の結果、呈示される聴覚情報を普通に聴取しているだけの条件においては、50dBA以上の聴覚情報の知覚に、時間経過に伴った馴れの影響が見られ、暗算作業の負荷によって聴覚情報に注意が向いていない場合の知覚においては、70dBAの聴覚情報に対してのみ馴れの影響が見られた。これらの結果により、作業負荷の条件によって、順応を起こすべき聴覚情報、あるいは、暗騒音の30dBAから明確に分離して知覚される聴覚情報の音圧レベルの境界値が、50dBAから70dBAにシフトすることが明らかとなった。

 第4章「視覚情報の知覚に関する実験」では、視覚情報の知覚に関して、一連の誘発電位計測実験を行った。実験4では、視覚情報の物理量(強度)と視線の向きが視覚情報処理に及ぼす基礎的な影響に関して調べる実験を行った。その結果、視覚誘発電位計測・解析の手法が聴覚誘発電位の場合と同様に、視覚情報の強さに関連した視覚情報処理について、多くの知見をもたらすことが示された。また、中心視野入力の視覚情報処理は、周辺視野入力の視覚情報処理よりも大きな情報処理反応を引き起こすことが明らかとなった。

 実験5では、聴覚情報の入力に基づく作業を、視覚情報処理時に負荷することにより、視覚情報以外に注意を向けた条件下で如何に視覚情報処理が行われるか、という点に関して知見を得ることを行った。その結果、たとえ中心視野に視覚刺激が呈示されていても、聴覚作業負荷により視覚情報以外に注意が向いている場合には、視覚情報処理の反応量が有意に小さくなることが示された。このことは、網膜上の物理的性質が同じ領域に同じ強度の視覚刺激が入力されても、注意が視覚情報に向いていなければ、そのような視覚情報はより小さな知覚反応の対象にしかならないことを意味している。実験4,5の総合的な考察により、視覚情報処理による知覚反応には、対象となる視覚情報に対する注意の向きが大きく寄与しており、一般的には、中心視野で視覚対象を捉えることは注意が対象に向いていることを意味し、周辺視野に対象となる視覚情報が入力される場合に比べて、より大きな知覚反応が起こるのであるが、たとえ中心視野で視覚情報を捉えていたとしても、それ以外に注意が向いている場合には、その視覚情報が周辺視野に入力されている場合と同様に、より小さな知覚反応しか生じない、ということが明らかとなった。

 また、視覚情報の知覚に対する馴れの影響に関して解析を行った結果、視覚情報処理においては顕著な馴れの効果が見られないことが明らかとなった。しかし、この解析にあたって用いた、視覚誘発電位の馴れに関する解析の手法は、十分に高い時間分解能を実現できていない可能性が否めず、より高い時間分解能を実現する解析手法を開発した上で、再度解析を試みる必要性が示唆された。

 第5章「視聴覚複合情報の知覚について」では、視覚情報と聴覚情報が同時的に生体に入力される際の視聴覚情報処理に関して、そのような状況下で生ずる視聴覚誘発電位を計測する実験(実験6)を行った。その結果、視聴覚誘発電位の波形が、単独の視覚誘発電位・聴覚誘発電位の足し合わせによって人工的に作られる波形と、ほぼ同じ波形となることが示された。これにより、誘発電位の後期成分に対応した高次の認知機能に関連した情報処理に至るまで、視覚情報と聴覚情報が基本的に独立して処理されていること、それらの同時並列的情報処理には再現性があること、が明らかとなった。

 また、今後、誘発電位計測・解析の手法を応用して、視聴覚複合情報の知覚の問題に関して、どのような研究のアプローチが可能であるか、という点に関してまとめ、実験6で行った視聴覚情報の同時的知覚に関する問題点の解明、感覚情報処理における感覚情報の優位性・感覚情報の分離の問題、異種感覚情報処理間の干渉・相互作用の問題、等にこの手法が応用可能であることを述べた。

 第6章「結論」では、以上に示したような、大脳における感覚情報処理を直接的に捉えることを可能とする誘発電位の計測と解析を通じて、感覚情報処理の視点で環境と人間の関係にアプローチを試みた結果から得られた知見についてまとめ、且つ本手法の有効性を示した。また、第3章から第5章までに得られた知見をもとに、一般建築環境下での、中枢神経系における視覚情報・聴覚情報の情報処理モデルを、情報処理速度に関するモデルと情報処理反応量に関するモデルについて考案し、本研究のまとめとした。

審査要旨

 本論文は「誘発電位を手掛りとした視聴覚情報の知覚に関する研究」と題し、大脳における感覚情報処理過程を、生体情報としての誘発電位を計測・解析することによって、意識下のレベルまで捉えて環境刺激と生体反応の関係を明らかにし、環境制御に資することを意図したものであり、序論と本文4章及び結論より構成されている。

 第1章序論では、本研究の目的、方針、構成を述べた後、既往の研究を概観して、神経科学・認知科学の分野における誘発電位に関する研究は比較的多くあるが、主として感覚情報処理機構の解明に力点がおかれ、建築環境工学的立場から環境評価につながるような研究の少ないことに問題意識をもって本研究を進めた経緯にふれている。

 第2章では、生体の感覚情報処理と誘発電位に関し、環境-人間系に対するシステム論的アプローチから論じている。すなわち、中枢神経系から得られる生体情報である脳波と誘発電位の発生メカニズムや計測・解析方法に関する既往研究から、知覚の反応速度・反応量に対する有用な情報を誘発電位から得られることを示し、この手法を用いることによって、感覚刺激入力に対して注意が向いていない場合や、入力に対する生理・心理的反応を意識していない場合についても、その内部応答を抽出できる可能性のあることに着目し、複合刺激の相互作用や教示等の外的制御の効果まで幅広く研究対象とすることを述べている。

 第3章では、単一の聴覚情報の知覚に関する実験を行い、様々な基礎的知見を得ている。

 実験1では、音の高さと強さが誘発電位に及ぼす影響を調査し、強さの影響が大きいことを定量的に確認している。

 実験2、3では、聴覚情報に対して注意が向いているかどうかの影響を調査し、反応速度については、注意が向いていてその出現が予測できる場合に速くなること、予測できない場合には注意が向いていない場合と変わらないこと、また反応量については、注意が向いていると格段に大きくなること、いない場合50dBA以下の弱い刺激では抑制的な反応となり、70dBA以上の強い刺激ではどちらでも変わらないことを把握している。

 また、馴れの影響についても注意が向いているかどうかでその発現レベルが異なり、向いている場合は50dBA以上、いない場合は70dBAになるとしている。

 第4章では、単一の視覚情報の知覚に関する実験を行い、いくつかの基礎的知見を得ている。

 実験4では、光刺激の強さと視線の向きが誘発電位に及ぼす影響を調査し、刺激の強さが反応量と速さに影響を与え、中心視野での入力刺激が周辺視野でのそれより大きいことを把握している。

 実験5では、実験2、3とは逆に音情報による作業負荷を与えて、視覚情報に注意が向いているかどうかの影響を調査し、中心視野に光刺激が与えられている場合でも、注意が向いていないと周辺視野の場合と同様に反応が弱くなることを確認している。

 第5章では、視・聴覚複合情報の知覚に関する実験を行い、光刺激と音刺激の相互作用についての知見を得ている。

 実験6では、両刺激を同時に呈示した場合、誘発電位の波形がそれぞれの単独呈示波形の和になることが確認され、個々の感覚器官の処理過程ばかりでなく、高次・後期の大脳における処理までパラレルに行われているとしている点は興味ある指摘である。

 環境刺激に対する人間の知覚反応を、刺激の強度や質の違い、あるいは複合化の問題、また人間の受容態度や内部状態の問題など、様々な条件に対する情報処理モデルを想定した上で、誘発電位を手掛りとした解析手法が何をどこまで解明できるかについて体系的に論述し、本研究の位置付けを行い、今後の展望を行っている点は、この種の研究に資する処大である。

 第6章では、本研究で得られた知見をまとめて総括し、建築環境下における人体の情報処理過程に対して、情報処理速度モデルと情報処理反応量モデルを独自に提示している。このモデルの妥当性は今後の検証に矣つ処が多いが示唆に富むものである。

 以上要するに、本論文は環境情報の知覚問題に関して、誘発電位を手掛りとして体系的に取り組んだ建築環境工学分野における先導的研究といえる。現段階でも注意の向きの問題や複合作用などに関する新知見は環境制御への適用が十分可能であり、今後より多くの環境要素に関する総合的な知見が得られる途を拓いた点が高く評価される。

 よって博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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