本研究論文では、生体を感覚情報処理システムとして捉え、従来の環境心理学で行われてきた、情報処理システムの内部をブラックボックスとして、入力に対する出力を主観申告として取り出し、環境と人間の関係について考察するという手法にとどまらず、感覚情報処理システムの中心的役割を果たす中枢神経系、特に大脳における感覚情報処理を直接的に捉えることを可能とする生体情報である、誘発電位の計測と解析を通じて、感覚情報処理の視点から、一般的建築環境(視環境・音環境)において人間が視覚情報・聴覚情報を如何に知覚しているか、という問題について知見を得ることを一貫して行った。 第1章「序論」では、まず、大脳における感覚情報処理の視点から、視覚情報・聴覚情報の知覚に関して知見を得ることを通じて、視環境・音環境と人間の関係について考察する、という本研究の方針を説明した。また、既往研究の概観から、建築環境学において本研究のような視点・手法に立脚した既往研究が数少ないことを示すと同時に、神経科学・認知科学の分野において、誘発電位計測・解析の手法を使って既に数多く得られている大脳の視覚・聴覚のメカニズムに関する知見を、そのまま建築環境学へフィードバックするのではなく、一般建築環境にあり得る状況のもとての視覚・聴覚の情報処理について知見を得る段階を経て、それらの知識をよりよい環境の創造のために応用していく必要があることを論じた。 第2章「生体の感覚情報処理と誘発電位」では、まず、生体を感覚情報処理システムと捉える考え方を導入し、今までの環境心理生理学がブラックボックスとしてきた、システムの情報処理過程自体を直接的に捉えることが誘発電位計測・解析により可能であること、そのような手法により、環境と人間の関係を新たな視点から解明することが可能であることを解説した。また、中枢神経系(特に大脳)から得られる生体情報である脳波と誘発電位の発生メカニズム、計測方法とその問題点について、既往文献を中心にまとめ、誘発電位の計測・解析によって、感覚情報処理システムの中核である大脳における情報処理反応速度・処理反応量(知覚反応速度・反応量に対応)に関して、知見を得ることができることを示した。その上で、この手法を用いることにより、特別に被験者の注意をある対象となる感覚情報に向けることなく、その感覚情報に対する反応・情報処理に関して知見を得ることが可能であることを指摘し、本研究で誘発電位計測・解析の手法により、注意がある特定の感覚情報に向いていない場合にその感覚情報が如何に処理されるか、という点や、知覚反応の継時変化、視覚・聴覚の相互干渉、複合的知覚の問題について、知見を得ることを試みることを解説した。 第3章「聴覚情報の知覚に関する実験」では、聴覚情報の知覚に関して、一連の誘発電位計測実験を行った。実験1では、聴覚情報の物理量が聴覚情報処理に及ぼす基礎的な影響について調べる実験を行った。その結果、聴覚誘発電位計測・解析の手法は、聴覚情報の音程の高さに関連した情報処理よりも、聴覚情報の強さに関連した聴覚情報処理について、より多くの知見をもたらすことが示された。 実験2及び3では、聴覚情報に対して注意が向いていない場合の聴覚情報処理、聴覚情報とは無関係な作業を行っている際の聴覚情報処理に関する実験を行った。その結果、聴覚情報に対して注意が向いており且つその出現が予期可能である場合、聴覚情報処理の速度は速くなること、聴覚情報に対して注意を向けているものの、その出現を予期できない場合には、必然的に聴覚情報処理も受動的なものとならざるを得ず、結果的に聴覚情報処理速度は注意が向いていない場合と変わらないこと、情報処理反応量には注意の向きの違いだけで大きな差が出ること、特に入力される聴覚情報に対して注意が向いていない場合には、50dBA以下の聴覚情報は、生体にとってより小さな知覚反応を起こす対象として見なされ、その一方で70dBA程度の大きさを持った聴覚情報は、注意を向けている場合も向けていない場合も同等に大きな知覚反応を起こす対象として処理されていること、が明らかとなった。 また、聴覚情報の知覚に対する馴れの影響に関して行った解析の結果、呈示される聴覚情報を普通に聴取しているだけの条件においては、50dBA以上の聴覚情報の知覚に、時間経過に伴った馴れの影響が見られ、暗算作業の負荷によって聴覚情報に注意が向いていない場合の知覚においては、70dBAの聴覚情報に対してのみ馴れの影響が見られた。これらの結果により、作業負荷の条件によって、順応を起こすべき聴覚情報、あるいは、暗騒音の30dBAから明確に分離して知覚される聴覚情報の音圧レベルの境界値が、50dBAから70dBAにシフトすることが明らかとなった。 第4章「視覚情報の知覚に関する実験」では、視覚情報の知覚に関して、一連の誘発電位計測実験を行った。実験4では、視覚情報の物理量(強度)と視線の向きが視覚情報処理に及ぼす基礎的な影響に関して調べる実験を行った。その結果、視覚誘発電位計測・解析の手法が聴覚誘発電位の場合と同様に、視覚情報の強さに関連した視覚情報処理について、多くの知見をもたらすことが示された。また、中心視野入力の視覚情報処理は、周辺視野入力の視覚情報処理よりも大きな情報処理反応を引き起こすことが明らかとなった。 実験5では、聴覚情報の入力に基づく作業を、視覚情報処理時に負荷することにより、視覚情報以外に注意を向けた条件下で如何に視覚情報処理が行われるか、という点に関して知見を得ることを行った。その結果、たとえ中心視野に視覚刺激が呈示されていても、聴覚作業負荷により視覚情報以外に注意が向いている場合には、視覚情報処理の反応量が有意に小さくなることが示された。このことは、網膜上の物理的性質が同じ領域に同じ強度の視覚刺激が入力されても、注意が視覚情報に向いていなければ、そのような視覚情報はより小さな知覚反応の対象にしかならないことを意味している。実験4,5の総合的な考察により、視覚情報処理による知覚反応には、対象となる視覚情報に対する注意の向きが大きく寄与しており、一般的には、中心視野で視覚対象を捉えることは注意が対象に向いていることを意味し、周辺視野に対象となる視覚情報が入力される場合に比べて、より大きな知覚反応が起こるのであるが、たとえ中心視野で視覚情報を捉えていたとしても、それ以外に注意が向いている場合には、その視覚情報が周辺視野に入力されている場合と同様に、より小さな知覚反応しか生じない、ということが明らかとなった。 また、視覚情報の知覚に対する馴れの影響に関して解析を行った結果、視覚情報処理においては顕著な馴れの効果が見られないことが明らかとなった。しかし、この解析にあたって用いた、視覚誘発電位の馴れに関する解析の手法は、十分に高い時間分解能を実現できていない可能性が否めず、より高い時間分解能を実現する解析手法を開発した上で、再度解析を試みる必要性が示唆された。 第5章「視聴覚複合情報の知覚について」では、視覚情報と聴覚情報が同時的に生体に入力される際の視聴覚情報処理に関して、そのような状況下で生ずる視聴覚誘発電位を計測する実験(実験6)を行った。その結果、視聴覚誘発電位の波形が、単独の視覚誘発電位・聴覚誘発電位の足し合わせによって人工的に作られる波形と、ほぼ同じ波形となることが示された。これにより、誘発電位の後期成分に対応した高次の認知機能に関連した情報処理に至るまで、視覚情報と聴覚情報が基本的に独立して処理されていること、それらの同時並列的情報処理には再現性があること、が明らかとなった。 また、今後、誘発電位計測・解析の手法を応用して、視聴覚複合情報の知覚の問題に関して、どのような研究のアプローチが可能であるか、という点に関してまとめ、実験6で行った視聴覚情報の同時的知覚に関する問題点の解明、感覚情報処理における感覚情報の優位性・感覚情報の分離の問題、異種感覚情報処理間の干渉・相互作用の問題、等にこの手法が応用可能であることを述べた。 第6章「結論」では、以上に示したような、大脳における感覚情報処理を直接的に捉えることを可能とする誘発電位の計測と解析を通じて、感覚情報処理の視点で環境と人間の関係にアプローチを試みた結果から得られた知見についてまとめ、且つ本手法の有効性を示した。また、第3章から第5章までに得られた知見をもとに、一般建築環境下での、中枢神経系における視覚情報・聴覚情報の情報処理モデルを、情報処理速度に関するモデルと情報処理反応量に関するモデルについて考案し、本研究のまとめとした。 |