近年、がん医療の分野に患者のQuality Of Lifeを向上させる医学的、社会心理学的、行動科学的領域を包含する緩和ケア(Palliative Care)という領域が登場した。そして、このような緩和ケアを実践する場として緩和ケア医療施設が求められるようになってきた。日本では1989年の「末期医療に関する検討会報告」を受けて、1990年に厚生省の認可を受けた緩和ケア病棟が誕生した。今後、施設数の増加が予測されている。 本論文は、緩和ケア医療施設が成立してきた今日的背景と日本の中での位置づけについて明らかにし、日本の緩和ケア医療施設の利用実態を把握し、さらには、緩和ケア医療施設における患者とその家族の生活を多元的な方法を用いてより実証的にとらえ、今後の施設のあり方について考究するものである。 本論文は序章と終章を含む合計7章の部分より構成される。 序章では本論文の目的および方法について述べている。ここでは、著者がこれまで行ってきた研究成果を踏まえ、従来の施設管理者の意見聴取を中心とした研究方法からは、患者と家族の生活の実態像を把握することは難しく、そのためにはより詳細で具体的な調査方法による調査の必要性があることを述べている。 第1章では、キリスト教を背景とする「ホスピス」の発展の経緯を歴史的に振り返りながら整理し、さらに、主たる対象疾患である「がん」の特徴について概観し、がん医療における緩和ケアの意味についての基礎的な知見を整理した。ここでは、日本においてホスピスケアと緩和ケアの概念の移入時期が接近していたことなどから、両者の概念が混在して用いられているが、両者はその本質においては差異がなく、両者の本質はその根底にあるQOL尊重の思想をいかに具現化するかであることを述べている。そして、前述のような背景のもとに日本では包括医療の枠を広げた医療サービスの一つとして位置づけられつつあるが、いまだ発展段階にあり今後多様な展開が予測されていることを示した。 第2章では、日本の緩和ケア医療施設の利用実態を概観すると共に、特定の施設に対象を絞り、施設利用者の実態を経年的にかつ詳細に分析し現状の施設利用の実態を捉えている。その結果として、1)患者の平均年齢は男女ともに60代であるが、40代から80代まで幅広い分布を見せている、2)約半数の患者に転移が見られ、中でも身体機能の低下につながる部位への転移が多い、3)自宅からの入院が多く、在宅と一般の医療施設との中間的な役割を担っていることを示した。また、施設利用回数と在院期間を軸に、「死亡直前の短期入院(1カ月以内)」、「症状コントロール目的の短期入院(約1カ月)」、「長期入院(2カ月以上)」の3つの利用形態に分類できることを示した。 以下の第3章、第4章、第5章では、これらの3つの分類に従って前記緩和ケア医療施設における患者とその家族の生活を実証的にとらえた事例的検討の結果を示している。 第3章では、緩和ケア医療施設の「短期的な利用形態」をとる患者と家族の生活を捉えるために、施設環境に対する描写が的確に表現され、かつ生活の変化や心理変化などを綴った闘病記を選定し、そこでの環境描写と実際の施設環境とを比較する考察を行った。患者の身体的状況の経時的変化による環境との関わり方の変化に関する考察や、場面ごとの環境描写に関する分析を行った。患者の身体的な症状の安定期に見られる生活の様態や患者の昏睡期に見られる家族の生活の様態のなかで、患者や家族にとって活用される空間の構成や、生活の展開において刺激を与えたり、施設での生活への適応を促す空間構成について考察した。 第4章では、在宅ケアの専門家に対してヒアリング調査を行い、在宅での緩和ケアの特徴と患者の環境を捉える基本的な視点の整理を行い、それを基に「症状コントロール目的の短期入院」を繰り返しながら療養を続ける患者の生活を継続的に捉えている。在宅での緩和ケアを考えていく上で、単に物的環境だけではなく、人的環境、社会的環境、医療的環境の4つの基本的な視点から捉えていく重要性を述べ、その視点を基に緩和ケア医療施設に対する患者の個別的な位置づけとその変化について考察した。今回の事例検討では、患者にとっての緩和ケア医療施設が短期滞在の場として位置づけから、身体機能の低下と人的環境の崩壊が進む中で、最終的には自らの身体機能を補完する場所としての意味と人的環境の崩壊を別の形で補完する場としての二つの意味をもつものに変容していく過程を示した。また、病気の進行と共に自立度が低下していく中での物的環境への意味付けや働きかけの様態を継続的なヒアリング調査と居室の住まい方や家具などのしつらえ方についての調査をもとに考察した。臥床時間が長くなるにつれて臥床姿勢からの可視領域に自分にとって意味のあるものを配置していることや、それまで馴染んできた物的環境構成要素に対する思いは臥床時の生活の中でも別の形で継続していることを示した。 第5章では、緩和ケア医療施設でのフィールドワーク(参与観察やヒアリング調査等を含む)を通して患者と家族の生活の実態を捉え、その中で「長期入院患者」の施設環境での生活について考察している。今回の調査から長期入院患者は、家庭での介護力の問題や家屋の構造などによって自宅に帰ることが出来ない患者と、症状のコントロールが在宅では難しい患者の2つのタイプに分かれることを示しそれぞれの生活について考察した。前者の場合、身体的には寝たきりの状態で生活行為の大部分に介助を必要とするが、思考や判断は通常と変わらない状態のため、そのような状況を精神的に受けとめていかなければならない。また、後者の場合は、多くの医療機器を伴う処置が必要となるため、ベッド周囲が医療機器により取り囲まれ、身体的にもかなりの自由度が奪われる生活となることを示した。また、入院患者と家族に対するヒアリング調査から、患者と家族の施設生活における基本的なニーズを整理し、参与観察調査から得られた生活場面の分析を通して緩和ケア医療施設での患者と家族の生活と施設環境(諸室及びセッティング)がどのようにかかわっているかについての整理し、施設生活の中で見られる患者や家族の状況(行動・定位要求)に対して有効な環境構成要素を把握することが出来た。 終章では、結語としてこれら5つの章における知見をまとめている。さらに、今後の緩和ケア医療施設のあり方を試論としてまとめ、患者と家族のQOLの具現化のための一助となる「建築的配慮」の重要性を述べた。 |