学位論文要旨



No 111772
著者(漢字) ウィドド,ヨハネス
著者(英字) Widodo Johannes
著者(カナ) ウィドド,ヨハネス
標題(和) 東南アジア沿岸都市の形成史 : 14世紀から20世紀中期まで
標題(洋) THE URBAN HISTORY OF THE SOUTHEAST ASIAN COASTAL CITIES : particularly from the 14th century until mid-20th century
報告番号 111772
報告番号 甲11772
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3570号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 藤井,明
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨 論文の目的と既往の研究

 本論文は東南アジア沿岸部の都市の歴史について、書いたものである。本研究は、主に中国大陸南部の沿岸都市、タイ、マレーシア、インドネシアを対象範囲とし、嘗てのインドと中国間の海洋貿易の交易地を中心に考察する。

 これまで東南アジアの一般的な歴史に関する研究は既に幾多の成果があがっている。しかしながら、こうした研究の殆どは建築史的な見地に因るものではなく、多くは社会科学研究者による社会文化論的な視点によるものである。こうした中で、最初に成された顕著な研究は1960年代のD・G・Eホールによって書かれた東南アジア史であり、東南アジア研究の最も重要な参考書となっている。彼の研究成果の中での既往の研究または研究者の注記に因れば、アンソニー・レイド(1450年から1680年における歴史全般)、ケネス・R・ホール(海洋貿易と国家建設)、D・R・サルデサイ(伝統と現状)、ロバート・R・リード(生来の都市化)、チャン・ツェン・クン等の成果があげられている。

 またその他にも幾多の建築家等の研究があげられる。T.G.マックギーは都市の地理学的な見地からの研究を進めている。泉田英雄は南アジアと東南アジアに於けるコロニアル建築に関する研究で学位を得ており、更に同地での研究を進めている。黄俊銘は東アジア及び東南アジアの中華街の調査、研究を行った。またその他にも幾多の建築家等が都市計画や保存計画の見地から、東南アジア各地で個別の研究を行っている。

 しかしながら、この地域の都市における形態学的な研究や調査はこれまであまりなく、資料も少ないため、本研究では現地でフィールド調査を中心に作業を進めた。調査を行った地域は中国南部(福建省の福州、泉州、厦門)、マレー半島(ペナン、マラッカ)、シンガポール、タイ南部(バタニ、ブケット)、西カリマンタン(ポンティアナ、シンカワンと沿岸部の小村)、ジャワ島北部(バンテン、ジャカルタ、スマラン、ラセム)である。

 私の研究は、東南アジア沿岸部の都市において、その起源から20世紀中頃にかけての期間で、中国人とヨーロッパ人そして現地文明との交錯を調査することによって、都市の形態学上の歴史を現地に密着し、かつ包括的に探ろうとするものであり、こうした研究はおそらく最初の試みであると考える。

中継貿易港と百貨店Entrepot and Emporium

 1世紀から13世紀にかけて、ヒンドゥー教と仏教の影響は、東南アジアの各小王国(扶南、スリヴィジャヤ、ヒンドゥー・マタラン、マジャパヒト)に広く及んでいた。この時代の殆どの都市は、内陸に建設され、海洋へは河川を通って出航していた。そして、この時に小さな港湾がその河口付近にできた。しかし、今日では現存する例もなく、記録も見つかっていない。

 13世紀の終わりには、東南アジアにイスラム教徒が侵入し、14世紀の初頭には中国人が大量に移住を始めた。そして外国の物品同士の交換のみを行う中継貿易港(地元の製品を輸出することなしない)が、東南アジアの各沿岸部に生まれたのであった。マルコ・ボーロの記録によれば、中国人のスマトラ島北部の交易用の仮設居住地は、13世紀の終わりに出現していた。また明朝の鄭和の遠征によって、14世紀の初頭にマラッカにも中国の交易地ができた。こうした例から、これらの交易地は、中国人による倉庫を伴う武装した居留地と宮殿を中心とする現地人の村の二つのタイプが分かれて存在していたことがわかる。そしてこれらは河川によって隔たれており、市場と港湾によって機能的に結ばれていたのであった。

 やがてこうした仮設居住地の幾つかは国際的な交易地へと発展し、中継貿易港が生まれたのであった。ジャワ島ではトゥバン、グレシック、スラバヤ、デマック、ジェパラ、ラセム、スマラン、チレボン、バンテン、スンダ・ケルパがそうであり、マレー半島ではパタニやマラッカがそうであった。

 中継貿易港の建設は、明朝の勢力下に、東南アジア中に広まった。そのため、東南アジアの沿岸都市は、中国南部の港町の都市の基礎形態で築かれることとなった。こうした例は媽祖廟と港湾との位置関係に見ることができる。そしてこの初期の都市構成基盤は、すべての中国人居留地の核となっている。

 東南アジアの中継貿易港の内の幾つかは、後により大きな百貨店へと発展し、それぞれの地の特産品を輸出するようになった。この百貨店は大きな王国や中国人によって支配されていた。アユタヤ(14〜18世紀)やバンテン(16〜18世紀)はその典型的な例といえよう。

 初期の段階の王立の街は、現地貴族とその従者の家々で構成された一つの単位が、いくつも集まったようなものであった。街の城壁は、貴族達の住む狭い範囲だけを守るためにつくられたが、周囲のその他の建物は含まれていなかった。

 ジャワ島では、アルン・アルン(中央広場)とモスク、現地主権者の家、市場とその周囲といった施設は、現地人の街の主要な構成要素であった。こうした都市形態は元々のジャワのヒンズー教徒の街の形態を生かし、イスラム化したものであった。仏教徒の街とイスラム教以外の人々の街の中心にはこうした形態はなく、宮殿と宗教施設の建物群で占められている。

 一般に現地人以外は王家の街の内部に住むことは禁じられていた。そのため、彼らは城郭の外部で、川(交通手段を得るため)と市場に接っしたところに居住区を設けた。こうした居住区で最も古くて大きな街は、中国人によるものであった。中国人居住区は、内部の街に比べ、大抵は非常に稠密な状態であった。

ヨーロッパ人の城塞都市

 東南アジアにおけるヨーロッパ人の植民地建設は、16世紀の初頭に、現地人の街の近くに、小さな石造の要塞を建設することから始められた。それは既に在る街の中で最も戦略上重要な場所で、古い港や市場に近く、河口の適当な場所に建設された。ポルトガル支配下のマラッカ、オランダのバンテンやバタヴィア、スマランといった都市がそうである。砦の中には幾つかの建物がつくられ、住居や軍事施設、倉庫といったものが建てられていた。

 砦の外側には中国人街が栄えており、現地人居住区と隣接していた。中国人は経済の中心的な役割を果たし、彼らはすぐにヨーロッパ人の貿易商人と相互依存関係を築いた。こうした例は16世紀初頭のマラッカに見られ、17世紀初頭のバタヴィアやスマランの例も同様である。17世紀も終わりになると、こうした街の小さな砦は大きな城塞に作り替えられたり拡張工事が行われるようになった。

 城壁の中にはヨーロッパ・スタイルの建設がなされ、教会、広場、行政施設、軍施設、倉庫といったものが建設された。こうした形態は、一見地中海の城塞都市のようにも見えるが、東南アジアの植民地では、より軍備や商業の施設が充実しており、人口密度が低いことが異なっている。

 街の外では、既に在った現地人の街が存続し、商業活動も活発化していた。港湾の機能も向上し、ヨーロッパとの貿易も増えていた。そして中国人はヨーロッパ人と現地人の仲介人としての役を演じていたのであった。

人種ごとの居住区

 19世紀に入り、沿岸都市の役割が軍事的な勢力争いの場から、商業市場へと変わると、要塞はその存在意義を失うことになった。

 ポルトガルとオランダのあと18世紀に東南アジアに渡来したイギリスは、以前に来ていた二国に比べて、この地域では平穏な貿易活動を行っていた。彼らはマラッカの砦を壊し、ペナンとシンガポールを含む地域の行政及び軍事の中心施設を築いた。19世紀になると、ジャワ島での軍事上の支配を必要とする期間は僅かであり、やがてはバタヴィアやスマランのように経済市場へと変貌することこなった。

 経済上の理由で、都市の居住地域ごとの人口を管理しようとする政策は、特に中国人の管理のために行われた。こうした異なる人種ごとに居住地区を分ける政策は、19世紀に東南アジアの植民地の殆どで行われていた。一般に社会構成は、ヨーロッパ人、中国人と他の外国人、現地人の三っの階級に分けられた。また、マレー半島の英国植民地(マラッカ、ペナン、シンガポール)のように、同じ民族中でもそれぞれの歴史起源などの理由で、更に分けられる場合もあった。しかし、それはオランダ支配下のジャワ島北部の沿岸都市(バタヴィア、スマラン)のような、厳格な居住区を設ける政策ではなかった。

 一般には、目に見える形での各居住区を隔てる境界線は存在しなかった。しかしそれでも法定境界線は、中国人街の様に密集した地域の中にも引かれていた。外来の中国人は、実際の商業権を支配していたために、こうした人種差別政策の標的となった。また超過密化した街は、災害時に危険であり、公衆衛生の面でも町全体を悪化させる原因ともなる。

 そうするうちに、ヨーロッパ人居住地区は自由に開発が進み、更に優雅な街並みを築いていた。しかし町全体が環境悪化につれ、行政官も法令だけで規制することを諦め、都市衛生施設を充足することによって衛生状態を管理するようになった。

20世紀の近代都市

 20世紀初頭から、東南アジアの大きな国際貿易港湾都市(ペナン、シンガポール、バタヴィア、スマランなど)では、都市の近代化が進められていた。急速な人口増加、経済発展工業化に対応するため、交通施設を整備し、都市インフラを改革した。鉄道路線をの配備し、自動車道路の整備拡幅工事が進めることにより、各地域が分離し孤立した状態から、機能的に結ばれるようになった。機能性や経済性の追求の原則は、都市構成の上でも、人種別の分離という形を導いた。

 市政は街の衛生と安全性の管理のために建築の法規を定めた。新しい建築規制(歩行者用アーケード、様々な機能を備える開かれた裏庭、火災時の避難通路)は、建築形態も変えることとなった。

 急速な人口増加に対応して、新しい居住地域は街の中にも周囲にも設けられた。港湾も改良し拡張され、工業地域ができ、街の中心には商業地域が出現した。貿易市場は、成長する商業や国際貿易に対応して再編成された。

 都市計画家や建築家から、多くの都市計画や建築デザインの新しい提案がなされた。そして多くの理想や願いが、東南アジアの沿岸都市の開発に込められたのであった。

 しかし1930年代になると世界的な経済不況のために、こうした開発は一時冷え込んだ。また第二次世界大戦と日本帝国軍の東アジアと東南アジアへの侵略は、地域の都市の歴史までも変貌させてしまった。

結論

 東南アジアの沿岸都市は、インドと中国間の海洋貿易の増加に伴い、季節風の風向きが変わるのを待つ停泊地の必然性のために開発されたものであった。13世紀から14世紀にかけて、中国人の貿易商人は、現地人の村の近くに要塞化した仮設居住地を設けた。

 後にこれらの交易地は、外国製品同士の交換を行う、国際的な中継貿易港へと発展した。また中国人はこうした水辺の都市に、中国南部の都市形態を持ち込んだ。

 これらの中継貿易港のうちの幾つかは、後に百貨店へと発展し、その地域の製品も輸出するようになった。百貨店は王国によって支配され、城壁で囲まれていた。そして経済の中枢は城壁の外に位置する中国人の手によって支配された。

 ポルトガル人とオランダ人は、16世紀と17世紀に東南アジアに渡来し、現地の都市の中に小さな砦を築いた。やがてそれらの砦は城塞へと拡張した。城壁の外では現地人の都市がそのまま存在し、商業活動も活発化していた。中国人は両者の間で、仲介人の役を担っていた。

 18世紀のイギリスの進出は、植民地を軍事的な性格から貿易都市へと変貌させた。要塞はその存在意味を失い、幾多のものが壊された。住民は経済論理に従い、人種ごとの居住区の設定がなされた。

 20世紀の初めになると都市の近代化が進められた。急速な人口増加や商業、工業の急速な発展に対応した、交通や都市インフラの整備、拡張を軸にした計画が進められた。近代化に伴い、多くの建築家や都市計画家によって、都市計画や建築デザインの新しい提案がなされた。しかし1930年代になると世界的な経済不況のために、こうした開発は一時冷え込み、それは第二次世界大戦まで続いた。

 戦後の東南アジアにおける多くの沿岸都市は、今日急速な経済発展と都市の変貌に直面している。こうした状態は、しばしば歴史文化遺産の破壊を招き、地域のアイデンティティーを失う深刻な問題となっている。本研究をとおして、都市の歴史背景を解明し、理解を深めることが、こうした問題を解決するための一助となることを願うものである。

審査要旨

 ウィドド・ヨハネスの論文は、14世紀から20世紀にかけての、東南アジア沿岸都市の形成に関するものであり、主な対象地は中国南部(福建省の福州、泉州、厦門)、マレー半島、シンガポール、タイ南部(パタニ、プケット)、西カリマンタン(ポンティアナ、シンカワン)ジャワ島北部(バンテン、ジャカルタ、スマラン、ラセム)であった。論文では、現地人の村の形態(イスラムやヒンドゥーの影響下にある)や、華人の勢力の台頭、ヨーロッパ人の植民地化をそれぞれ検証し、それぞれの特異な都市形成の歴史を、形態学的な見地から、個別の構成要素を抽出し、比較する方法で考察している。

 東南アジアでの広い範囲を対象とした研究では、各地の事象をそれぞれ検討することは可能であっても、それを一般的な変遷史として纏めることは、地域差が激しいために困難である。しかし、これらの地域は一般的にも馴染みの薄い都市が多いので、多くの事例を如何に統括し、系統立てるかが一つの目的となる。

 本論では、こうした都市形成史の中から、その初期段階に於いて特に華人の活動に着目し、出身地の中国南部の沿岸都市との比較によって、その起源を明らかにし、後の中継貿易港から百貨市場への発展の過程について纏めている。当地の多くは、後にヨーロッパ人の植民地となることが多いが、これまでの研究の多くは、それ以前の都市についての情報を欠いており、実際には現地人の村と並置されながら、やがては淘汰されていった過程が解らないままであった。当時圧倒的な力を有していたヨーロッパ勢力の歴史から転じて、実は今日まで脈々と続けられていた華人からの視点に立って再検討することは、当地の都市史を考察する有効な手段であった。

 提出者の出身地であるインドネシアでは、現地の伝統的な建築様式の研究やヨーロッパ人の植民地化の過程の研究は成されているが、華人の街については進められていない。また、教育の現場に於いても、こうした状況は容認されており、それは東南アジアの各国ともに共通した状況といえる。そのため、本国でこうした研究を纏めることは困難であり、今回日本で研究を行えたことは両者にとっても有意義なことであったと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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