夏期がモンスーン地帯特有の高温多湿な気候風土上の特徴を有している日本では、建築に限らず文化もその影響を受け、伝統的な建物の造り方はその対策に終始した感があり、夏期の防湿に深い考慮が払われていた。しかし近年、空気調和設備技術の普及と建築工法の変革で断熱性、気密性が向上したため、省エネルギーや保温には好都合になった。その反面湿気によるトラブルが増えて室内湿度調整が課題になっており、冬期の湿度も夏期の場合におとらず重視されるようになった。温度と湿度は快適、衛生的な居住性の基本であると同時に冷房暖房負荷の大小にも関係し、また建物の耐久性を確保する上でも重要な環境因子である。 空調されている、または使用されている室内空間においての建築材料や物体表面においては吸放湿作用に伴い潜熱の出入りが生じる。潜熱の非定常性は主に室内温、湿度の変動に伴う壁体や室内物体と室内空気との吸放湿現象によって生じることはよく知られている。事実上快適空調のほとんどは間欠運転であり、室内空気状態は変動する時間帯がある。また、最近に注目されるようになっている制御条件の動的設定など、間欠空調を問題にするとすれば、非定常潜熱理論によって解明しなければならないのは運転停止時における室内湿度の変動と立ち上がり時の蓄熱負荷である。 建物の室内熱・湿気環境と熱負荷などの計画、設計段階での予測、また建物竣工時に設計値を満足する施工がなされたか否かを確認するために行う性能確認などは通常入居前に行われ、予測対象室内は無人で什器備品、発熱機器などがない状態で建物躯体についてのみを行うのが通例である。しかし、入居後の使用されている通常の建築室内空間においては家具や書類および繊維類など(以降、室内備品と称する)が意外に多い量で存在するため、入居前のそれとは異なることが考えられる。これらの室内備品は多くの建築材料と同様に空隙を含む多孔質であり、室内温、湿度の変動に伴い吸放湿作用を行う。また、吸放湿作用により室内温、湿度が変化する。従って、より精度高くかつより実状に近い予測結果を得るためには、生活している、すなわち使用している状態を想定した、室内備品の吸放湿作用を考慮する必要があり、無視した予測結果は誤差を含むことになる。 今日、建築環境工学の分野では、熱と湿気に関しての水準の高い研究が数多くなされており、理論的な面においては既に完了しているといっても過言ではない。また、室内温、湿度と熱負荷計算法に関しての研究業績もかなり以前より蓄積されて存在する。だが、今日実用的に提供されている室内温、湿度および熱負荷計算プログラムにおいては、壁体内は熱の移動のみを考えており、壁体や室内備品と空気との吸放湿は無視し、湿気に関しては基本的には定常計算しか行なわれていないという実情であるため、室内湿度変動と潜熱負荷の計算結果は誤差を含む(例えば、冷房か暖房かによって小さくあるいは大きく評価される)ものとなっている。室内熱・湿気環境と熱負荷のより詳細な予測には従来の計算体系においては無視されてきた湿気の移動を熱の移動と同時に考慮することが重要であろう。しかし、最近になって前述の理論的な業績をベースとして室内温度と湿度の相互の影響を考慮した、いわゆる熱・水分同時移動方程式に基づいた室内温、湿度および熱負荷予測法に関しての研究が活発に行なわれており、相当な水準に達したと言える。しかしながら、予測手法の構築だけでは最終目的である適正かつ高精度の環境予測、評価が不可能であることは言うまでもなく、同時に解析モデルに入力する基礎データの整備、蓄積を行う必要がある。特に、室内に存在し熱・湿気環境に影響を与えるにもかかわらず計算上は無視することの多い負荷要素(主に室内備品の吸放湿など)に関する基本的データの欠如は予測評価手法としての計算精度の向上を全く意味の無いものにしてしまう可能性を多分に含んでいる。従って、室内備品に関しての物性値データを揃えておくとともに、吸放湿特性を定量的に把握しておく必要があり、また実態調査などを行うことにより室内の物品量という設計図から得られない情報をいかに補うかも非常に重要な課題であろう。熱物性値に関するデータ蓄積の充実さに比べると湿気物性値に関してのデータ欠如は否めないことである。 負荷計算論が一応の水準に達した現在でも、熱と湿気相互の影響を考慮した、即ち熱・湿気同時移動に基づいた室内温、湿度と熱負荷計算に当たって、更にその実用化のことを考えると幾つかの解決しなければならない問題点はいまだ残されており、十分な段階とは言えないのが現状である。 本研究では、以上に述べた背景から次に示す3つを目的とする。 1.熱・湿気相互の影響を考慮した室内温、湿度および熱負荷予測法において、より精密かつ実用性の高い環境予測法の構築に欠かせることのできない湿気物性値データ(ここでは、特に非建築材料でありながら室内にかなりの量が存在している室内備品を対象に取り上げる)を補完、蓄積する。 2.より高い信頼性確保のため、測定により室内備品についての吸放湿特性を定量的に把握した上で、熱・湿気同時移動に基づいた室内温熱環境と熱負荷に関しての総合的なシミュレーションを行うことによって、特に潜熱負荷と湿度変動に関して、影響する要因について定量的な検討を行う。 3.実際問題への適用、即ち非建築材料である室内備品の物性値を把握したことを建築環境工学の分野に結び付けることについて考察する。 本論文は、第1章から第6章より構成され、以下のごとき内容よりなる。各章の内容を以下に列挙する。 第1章においては、序論として研究の背景と目的を述べ、熱・湿気同時移動を考慮した既往の研究を概説し、本論文の位置付けについて論じる。 第2章では、まず本論文において用いることの多い湿気伝導率、湿気伝達率、湿気容量(平衡含湿率)などの用語についての定義をしておく。それから蒸気拡散支配(Hygroscopic領域)における建築壁体内部の薄層について熱と水分量の平衡式から熱・湿気伝導の基礎方程式を誘導した上で、線形熱・湿気同時移動方程式を導きその解法について述べる。 第3章においては、室内空間に置かれている備品の中で吸放湿性が大きく、従って室内湿度変動と非走常潜熱負荷に及ぼす影響が大きいと考えられる物体として繊維類と寝具類の湿気に関する物性値および吸放湿特性について述べる。 線形の熱・湿気同時移動方程式を用いて室内湿度変動と非定常潜熱負荷の計算を行う場合、室内に存在する吸放湿性物体の湿気物性値である(絶対湿度変化に対する含湿率変化量)、(温度変化に対する含湿率変化量)、’(湿気伝導率)を把握しておくことが必要不可欠であるが、湿気物性がある程度確実に把握されているのは、基本的な建築材料である木材とコンクリート系材料および防湿材のみであり、その他の材料については詳しく分かっていないのが現状である。特に、建築材料の範疇に入らない室内備品などが室内湿度変動に与える影響は大きいと思われるにもかかわらず、それらの湿気物性はほとんど解明されていない。以上のことを踏まえて本章では、室内備品の中から繊維類を取り上げ、それらの湿気に関しての物性値を明らかにする。 第4章では、熱負荷計算に当たって、入力データとして用いられる様々なパラメーターのなかで、特に室内湿度と潜熱負荷に及ぼす影響が大きいと思われるパラメーターについて、事前に妥当性のある値を把握しておき、これらに基づくシミュレーションができるようにあらかじめパラメーターを設定することを目的として主に文献調査を中心に述べる。 第5章においては、熱と湿気相互の影響を考慮する熱・湿気同時移動方程式に基づいた室内温熱環境と熱負荷に関するシミュレーションケーススタディについて述べる。第3章での湿気物性値の測定と第2章で論述した吸放湿を考慮した熱湿気同時移動に基づく計算手法を用いた室内温、湿度と熱負荷関する数値シミュレーションによるケーススタディを行い、特に室内備品の吸放湿が潜熱負荷と湿度変動に及ぼす影響を把握するとともに、吸放湿を考慮していない従来の計算結果との詳細な比較、検討を行う。また、実際問題への適用方法について検討する。 第6章では、以上に述べた各章について総括結論をまとめて述べるとともに、今後の実験と研究の方向など、今後の課題について述べる。 |