学位論文要旨



No 111777
著者(漢字) 高,商均
著者(英字)
著者(カナ) コウ,サンギュン
標題(和) 病院における患者空間の建築計画的研究
標題(洋)
報告番号 111777
報告番号 甲11777
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3575号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 高橋,鷹志
 東京大学 教授 香山,寿夫
 東京大学 助教授 大野,秀敏
 東京大学 助教授 岸田,省吾
内容要旨

 病院建築において「患者」を最優先としなければならないことは、昔から様々な立場から主張されてきた。ところが現実の病院では管理・運営の効率化、高度医療の実現などのため中央化が進み、その結果、巨大化・複雑化・画一化され、患者が非人間的な扱いをされてしまっている。患者の側もそのことを、病院だからしかたがない、というように受け取ってきた。しかし、高齢化社会の到来に伴って発生した疾病構造の変化・医療需要の多様化は、医療や福祉を巡る環境への関心を高めるきっかけとなり、医療機能や効率だけを重要視する視点から、患者を中心としてその家族や地域社会へ開かれた、より広い意味での治癒環境として、病院を考えようとする気運もうかがえる。

 本研究の目的は、患者の立場から病院環境を見直すことを最終目標として提唱されてきた「病院地理学」研究の一環として、患者の意識や行動などをも含んだ総体的意味での環境として病院を捉えなおし、患者にとって馴染みやすい病院環境のあり方を探求することである。

 本論文では特に、診療の目的ではなく患者の滞在が許される空間や場所、患者のアクセスが保証され、機能上の名前が付いてない空間や場所、あるいは廊下やホールそのものを「患者空間」と名づけ、患者あるいは他の利用者の心理や意識、個人にとっての空間の意味を考察する。

 「第1章 序論」では、これまでの建築計画研究が調査によって得られた事実を統計数理的に扱って原因(要因)と結果(行動)との関係を探り、それをモデル化、パターン化してきたこと自体の限界を知り、それに代わる視点を示した。

 「第2章 患者の意識や行動の経日的変化にみる入院環境」では、入院患者が新たに病院で入院生活を始める場合、どのようにその環境を理解し、各々の意識上に病院の諸空間を再構成していくかを少数の事例ではあるが、ひとりひとりの患者の意識や行動を環境との関係を通して記述的にとらえた。

 そこでは、以下のような5つの特徴的な段階を経て環境に馴染んでいく様子が見られた。それらは「確認・確定段階/患者役割行動段階/目的外利用行動段階/匿名的行動の段階/場所意味付け行動段階」である。これが経日的にどのような順序で発生するか、このほかにも別の段階が存在するか否かは明らかではないが、こうした患者の意識や行動の経時的変化そのものが、患者に生起する意識上での空間の秩序化や、環境の再体制化の過程の一部であるのは確かであり、これらから病院建築計画上の新しいいくつかの知見を示した。

 「第3章 患者の意識や滞在様態から読み取れる患者空間」では、患者を取り巻く様々な環境と患者の行動、患者空間の諸側面や属性などを患者の意識や行動、滞在様態に関する調査分析から、(1)患者の意識上に再構築される様々な空間や場所と、患者の環境行動(2)患者空間の意味変化や機能分化 (3)患者の日常環境行動を支援できる仕掛けとしての患者空間のあり方を考察した。2章で考察した患者の各段階における環境行動を様々な側面から探り、患者空間とともに総体的環境の枠の中で照らした結果、一つの状況論的な現象ではなく、以下に示すような病院建築を計画するに当たっての新たないくつかの知見を得た。

 1)空間や場所の意味変化:院内にある様々な空間や場所は、管理上の視点や多数の人々に占有・領有、あるいは患者自身の持つ情報の増加により、患者に様々な異なる顔として認識され、患者の空間利用に影響を与える。その変化の様相としては、(1)システムやプログラムにおける変化(管理や領有の状況、または新たなプログラムを取り入れることにより、患者の意識や利用様態は変わってくる)、(2)個人レベルの経時的変化(人間・環境の発展的側面で、時間が経るに従い患者は新たな情報が増えることで、環境を新たに認識し、それによって患者の空間や場所に対する意識や使われ方が変化する)が挙げられる。

 2)患者空間の諸様相:(1)患者空間へのアクセシビリティー、すなわち患者が常時居られる、または立ち寄れる空間や場所としての患者空間は、そこが実際にどの程度病院組織により管理され、他人により占有・領有されているか、あるいはそのことを患者自身がどのように感じているかによって、さらにその空間がどのような「しつらえ」や仕掛けになっているかによって、大いに影響を受けていると思われる。

 (2)入院患者や外来利用者が意識上に共有できる空間や場所を持つことは、患者が新たな環境を体制化して馴染んでいく過程の中で重要な意味をもつ。このような匿名空間は、空間機能や特定の利用者が想定されてない空間で、空間性格上はパブリックでありながらも個別化できる環境として設けられた空間、患者によって匿名的に使われる空間である。しかし、匿名空間でも患者と異なる利用者層に領有されると患者のアクセシビリティーは影響を受ける。したがって、患者空間は病院が持つシステムやプログラムと連携して位置づけられなければならない。

 「第4章 患者を取り巻く環境の違いと患者空間」では、システムやプログラムなどが日本とは異なる韓国の病院で、患者空間に対する患者の意識や行動、または患者の意識上に再構築される様々な空間や場所が患者が環境を理解して生活していく上でどのように寄与しているかを調べた。その結果を日本の病院でみられた患者の環境行動特性や患者空間の諸属性と比較することで、かかわる環境の違いと患者の意識や行動、患者空間のあり方との関連を探った。ここでは、以下に示すようないくつかの新たな知見が得られた。

 1)患者の環境行動:日本の病院では、全ての行動を患者としての役割に照らして評価する傾向が支配的であるのに対して、韓国の病院では管理体制や自己の領域に対する意識はあまり目立っていない。その理由としては、以下の2点が考えられる。

 (1)患者まわりの環境コントロールを誰が行うか(看護婦か・付き添い家族か)によって、周辺に対する意識やプライバシーに関する患者の役割行動は違ってくる。

 (2)韓国では、病院の患者生活諸空間の構成はナース側の管理上の効率よりは、建築そのものの経済性に依存しているのが特徴で、例えばデイルームはナースステーションを意識せずに患者や付き添いなどが居る場所となっている。

 2)空間や場所の意味変化 (1)患者と環境との関係を発展的に捉える上では、患者周辺の様々な規制や規範は、自然に生じる環境内での確認・確定行動を妨げる結果につながり、患者自身による環境の再構成が期待しにくくなっている。(2)入院患者が外来部門内の空間や場所を利用する傾向は、患者の在院期間による影響よりもパブリックな性格をもった匿名空間の存在によって大きく影響される。(3)病院にある様々な空間や場所(患者空間)は、その病院が持つシステムやプログラムによって、患者に様々に意味づけられ、行動に影響を与える。

 「第5章 地理的環境としての患者空間」では、各章での分析や考察を踏まえた上で、概念的に扱ってきた地理的環境(Geographical Environment)を改めて考察し、「患者空間」が、日々変化する病院建築の中でどのように位置づけられ、患者や利用者の行動に寄与できるかを探る。

 1)患者の環境行動の多くはプライバシー確保への要求、つまり患者がコントロールできる環境の個別化、個人の自律やコミュニケーションの確保が可能になるような環境の個別化への要求から発生する。

 2)患者の行動には、第2章で示したようないくつかの段階ごとの側面が相互補完的にかかわりながら経時的に変化する傾向がみられる。患者空間は、わかりやすさ・アクセシビリティーを最も重要なファクターとして作られた場合に、患者の環境行動を支援し、環境体制化に寄与するような空間となる。

 以上の各章において「患者空間」を軸として、患者の意識や行動の側面から、病院内の環境を見直し、行動と環境の関係について考察を行った。

 その結果、病院を患者の意識や行動などをも含んだ総体的意味での環境として捉え直すという、これまでなかったアプローチによって、病院の新たなあり方について解明できる可能性が得られた。

審査要旨

 本論文は、従来、管理運営の効率化、高度医療の実現のため、診療や供給業務の中央化を進展させ、施設を巨大化、複雑化、画一化された日本の一般病院において、患者中心といわれながら、実際には非人間的な環境で診療を提供されている患者の視点に立ち返って、施設環境を見直すことを最終目的として提唱した「病院地理学」研究の一環を成すものである。ここでは、患者が診療の目的と離れて滞在を許される必ずしも機能上無名の空間や場所を「患者空間」と定義して、患者と家族の心理や意識、空間の意味を考察している。論文は、5つの章から構成される。

 第1章では、序論として、本論文の目的と方法を述べている。これまでの建築計画研究の方法の限界を指摘し、それに代わる研究の視点と方法の可能性についての指摘である。

 第2章では、患者が新たな病院環境の中で入院生活を開始したとき、どのようにその環境を理解し、各々の意識上に病院の諸空間を再構築していくかに関して、実際の病院の入院患者を対象に行ったインタビューと行動観察の経日的調査に基づいて分析している。具体的結果として、確認・確定段階、患者役割行動段階、目的外利用行動段階、匿名的行動段階、場所意味付行動段階といった特徴的な5段階の存在が認められた。これらが経日的にどのような順序で発生するのか、この他にも異なる段階が存在するのかについては今回の調査分析では明確にできていないが、こうした意識や行動の変化そのものが患者にとっての環境の再体制化に影響を及ぼしていることを確認している。

 第3章では、一般病院における「患者空間」での患者の意識と行動に関するインタビューと観察による調査に基づいて、意識上に現れる空間と行動、空間の意味変化や機能分化、日常行動を支援する仕掛けについて考察している。すなわち、院内の各場所は、管理上あるいは他人に占有・領有されることにより、また患者の持つ情報の増加によって、さまざまな異なる顔を持つ空間として患者にとって認識されるようになり、患者の空間利用の仕方に影響を与える。その変化の様相としては、システムやプログラムの変化と個人的な経時的所有情報の変化とが見られる。患者空間へのアクセシビリティーは、そこがどの程度病院組織により管理されているか、どの程度他人により占有・領有されているか、あるいはそのように患者が感じているかによって、さらにその空間のしつらえや仕掛けによって、大いに影響を受けていると思われる。また物理的にはパブリックな空間であっても、患者が個別的に利用できる空間は、いわば「匿名空間」の様相を帯び、「患者空間」として有効性を発揮することが指摘されている。

 第4章では、システムやプログラムが日本とは異なる韓国の病院で、同様の調査を行った比較考察が述べられている。まず、環境行動についての主な相違点は、日本では全てを患者としての役割行動を規範として行動しているのに対して、韓国では病院の管理態勢や自己の領域に対する患者としての意識が希薄であることが挙げられている。その理由としては、韓国では患者の家族付き添いが常に存在していること、そして例えば病棟での典型的「患者空間」であるデイルームがナースステーションを意識せずに設けられているなど、病院側の管理水準の度合いと建築設計の方針に相違があることが指摘されている。次に、空間・場所の意味変化については、韓国における付添いの存在は患者自身による周囲の環境の確認・確定を鈍らせ、意識上の空間の再構築を妨げている点、また外来部門のレストランなどの院内での位置付けの相違が「患者空間」意味を変化させている点などが指摘されている。

 第5章では、前4章で述べられた知見をまとめ、概念的に扱ってきた病院地理学における地理的環境を改めて考察している。すなわち、本論文の主たる研究対象である「患者空間」が日々変化する病院建築環境の中でどう位置付けられ、患者や家族の行動に影響を与えているかを考察している。

 以上、本論文は、従来の建築計画研究の中でも優れて科学的調査分析に基づいて成果の蓄積と設計への還元を行ってきた病院建築計画研究が結果として非人間な医療施設環境を生むに過ぎなかった可能性があることを反省し、「患者空間」を一つの手掛りとして今後の医療環境を見直し、建築計画研究の新しい基礎的な知見を示したものとして有用であり、将来の大いなる発展の可能性が認められる。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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