自然と人間の調和が「環境問題」として人類共通の緊急性を持つに至った今日、中国の歴代文人によって繰り返しその美を謳われた西湖は、自然と人工の融和した一つの理想的庭園都市のモデルとして新たな意義を帯びて来ている。いま、天然の山水の奇勝に対して、何百年もの間、帝王から詩人に至るまでの数限りない人々が更に人工の手を加えて磨きあげて来た巨大な「ランドスケープ」が、歴史的にどのような過程を辿って生れ来たったのかを未来の創造の指針として捉え直すべき十分な必要性があると思われる。 西湖(XI-HU)は、「三面雲山、一面城」と言われる通り、南、西、北の三面を山々に囲まれ、東に杭州市街の開ける「山紫水明」の景勝地であって、湖そのものは南北が3.2キロメートル、東西が2.8キロメートルの小世界にすぎないが、そこに遠く唐代には白楽天、また宋代には蘇東坡が、詩的創造力を働かせて「白堤」と「蘇堤」を造らせ、以来、六百年間に、遠く日本まで「江湖」の名を響かせる黄金時代を現出せしめるに至ったのである。しかし従来の杭州についての諸研究においては、前述のような問題意識からの西湖の景観の変遷史が試みられることはなかった。本論文はこの点について、西湖の具体的なランドスケープそのものの形成過程はもちろんのこと、さらにそこに賦せられた内面的イメージの領域にまで踏みこんでの景観の形成史を考察しようとするものである。 こうして、本論文においては、まず、この大規模な景観の形成の歴史的沿革と各時代の具体的な形態上の変遷を明らかにし、どのような主導的理念がそこに働いたかを考察した。これには、そうした景観形成の機構や基本手法の解明も含まれる。さらに高名な詩人たちを魅了したこの景観の「原型」としての力の実態を解明すべく、彼らの詩における場所の言及についてトポロジカルなゾーニングを行うことも試みた。この記号論的な方法は今後さらに深化出来るものと考えている。 本論文で用いた史料は、主として次の三種に分れる。第一は、方志・地方志・寺志の類であり、これをもって各時代の建設工事から人口統計に至るまでの具体的情報と歴史的形成の跡づけを行った。その裏付けとしての西湖風物の現地調査も行っている。地方志の中ではとくに本論の中心となる南宋時代のものを重視し、歴史的変遷、場所、建物の確定の上で、宋代の「淳祐臨安志」、「乾道臨安志」、「鹹淳臨安志」の三部地方志を、同じく宋代、周密の「武林旧事」、清代、朱膨の「南宋古跡考」などを参照した。 第二は、本論文に係わる「遊記」、「筆記]、「詩文」の類である。明代、張岱の「西湖夢尋」をはじめ、同じく明代、田汝成の「西湖遊覧志」と「西湖遊覧志餘」はとりわけ重要なものとして参照した。また明代文人、高濂の「四時幽賞録」には四季折々に西湖を遊覧するときの風景の変化が叙され、さらに明代袁宏道の「西湖記述」、陳仁錫の「西湖月観記」、史鑑の「西村十記」、清代王紹傅の「西冷遊記」なども有用であった。 第三は「詩文」の類である。詩人たちの作品は西湖の景観のトポロジカルな把握を知るための手掛かりであり、またそこには季節・時間も詠みこまれているので、唐代および宋代の風景観の輪郭を把握するのに絶好の材料である。白居易ら詩人たちの詩集のほか、宋代、郭祥正の「銭塘西湖百詠」、清代、陳時の「湖山懐古集」および「湖山青山集」、張炳の「南屏百詠」などを参照した。唐代から宋、明、清代に至るまでの数多くの「銭塘百詠」や「西湖百詠」も、当時の風景観を知る上での詩的手引ともいうべきものである。 本論文ではとくに唐代から南宋までの約六百年間の景観構成の変遷と手法を追究することに重点を置いている。すなわち、発生期としての「霊隠期」の秦、漢時代(第一章)にはじまって、「白堤期」の隋、唐時代(第二章)、「三塔期」の五代(第三章)、「孤山期」の北宋時代(第四章)、「鳳凰山期」の南宋時代(第五章)のそれぞれにおいて、都市と皇城と庭園が、空間的にどう構成され、またそこにどのような自然観念が反映し展開していったかを考え、さらに第六章においては、南宋時代における「西湖十景」の成立の機構を考察している。 第一章では、西湖の現状と形態について概述し、その潟湖としての形成についての代表的な先行研究の内容についてその妥当性を考察している。 第二章では、西湖景観の黎明期である隋唐時代においての杭州の都市としての発展、および西湖と市街との相互依存の関係を形成する幾つかの建設工事について考察している。すなわち、1、隋代における大運河の開削と杭州の都市経済の発展。2、鳳凰山の山麓に初めて郡治が置かれ、それが後の五代、南宋における大規模な城郭の基礎となったこと。3、唐代、杭州の知事、李泌が井戸を開掘し西湖の水を引いたことによって、杭州の飲料水問題が解決し、これによって人口が急速に増加したこと。4、唐代大詩人、白居易が杭州の知事を勤めた際に新たな建設工事を興し、またその詩作によって西湖の名を世に知らしめたことを取り上げている。 第三章では、清代の「霊隠寺志」収載の絵図をもとに、西湖の西方の山中にある、霊隠、稲光などの寺廟庭園を中心とする景観の復原を試みている。ここでは、アプローチとしての「九里松」の道に始まって北高峰の山々(霊隠山、天竺山)、泉(冷泉)、怪石(飛来峰)、洞窟群に至る間に点々と配置された亭(春淙亭、冷泉亭)、橋(合澗橋)、塔(霊隠双塔、恵理塔)、寺院(霊隠寺、稲光寺)などが、自然と人為的風景とを融合差せ、幽邃な空間を演出している状況の分析を試みている。また、この章においては、五代において西湖の景観にもっとも大きな変化をもたらした「六和塔」、「雷峰塔」、「保俶塔」の三つの塔の果たした役割にも注目している。とくに「雷峰塔」と「保俶塔」は、西湖の北と南という重要な地点に配されたことによって、それぞれの周辺の建物、また西湖全体の景観とともに、新たな景観の形成に重要な役割を果したのである。 第四章では、西湖全体の景観中でも重要な位置を占める二つの景観地、孤山と蘇堤に注目し、それらの景観の形成に、同時代の二人の詩人、林和靖と蘇東坡がどのように係わったかについて考察している。わけても、杭州の知事をつとめた蘇東坡が築かせた蘇堤は西湖の景観形成に決定的な役割を果しているが、いっぽう彼の深い詩的洞察力は西湖周辺の事景に既視感を示しており、この深層心理学的問題にも言及している。 第五章では、この論文の中心をなす南宋時代を扱い、当時臨安と呼ばれた首都において、西湖周辺にいかなる新しい景観が形成されたかを三部に分けて具体例を挙げて考察している。すなわち、1、南宋時代の宮殿、南大内(紫禁城)と北大内(徳寿宮)について、その場所を確定し、地形的特徴および内部の空間構成と建物の配置関係を考察した。2、五代における大量の寺院の建設によって、西湖周辺に「臨水傍山三百六十寺」が林立した状況と対照的なこの時代の皇帝の道教信奉による道観の旺盛な建設に着目し、数多くの「道観」中、もっとも重要と考えられる孤山の「四聖延祥観」を例として、その空間構成を考察した。3、南宋時代に西湖の周辺において建設された数多くの庭園の中から、皇家庭園の「聚景園」、私家庭園の「南湖園」、「集芳園」、「南園」のそれぞれの空間構成および地形的特徴、さらに西湖の景観との係わりについて考察した。その分析のなかでは、とくにのちの明、清時代のものと著しく異なる宋代文人の庭園の特徴を明らかにしている。4、庭園都市としての杭州における、西湖と市民生活との係わりについて、西湖で行われる「花朝節」、「清明節」などの年中行事、また西湖との地理的関係から生まれた「観月」、「観花」、「船による遊覧」などの生活習慣、さらに、仏教行事としての「浴仏節」、「放生節」、「香市」などの催事について、理想的な庭園都市を形成するに至った市民生活と西湖との密接な関係を明らかにすべく論考を加えた。 第六章では同じ南宋時代における「西湖十景」の形成の問題を検討している。まず十景のそれぞれの内容と特色を明らかにし、十景が成立した背景として、1、北宋時代に形成された瀟湘八景の直接の影響。2、宋代の画院制度が、古人の詩を画題とする試験を行い、絵に詩的表現を要求したこと。3、南宋時代の絵画からの影響の三つに分けて分析し、さらに南宋時代に形成された十景が、元、明、清の各時代においてどのように展開したかを考察し、現実の景観に詩的なイメージが複合していく過程を明らかにした。 |