学位論文要旨



No 111785
著者(漢字) 蒲生,昌志
著者(英字)
著者(カナ) ガモウ,マサシ
標題(和) 環境汚染物質の健康リスク評価に関する研究
標題(洋)
報告番号 111785
報告番号 甲11785
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3583号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松尾,友矩
 東京大学 教授 大垣,眞一郎
 東京大学 教授 山本,和夫
 東京大学 助教授 尾張,眞則
 東京大学 助教授 滝沢,智
内容要旨

 現在、私たちの環境からは、様々ないわゆる環境汚染物質が検出されており、その毒性影響が懸念されるところである。本研究は、環境汚染物質のリスク評価について、現在の評価手法における問題点に関する考察から、評価手法として今後進むべき方向を具体的に示すことを目的とした。

 環境汚染物質の多くは、私たちの生活を維持していく過程で排出されたり、また、汚染物質の浄化にかかる費用が膨大であったりする。特に、現在の化学物質による環境汚染の汚染のレベルは、多くの場合、毒性影響が必ずしも顕在化しない程度の低いレベルである。従って、環境汚染物質によるリスクが懸念されるからとは言え、物質の使用を全面的に禁止したり、あまりに獏大の費用をかけることは、現実問題として不可能である。そのような状況で合理的な規制等の環境行政を行うには、環境汚染物質への曝露によるリスクを、物質の使用による便益や浄化にかかる費用と比較する考え方が重要である。これを「リスク/ベネフィット解析」と呼ぶ。便益や費用と比較されるためには、環境汚染物質のリスクは、定量的に示される必要がある。発がん性物質の評価においては、既に生涯発がん確率を指標とした定量的な手法が行われている。しかし、非発がん性物質においては、いまだ定性的な評価にとどまっている。第1章の第1節において、現在の非発がん性物質の評価手法における問題点を明らかにし、第2節においては、発がん性と非発がん性のリスクを共通の尺度で表現することを目的として、曝露集団における個人差、および、評価尺度としての損失余命という2つの柱からなる評価手法を提案した。また、第2章から第5章では、その手法について具体的に論じた。

 環境汚染物質のリスク評価には、毒性影響の評価(第2章から第5章の内容に該当する)に加え、曝露量の評価が必要である。現在の環境汚染物質の濃度が低濃度であり、対象とする物質の数も膨大であることを考えると、今後、環境中動態モデル(数理モデル)を用いた環境中濃度の推定の重要性はより高くなるものと考えられる。また、過去の環境政策をリスク/ベネフィット解析により検討することは、将来の環境政策を考える際に重要である。しかし、過去の汚染の様子はもはや実測することは不可能であり、モデルによる推定が事実上唯一の手段である。第6章では、そのような目的での環境中動態モデルの利用を提案した。各章で得られた主要な成果は以下のようなものである。

 第2章「発がん性物質による生涯発がん確率の損失余命への換算」:従来発がん性物質によるリスクの許容できる上限の値とされていた10-5の生涯発がん確率を損失余命に換算した。換算は、発がん性物質への曝露とがん死亡率の上昇との関係を仮定し、生命表を用いて行った。結果として、10-5の生涯発がん確率を生じるような曝露レベルに曝された場合、損失余命は、生涯曝露を受ける場合で65.8分と推定された。また、20歳から49歳までの曝露については11.8分、1年間の曝露の結果平均的日本人が受ける0.830分の損失余命であると推定された。

 第3章「非発がん性物質への曝露による損失余命の推定」:非発がん性の物質については、様々な毒性影響が考えられるため、一般に、定量化は困難であると考えられている。本章では、比較的軽度の毒性影響を非特異的な健康状態の悪化と見なし、健康状態の悪化と死亡率の上昇との関係をもとに、生命表を用いて損失余命を推定した。結果として、生涯のあいだ曝露をうける集団において、軽微な自覚症状を訴えると推定される人は約1年の損失余命を、また、極めて重度な影響を受ける推定される人は約14年の損失余命を被ると計算された。

 第4章「シロアリ防除剤クロルデンからクロルピリフォスへの切り替えによるリスク変化」:発がん性物質と非発がん性物質によるリスクを、損失余命という尺度で評価する手法の適用例として、有機塩素系のシロアリ防除剤クロルデンが禁止され有機りん系の薬剤クロルピリフォスに切り替えられた事例について、そのリスク削減効果を評価した。扱った毒性影響は、クロルデンによる発がん性と、クロルピリフォスによるコリンエステラーゼ活性阻害による神経毒性である。また曝露集団として、防除処理作業者(A)、処理家屋の居住者(B)、非処理家屋の居住者(C)を設定した。損失余命の推定には第2章と第3章の結果を用いた。曝露集団における個人差として考慮した要素は、曝露量の個人差と半減期の個人差である。それぞれの薬剤への曝露量は、環境中濃度を文献から得て計算した。結果、クロルデンの使用によってもたらされる損失余命は、A:1.7日、B:で2.1日、C:0.11日と推定されたのに対し、クロルピリフォスの使用によっては、A:37日、B:3.2日、C:0日と推定された。防除作業者へのリスクはむしろ上昇していると考えられ、処理家屋の居住者においてはリスク削減効果はなかった。防除者については、作業時の防護や健康管理の強化が求められる。非処理家屋の居住者においては、クロルピリフォスは環境への残留や食品への蓄積がごく小さいためにリスクは完全に削減された。彼らは元来シロアリ防除による便益を受けない集団であるので、少なくともリスクの分配の観点からは、この薬剤の切り替えは効果があったといえる。

 第5章「水銀によるリスクの推定モデル」:非発がん性物質のリスクを損失余命として評価するもう一つの試みとして、有機水銀への曝露によるリスク評価の手法を示した。曝露集団における個人差として、体内半減期の個人差と毒性影響の感受性の個人差を考慮した。有機水銀による毒性影響は、影響の重篤度を介して損失余命に換算した。その際、第3章の結果を用いた。手法の適用例として、報告されている様々な日本人集団における平均頭髪中水銀濃度とその個人差の値を用いた推定を行った。平均的な日本人において頭髪水銀濃度から推定される損失余命は約15時間であった。

 第6章「1960〜70年に使用された農薬によるリスクの経年変化」:これまでの農薬の使用量や品目の変化が、健康リスクの削減に与えた影響を調べた。農薬は環境汚染物質の主要な一部を成していると考えられる、実際、DDTやディルドリンやパラチオンなど、いくつもの農薬が人への健康被害や環境汚染の理由で禁止されてきた。本章では、1960年、70年、80年、90年の各年における日本国内での農薬使用量をもとに、環境中動態モデル(フガシティ・モデル)を用いて、曝露量および発がんリスク、非発がんリスクを推定した。物性値や毒性値は文献から得たが、一部については既知の値から外挿によって推定したものを用いた。リスクの推定においては、作業時の曝露や作物表面への残留については除外し、広域の環境汚染という観点から、日本におけるリスクレベルの平均値を推定した。また、得られるデータの制約から、ここでは前章までとは異なり、リスクの尺度として、発がん性については生涯発がん確率、非発がん性については曝露量とNOEL(最大無作用量)との比を用い、各農薬のリスクを加算することで農薬全体でのリスクであるとした。評価の対象とした農薬は、殺虫・殺菌・除草剤の合計で166種類であった。結果として、農薬の使用量は1960年から1990年にかけて2倍以上になっているにもかかわらず、非発がんリスクはほとんど変化がないか若干減少しており、発がんリスクは1980年から1990年の間に急減に減少した。非発がん性リスクの若干の減少は、リスクの多くを占める殺虫剤におけるリスク変化によるものであり、殺菌剤、除草剤については改善されていなかった。殺虫剤におけるリスクの改善は、主として環境中残留性・生物蓄積性の高い有機塩素系の農薬の割合が低下していることに起因することが示された。即ち、魚を経由した殺虫剤によるリスクは1960年には大きな比率を占めていたが、1990年には大きく減少した。一方で、大気や飲料水を経由した殺虫剤によるリスクが経年的に上昇していることが示された。また、発がんリスクは、ほとんどが殺虫剤によるものであった。リスクの大きさとしては、非発がんリスクが約3×10-4(即ち、曝露量が最大無作用量の約3000分の1)程度であった。発がんリスクについては、1960年から80年にかけてはl×10-3(生涯発がん確率)程度であったが、1990年には4×10-6のレベルへ低下していた。このような発がんリスクの大幅な削減は、1980年代における発がん性物質規制によるものであると考えられる。

審査要旨

 環境汚染物質の毒性影響の評価の手法として、毒性しきい値を定め、有害か無害かを判定していく手法に代って、特に発がんリスクを評価する手法として、生涯発がん確率という尺度を使う方法が開発されてきた。このような毒性影響の現れ方を確率的なリスクとして評価する手法は、従来は非発がん性物質には適用されてこなかったが、比較的作用量の低い曝露レベルでの非発がん性物質の毒性影響の評価に際しては発がん性物質の場合と同様に確率的な評価を行えるようにすることが求められてもきている。

 しかし毒性物質の曝露量の予測手法は、いまなお開発途上にあることが指摘されている。本論文はこのような化学物質の毒性評価手法について論じたものであり、「環境汚染物質の健康リスク評価に関する研究」と題し、7章より成っている。

 第1章は「緒論」である。環境汚染物質の健康リスク評価にリスク/ベネフィット比等の尺度を用いる場合に、発がん性物質、非発がん性物質に対して同様な確率的評価方法を導入することの重要さを明らかにしている。併わせて論文の構成につき概説している。

 第2章は「発がん性物質による生涯発がん確率の損失余命への換算」である。発がん性物質のリスク評価の方法として採用されている、生涯曝露での生涯過剰発がん確率を平均余命からの損失余命へ読み替えて評価する方法を提案している。例えば、10-5の生涯発がんリスクは、平均寿命が78.8年の集団に対しては、損失余命は414分と計算されることを示している。

 第3章は「非発がん性物質への曝露による損失余命の推定」である。発がん性物質に対して与えられた用量-反応関係に基づく確率的リスク評価に対して、非発がん性物質の毒性影響を一般的な健康度の低下であると見なす評価方法を提示している。既存の疫学調査に基づいて、健康度の低下と死亡率の上昇の関係を定量化し、損失余命へ読み換える方式を提示することに成功している。この方式の提示によって、非発がん性物質についても確率的要素を持つリスク評価を行うことが可能となった。

 第4章は、「シロアリ防除剤クロルデンからクロルピリフォスへの切り替えによるリスク変化」である。発がん性のあるクロルデンから非発がん性のクロルピリフォスへの切り替えについてのリスク変化を定量的に評価している。上記の薬剤の切り替えの社会的リスクの変化として、防除作業者のリスクは高くなっているが、非処理家屋の居住者(シロアリ防除剤に無関係な人々)へのリスクは0になったということを明らかにしている。

 第5章は「水銀によるリスクの推定モデル」である。第4章と同様に水銀汚染によるリスク評価の例を具体的に示している。結果の一例として頭髪中の水銀量を基に損失余命を計算し、在日外国人で0.73時間、通常の日本人で15.4時間、マグロ漁師で14.8日という数値を与えている。具体的なリスク評価の例として評価される。

 第6章は「1960-90年に使用された農薬によるリスクの経年変化」である。本章は前5章とは異なり、環境汚染物質への曝露のプロセス及び曝露量の評価手段の提示となっている。リスク評価の前段のための曝露量の評価を行うものである。具体的には1960年から90年の時間経過の中での我国における平均的な日本人の農薬曝露量の推定を行っている。農薬への曝露は大気系、水系、食物等を経て進むことを想定し、フガシティ・モデルを利用して総曝露量の推定を行い、農薬全体としての発がんリスクは1980年を境に急激に減少していくことを明らかにしている。

 第7章は「総括」であり、本論文の主要な成果のまとめを行っている。

 以上のように本論文は、環境影響評価を行っていくときの重要な基準であるリスクの評価方法につき、特に非発がん性物質のリスク評価方法について新しいモデルを提案したものとなっている。そして、シロアリ防除剤、水銀汚染に対するリスク評価の実例を示し、有効性を示している。また、環境汚染物質の曝露量の推定方式についてもその具体例を示すことに成功している。

 このことは本論文が都市工学とりわけ環境工学、環境政策の進歩に対して大きな貢献をなすものであると高く評価される。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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