学位論文要旨



No 111791
著者(漢字) 松岡,広成
著者(英字)
著者(カナ) マツオカ,ヒロシゲ
標題(和) 分子オーダの流体潤滑膜厚さに関する研究
標題(洋)
報告番号 111791
報告番号 甲11791
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3589号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加藤,孝久
 東京大学 教授 木村,好次
 東京大学 教授 田中,正人
 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
内容要旨 1.緒言

 固体表面近傍における液体分子はどのような状態にあるのか?この問題はその物理的興味により多くの研究者が議論してきた[1]。その結果、固体表面近傍で液体分子が層状に配列すること[2]、液体の密度が固体表面からの距離に対して振動的に変化すること[3]、2固体表面が介在する分子のオーダまで接近すると、介在する液体の剪断粘度はバルクよりも非常に大きくなること[4]など、バルクの性質とは全く違った性質を示すことがわかってきた。こうした液体と固体のインタフェースにおける特殊な性質は、実際の工学的分野においてはこれまであまり重要とは考えられていなかったが、マイクロマシンに代表されるように、近年の機械技術の発展に伴う機械要素の小型化により、非常に重要なものになってきている。例えば、ハードディスクでは、記録密度向上のため、従来の気体浮上に代えて液体浮上方式が提案されている[5]。この場合、浮上量は数ナノメータ程度であり、これは液体分子直径のオーダである。このように、工学の分野においても非常に滑らかな2固体表面が液体を介して分子オーダの距離まで接近し、かつ剪断を受けるような系の応用が考えられている。従って、上述したような固体表面近傍の液体の性質、および、2固体表面が液体を介して非常に接近した場合の相互作用に関する性質、特に、トライボロジー[6]的性質に関する知見は、これからのキーテクノロジーを支えるものとして必要不可欠であろう。本研究では、このトライボロジー特性の一つ、潤滑膜厚さに着目する。

 2固体表面を接触させ剪断を与えたとき、表面が乾燥した状態より液体がその表面に存在したほうがより小さい力で動かすことができるということは周知の事実であろう。これは、両固体表面間に液体の膜(潤滑油膜)が存在し、この油膜に発生する圧力によって荷重が支えられ、2表面の直接接触が妨げられているからである。この潤滑油膜厚さおよび油膜発生圧力は、理論的にはレイノルズ方程式によって記述される。しかし、本研究で考えるような分子オーダの膜厚においては、上述したような固-液インタフェースにおける特殊な性質や、ファンデルワールス力、メニスカス力といった自然発生的な力も作用すると考えられ、従来のレイノルズ方程式による理論的予測と大きくずれることが予想される。過去には、この潤滑膜厚さを数十ナノメータから数ナノメータ程度まで測定した例も数件ある[7]が、その実験精度および実験条件において不十分な点が多い。

 そこで、本研究では、2面間の距離、垂直力を高精度に測定できる実験装置を設計製作し、これを用いて分子オーダの流体潤滑膜厚さを測定すること、および、分子オーダの流体潤滑膜厚さまで適用できる理論を構築することを目的とする。

2.実験装置

 本研究で製作した実験装置の模式図を図1に示す。潤滑面は直交円筒面とした。これは、球と平面の配置と幾何学的に等価である。円筒面は光学レンズに雲母を接着したものを用い、一方の円筒は剛体で支えられ、もう一方は2枚の平行板ばねに支えられている。これらの面に何らかの力が働くと平行板ばねがたわみ、そのたわみを高精度非接触静電容量型変位計により測定することができる。この変位計の分解能は、カットオフ周波数5Hz、30秒間で0.7〜0.8nmである。2面間の滑りおよび垂直荷重はそれぞれ弾性ステージ1および2によって与えることができる。弾性ステージの構造を図2に示す。図2(b)のように中央にあるステージを押すことにより、4枚の板ばねの弾性変形を利用して小さな力でスムーズな動きを達成できるものである。弾性ステージの駆動にはピエゾ素子を用いた。また、弾性ステージの変位を板ばねに貼った4枚のひずみゲージにより測定できるようにした。マイクロステージ1〜3は粗動用、4は変位計移動用であり、DCモータにより遠隔操作できる。この実験装置全体をアクリルケースで囲い、除振台に載せ、空気中のごみなどを避けるためクリーンブース中に設置した。また、エアコンでクリーンブース中の温度を、湿度発生器でアクリルケース内の湿度を制御できるようにした。なお、本実験装置の精度は、空気中および液体中における雲母表面間の凝着力を測定することによって確かめられている[8]

図表図1 実験装置 / 図2 弾性ステージ

 本研究では、液体試料としてオクタメチルシクロテトラシロキサン(octamethylcyclotetrasiloxane,OMCTS)、シクロヘキサン、ノルマルヘキサデカンの3種類を用いた。液体を直交円筒面間にメニスカス力で保持し、2面間に荷重を与えて滑らせ、発生した液体膜厚さを測定した。ここで、本研究では、荷重を流体力(fluid force)と呼ぶことにし、流体力は人為的に加えられた平行板ばねによるばね力、ファンデルワールス力[9]およびメニスカス力[10,11]を含んでいる。実験条件は、温度21.5±0.5℃、湿度20%未満とした。また、雲母および各液体の物性については文献[11]、実験方法の詳細については文献[12]に詳しい。

3.分子オーダの流体潤滑膜厚さの測定結果

 まず、OMCTSによる実験結果を図3に示す。滑り速度は200m/sであり、横軸は流体力、縦軸は膜厚を示している。また、図中の実線、点線および破線はレイノルズ方程式による理論的予測値を示す。このように、膜厚が数ナノメータになると、理論からずれ、膜厚が連続的に変化しなくなる現象、すなわち、膜厚の離散化が観察される。この離散化の間隔は約1nmであり、これは、OMCTS分子の分子直径にほぼ等しい。ある膜厚に対して流体力が従来の粘性力よりも大きくなっていることから、流体力が粘性力と付加的な力から成り立っていると考え、この付加的な力の性質を調べたところ、膜厚に対して指数関数的に減衰することがわかった。すなわち、この付加的な力は、2面間に介在する液体の分子直径程度の周期で現れ、かつ、膜厚に対して指数関数的に減衰する力である。この様な性質を持つ力は、構造力であろうと考えられる。構造力は、固体表面間に介在する液体の分子密度変動によって引き起こされるものであり、実際にこの様な性質を持つことが示されている[13]

 滑り速度200m/sにおけるシクロヘキサンによる実験結果を図4に示す。やはり離散化が観られ、その間隔は0.5〜0.6nmであるが、これは、シクロヘキサン分子を剛体球と仮定して得られた分子直径に等しい。さらに、OMCTSと同様にして付加的な力の性質を調べたところ、OMCTSの場合と同様の性質を示すことがわかった。OMCTSやシクロヘキサンは構造力を強く示す物質であるため、このような離散化を生じたと考えられるが、構造力をほとんど示さない物質ではどうなるかを調べるため、ノルマルヘキサデカンを用いて測定した結果が図5である(滑り速度200m/s)。このように、膜厚の離散化は生じていないことがわかる。従って、膜厚の離散化は強い構造力を示す液体に観られるものである。

図表図3 OMCTS / 図4 シクロヘキサン / 図5 ヘキサデカン

 また、本研究から、構造力は本実験の様に剪断のある場合でも静的な場合とほぼ同じ大きさであること、構造力は滑り速度に依存しないことなどがわかった。

4.構造力を考慮した弾性流体潤滑理論

 実験で得られた結果を説明するため、構造力を従来の弾性流体潤滑理論(EHL理論)に組み込むことを考えた。まず、構造力を圧力として算出する新しい方法を提案した。これは、2種剛体粒子系のOrnstein-Zernike方程式[14]とDerjaguin近似[15]とを組み合わせて、構造圧力を求めるものである。この方法は、パラメータの値を得るために実験を必要とする従来のモデル[13,16]と違い、ほぼ理論的に構造圧力を求めることができる。これをEHL理論に組み込み、OMCTSおよびシクロヘキサンについて計算した結果がそれぞれ図6,7である。これより、本研究で提案した方法は強い構造力を示す液体を用いた場合の実験結果とよく一致することがわかる。また、本計算法による構造圧力と従来のモデルとの比較を行ったところ、従来のモデルは表面の弾性変形を考慮しておらず、構造圧力を大きく見積もってしまうことも明らかになった。

図表図6 OMCTS / 図7 シクロヘキサン
5.結言

 本研究では、分子オーダの流体潤滑膜厚さを測定できる実験装置を設計製作し、これを用いて分子オーダの流体潤滑膜厚さを測定した。その結果、このような非常に薄い液体膜においては、膜厚が離散化するなどの多くの新しい知見を得た。また、構造力を考慮した弾性流体潤滑理論を提案し、実験結果との良好な一致が得られた。

参考文献[1] 例えば、S.H.Bastow and F.P.Bowden,Proc.Roy.Soc.,A,151,1935,220;K.Kamijo,H.Kusama and T.Sasada,J.Japan Soc.Lubrication Engineers,14,1969,287(in Japanese);R.G.Horn and J.N.Israelachvili,J.Chem.Phys.,75,1981,1400;W.van Megen and I.Snook,J.Chem.Soc.,Faraday Trans.II,75,1979,1095;J.van Alsten and S.Granick,Phys.Rev.Lett.,61,1988,2570;J.M.Georges,S.Millot,J.L.Loubet and A.Tonk,J.Chem.Phys.,98,1993,7345.[2] I.Snook and W.van Megen,J.Chem.Phys.,70,1979,3099.[3] P.Tarazona and L.Vicente,Mol.Phys.,56,1985,557.[4] J.N.Israelachvili,P.M.McGuiggan and A.M.Homola,Science,240,1988,189.[5] F.A.de Bruyne and D.B.Bogy,Trans.ASME,J.Trib.,116,1994,541;加藤幸男、浜口哲也、東谷輝義,日本トライボロジー学会トライボロジー会議予稿集,東京,1994-5,65.[6] 摩擦・摩耗・潤滑を扱う学問.[7] 例えば、G.Dalmaz,Proc.of the 5th Leeds-Lyon Symposium on Tribology,1978,71;G.J.Johnston,R.Wayte and H.A.Spikes,STLE Trib.Trans.,34,1991,187;D.Cooper and A.J.Moore,Wear,175,1994,93;G.Guangteng and H.A.Spikes,"Boundary Film Formation by Lubricant Base Fluids,"presented at the 50th STLE annual meeting,1995(to be published).[8] H.Matsuoka and T.Kato,Synopses of Intl.Trib.Conf.’95,Yokohama,1995,93;松岡広成、桑田厳、加藤孝久,日本トライボロジー学会トライボロジー会議予稿集,東京,1995-5,441.[9] E.M.Lifshitz,Soviet Physics,JETP,2,1956,73;D.C.Prieve and W.B.Russel,J.Colloid Interface Sci.,125,1988,1;J.N.Israelachvili,Proc.Roy.Soc.,A,331,1972,39.[10] F.M.Orr,L.E.Scriven and A.P.Rivas,J.Fluid Mech.,67,1975,723;C.Gao,X.Tian and B.Bhushan,STLE Trib.Trans.,38,1995,201.[11] J.N.Israelachvili,"Intermolecular and Surface Forces,"2nd edition,1992,Academic Press.[12] 松岡広成、加藤孝久,日本トライボロジー学会トライボロジー会議予稿集,東京,1995-5,445;松岡広成、加藤孝久,"分子オーダの流体潤滑膜厚さの測定,"トライボロジスト(to be published);H.Matsuoka and T.Kato,"Discrete Nature of Ultrathin Lubrication Film Between Mica Surfaces,"Trans.ASME,J.Trib.(to be published).[13] D.Y.C.Chan and R.G.Horn,J.Chem.Phys.,83,1985,5311.[14] L.S.Ornstein and F.Zernike,Proc.Roy.Acad.,Amsterdam,17,1914,793;R.J.Baxter,J.Chem.Phys.,52,1970,4559.[15] L.R.White,J.Colloid Interface Sci.,95,1983,286.[16] S.Jang and J.A.Tichy,Trans.ASME,J.Trib.,117,1995,22.
審査要旨

 本論文は「分子オーダの流体潤滑膜厚さに関する研究」と題し,6章からなる.

 近年の機械技術の発展とともに,機械要素は非常に小型化してきており,これに伴い,相対運動する二面間距離も急激に小さくなっている.耐摩耗性の観点からこのような二面を液体潤滑膜を介してしゅう動させることが考えられるが,潤滑膜の厚さが数ナノメータ程度になった場合,流体の粘性力以外の力が顕著になり,このため古典的流体潤滑理論が成立しなくなることが予想される.本研究では二面間距離を高精度(分解能0.8A)で測定できる実験装置を設計製作し,二面間の流体潤滑膜の厚さを計測して古典的流体潤滑理論の限界を明らかにするとともに,このような超薄膜潤滑の潤滑特性を予測するための理論的研究を行った.

 第1章「序論」では,トライボロジーおよび流体潤滑について概説し,流体潤滑膜厚さが分子オーダになった場合の,トライボロジカルな観点からの問題点を挙げている.続いて,これまでのこの方面の研究について概説するとともに,研究の必要性について述べている.そして,本研究の目的,本論文の構成を述べている.

 第2章「試料および実験装置」では,まず,本研究で使用した固体試料と液体試料の選定理由およびそれらの物性値について述べている.液体試料は分子形状が球形(OMCTS),疑似球形(シクロヘキサン),直鎖状(ノルマルヘキサデカン)の3種類の試料を用い,固体試料には原子オーダの表面粗さを持つ雲母を用いた.続いて,本研究のために設計製作した実験装置の構成および性能について説明している.特に,二面間距離をナノメータオーダの精度で測定するために注意すべき点を詳細に述べている.

 第3章「予備実験-雲母表面間の凝着力の測定」では,製作した実験装置が表面間力のような小さな力を精度高く検知できるかどうかを調べるとともに,固体面間の凝着力の測定を行っている.まず,雲母表面の接触状態を詳細に調べ,ファンデルワールス理論により凝着力を予測するための手法を理論的に検討している.次に,本実験装置を用いて空気中および液体中など,種々の条件下で雲母表面間の凝着力測定を行った.これらの実験結果を過去の文献値および理論値と比較し,雲母表面間の相互作用について検討した.そして,本章の結論として,本実験装置の精度は表面間力を測定するのに十分の精度を有すること,および固体面間の凝着力におよぼす表面吸着膜の影響は空気中では大きいが,液体が存在する場合には吸着膜の影響は無視してかまわないことを示している.

 第4章「分子オーダの流体潤滑膜厚さ」では,液体を介して直交円筒状に配置された雲母表面間に荷重を加え、さらに滑りを与える実験およびその結果について述べている.二面間に働く力および二面間距離を測定し,この実験結果を従来の潤滑理論と比較している.そして,液体としてOMCTSおよびシクロヘキサンを用いた場合には,数ナノメータのオーダになると測定された二面間距離は従来の潤滑理論予測値より大きくなること,また,二面間力の増大に伴って二面間距離が不連続的に(ステップ状に)減少していくことを見出した.そして,考察の結果,液体の構造に起因する力(構造力)が二面間に働き,このため二面間距離は潤滑理論による予測より大きくなることを示している.一方、液体として、構造力が小さいと言われているノルマルヘキサデカンを使用した場合には、約2ナノメータの薄膜まで古典的潤滑理論が適用可能であることを示した。

 第5章「構造力を考慮した弾性流体潤滑理論」では,第4章の結論を受け,従来の弾性流体潤滑理論に構造圧力を組み込み,分子オーダの膜厚を定量的に予測する理論を構築している.まず,二種剛体粒子系を考え,これにOrnstein-zemike方程式を用いることにより,粒子間に働く力,すなわち構造力を求めた.続いて,Derjaguin近似を用いて,構造力から圧力(構造圧力)を求める方法を新たに提案した.この方法は従来の方法に比較して、実験定数を使わずに理論的に構造圧力が求められる点が優れている。そして,この構造圧力による固体表面の弾性変形は,流体粘性力による弾性変形と同レベルであり,無視できないことを計算機シミュレーションによって示している.さらに,本研究は構造圧力と流体粘性圧力とを同時に考慮した新しい弾性流体潤滑理論を提案した.この理論の結果を第4章の実験結果と比較し,両者が良好に一致することを示し,新しい理論の信頼性を検証している.

 第6章「結論」では,以上の結果を総括している.

 以上を要するに,本研究は理論および実験の両面から,潤滑膜が分子オーダになった場合には液体構造力が無視できなくなり,これを考慮することの重要性を示し,またそのための新しい弾性潤滑理論を提案した.本研究で得られた知見は機械工学およびトライボロジーに寄与するところが大きい.

 よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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