高齢者の生活の質(Quality of Life)を決定づける要因には実に様々なものがある。基本的には、物質的な条件の満足と精神的な生活の豊かさとに分類することが可能であろう。従って、この二つの側面を高齢者の生活に対する支援の基礎として考えていく必要がある。 現在の高齢者に対する支援、特に工学的な支援研究の現状を眺めてみると、高齢者の自立支援、介護者の介護支援に対する研究が盛んに行われており、高齢社会に起こる介護へのニーズと介護の労働力の不足などの問題の解決に対して、確実な成果を上げている。その一方、高齢社会の進行とともに、独居、あるいは子供と別居している高齢者の数が増加する傾向が見られる。このような日常生活において発生する孤独、淋しさ、不安・悩みなどの精神的問題は、高齢者の生活の質の全般的向上のために解決されねばならないものである。 本論文では、高齢者の精神生活を支援する手法を確立するため、まず筆者が馴染み深く、かつ異なる文化、社会的背景を有する日本と中国の高齢者の精神生活の実態とその要求に対する支援手段について調査の後、比較・検討を試みた。これにより両国のみならず高齢者の精神支援に関する全般的な問題を、より一層明らかにすることを狙うものである。 この比較結果からまず明らかとなったのは、日中を問わず、すべての高齢者が物質的豊かさの必要性を認めながら、生活における精神的豊かさや家族との関係も非常に重要であると考えていることである。 次に、それぞれの国における問題点の特徴を挙げる。 日本では高齢者に対する支援は社会的な問題としての認知がなされ、よって高齢者の能力に対する自立支援、および介護負担の軽減に対する研究が進んでいるが、独り暮らしの高齢者数の増加とともに高齢者の日常生活における孤独感、またこれによる不安・悩みなどの精神生活の問題が新たに顕著となってきている。 一方中国では、高齢者の支援は各々の家庭内部の問題として扱われるため、高齢者は子供と同居するのみならず、別居しても子供からの物質面・精神面の支援を享受できるが、高齢者は子供に対する依存度が高まることになったり、日常の活動範囲が狭まったりすることが起こりやすい。 従って、両国それぞれにおける問題への対処手段としては、中国の場合には、まず高齢者の喪失した能力の補助、自立の促進となる精神的支援の手段に注目すべきであり、一方日本の場合には、高齢者の孤独感・不安などを解消する支援を主な対処の方法とすることが必要であると考えられる。 ここで、高齢者の精神生活を支援する工学的な研究の課題は以下のような段階に分類することによって、より効果的な支援を実現することが可能であると考えられる。 (1)孤独感の解消 (2)不安、悩みの解消 (3)空虚な生活の充実 (4)明るい老後生活をおくる つまり、それぞれのレベルに応じた精神的な支援を行うことにより、支援を一層効果的にするものである。 以上より、本研究では高齢者の精神生活の向上を支援する上で最も基本的な問題、即ち孤独と不安・悩みの解消を最優先課題として着手する。 特に、日中両国の高齢者に対する支援手段の比較結果と高齢者の心理的な分析により、高齢者の孤独や、不安等に対する支援には高齢者と家族間のコミュニケーションが重要な役割を果たしていることが明らかになっている。このため、本研究の高齢者の精神生活に関する工学的な支援は、コミュニケーションの実現から始める。このとき、高齢者それぞれの精神的状態を考慮してコミュニケーションを支援することが必要である。 本研究では高齢者の精神的支援に対して以下に述べる具体的な2種の解決方法を提案し、また実際にシステムの設計・開発を行った。 (1)屋内におけるVR(Virtual Reality)会話システムによる高齢者の精神的支援 知的能力には問題がないが、孤独感、不安、悩みを抱える高齢者(ねたきり老人など)の孤独感、不安等を解消するために、高齢者の希望する話し相手の顔の動画を自然な表情で提示し、音声により会話を行うVR会話システムを開発・考察した。 視覚と聴覚という二つの感覚を利用した自然なマンマシンインタフェースを用いることで、身体的能力の衰退した高齢者に対する配慮を行った。また、話題に制限は設けず、一般的な事項から個人的な話題にも対応できるものとした。さらに、会話の内容のみならず、対象である高齢者の状態(位置、姿勢など)によって会話を起動する方法についても提案した。 本システムは、AI音声会話、VR技術による会話インターフェイス、および会話制御を目的とした高齢者の状態把握部より構成される。以下にそれぞれについて具体的に述べる。 A.キーワード型会話データベースによるAI音声会話 老人ホームでの会話に関する実地調査、および実験、また寮母の方々へのインタビューおよび現在の高齢者に対する心理の調査結果により、高齢者との会話資料(基本データベース)をまとめた。この会話資料は、すべての高齢者の会話に共通なものとなる。また、単一の高齢者と会話する場合、個人それぞれの話題、および会話に特徴があるため、各高齢者のための会話情報データベースを構築した。以上の基本データベース、及び個人会話情報データベースを用いて、それぞれの高齢者に対応した会話を行なうものである。 話題や、会話の流れの把握はすべてキーワードの認識で実現され、かつ曖昧な返答を取り入れることによって、キーワードの認識に失敗した場合においても、自然な会話を継続するようにした。この方法は老人ホームに行った実験により、有効な手段であると確認されている。また、実現したVR会話システムに対する評価実験でも、この手法の有効性を確認した。 また、高齢者とのより良い会話環境を作る上で、高齢者から会話を引き出すことに重点を置き、会話制御のPhilosophyとした。 B.VR技術によるマンーマシンインターフェイス 近年発展の著しいVR技術を用い、計算機上において高齢者の会話相手となる顔表情のデータベースを構築し、会話にあわせて表情を変化させることにより、会話対象である高齢者に現実に近い感覚を与えるインターフェイスを開発した。また、会話中に音声と顔表情が連動させることなどでも、より円滑なコミュニケーションの実現を試みた。 C.高齢者の状態把握 高齢者の状態を認識することにより、会話を起動するタイミングを把握したり、高齢者の希望する会話のきっかけを作り出すことにより、VR会話における違和感を低減することが可能である。CCDカメラと赤外線センサを利用して、高齢者のいる場所、および動作の状態を画像処理により認識する研究を行った。 (2)屋外における位置検出システムによる高齢者に対する精神的支援 知的能力の低下、及び記憶能力の衰退した高齢者が外出して不本意ながら室外を「迷子」のようなことによる不安、悩みを解消するために、小型携帯機を支援対象である高齢者に持たせて、高齢者の位置を自動的に検出し、その位置を推定し指示を行う支援システムを開発した。 対象者が自分が現在いる場所や、家に帰る道がわからなくなってしまった場合などに、この携帯機で自分の位置を知ることができるようになる。また、既存の通信網を利用することで、社会への普及を容易にすることを目指す。本研究ではこの支援システムの携帯機の基礎部分の開発を行なった。 携帯が容易となるよう小型化を主眼とし、携帯機のセンサ部分は地磁気方位センサと市販の万歩計によって構成し、位置の推定の実験についてはノートパソコンで行なった。単に「歩行」とはいえ、角を曲がる、前方以外のものに注視して上体を向けるなど、外乱を含め様々な状態があるため、本研究ではいくつかの異なる歩行状態に対するセンサ入力の特徴より、それらの判別を行うための実験を試みた。各歩行状態に対する特徴に基いて、歩行の距離推算アルゴリズムを構築し、位置推定に関する外乱による誤差の解消を実現した。 本学の本郷キャンパス内で行った1000メートルにわたる実地追跡実験において、位置推定誤差は6%以内の精度を保証できる結論を得た。 以上により、本論文では高齢者の生活の質、特に精神生活の質の向上を目指して、工学的な支援手法を提言し、コミュニケーションを精神的支援の手段とする精神的支援システムについての研究・開発を行った。 |