厚さ10ナノメートル程の半導体超薄膜構造は、新しいエレクトロニクス材料としてその重要性を高めている。特に膜内に電子を量子力学的に閉じ込めた量子井戸構造では、電子は膜面に沿っては自由に動くが、膜と垂直な方向の運動量やエネルギーが、特定の値に限定された2次元電子状態を作るため、様々な新しい物性を示す。本論文は「量子井戸におけるサブバンド間励起下の電子分布と電子状態」と題し、量子井戸内の基底状態(サブバンド)から第1励起状態へのサブバンド間光学遷移過程についての研究成果をまとめたものであり、5章よりなる。 第1章は序論であり、本研究の背景と目的を述べ、赤外領域における光電子デバイスとの関連でサブバンド間遷移の重要性を指摘している。 第2章では、波長10m付近の強い赤外光を照射して、サブバンド間励起を行ったとき、電子系のエネルギー分布がどのように変調されるかを調べた研究が記されている。量子井戸からのフォトルミネッセンスの高エネルギー側の傾きは電子のエネルギー分布、つまり電子温度を反映する。この事実を利用して、サブバンド間励起光を照射した時の電子温度を、励起光の強度の関数として計測している。その結果、強いサブバンド間励起のもとでの電子分布は熱平衡状態の分布とは大きくずれることが判明した。例えば、格子温度が10K、励起強度が30kWcm-2の場合、電子温度が120Kまで上昇することを明らかにしている。また、励起強度が10Wcm-2から30kWcm-2の範囲で、観測された電子系の温度上昇は、励起光からのエネルギー吸収と基底サブバンド内でのLOフォノン放出によるエネルギー損失とのバランスで決まることを明らかにしている。 第3章では、n型量子井戸(QW)をショットキ電極の近傍に設置したダイオード(ここではショットキ量子井戸ダイオード(SQD)と呼ぶ)を対象として、赤外光を照射した時の電流応答に関する研究を述べている。このSQDに、量子井戸のサブバンド間励起に対応する波長10m程の赤外パルス光を照射すると、10ns以下の高速応答が可能な光電流が検出されることを見出した。この光電流がゲートバイアス電圧に敏感に依存することから、SQDの光電流応答は、サブバンド間励起にともなう電子の障壁中への流出過程と密接な関係があることを示している。また、光電流の大きさの励起強度依存性から、赤外応答過程の一部が電子温度上昇にも関係することを示唆している。 第4章では、量子井戸のサブバンド間吸収の強度やスペクトルが量子井戸内にある電子密度に如何に依存するかについて調べた研究を記している。特に、Si原子を井戸中にドープしたn型GaAs/AlAs量子井戸において、ゲート電圧によって電子密度を制御し、吸収スペクトルを電子密度の関数として計測している。その結果、電子の面密度を1.5x1012cm-2から減らしていくと、これに対応して吸収が減るが量子井戸の面内伝導率の減少とは様子を異にすることを示した。さらに、電子数の減少に伴い、吸収スペクトル幅が増加することも観察しており、イオン化不純物原子の作るポテンシャル揺らぎに対して電子の遮蔽効果が重要な役割を果たすことを示している。ゲート電圧で電子密度を制御することにより、サブバンド間吸収を大きく変調できるので、この効果を用いた赤外光変調器が実現できることも示している。 以上これを要するに、本論文はエレクトロニクス材料として重要な量子井戸構造において、赤外光による電子のサブバンド間遷移過程を調べたものであって、赤外光励起の下では熱平衡からずれた電子分布や、高速光電流応答の生じることを示すとともに、赤外領域での光吸収を電圧で制御する可能性を実証するなど、電子工学に寄与するところが少なくない。よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |