学位論文要旨



No 111832
著者(漢字) 安居院,あかね
著者(英字)
著者(カナ) アグイ,アカネ
標題(和) 半導体の内殻励起子と軟X線蛍光・ラマン散乱
標題(洋)
報告番号 111832
報告番号 甲11832
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3630号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 辛,埴
 東京大学 教授 花村,榮一
 東京大学 教授 三浦,登
 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 助教授 五神,真
内容要旨

 物質の電子状態を研究する方法として光分光や電子分光などがある。その中でも、物質中の電子を電子線や強力なx線を用いて励起し、そのとき放出される光を観測する蛍光実験は、非常に古くから行われてきたものの1つである。軟x線発光(SXES)からは価電子帯について全発光収量(TPY)からは伝導帯についての情報を得ることができる。

 放射光を利用した軟x線領域の発光実験は、発光強度が弱く実験の技術的難しさから、ここ数年で成長してきている新しい実験である。放射光を利用した軟x線発光は以下のような特徴を持っている。

 双極子遷移による選択則に従う。これにより部分状態密度について知ることができる。また、内殻正孔が局在しているため、特定サイトで発光する。多元系化合物においては特定の元素の部分状態密度を知ることができる。さらに、発光過程には蛍光と散乱過程がある。特に放射光を利用すると共鳴散乱の実験を行うことができる。また電子を使わない実験であるので従来の光電子分光ではできなかった絶縁体や半導体について実験が行える。

 本研究ではまず、(1)高分解能軟x線発光分光器を作成し、半導体(Si、cBN、blackP、AlAsなど)について放射光を利用した軟x線発光実験を行った。その結果、(2)蛍光の他に軟x線領域の共鳴ラマン散乱を観測した。また、(3)内殻励起子の付近では通常のラマン散乱を観測した。

 図1に作成した高分解能軟x線発光測定系の上面図を示す。(A:軟x線発光分光器、B:測定チャンバー、C:光電子分光器)分光器は高分解能でかつ明るいことを目的としRowlandマウント型の斜入射方式をとった。検知器は微弱光検出用の位置検出型マイクロチャンネルプレートを採用した。回折格子は3枚の種類の違う凹面回折格子を切り替えて使うことができる。測定領域は30-1200eVをカバーする。TPYの測定は試料からの放出した4eV以上の光を分光しないで全て集めることで測定した。この測定系では光電子分光の測定も同時に行える。

図1 高分解能軟x線発光分光器平面図。

 光で励起する軟x線発光は大変強度が小さい。励起光源の強度が大きいことが必要となる。このため、本研究で行われた実験はPFのアンジュレータービームライン、BL-2B、BL-19Bで行われた。

 図2にcBNの測定結果とバンド分散曲線の一例をしめす。(a)Bls-SXES、TPYとバンド計算(Xu et al.)によるB2pの部分状態密度、(b)N1s-SXES、TPYとN2pの部分状態密度(c)バンド分散曲線の一例である。(a)(b)図中下のSXESは1s内殻吸収端近傍で励起したものである。上図は蛍光スペクトルに相当する。

 SXESとTPYの測定からcBNのバンドギャップは6.2eVと得られた。実験で得られた価電子帯のバンド幅をバンド計算によるものと比較してみると、計算の方が全体に狭くなっており実験結果と合っていないことがわかる。すでにLDA法においてはこのことは議論されている。価電子帯の部分状態密度の形状をみてみる。B2p成分は価電子帯全体に広がっている。B、Cで示した肩の形はあまり再現されていないものの、D及びGで示した構造は全体の強度比とともによく再現されていることがわかる。N2p部分状態密度についてはB、C及びDの構造はDの幅が実験の方が幅広いののよく再現されている。N2p成分は価電子帯の上部に片寄っている。バンド計算からは価電子帯の下部は主にN2s成分からなっていることが言われている。N1s-SXESでN2s部分状態密度はみえない。

 次に伝導帯について観る。バンド計算と実験から得られたTPYスペクトルの形状が全く異なっていることがわかる。B1s-TPYのスペクトルをみるとhve=192eV付近に伝導帯の底から離れて、バンド計算には現れていない鋭い構造(CE)が現れている。これは、B1s内殻励起子構造である。B1s-TPYでは伝導帯の底が急峻に立ち上がっているのに対し、バンド計算ではB2p部分状態密度はなだらかである。これは内殻励起子の効果によっていると考えられる。一方N1s-TPYにはB1s-TPYに観られたような内殻励起子構造は観られない。バンド計算から言われているように伝導帯の底の成分が主にB2pであることによっていると考えられる。

 またスペクトル励起エネルギー依存性を詳しく測定した。スペクトルの励起エネルギー依存性の起源について考えるためにバンド計算と比較した。図2(c)のバンド分散曲線の状態密度の高い点(L、、Xなど)に点線を引いてある。点線に名付けられたアルファベットと数字に対応する点線が実験のスペクトルにも付けらている。

 伝導帯の底の成分はX点である。内殻電子が励起光によって伝導帯の底付近に励起されると(図中右向き矢印)励起された電子の波数ベクトルはX点の対称性をもつ。内殻にできた正孔に、価電子帯から電子が遷移する際、価電子帯には正孔が作られる。図2(c)で白丸が正孔、黒丸が電子にあたる。励起された電子の波数と正孔の波数が独立なら蛍光発光となる。しかし、この過程がコヒーレントであったとき価電子帯のX点の電子が遷移して発光が起こる。(図中左向き矢印)このように伝導帯のX(L、)点に内殻電子を励起したとき、価電子帯のX(L、)点が共鳴する振る舞いが観られた。N1s-SXESでも同様の現象が観られた。このとき励起された電子と残された価電子帯正孔の両者の波数が一致しエネルギーも保存される。このとき伝導帯に残った電子と価電子帯の正孔によって素励起とした価電子帯励起子がつくられる。このことから、SXES励起エネルギー依存性は2光子過程である共鳴ラマン散乱の過程によるものと考えられる。

図2(a)B1s-SXE及びTPYスペクトルとB2p部分状態密度。(b)N1s-SXE及びTPYスペクトルとN2p部分状態密度。(c)バンド分散曲線。(Xu et al.)

 このような、共鳴過程についてはMa et al.がダイヤモンドについて報告している。本研究では他にSiやblackPについて同様の共鳴ラマン散乱を観測できた。cBNのような化合物おいては本実験が初めてである。この共鳴現象を利用すると価電子帯と伝導帯の対称性の一致する点を決定することができる。特に化合物半導体などでバンド計算が難しくなるような場合、計算を殆ど利用することなしに構成成分ごとの対称性の高い点を決定できるので、物質の電子状態を知るための強力な手段として利用できる。

 さらに、内殻電子を吸収端近傍の伝導帯に達しないいろいろなエネルギーで励起したとき、スペクトルは励起エネルギーの変化分だけシフトすることが分かった。図3に測定されたSXESを示す。横軸は励起エネルギーからのシフト量で描かれている。これは可視のラマン散乱と同じラマンシフトになっている。この発光過程は先に述べた伝導帯の対称性の高いところへ励起した共鳴ラマン散乱に似た過程であると考えられる。伝導帯の底を励起したhve=193.87eVのスペクトルは先に述べたように価電子帯のX点が共鳴した発光したスペクトルである。内殻励起子以下の伝導帯の状態密度のないところの励起エネルギーでもB1s-SXESが得られている。スペクトルのピークは一定のラマンシフトになっている。

図3 B1s内殻吸収端以下でのB1s-SXESの励起エネルギー依存性をラマンシフトで描き直したもの。

 この発光過程について考える。発光のピークがX点の形を残しながらシフトしていっていることから、伝導帯の底のX点の対称性と同じに波数が保存されていると考えられる。先に述べた伝導帯の対称性の高いところへ励起した共鳴ラマン散乱に似た過程が起こっていると考えられる。ここでは、ピークがシフトしていることから、入射光によって励起された電子は伝導帯の下にできた仮想準位を中間状態として経て、素励起としてX点の価電子帯励起子を放出する通常のラマン散乱過程が起こっていると考えられる。

 発光実験の物質科学への有用性については、GaAs-AlAs-GaAs薄膜の測定を行った。物質の電子状態の研究の主流は現在は光電子分光であるが、電子の平均自由行程が短いことから表面に敏感な測定になっていた。発光では光の平均自由行程が長いので物質内部の状態をみることができる。GaAsでキャップされたAlAsの全発光収量の測定から、GaAs-AlAs-GaAs薄膜では、バルクのAl2p内殻励起子の他にGaAsの低いエネルギー状態へ沁みだした界面のA12p内殻励起子があることが明らかになった。

 放射光を用いた軟x線発光の実験は世界的にみても新しい研究である。本研究から軟x線発光で1次光学過程である蛍光のほかに、2次光学過程である共鳴及び通常のラマン散乱が起こっていることが分かった。これは新しい分光学としての可能性が期待される。また、軟x線発光は物質の電子状態を研究する新しい手法としても非常に有効であることが分かった。

審査要旨

 光電子分光などの高エネルギー分光は、物質の電子状態を研究する有力な実験方法であることが知られている。その中でも、電子線や強力なx線を用いて物質中の電子を励起し、放出される光を分光する蛍光実験は、非常に古くから行われてきている実験方法である。軟x線蛍光からは価電子帯について知ることが出来る。また、全蛍光収量(TPY;吸収スペクトルに対応する)からは伝導帯についての情報を得ることができる。一方、放射光を利用した軟x線領域の発光実験は、発光強度が弱いために、これまで余り行われてこなかったが、ここ数年、高輝度光源の出現によって、最近急速に、研究が進んできはじめた。特に放射光を利用すると、通常の蛍光の他に光散乱の現象が生じることが最近わかってきた。このような研究は、ドイツとアメリカで研究が行われつつあるが、日本においては、研究がほとんどなかったものである。従って、本研究は、研究テーマとして、博士論文にふさわしいものであると言うことが出来る。

 本研究は以下の3つの部分から成り立っているので、3つに分けて審査結果を述べる。

 1.高分解能軟x線発光分光器を作成した。

 2.幾つかの半導体について、放射光を利用した軟x線発光実験を行い、通常の蛍光の他に軟x線領域の共鳴ラマン散乱を観測した。

 3.内殻励起子以下のエネルギー領域において、通常のラマン散乱を初めて観測した。

 まず、高分解能でかつ明るい軟x線発光分光器を作製した。これは、日本で始めてである。そのために回折格子を用いたRowlandマウント型の斜入射分光器の設計を行った。回折格子は3枚の凹面回折格子を切り替えて、30〜1200eVのエネルギー範囲をカバーするようにした。検知器は微弱光検出用の位置検出器つきマイクロチャンネルプレートを採用した。吸収スペクトルに対応するTPYの測定は試料からの放出した4eV以上の光を分光しないで全て集めるようにした。光電子分光の測定も発光実験と同時に行える様にした。本研究で作製された発光分光器は、世界でも、最も高分解能の性能を持っており、また、光電子分光も同時に行えるなど、ユニークな特徴を持っている。安居院氏は、レイトレースなどを行い、設計の段階から関わっており、十分評価できるものである。

 次に、Si、cBN、black P、AlAs多層膜等の半導体について、励起エネルギーを変えながら、軟X線発光実験を行った。口頭発表では、特に、SiとcBNについて行った(論文中にはその他の物質についても述べられている)。この両者の結晶型は同じであるが、Siは単原子、中心対称性があり、バンドギャップが狭いが、cBNは2原子、中心対称性がなく、バンドギャップが広い特徴がある。SiはSi2p内殻、cBNはB1s、N1s内殻について、励起光を変えて、それぞれ軟X線発光を測定したところ、発光スペクトルとTPYは、荷電子帯及び伝導帯の部分状態密度によく一致することがわかった。また、伝導帯の底には、内殻励起子が存在することがわかった。伝導帯の底はSi、cBNともX点付近にある。内殻電子が励起光によって伝導帯の底付近に励起されると、励起された電子の波数ベクトルはX点の対称性をもつ。発光スペクトルからX点付近の荷電子帯の電子が発光していることがわかった。一方、伝導帯のL点に内殻電子を励起したときは、L点の荷電子帯が共鳴する振る舞いが観られた。この原因は、この過程がコヒーレントであるために、励起された電子と残された価電子帯正孔の両者の波数やエネルギーが保存されるためである。また、素励起として伝導帯に残った電子と価電子帯の正孔で価電子帯励起子がつくられることがわかった。このことから、内殻を伝導帯へ励起したSXESの励起エネルギー依存性は、2光子過程である共鳴ラマン散乱の過程によるものと考えられる。このような共鳴過程についてはMa達がダイヤモンドについて報告しているが、cBNのような化合物おいては本実験が初めてである。この共鳴現象を利用すると価電子帯と伝導帯の対称性の一致する点を決定することができる。特に化合物半導体などでバンド計算が難しくなるような場合、計算を殆ど利用することなしに、構成成分ごとの対称性の高い点を決定できるので、物質の電子状態を知るための強力な手段として利用できる。また、Siの方が蛍光成分が強く、cBNはラマン散乱成分が強いことがわかったが、SiとcBNのスペクトルの違いは、バンドギャップがSiの方が狭いために、電子緩和が大きいことによるものと思われる。一方、cBNはほとんど格子緩和によっていることがわかった。

 さらに、内殻電子を吸収閾値以下のエネルギーで励起した。このとき、スペクトルは励起エネルギーの変化分だけシフトしていくことが分かった。発光のピークがX点の形を残しながらシフトしていっていることから、伝導帯の底のX点の対称性と同じ波数が保存されていると考えられる。先に述べた伝導帯の対称性の高いところへ励起した共鳴ラマン散乱に似た過程が起こっていると考えられる。ここでは、ピークがシフトしていることから、入射光によって励起された電子は伝導帯の下にできた仮想準位を中間状態として経て、素励起としてX点の価電子帯励起子を放出する通常のラマン散乱過程が起こっていると考えられる。

 放射光を用いた軟X線発光の実験は世界的にみても新しい研究である。本研究から軟x線発光で1次光学過程である蛍光のほかに、2次光学過程である共鳴及び通常のラマン散乱が起こっていることが分かった。励起状態の緩和現象として、内殻正孔の寿命、電子緩和、格子緩和の競合が重要である。これは新しい分光学としての可能性が期待される。また、軟x線発光は物質の電子状態を研究する新しい手法としても非常に有効であることが分かった。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54517