学位論文要旨



No 111833
著者(漢字) 伊藤,新一郎
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,シンイチロウ
標題(和) ヘリウム液面電子のエッジ・マグネト・プラズモンと強磁場量子輸送
標題(洋)
報告番号 111833
報告番号 甲11833
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3631号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石本,英彦
 東京大学 教授 三浦,登
 東京大学 助教授 永長,直人
 東京大学 助教授 為ヶ井,強
 東京大学 助教授 河野,公俊
 東京大学 講師 長田,俊人
内容要旨

 磁場中の2次元電子はランダウ準位の形成によってその状態密度が変化する。このような場合の電子の伝導率についてはT.Ando and Y.Uemura等により議論されてきた。縮退系では、その後1980年にK.von Klitzing等がSi-MOSの反転層に量子ホール効果、さらに1982年にはD.C.Tsui等がGaAs/AlGaAsへテロ構造で分数量子ホール効果を発見するなど近年、非常に興味が持たれ様々な角度から研究がなされている。

 一方、非縮退系ではヘリウム液面電子系において1989年頃から幾つかのグループがその磁場中の輸送現象を実験的、理論的に研究している。これまで、この系での磁場中での伝導率xx、もしくは抵抗率xxを実験的に測定する手段としては一般的にSommer-Tannerの方法と呼ばれる手法が用いらてきたが、我々は新しい方法としてヘリウム液面電子のエッジ・マグネト・プラズモンを利用する方法を考案した。

 エッジ・マグネト・プラズモンは強磁場中で存在する現象で液面電子系の縁にのみ局在する電荷密度の揺らぎであり、電子系の縁に沿って伝播する波動である。理論的な考察によりヘリウム液面電子のエッジ・マグネト・プラズモンの線幅は伝導率xxに比例すると予想される。これまでにもエッジ・マグネト・プラズモンの線幅の測定が試みられたが、系統的な結果はまだ得られていない。この困難の原因は現象に内在する非線形性にあると考えられる。我々は入力振幅が大きすぎると、ある温度以下で線幅が狭まることを明らかにした。入力電圧を適切に選ぶことにより初めて低温において系統的な結果を得ることができた。

 我々は、線幅の測定を90〜1400mKの温度領域、0.3〜6.4Tの磁場領域で行った。その結果をFig.1に示す。

 液面電子の散乱は、700mKより高温では主にヘリウムガス原子との衝突によって支配され、700mK以下では液体ヘリウムの表面波が量子化されたripplonによるものが主になる。700mKより高温側をヘリウムガス領域、700mKより低温側をripplon領域と呼ぶことにする。ヘリウムガス原子による散乱は短距離的であり、電子の運動エネルギーに依存しない。しかし、ripplonとの散乱はエネルギー依存性を持つため伝導率xxに与える影響はヘリウムガス原子との散乱より複雑である。

 Fig.1に示された線幅温度依存性の特徴は700mK付近に線幅の極小値を持つことと、ripplon領域での線幅が1/√Tの温度依存性を示すことである。

 液面電子の伝導率xxの磁場依存性はヘリウムガス領域(1100mK)と、ripplon領域(300mK)で異なる。測定結果を、Fig.2とFig.3に示す。

 Fig.2において、黒丸がデータから求めた伝導率xxであり、0.6Tより低磁場側ではB-2の磁場依存性がみられ、0.6Tより高磁場側では磁場依存性は弱くなっている。破線はSaitoh等による1電子セルフ・コンシステント・ポルン近似から求めたもの、点線はDykman等による電子間の相互作用による揺らぎ電場が磁場中の電子の運動に大きな影響を与える(多電子効果)として伝導率を求めたものである。実験結果はDykman等の多電子理論によるものに近い。

 0.6Tより低磁場側では多電子効果によりランダウ準位の幅はランダ準位の間隔より広がっており、このため、散乱率はゼロ磁場の場合と変わらない。一方、KBT>hcの条件が成り立っているので、一回の散乱でサイクロトロン運動の中心が移動する距離Rは熱的なサイクロトロン半径((2mKBT)1/2/eB)程度である。これらに基づいて拡散描像により伝導率を計算すると定性的にB-2の依存性が得られる。これはFig.2のデータの低磁場側での磁場依存性に対応する。

 0.6Tより2Tでは、多電子効果によりランダウ準位の幅はある程度の広がりを持つが、ランダウ準位の間隔の方が広くなり液面電子の状態密度はピークを持つようになる。このため、散乱率はhc/のファクターだけ増大される。Rは依然として熱的なサイクロトロン半径程度と考えることができるので磁場依存性は消失する。

 2T以上の高磁場になるとヘリウムガス原子との散乱がランダウ準位の幅を決めるのでセルフ・コンシステントに扱われなければならない。また、Rとしてはマグネティック・レングス(基底状態での波動関数の広がり:(h/eB)1/2)を取らなければならない。その結果、B-1/2の磁場依存性が得られる。

 Fig.2の実線は上に述べた描像による多電子理論に1電子セルフ・コンシステント・ボルン近似の結果を取り入れたものであり、実験結果とよくあっている。また温度依存性についてもこれらの理論でよく説明できることを確認した。このことから、ヘリウムガス領域では多電子効果が電子の伝導率に支配的な影響を与えることが分かる。この結果は他のグループの結果とも一致する。このことはまた、我々のエッジ・マグネト・プラズモンの線幅から伝導率xxを求めることの妥当性を示すものである。

 次にripplon領域(300mK)における伝導率xxの磁場依存性を示したFig.3では、黒丸がデータから求めた伝導率xxであり、磁場依存性が失われている。破線は1電子・セルフ・コンシステント・ボルン近似の結果であり、点線が多電子理論による計算値である。

 ヘリウムガス領域での議論と同様にランダウ準位の幅が多電子効果により決められ、散乱率はhc/のファクターだけ増加されるとし、Rは最低のランダウ準位のみが占められていることから、マグネティック・レングスの程度であるとして散乱のメカニズムを考えればFig.3に示された多電子理論の結果が得られる。同様にランダウ準位の幅がセルフ・コンシステントに決まるとし、それから考えられる散乱率と、Rをマグネティック・レングスの程度であるとして散乱のメカニズムを考えればFig.3に示された1電子セルフ・コンシステント・ボルン近似の結果が得られる。実験結果で示されたような磁場依存性の消失は、いずれの理論でも説明できない。

図表Fig.1 / Fig.2 / Fig.3

 しかし、ripplon領域では、電子の散乱率のエネルギー依存性により、伝導率xxの磁場依存性は複雑である。また、電子-ripplon相互作用は短距離的ではなく、散乱も動的なものである。このような場合、拡散のモデルで扱えるかは明白ではない。この点についてはさらなる理論的な検討が必要であると考えられる。

 一方、温度依存性に関しては、多電子理論、1電子セルフ・コンシステント・ボルン近似のいずれの理論も1/√Tの温度依存性を与え、実験結果と一致する。

 以上のように我々は、ヘリウム液面電子のエッジ・マグネト・プラズモンの線幅を広い温度範囲で測定し、伝導率xxの温度依存性、及び磁場依存性を明らかにした。特に、ripplon領域での伝導率xxの振る舞いには理論的に説明されない磁場依存性や非線形性があり、極端な量子極限の輸送現象として興味深く、今後の研究によって理解が深まるものと期待される。

審査要旨

 本論文はヘリウム液面上に形成された2次元電子系の電子伝導度をエツジ・マグネトプラズモンを使って求め、この系における強磁場量子輸送現象の解明を意図した研究の成果をまとめたものである。本論文の主要な部分は、エッジ・マグネトプラズモン(EMP)共鳴による伝導度テンソルの測定と、電子間相互作用によるランダウ準位のぼけ及びセルフコンシステント・ボルン近似(SCBA)に基づいた結果の考察から構成されている。

 第1章序論では,液体ヘリウム上の2次元電子系,とくに強磁場中の輸送現象について概観し,EMPについて定性的な考察を加え、その線幅から伝導度テンソルの対角成分xxが求まることを示している。移動度が非常に高い低温領域ではホール角が90度に近くなり、従来のコルビノ配置の伝導度測定からは信頼できる結果が得られない可能性が指摘された後、EMPを用いた本研究の手法の有用性が強調され、低温領域での強磁場量子輸送現象の系統的な研究が本研究の目的であると述べている。

 第2章は本研究の考察で必要となる理論の枠組について述べている。電子間相互作用によるランダウ準位のぼけによって散乱率が影響を受けるとしたDykmanらの多電子理論と電子間相互作用を無視したセルフコンシステント・ボルン近似(SCBA)が紹介されている。それぞれの場合に2次元電子の散乱としてヘリウムガス原子と表面張力波を量子化したリプロンを考慮している。0.7K以上の高温領域では主に前者が主要な散乱体となるのに対しそれ以下の低温領域では後者のリプロンが主要な散乱体となる。ノプロンと電子の散乱はエネルギー依存性を持つために定量的な扱いが困難であることが述べられている。これらの理論を定性的かつ統一的に理解する描像として拡散公式に基づいた説明がなされ、実験と理論の比較の際に良好な見通しを与えることが示唆されている。

 第3章には実験方法が述べられている。希釈冷凍機に装着した試料室の概念的な説明とEMP検出に用いた装置及びその配置を説明した後に測定の手順が述べられている。得られた共鳴線をローレンツ型としてフィッティングを行ない共鳴位置と線幅を求めている。

 第4章では実験結果とそれに対する考察が述べられている。まず共鳴位置について実験結果と定性的なモデルとの間に若干のずれがあることが述べられ、試料室内に配置された電極によるシールドの効果を考慮する必要性が指摘されている。共鳴線幅の温度依存性が示され、先の高温領域と低温領域とでXXの温度依存性が逆転することが指摘された。特に低温領域でXXが温度の-1/2乗に比例することが明らかにされた。これらの実験結果は高温領域と低温領域に分けて理論と比較され、高温領域では多電子理論とSCBAが実験を良く説明することが示された。一方低温領域では電子-リプロン相互作用のエネルギ依存性のために理論の定量的な評価が困難となるが、拡散公式と電子-リプロン相互作用を組み合わせることで目的の比較が行なえるという議論に基づいて考察を進めている。その結果、温度依存性は多電子理論によっても、またSCBAによってもうまく説明できることがわかった。しかしながら、多電子理論とSCBAのいずれも実験結果の磁場依存性を満足に説明できないことが指摘されている。さらにこの章の最後で非線形な線幅の減少が観測されたことが報告され,本論文に掲載された系統的な結果全得るためには,この非線形性に十分配慮する必要のあることが示されている。

 第5章では以上のことがまとめられ、高温領域で実験と理論が見事に一致しているにもかかわらず、低温領域での一致が得られなかったことに対して、何か本質的な点が見落とされている可能性を強く示唆している。またこの系の単純明解な性質からしてこの実験と理論の不一致は解明されるべきものと期待される。

 以上要するに、本研究は入力電圧を慎重に選びながらエッジ・マグネトプラズモン共鳴の線幅の測定を行なうことで、ヘリウム液面上2次元電子系の強磁場下量子輸送を90mKの低温まで系統的に測定することに成功した。実験結果はこれまでに考えられている理論計算と完全には一致しなかったが、今後,電子-リプロン相互作用を考える上で重要な基盤を提供するものと考えられる。また実験の過程で発見された非線形効果は今後の研究に新しい可能性を提供するものと期待される。これらの成果は物性工学の発展に十分寄与するものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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