学位論文要旨



No 111839
著者(漢字) 服部,浩一郎
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,コウイチロウ
標題(和) 光ビート分光法による超高分解能フォノン・スペクトロスコピー
標題(洋)
報告番号 111839
報告番号 甲11839
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3637号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,堅志郎
 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 田中,肇
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 講師 酒井,啓司
内容要旨 はじめに

 フォノンスペクトロスコピーとは、熱ゆらぎに起因するサーマルフォノンの音速・吸収を広い周波数域にわたって測定することにより物質の動的な物性を調べる方法である。フォノンスペクトロスコピーには動的光散乱法であるブリュアン散乱法を用いる。このため機械的に音波を励振することが不要となり、非接触測定を行うことが可能となる。ブリュアン散乱光からサーマルフォノンの情報を精度よく得るためには109以上という高い周波数分解能の分光法が必要とされる。

 近年になってブリュアン散乱測定に使われるようになった光ビート分光法は、これまで光学的に行われてきた散乱光の分光を電気的な機器で行うため、分解能は電気機器の特性で決めることができ、従来にくらべて1000倍以上の高い周波数分解能を得ることが可能となる。

光ビート分光ブリュアン散乱装置およびその改良

 光ビート分光法を用いるとき問題点となるのは光検出器の周波数応答性と感度である。光ビート信号はミキシングするローカル光と散乱光の振幅の積に応じて大きくなる。このため実験にはダイナミックレンジのとれるアバランシェフォトダイオードを光検出器として用いた。図1に基本的な実験装置図を示す。入射光と散乱光は試料中でクロスし、入射光によって散乱された散乱光とローカル光とは散乱点から完全に同一な経路をたどりフォトダイオードへと導かれる。このため安定した光ビート系を構成することができる。フォトダイオード上で光ビート信号は電気信号に変換される。ビート信号はローカル光によって生ずるショットノイズ成分に比べ、10-6程度の強度しかない。そのためビート信号をスペクトラムアナライザで周波数分析したのち、その中間周波数を自乗検波し、ロックイン検出する。以下このような実験系を光ビート分光ブリュアン散乱装置と呼ぶ。

図1 光ビートブリュアン散乱装置

 本研究ではまずこの光ビート分光ブリュアン散乱装置について光学系の最適化を行い、広帯域化と高感度化をめざした。その結果、従来の帯域ほぼ倍の〜2GHzにすることに成功した。液体二硫化炭素の高周波スペクトルの例を図2に示す。また高感度化によってこれまで測定が難しかった固体の高分解能スペクトルを測定することが可能となった。

 アクリル(PMMA)は高分子の絡み合いによって安定したガラス状態を保っている。しかしその内部状態は分子鎖の内部自由度が一般的な低分子ガラスに比べて非常に大きいものと予想される。図3にPMMAで得られたサーマルフォノンのスペクトルを示す。これは光ビート分光ブリュアン散乱法によって初めて得られた固体の高分解能スペクトルである。このような高い分解能の測定ではピーク幅の測定からフォノンの減衰を調べることができる。図4にサーマルフォノンの減衰を示した。白丸は超音波パルスエコー法による測定である。高分子に特有の非常に広い周波数域にわたる緩和現象が測定された。

図表図2 二硫化炭素のブリュアンスペクトル / 図3 PMMA中のフォノンスペクトル / 図4 PMMA中のフォノン減衰。
熱的非平衡系でのブリュアン散乱測定

 これまでのブリュアン散乱測定はその実験、理論ともに平衡状態で測定することが条件となっていた。近年になって定常ずり場下、定常熱流下などの非平衡系における理論研究や実験が行われるようになった。これらの測定では長い相関長を持つサーマルフォノンを調べることが必要であり、高周波数分解能が必要とされる。我々はそのもっとも簡単な例として定常熱流下でのサーマルフォノンの振る舞いを計測した。熱流下ではサーマルフォノンは熱流と結合し、そのフォノンのスペクトルは非対称になることが理論的に予想され実験的検証も行われている。この非対称は相関長の長い低周波数フォノンほど顕著になることが予想される。これまでのファブリー・ペローによる実験ではスペクトルの中心に大きな迷光によるノイズがあり測定の妨げとなっていた。

 光ビートブリュアン散乱法による測定ではこの迷光による影響を完全に排除した計測が可能である。その結果を図5に示す。はサーマルフォノンのストークス、アンチストークス成分の非対称を表すパラメータである。我々の解釈によって壁面でのサーマルフォノンの反射、不均一温度勾配下での温度分布などの影響を簡単に見積もることが可能となり、実験値をよく説明することを示した。これらの結果から熱流下でのブリュアン散乱スペクトルには非対称が現れることを確認した。

サーマルフォノン共鳴

 サーマルフォノンがその自らの相関長よりも小さな場所に閉じこめられるとサーマルフォノンの干渉が起こる。その中で観測を行うとサーマルフォノンの共鳴現象を見ることができるのではないだろうか?

 まず平行キャビティ内に閉じこめられたサーマルフォノンの測定を行った。キャビティの間隔は880mである。このような小さな系における光散乱測定ではセル表面で反射した光が直接ディテクタに入射するため、通常の強度変調方式ではスペクトルにゆがみが生ずる。このため新たに偏光変調ロックイン方式を開発し測定に用いた。キャビティ内で得られたスペクトルにはほぼ700kHz間隔で共鳴ピークがある(図6)。従来、ブリュアン散乱測定では波数は散乱角によって決められていたため、低角散乱になると波数の決定精度が悪くなる。ところがこのような共鳴スペクトルではピークの現れる波数はキャビティの構造によって決めることができるため、低角散乱における新しい波数決定法として非常に有効であると考えられる。またこれまで音波を励振することが難しかったキャピラリー中の径方向のサーマルフォノンも測定することが可能になった。その測定例を図7に示す。このときひとつひとつのピークの幅はほぼ40kHzである。これまでの波数決定法の限界であったレーザーの回折広がりに起因する周波数広がりは約1MHzであり、この影響を排してフォノン減衰の測定が行えることを実験的に検証した。

図表図5 ブリュアン非対称 / 図6 平行キャビティ内のフォノンの共鳴曲線 / 図7 キャピラリー内のフォノンの共鳴曲線
まとめ

 本研究では光ビート分光法をブリュアン散乱測定に用い、帯域が5〜2000MHzの超高分解能フォノン・スペクトロスコピーを確立した。このフォノンスペクトロスコピーによって、サーマルフォノンでしか測ることのできない熱的非平衡系における異方的なフォノン伝搬やサーマルフォノン共鳴現象などを観察し、物質中のフォノン伝搬に関する新たな知見を得た。

審査要旨

 ブリュアン散乱は試料中の熱ゆらぎのうち音波モードのゆらぎによって光が散乱される現象である。これは、一般的に音波を励振することの難しいGHz以上の帯域での音波物性測定法として利用されていた。フォノンスペクトロスコビーとは、ブリュアン散乱法を広い周波数範囲に適用して物性研究や材料の評価を行うことを目的とする。MHz〜数10GHzの周波数域で非接触かつ人工的な音波励振を必要としない測定が可能となる。

 本論文は5つの章からなる。

 第一章 序論では、研究の目的と研究の背景および光散乱の一般論について述べてあり、流体力学の基礎方程式より導かれる散乱光スペクトルを導出し、実際にスペクトルを計測するさいに必要となる分光器の分解能について議論されている。特に近年開発された光ビート分光法が、電気的な分光を行うことで飛躍的に分解能を上げることができる点に言及し、この光ビート分光法を用いてフォノンスペクトロスコビー研究が可能であることが述べられている。

 第二章 光ビート分光ブリュアン散乱装置の改良では、前章に述べられている光ビート分光法を高分解能フォノンスペクトロスコビーとして応用するため行ったいくつかの改良点について書かれている。まず主に光学系の最適化を行い、高感度、広帯域化を行った。実際に二硫化炭素の2GHzの高分解能ブリュアンスペクトルおよび、これまで光ビート分光法では計測することが困難であった固体試料のスペクトルなどの例を示し、この改良によって光ビート分光ブリュアン散乱法の特性が大幅に改善されたことについて述べられている。

 第三章 熱的非平衡系でのブリュアン散乱では、改良した光ビート分光ブリュアン散乱装置を熱流下のブリュアンスペクトル測定に応用したことについて述べられている。 熱流のある試料中では、熱流とサーマルフォノンとのカップリングによってブリュアンスペクトルのストークス、アンチストークス成分強度が非対称となることが理論的に予想されており、興味深い研究対象となる。この理論の実験的検証には超小角光散乱計測が必要不可欠となるが、従来のファブリーペロー分光法では分解能が不足し、迷光によるブリュアンスペクトルのゆがみが除去できないため、実験的な検証が難しかった。迷光は入射光と同一の周波数を持つので、十分な周波数分解能があれば取り除くことが可能である。高い分解能を持つ光ビート分光法によって迷光の影響が排除され、精密な測定が可能であることを示した。実験的検証は2種類の定常熱流セルについて行われた。このうち、これまでの報告例でも使われているタイプのセルでは、形状が熱フォノンの伝搬方向に対して短く、フォノンがセル壁面で反射し熱流の影響を見かけ上減少させることを指摘した。それゆえ、熱フォノンの反射のないタイプの定常熱流セルを新しく考案して測定を行った結果、ブリュアンスペクトルに非対称が現れることを確認した。また波動論的解釈による理論を展開し、その実験結果を説明している。

 第四章 熱フォノン共鳴では、熱フォノンのコヒーレント長以下の微小領域においてブリュアン散乱実験を行うと、熱フォノンが干渉を起こし共鳴現象が観測されることを見出した。この実験ではロックイン検出のための新しい光変調方式を開発した。mm以下のサイズの試料セル中で光散乱実験を行うと、セル壁面からの直接反射光が光検出器に入るため光散乱スペクトルがゆがむ。入射光からの強い迷光はロックイン周波数に同期した広帯域のショットノイズを与えるが、これは通常の強度変調方式のロックインアンプでは除くことができない。そこで、入射光の偏光方向を制御し散乱光と参照光の可干渉性に変調をかける方式を開発した。この新方式のテストとして、散乱体積内に金線を入れた状態でブリュアンスペクトル測定を行い、有効性を示した。さらに、この偏光変調ロックイン方式を微小な平行平板共鳴器および円筒共鳴器内でのブリュアン散乱解析に応用し、フォノン共鳴スペクトルを観測した。これまで散乱波数は散乱角によって決められていたため、散乱角が小さくなると波数決定精度が落ちていた。共鳴スペクトルでは散乱波数は共鳴器の形状によって決まり、入射光源の波数広がりなどの影響は見られない。このため散乱角が小さい領域における新しい波数決定法となることを説明し、ブリュアン散乱が低周波数音波物性測定にも適用でき、精度の良い測定が可能であることを示した。

 第5章 結論では、これらの成果のまとめについて述べられている。

 これを要するに、本研究はブリュアン散乱法を5〜2000 MHzという広い周波数帯域で有効なフォノンスベクトロスコピー手段として確立したものであり、またそれを物理的に興味ある現象の観測とそのメカニズム解明に応用したという点で物理工学への寄与は大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54519