学位論文要旨



No 111849
著者(漢字) 富田,裕之
著者(英字)
著者(カナ) トミタ,ヒロユキ
標題(和) 放射線誘発プラスミドDNA鎖切断の物理化学的過程に関するモンテカルロ計算モデルの構築
標題(洋)
報告番号 111849
報告番号 甲11849
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3647号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青木,芳朗
 東京大学 教授 中澤,正治
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 助教授 井口,哲夫
 東京大学 助教授 草間,朋子
内容要旨

 研究目的 細胞の放射線感受性の多くはDNA二重鎖切断修復欠損と密接に関連することが、電離放射線感受性遺伝子の特定が進むにつれ明らかになってきた。すなわち放射線誘発DNA鎖切断現象を把握することが電離放射線の生物作用の理解につながる。そこで本研究では計算機シミュレーションによるDNA鎖切断機構のモデル化を試みた。従来、細胞サイズ(mオーダー)を意識したモデルが提案されてきたが、実際の現象を説明できなかった。DNA鎖切断現象をモデル化する際には、放射線の飛跡に沿ったエネルギー付与の空間分布(飛跡構造)とDNA標的の分子構造を考慮する必要がある。DNA分子は直径が2nm、塩基対間距離が0.34nmの微細構造をしている。また攻撃側である線等のspur構造もnmオーダーである。放射線作用を分子レベルでモデル化しDNA鎖切断現象に適用した例は現在までに無い。そして計算結果と比較可能な精度を持つ定量的データもほとんど報告されていない。そこで本研究では、放射線の飛跡に沿ったエネルギー付与の空間分布、引き続き生じる化学的過程とDNA鎖切断作用を考慮したプログラムを開発して、プラスミドDNAを用いた鎖切断定量実験と比較し、従来の放射線物理・化学・生物学の知見をnmという分子オーダーで適用することでプラスミドDNAの鎖切断機構が説明可能かを検証することとした。本研究では細胞内物質や細胞周期等の影響がない円環状プラスミドpBR322DNAを対象としてDNA鎖切断定量実験を行った。このプラスミドDNAを線照射する実験は、複雑な構造を持つ細胞系と異なり、温度、大気圧、緩衝剤濃度、塩濃度等の全ての実験条件を計算機上で考慮可能である。

 研究方法 本研究で作成した計算モデルDBREAK(DNA strand BREAK)の構成を図1に示す。媒質に対し電離放射線が照射された際の最初の過程は、放射線作用の物理的過程(〜10-15秒)と呼ばれ、放射線の飛跡に沿って媒質中で電離或は励起によりエネルギーを付与する過程である。物理的過程は液相の水の反応断面積を考慮した電子線飛跡構造シミュレーションコードTRACEL(TRACk structure of Electrons in Liquid water)により計算した。次に水分子の電離あるいは励起によりOHラジカル(OH)等の反応性の高い化学種が生成される物理化学的過程(10-15〜10-12秒)はRADYIE(RADical YIEld)で計算した。続いて図2に示すようにRADYIEで生成された化学種が水中をランダムに拡散する化学的過程(10-12〜10-6秒)をRADIFF(RAdicalDIFFusion)で模擬した。RADIFFでは図3に示すPLACON(PLAsmid CONformation)で構築した、B-DNAの原子座標の情報を持つプラスミドDNAモデルを使用し、化学種が拡散している途上で生じるDNA分子との反応を時間経過とともにスコアした。最後の放射線作用の生物学的過程(10-6秒〜)では、化学種がDNA鎖のどの部位と反応したかという情報から、BRKEST(BReaK ESTimation)で一重鎖切断(SSB)と二重鎖切断(DSB)の個数を評価した。実験条件及び計算条件は大気中、溶液温度25℃,29.75g/cm3DNA,1mmoldm-3Tris,5mmol dm-3 NaCl,0.1mmol dm-3EDTAとした。

図表図1 DBREAKコードシステムの構成 / 図2 5keV電子線照射時の水中での化学種の拡散の計算例点はH,OH,eaq-,Haq+,OH-,H2O2,O,O-,O2,O2-,HO2,HO2-を含む。図3 本研究で構築したプラスミドpBR322DNA(4362塩基対)モデル

 結果 60Co線照射によりプラスミド1分子あたりに誘発されたSSBとDSBの線量反応関係の実験値と計算値の比較を図4に示す。6回の計算値(2種類の飛跡構造と3種類のプラスミドDNA標的の組み合わせ)の平均をプロットした。DNAに作用すると仮定した3種類の化学種(OH,eaq-,H)の反応比率は、OHが89.4%、eaq-が10.5%、Hが0.1%であった。eaq-はSSBを誘発せず、OHとDNAの反応の半分がSSBを誘発すると仮定した場合、計算値は実験値に一致した。またDNA二重鎖の両側に1つずつ(合計2個)の化学種が反応するとDSBが1つ誘発されるとした場合、その最大距離を10塩基対(或は9塩基対)とすると実験値と良い一致を示した。上記の結果に基づき60Co線100Gy照射時におけるSSB部位を計算した一例を図5に示す。照射した線量を100Gyとした以外の計算条件は同一である。更にDNAとOHとの反応が時間経過と共に増加していく様子を、プラスミド1分子あたりの累積値で図6にプロットした。DNAとOHの反応の60%以上が100〜500nsで生じ、10%程度が10ns以前に生じるという結果が示された。

 考察 大気圧条件下でOHスカベンジャー濃度が細胞中と同程度(109s-1)またはそれ以下の場合、線誘発SSBの大部分がOHによることがプラスミドDNAを用いた実験より確認されている。本計算でもOHスカベンジャー濃度が希薄(1.62×106s-1)な条件でDNAと化学種の反応の約9割がOHによるという結果が得られた。OHの寄与が大きいのは、OHとDNAの反応速度定数k(OH+DNA)=6.0×108M-1s-1がk(eaq-+DNA)の5倍、k(H+DNA)の10倍であり、かつeaq-とHが溶存酸素によりスカベンジされるためである。しかしOHの寄与はOHスカベンジャー濃度が増大するにつれて減少した。OHスカベンジャー濃度が5倍(8.1×106s-1)では63.5%、10倍(1.62×107s-1)では50.9%までOHの寄与が減少した。にもかかわらずOHがSSBの主要な原因になるのは、Hの収量が小さいこと(1ps時でG(OH)=5.89,G(H)=0.96)、並びにeaq-がSSBをほとんど誘発しないことによる。

 図4に示すようにeaq-がSSBを誘発しない、かつOHとDNA分子との反応の半数がSSBを誘発すると仮定した場合、計算結果は実験結果と一致した。すなわちOHの鎖切断誘発効率は50%であった。一方、エネルギー付与の空間分布の均質性を仮定した決定論的手法に基づく計算では、異なる値が報告されている(poly(U)41%,poly(A)7.8%,ssDNA10%)。しかし本研究のように飛跡構造を考慮した確率論的手法の方が実際の現象をより良く反映していることは明らかである。また線照射後すぐにSSB数を測定した場合と、37℃で24時間保持してから測定した場合とでは、後者の熱処理をした方が多くの鎖切断数が観測される。例えばバクテリオファージDNAでは、熱処理後に鎖切断数が1.38倍、塩基脱離が1.76倍に増加する。またSV40DNAでは塩基脱離が1.6〜2.0倍、dsDNAで3.4倍に増加する。鎖切断の大部分は塩基脱離を伴うことが分かっている。37℃で24時間保持しても熱単独ではDNA鎖切断は誘発されないため、この熱処理による鎖切断数の増加は塩基損傷が鎖切断に進展することが原因と思われる。本研究で得られた鎖切断誘発効率が50%であるという結論は上記の熱処理の実験結果を、他のモデルと比較してより良く説明できた。

 図4に示すように本実験ではDSBに関してlinear-quadraticな線量反応関係が得られた。この理由は、スカベンジャー由来の化学種(scavenger derived radical)が大きく関与する系では、見掛け上1ヒットによるDSBの誘発が観察される(すなわちDSBに関してリニアな線量反応関係が見られる)が、本実験のようにOHスカベンジャーが希薄(〜106s-1)な系では、スカベンジャー由来の化学種による鎖切断の誘発を無視することができるためである。またDNA鎖に放射線が直接エネルギーを付与する直接効果では1ヒットでDSBが生じる機構が提唱されているが、本実験系では直接効果による寄与は3%以下であった。この2ヒットモデルでDSB数の計算結果を評価したところ、DNA二重鎖の両側に1つずつ(合計2個の)化学種が反応するとDSBが1つ誘発されるとした場合、その最大距離を10塩基対(或は9塩基対)とすると実験値と良い一致を示した。偶然にも、この10塩基対という値は計算シミュレーションにおいて一般的に用いられてきた値と一致する。またESR、ファージに32Pを取り込ませた実験、水溶液中での電子移動の測定事実とも合致する。

図4 60Co線誘発DNA鎖切断(SSB,DSB)の実験値と計算値の比較図表図5 606Co線100Gy照射時のプラスミドDNA上の鎖切断部位の計算例(4回の計算) / 図6 OHラジカルとDNA分子との反応の時間的増加の様子(5回の計算)

 k(OH+DNA→DNA damage)の観測値は4〜8×108M-1s-1であり、最小値と最大値とで2倍の差がある。本研究では中間の6×108M-1s-1を計算に用いた。6×108M-1s-1を4×108M-1s-1に置き換えた場合、或は6×108M-1s-1を8×108M-1s-1に置き換えた場合のSSBの計算値の変化は15%以下に留まった。またk(OH+DNA→DNA damage)を除いて最も計算結果を左右したk(OH+OH→H2O2)を2倍にすることでSSB数は18.8%減少し、0.5倍にすることで2.5%増大した。計算パラメータの不確かさを考慮しても本モデルの有用性は損なわれなかった。

 本研究では現時点における放射線物理、化学、生物学の知見をnmという分子オーダーで、可能な限り詳細に適用することで、放射線誘発DNA鎖切断機構のanatomicalなモデル化に成功した。

審査要旨

 本論文は、電離放射線による細胞致死等の主要な原因である放射線誘発DNA鎖切断現象に着目し、(1)DNA鎖切断に至る、放射線作用の物理的過程、物理化学的過程、化学的過程、生物学的過程の一連の現象を、全てナノメートルという分子レベルで記述した計算モデルを構築し、更に、(2)計算との比較を目的としたプラスミドDNAを用いた鎖切断定量実験を行い、計算と実験とを比較して、鎖切断現象の詳細な理解を試みたものであり、8章で構成されている。

 第1章では、放射線の生物影響を正しくモデル化することが、放射線と細胞システム全体との相互作用に対する理解を深めるのみならず、実験の困難な低線量放射線の影響を計算機により模擬し、放射線リスクを評価する際の有用な手段である点を指摘している。更に、このモデル化に際しては、放射線作用の物理的過程、物理化学的過程、化学的過程、生物学的過程を統一して扱う重要性を述べ、計算モデルの妥当性を検証するためには同一条件で行った実験結果と比較することの必要性に言及している。

 第2章Aでは、プラスミドpBR322DNAを用いた実験方法が述べられている。プラスミドDNAを用いた実験系は細胞組成や細胞周期の影響を受けずに、鎖切断を定量化することが容易であり、かつ計算により全ての実験条件を再現することが可能であるため本研究で有用であることを述べている。

 第2章Bでは、DNA鎖切断現象を模擬するために、本研究により独自に記述されたDBREAKコードシステムの理論的骨子と詳細なアルゴリズムが示されている。DBREAKは放射線が照射された瞬間から、DNA鎖切断が生じるまでの4つの過程(物理、物理化学、化学、生物学的過程)に対応した4つのプログラムとプラスミドDNAモデル作成プログラムの合計5つのプログラムより構築されている。媒質中にエネルギーが付与される放射線作用の物理的過程はTRACELにより計算されるが、このプログラム単独での信頼性が、衝突阻止能と飛程の2つの見地から検討され、物理的過程に関する従来の知見と十分合致することを示している。次に水分子の電離あるいは励起によりOHラジカル等の反応性の高い化学種が生成される物理化学的過程はRADYIEで計算され、続いて水中をランダムウォーク的に拡散していく過程がRADIFFでシミュレートされた。RADYIEとRADIFF単独のプログラムの信頼性は、OHラジカル等の化学種の収率(G値)の時間変化の見地から検討され、パルスラジオリシスによる測定結果と十分合致することが示されている。またナノメートルレベルの微細構造をもち、溶液温度やNaCl濃度による形態変化や塩基配列を模擬したプラスミドDNAモデルはPLACONにより記述されているが、電子顕微鏡で得られているDNA分子の観察結果と高い精度で一致するモデルとなっている。最後の生物学的過程では、化学種のDNA鎖上の反応部位に関する情報から、放射線生物学の知見に基づき、BRKESTプログラムを作成し、一重鎖切断と二重鎖切断の個数を評価している。DBREAKを構成する個々のプログラムの信頼性が綿密に検証されている。

 第3章Aでは、プラスミドpBR322DNAにコバルト60ガンマ線を照射し、線量、溶液温度、NaCl濃度、OHラジカルスカベンジャー濃度の実験条件を変えた場合に誘発されたDNA鎖切断数に関する実験結果が述べられている。

 第3章Bでは、DBREAKコードシステムにより、第3章Aで測定された4つの実験を再現した結果、定性的にも定量的にも、実験結果と計算結果が十分に一致することが示されている。

 第4章では、実験結果、計算モデル、及び実験結果と計算結果との比較に対する考察が述べられている。先行研究で得られた結論と異なる点については慎重に議論を重ね、本計算モデルの他のモデルに対する優越性、並びに現時点での限界や、今後の発展のための提言が述べられている。

 第5章では、本研究がDNA鎖切断にいたる自然現象を、全てナノメートルという分子レベルで再現した初めての試みであり、従来の放射線物理、化学、生物学の各分野で独立に得られた知見を統合することにより、実際の現象を計算により模擬できることを示している。

 第6章は謝辞、第7章は参考文献、第8章には付録としてDNA鎖切断に関する先行研究の詳細なレビューが添付されている。

 以上、本論文は今まで放射線物理、化学、生物学という細分化されていた学問分野を、DNA鎖切断に着目して、一連の研究を統一して再構築した点で類が無く、放射線影響研究の一つの方向性を示唆した点で高く評価できる。また将来的に宇宙空間における高LET放射線の影響、実験の困難な低線量放射線の影響研究に発展していく可能性を示した点でも貢献が大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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