学位論文要旨



No 111850
著者(漢字) 堂前,雅史
著者(英字)
著者(カナ) ドウマエ,マサフミ
標題(和) 塩素酸イオン及び過塩素酸水溶液の放射線分解と水の放射線分解初期過程のモデル化
標題(洋) "Radiolysis of Aqueous Solution of Chlorate and Perchloric Acid and Modeling of Initial Processes of Water Radiolysis"
報告番号 111850
報告番号 甲11850
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3648号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石榑,顕吉
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 助教授 寺井,隆幸
 東京大学 助教授 長崎,晋也
 東京大学 助教授 伊藤,泰男
内容要旨

 水に対する放射線効果は、水と放射線の存在するすべての場所で問題となる、重要なテーマである。水の放射線分解は、(1)溶質濃度、(2)時間、(3)LET、(4)温度等のパラメーターを変えた実験、及び理論計算により研究されている。そして、低LET放射線照射時の10-12s以降のプロセスは概ね理解されている。しかしながら、溶質濃度が高いときの放射線分解、10-12s以前のプロセス等はよくわかっていない。前者については溶質の直接分解やスパー反応への関与が複雑なためであり、後者については、放射線では30psを越える時間分解能の実験が困難なためである。本研究では、高濃度水溶液の放射線分解と短い時間領域での水の放射線分解のモデル化に焦点を絞り、水の放射線分解を掘り下げた。それに対応して、本論文は二部構成となっている。第一部では、溶質として塩素酸イオン及び過塩素酸をとりあげ高濃度水溶液の放射線分解を調べた。さらに、既往の研究とあわせて溶質の直接分解収量に関する議論を行った。第二部では、水の放射線分解のモデル計算を行い、短い時間スケールのプロセスを議論した。

 塩素酸イオン(ClO3)水溶液の放射線分解はパルスラジオリシス法で、過塩素酸(HClO4)水溶液の放射線分解はパルスラジオリシス法と線定常照射実験により調べた。パルスラジオリシス実験は、線形加速器からの28MeV,10nsあるいは100nsの電子線パルスを用いて行った。線定常照射実験は、60Coからの線を用いて行った。

 ClO3-水溶液中では、水の分解生成物と溶質との反応は起こらず、溶質の分解は放射線の直接作用によってのみ起こる。

 

 ClO3-の高濃度水溶液では、電子線パルス照射直後に過渡吸収が観測される。この吸収の強度がClO3-の電子分率に比例することと生成時間が極めて短いことから、これはClO3-の直接分解生成物による帰属するものである。ClO3-の分解パターンより、これはClO2とClO3の重ね合わせである可能性が高い。KSCNを添加してClO3とOHを(SCN)2-に転換して観測する実験により、ClO2,ClO3のG値をそれぞれ1.0,1.5と評価した。これらの収量からClO3の吸収スペクトルを分離した。ClO3の吸収ピークは(330±10)nmで、ピークでのモル吸光係数を4700M-1cm-1と評価した。Cl,Br,Iの電子親和力と、これらの同一酸化状態の化合物でみられる吸収ピーク波長の逆数との間には直線関係があることが指摘されている。BrO3,IO3のデータからClO3の吸収ピーク波長を推定すると328nmとなり、本実験の結果とよく一致する。ClO3-水溶液に種々の添加物を加え、ClO3の反応性を調べた。その結果、ClO3の酸化還元電位は標準水素電極に対して1.66Vと2.41Vの間にあることがわかった。

 過塩素酸水溶液の放射線分解においても、溶質の分解は放射線の直接作用によってのみ起こる。過塩素酸は解離度が極めて高く、水溶液中ではそのほとんどがClO4-の形で存在する。したがって、ClO4-の分解が起こる。

 

 既往の研究では過渡吸収は観測されず、照射後分析によると主な生成物はClO3-である。HClO4あるいはNaClO4水溶液に安息香酸ナトリウム、KSCNを添加してラジカル収量を評価するパルスラジオリシス実験より、直接分解G値としてG(ClO4)=0.8,G(ClO3)=0.5を得た。G(ClO3)はパルスラジオリシス実験では評価できないが、プローブとしてFe2+を添加した線定常照射実験よりG(ClO3)=1.0と評価した。また、Ce4+を添加した実験より、ClO3-と同時に生成する酸素原子は0(3P)であることを明らかにした。これらの初期収量と本研究で提案する反応スキームにより、照射後分析によるClO3-,O2等の収量を説明することができる。8M以上のHClO4水溶液に電子線パルスを照射すると過渡吸収が観測される。10M未満では1成分であるが、10M以上では2成分が観測される。長波長側の吸収は、10Mでは短寿命だが、10.8Mでは寿命が長くなる。各成分に対応する化学種は硝酸に対する反応性が異なり、それを利用して吸収スペクトルを分離した。短波長成分は10Mより低い濃度でも観測され、吸収強度も溶質の電子分率に比例する。これは溶質の直接分解で生成するラジカルに帰属するものと考えられ、吸収スペクトルの形からClO3と同定される。(350nm)=4700M-1cm-1から収量を計算すると、上記の結果G(ClO3)=0.5に一致する。他方、長波長成分について、10.8Mという敷居値はHClO4分子が存在しはじめる濃度に一致する。吸収強度がHClO4分子の電子分率と比例関係にあることから、長波長成分はHClO4分子の直接分解で生成するHClO4+であると考えられる。10M未満で吸収が観測されないことと10Mで短寿命であるのは、HClO4+がClO4と平衡にあり、後者の形では吸収をもたないことで説明される。

 本研究でClO3-及びClO4-(HClO4)の直接分解G値を評価した。既往の研究で、HNO3,H2SO4,H3PO4の直接分解収量が報告されている。溶質により、分解のしかた及びその収量は異なる。それらに影響を与える因子として、可視・近紫外光の吸収と、平均励起エネルギーの可能性を議論した。その結果、後者と直接分解G値との間に相関関係が見られることがわかった。すなわち、平均励起エネルギーの大きい化学種ほど分解G値が小さい。これから類推すると、平均励起エネルギーの大きい溶質、たとえばBr-の直接分解G値は非常に小さいことが予想される。

 水の放射線分解のモデルとして、これまでは10-12s以降の反応、拡散をモデル化したスパー拡散モデルが用いられてきた。しかし、eaq-の初期収量が溶質添加により減少することが報告され、サブピコ秒領域におけるその前駆体の反応が示唆されている。ピコ秒パルスラジオリシス、ポジトロニウム化学、レーザーフォトリシスのデータを取り込んで、スパー拡散モデルをフェムト秒領域に拡張した。以下の拡張モデルを提案した。

 

 このモデルの特徴は、eaq-の前駆体であるeq-(quasi-free elctron)の反応を考慮し、それとホールH2O+との反応でH2が生成すると考えるところにある。拡張モデルを用いて純水系の計算を行うと、実験的に得られる一次収量の値を再現することができる。ピコ秒パルスラジオリシスで観測された、溶質存在下でのeaq-の初期収量の減少は、eq-と溶質との反応によると考える。NO3-,H2O2,NO2-,CrO42-添加系の実験結果に対するフィッティングから各速度定数k(eq-+S)を決定し、その値を用いてG(H2)を計算した。従来のモデルでは、G(H2)が0.15以下になる実験事実を説明できなかったが、拡張モデルではH2の前駆体であるeq-の捕捉反応を考えそれを可能にしている。さらに、硝酸及び硝酸ナトリウム水溶液に少量のCe3+及びCe4+を添加した系のシミュレーションを行った。硝酸(イオン)は反応性が高く、照射後に観測されるG(-Ce4+)は硝酸(イオン)を少量添加すると急激に増加し、G値も非常に大きい。従来のモデルによる計算結果は実験値を大きく下回っており、硝酸(イオン)による捕捉反応が10-12s以前に起こっていることを示唆している。この系に拡張モデルを適用すると、G(-Ce4+)が急激に増加する様子を再現するが、値そのものは実験値より小さい。硝酸(イオン)系では10-12s以前のeq-の捕捉反応を考慮する必要があるが、その他に、(1)硝酸(イオン)とH2O+あるいはH2O*との反応、(2)水の分解G値がこれまで考えられてきたより大きい、等の可能性がある。しかし、H2O+の反応性を調べる実験は困難で、ほとんど報告されていない。本論文では、eq-の反応を含むモデルの提案と計算にとどめる。

 以上のように、ClO3-,ClO4-(HClO4)の直接分解G値を評価した。ClO3-系では、水溶液中で初めてClO3を観測した。ClO4-(HClO4)系でも直接分解G値を評価し、直接分解生成物に帰属する過渡吸収を観測した。既往のデータとあわせて、溶質の直接分解G値とその平均励起エネルギーとの間に相関関係があることを見いだした。従来のスパー拡散モデルをフェムト秒領域に拡張した。eq-の反応を取り入れることによりG(H2)の大きな減少を説明することができる。硝酸(イオン)系では、H2O+あるいはH2O*の反応、あるいは水の分解G値が大きいことが示唆される。

審査要旨

 水の放射線分解はこれまでに多くの研究がなされてきた。その反応の特徴を明確にするため、数多くの実験が行われ、これらの実験結果を説明するための理論やモデルが提案されてきた。しかし、生物の放射線効果や原子力工学における分野でしばしば問題となる、高濃度水溶液の放射線分解の理解や放射線分解初期過程のモデル化は十分には進んでいない。本研究では、高濃度水溶液の放射線分解の理解を目的に、塩素酸イオン及び過塩素酸の高濃度水溶液の放射線分解を主にパルスラジオリシス法を用いて実験を進めるとともに、水溶液の放射線分解の初期過程をモデル化し、このモデルに基づいたシュミレーション計算を行なったもので、論文は各々の課題に対応する2部構成となっている。

 第1部、第1章では、水溶液中での塩素オキシ酸の放射線反応研究の重要性を述べるとともに、これまでの知見を総括している。これに基づき、パルスラジオリシス実験による高濃度水溶液の放射線分解過程を明確にすることの重要性を示すとともに、このような実験により、従来報告されていない反応中間体である、溶質由来のラジカルが観測可能であることを予測している。

 第2章では、高濃度塩素酸ナトリウム(NaClO3)水溶液のパルスラジオリシス実験の結果をまとめている。光分解を参考に、放射線の直接効果による塩素酸イオン(ClO3-)の分解は、電子とClO3、O-とClO2、OとClO2-生成の三つの過程からなると予測し、吸収測定からClO2ラジカルとClO3ラジカルを分離、同定している。ClO2ラジカルは既に知られているが、液相中のClO3ラジカルは本測定で始めて見い出したものである。各種ハロゲン化オキシ酸の吸収エネルギーとハロゲンの電子親和力の間に見い出されている関係式からの推定値を本実験結果と比較し、よい一致を示したことから、この同定が妥当なものと判断している。さらに、ClO3ラジカルの反応性を調べ、酸化還元ポテンシャルの値の取り得る範囲を実験的に求め、報告されている計算値と矛盾しないことも示している。これら反応中間体の反応性をもとに、先に予測した三つの分解過程のうち、前の二つ過程のG値を決定したが、三番目の過程については本実験では決定できないとしている。

 第3章では、高濃度過塩素酸(HClO4)水溶液の放射線分解についてパルスラジオリシス法と線照射による生成物分析法により行なった実験の結果を述べている。過塩素酸イオン(ClO4-)の分解も同様に、電子とClO4、O-とClO3、OとClO3-生成の三つの過程を想定し、各種の捕捉剤を含む数種類の過塩素酸水溶液系のパルスラジオリシスを行い、捕捉剤から生成するラジカル収量の過塩素酸濃度依存性から三つの過程を分離評価している。さらに、線照射の結果を解析して、最終生成物に至るまでの分解過程を整理するとともに、この結果を用いると、従来報告のある生成物収量の過塩素酸濃度依存性を説明できるとしている。一方、高濃度水溶液では、過塩素酸イオンの分解に基づく吸収を見い出し、スペクトルの濃度依存性、捕捉剤効果や時間挙動から、それらがClO3ラジカルと新化学種であることを示している。本実験で始めて見い出された新化学種をHClO4+ラジカルと同定し、本測定の条件下では観測されないClO4ラジカルとは酸・塩基平衡を形成すると説明している。

 第4章では、第1部のまとめとして、濃厚水溶液の放射線分解の考え方を整理し、各種水溶液中の放射線の直接効果による分解のG値と溶質の平均励起ポテンシャルとの間によい相関があることを見い出し、これを用いれば、未知の系の直接効果も予測が出来るとしている。

 第2部、第5章では、水溶液の放射線分解の初期過程のモデルを提案するとともに、そのモデルに基づいた計算結果について述べている。ポジトロニウム化学の知見を勘案し、H2O+と電子の再結合の重要性に着目した上で、最近の放射線化学やレーザー化学分野での成果を包含するモデルを提案している。これを、従来行われてきたスパー拡散モデルを基礎に、ピコ秒以下の時間領域に拡張して計算するコードを作製している。このシュミレーションを用いると、各種捕捉剤存在下のG(H2)収量や、硝酸及び硝酸イオン水溶液中のG(Fe3+)、G(Ce3+)収量の報告値を概ね再現できることを示し、このモデルの妥当性を示している。

 第6章は、まとめで、本研究の成果を述べている。

 以上を要約すると、パルスラジオリシス法を用いた塩素酸イオン及び過塩素酸濃厚水溶液の放射線分解の研究により、両溶液中の放射線の直接効果による溶質の分解過程を明らかにし、濃厚水溶液の放射線分解の考え方を確立し、さらに、放射線分解初期過程をモデル化し、これに基づく計算から、水溶液放射線分解の初期過程の特徴を明確にしている。以上のように、本研究はシステム量子工学、特に量子ビーム化学への貢献は少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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