学位論文要旨



No 111880
著者(漢字) 金原,数
著者(英字)
著者(カナ) キンバラ,カズシ
標題(和) 結晶場を利用した反応制御ならびにキラル識別
標題(洋) Role of Crystalline Environment in Reaction Control and Chiral Discrimination
報告番号 111880
報告番号 甲11880
学位授与日 1996.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3678号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 教授 白石,振作
 東京大学 教授 干鯛,眞信
 東京大学 助教授 荒木,孝二
 東京大学 講師 橋本,幸彦
内容要旨

 【緒言】結晶場の有する秩序性を利用した有機反応あるいは分子認識の制御は,最近特に注目を集めており,これまでに数多くの興味深い報告がなされている。しかしながら,結晶構造とこれらの特性との相関についてはいまだ未解明な点が多い。本研究では,X線結晶構造解析から得られる知見をもとに,新規結晶場反応の開発および共結晶を利用した反応ならびにキラル識別の制御について検討を行なった。

(1)亜硝酸エステルの固相光照射による選択的ケトン生成

 亜硝酸エステルは光照射によりアルコキシラジカルおよびニトロソラジカルを与えることが知られている。溶液中では,生成したアルコキシラジカルは溶媒あるいは分子内のアルキル基から水素原子を引き抜き水酸基が生成するとともに,生じた炭素ラジカルとニトロソラジカルが反応してオキシムが生成する。この反応はBarton反応と呼ばれ,ステロイドのaxialメチル基の官能基化反応として知られている。溶液中ではBarton反応を起こすことが報告されている1-1の結晶に紫外光を照射したところ,Barton反応は全く起こらず,溶液反応ではほとんど得られないケトン1-2が選択的に生成することを見出した(スキーム1)。

スキーム 1

 そこで,種々の亜硝酸エステルについてこの結晶場反応の一般性を検討した。その結果,ステロイドから誘導した亜硝酸エステルの場合には,いずれもケトンが選択的に生成することを見出した(表1)。

表1 亜硝酸エステル結晶の光反応
(2),-不飽和アミド,チオアミドの光固相EZ異性化反応

 下に示す4種の,-不飽和アミドの結晶に紫外光を照射したところ,1種のみが反応性を示し,Z異性体および転位生成物が得られた。一般に,結晶中でのEZ異性化反応は不利とされているが,この結果から,適当な条件を備えていれば,-不飽和カルボニル化合物のEZ異性化は可能であることが分かった。そこで,これらのアミドについて,EZ異性化を誘起するような分子構造の変換を考えた。まず初めにアミドカルボニルをチオカルボニルにしたチオアミドに変換し,固相反応を試みた。その結果,アミドでは反応性を示さなかった化合物が,チオアミドに変換することで選択的に固相EZ異性化反応を起こすことを見出した(entries1,2)。また,ラセミ体のアミドについては,アミドアルキル部を光学活性にすることで,固相EZ異性化の反応性が向上することが分かった(entries3,4)。

 

表2 ,-不飽和アミド,チオアミド結晶の光反応
(3)アンモニウム塩結晶中での,-不飽和カルボキシラートアニオンの光EZ異性化反応

 前述反応では,共有結合した部位を用いて反応性を制御したが,次に非共有結合性の部位を用いた反応の制御について検討を行なった。基質には,カルボン酸の有機アンモニウム塩を用い,アンモニウム部を種々変えることで,-不飽和カルボキシラートアニオンの反応性を制御出来るのではないかと考えた。,-不飽和カルボン酸の有機アンモニウム塩3-1を用いて検討を行なった結果,アンモニウム部によって反応性が大きく変化することを見出した(表3)。続いて,この反応を種々の,-不飽和カルボン酸塩へ適用したところ,広範な化合物について光固相EZ異性化反応が起こることが分かった(表4)。X線結晶構造解析の結果,これらの塩のうち,一級アンモニウム塩結晶中には極めて特徴的なカラム状水素結合ネットワークが形成されていることが分かった。さらに,この水素結合ネットワークの形状が反応性に大きく影響を与えていることが示唆された。すなわち,反応の進行に伴う水素結合カラムの形状の変化が少ない場合に,反応が円滑に進行した。また,そのような水素結合カラムを形成するためには,アンモニウム部とカルボキシラート部との分子長差が少なく,さらにそれらがいずれも嵩高くないことが必要であることが分かった。

表3 カルボン酸アンモニウム塩結晶の光反応表4 種々の,-不飽和カルボン酸アンモニウム塩結晶の光反応
(4)ジオレフィン共結晶の反応と固相共結晶生成

 続いて,塩以外の共結晶を用いた結晶場反応について検討を行なった。ある種のジオレフィン化合物は,紫外光照射下[2+2]付加環化反応により,結晶中で高分子量ポリマーを与えることが知られている。そこで,これらのジオレフィン化合物について共結晶を調製し,それらを利用した共重合体生成の可能性を検討した。その結果,4-1および4-2が共結晶を与えることが示唆された。しかしながら,この結晶の光照射によって得られるポリマーは,4-1および4-2が単独に重合したポリマーの混合物であった。X線結晶構造解析の結果,この結晶は,4-1および4-2が層状に交互に配列した分子錯体であることが明らかになった(図1a)。反応前後で結晶性が維持されていることから,生成したポリマーは,配列が分子レベルで制御された結晶性ポリマーコンポジットであることが分かった(図1b)。

 

図1(a)共結晶4-1・4-2の結晶構造(b)共結晶4-1・4-2から得られる光反応生成物のイメージ図

 この共結晶は,溶液からばかりでなく,4-1および4-2の結晶を固体状態で混合することによっても得られることが分かった。そこで,固相状態での共結晶生成挙動について,ジオレフィン混晶の[2+2]光付加環化反応を利用して検討を加えた。その結果,混合時間,混合温度,空気中の水分と混晶の生成量とが正の相関を持つことが明らかになった。

(5)アンモニウム塩結晶のラセミ混合物生成機構の解明

 つぎに,前述したようにカルボン酸の一級アンモニウム塩結晶中に極めて特徴的なカラム状水素結合ネットワークが形成されていたことに着目し,これら塩結晶中でのキラル識別について検討した。初めに,光学分割法の中で最も重要な方法の一つである優先晶出法の際に不可欠なラセミ混合物生成の機構について,結晶中の水素結合ネットワークを中心に検討を行なった。まず,これまでに報告のあるラセミ混合物塩結晶のうち7種の結晶構造を詳細に検討したところ,いずれの結晶中でも2回らせん軸を中心に有するカラム状の超分子構造(21-カラム,図2a)が形成されていることが分かった。一方,17種のラセミ化合物塩結晶について同様の検討を行なったところ,21-カラム(9種)に加えて対称心で関係づけられた水素結合ネットワーク(i-カラム,図2b,7種),さらに少数ではあるが平面状のネットワーク(1種)のいずれかが形成されていることが分かった。すなわち,これらのカルボン酸一級アンモニウム塩結晶はほとんどの場合,カラム状の水素結合ネットワークの集合体とみなせることが分かった。そして,ラセミ混合物の生成のためには,結晶内で21-カラムが形成されること,さらに同じキラリティーを有する21-カラムどうしがパッキングすることが必要であることを見出した。

図2 アンモニウム塩結晶中の水素結合ネットワーク
(6)アンモニウム塩結晶構造をもとにしたジアステレオマー塩法光学分割剤の設計

 続いて,カルボン酸のアンモニウム塩結晶を用いた光学分割法のなかで最も一般的に行なわれているジアステレオマー塩法について検討を行なった。この方法は,極めて有用である反面,目的とするラセミ体物質に対する分割剤の決定が完全に経験的に行なわれているという欠点がある。そこで,ジアステレオマー塩の結晶構造をもとに,新規光学分割剤の設計を試みた。

 まず初めに,(R)-マンデル酸を分割剤として用い,種々のラセミ体1-アリールアルキルアミンの光学分割を試みた。その結果,アミンのアリール基上の置換基によって分割成績が大きく影響されることを見出した(表5)。すなわち,無置換あるいはオルト置換アミンは効率よく分割されたのに対し,パラ置換体は全く分割できないことがわかった。そこで,分割成績の良かった塩について,難溶性塩のX線結晶構造解析を行なった。その結果,難溶性塩結晶中では極めて特徴的な水素結合ネットワークが共通して形成されていることが分かった。この水素結合ネットワークは,(1)アンモニウム部とカルボキシラート部が前述した21-カラムを形成している,(2)マンデル酸の水酸基を介して21-カラムどうしが水素結合で結ばれており,結果的に平面状の水素結合ネットワークが形成されている(図3a),(3)水素結合ネットワーク表面の平面性が高く,極めて密なパッキング状態になっている(図3b)という特徴を有していた。これらの結果から,1-フェニルエチルアミンのフェニル基のパラ位に置換基を導入すると,水素結合ネットワークの平面性が乱れ,両ジアステレオマーとも難溶性塩結晶に見られた安定な結晶構造がとれなくなり,その結果,分割効率が低下したものと考えられる。そこで,マンデル酸のフェニル基のパラ位に置換基を導入すれば,パラ置換アリールエチルアミンの一方の対掌体と,上記の条件を満たすような平面性の良い水素結合ネットワークが形成できるのではないかと考えた。いくつかのパラ置換マンデル酸を用い,これらアミンの光学分割を試みたところ,良好な効率で分割できることが分かった(表5)。

 

表5 マンデル酸及びパラ置換マンデル酸による1-アリールエチルアミンの光学分割図3 難溶性塩結晶中の水素結合ネットワーク(a)ネットワーク平面の投影図(b)21-カラム方向から見た投影図
審査要旨

 結晶場を利用した反応の制御あるいは分子認識の制御は,特異な選択性を実現できることから近年注目を集めている。本論文は,結晶場を利用した新規反応の開発,反応の制御,ならびにキラル識別機構の解明を目的として行なわれた研究の成果を述べおり,以下の7章から構成されている。

 第1章では,これまで結晶中での反応例が知られていない亜硝酸エステルの光固相反応について述べている。ステロイドから調製した亜硝酸エステル結晶の光反応により,溶液反応では副生成物として極少量しか得られないケトンを選択的に高収率で得ることに成功している。また,X線結晶構造解析及び分子力学計算を用い,このケトン生成の選択性が結晶内でのニトロシル基のコンホメーションに由来することを示している。

 第2章では,これまで結晶中では困難とされてきた炭素-炭素二重結合の光EZ異性化反応について検討を行なっている。結晶中で反応性の乏しかった,-不飽和アミド化合物について,光学活性基あるいはチオカルボニル基の導入といった官能基変換により,結晶中での選択的光EZ異性化反応の実現に成功している。

 第3章では,結晶中での反応制御の方法として,カルボン酸アンモニウム塩の利用が極めて有効であることを示している。この際,反応性に影響を与える因子として,アンモニウム塩結晶中で形成されている強固なカラム状の水素結合ネットワークに着目し,このネットワークの形状と反応性との関係について詳細に検討を行ない,高い相関があることを見出している。

 第4章では,2種のジオレフィン化合物から得られる分子錯体の例を示し,その結晶場反応について検討している。その結果,この分子錯体に紫外光を照射することにより,分子レベルで完全に配列が制御されたポリマーコンポジットが生成することを見出している。

 第5章では,2種類の化合物の結晶を固相状態で混合粉砕することにより共結晶が生成するという現象について,ジオレフィン化合物の光固相反応を利用して定量的に検討を加えている。その結果,混合粉砕回数,および混合粉砕後の試料の放置温度等が混晶の生成量に極めて大きな影響を与えることを示している。

 第6章では,カルボン酸1級アンモニウム塩結晶中で形成されるカラム状水素結合ネットワークに着目し,優先晶出法の必要条件であるラセミ混合物生成における水素結合ネットワークの役割を考察している。その結果,ラセミ混合物生成のために本質的に重要な因子は,2回らせん軸を中心に有するカラム状水素結合ネットワークの形成およびそれらカラムのパッキングの形式であると提案している。

 第7章では,光学分割に最も広く応用されているジアステレオマー塩法について検討を行なっている。マンデル酸を用いて,種々の1-アリールエチルアミンの光学分割を検討し,アミンの芳香環上の置換基の位置と分割成績との間に極めて高い相関があることを見出している。さらに,良好に分割が行なえる場合の難溶性塩,易溶性塩,および分割が行なえない場合の両ジアステレオマー塩の結晶構造を考察し,新規分割剤の設計を試みている。その結果,分割剤選択の指針として,分割剤,非分割剤の分子長の相補性を考慮することが極めて重要であると提案している。

 以上,本論文では,結晶場の有機化学的応用に関して,X線結晶構造解析から得られる知見をもとに検討している。その結果,新規結晶場反応として亜硝酸エステル結晶の紫外光照射による選択的ケトン生成,,-不飽和アミド,チオアミド結晶の選択的光EZ異性化反応,ジオレフィン分子錯体結晶の光照射によるポリマーコンポジットの生成,2種の結晶の混合粉砕による共結晶生成に成功している。また,結晶中での反応性を制御する方法としてカルボン酸アンモニウム塩の利用が極めて有効であることを示している。さらに,結晶化過程におけるキラル識別現象については,アンモニウム塩結晶中で共通して形成される水素結合ネットワークがキラル識別の上で極めて大きな役割を有していることを見出している。これらの結果は,有機合成化学,有機結晶学の学術的進歩に対して大きく貢献するものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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